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peaの植物図鑑

草や木の花や木の実(果実)、特に山野草が好きで、デジカメを持ち歩いて撮っています。2024年3月、85歳になります。

「平成28年度鳥海柵跡シンポジウム」を聞く! 2017年2月11日(土)

2017年02月13日 | 講演会

2017年2月11日(土)、金ケ崎町、金ケ崎町教育委員会主催「前九年合戦・安倍氏研究事業・平成28年度 国指定史跡 鳥海柵跡シンポジウム」が、金ケ崎町中央生涯教育センター 大ホール(胆沢郡金ケ崎町西根南羽沢55)で開催されました。(入場無料)

 講演(13:35~14:35)と報告(14:35~15:15)、パネルディスカッション(15:25~17:00)が行われましたが、時間の関係で講演と報告だけを聞いて帰ってきました。 

(下)2017年2月13日(火)付「岩手日報」

講演:「鳥海柵の発掘調査成果と周辺遺跡からみた安倍氏の時代」

講師:東北学院大学 教授 佐川正敏 氏(下)

佐川先生は、2008年から考古学という専門的立場から鳥海柵跡の遺跡調査指導委員となり、国史跡指定後は保存管理計画策定委員を経て、現在は整備委員会の委員を務めています。

 

報告2:「鳥海柵跡の整備基本方針」&金ケ崎要害歴史館企画展『鎮守府胆沢城』と在庁官人安倍氏の館『鳥海柵』の紹介 金ケ崎町中央生涯教育センター 浅利英克 氏

 


「アテルイの本拠地はどこか」(鎮守府探訪講座2016・第3回)2016年9月18日(日)

2016年09月19日 | 講演会

2016年9月18日(日)、奥州市埋蔵文化財調査センター(奥州市水沢区佐倉河字九蔵田96番地1)主催「鎮守府探訪講座2016」第3回『アテルイの本拠地はどこか』と題して開催されました。13:30~15:00時、講師所長・佐久間 賢さん。

 

 (上)講座は、プロジェクターによる映像とA4判10ページの印刷物に基づいて説明されました。

1.アテルイの本拠地に関する諸見解(下記の見解を詳しく紹介しながら、問題点を指摘)

 アテルイの本拠地について、アテルイの氏姓や歴史的な時代背景の考察、発掘調査成果の援用などをもとに見解が示されているが、次の3点に集約される。

(1)北上川川東「田茂山」地区説

 地名考証をもとにした見解で、及川洵著「蝦夷アテルイ」に代表される。(詳細は省略)

(2)北上川両岸地区説

 樋口知志著「阿弖流為」で示された見解に代表され、地名考証を中心とした(1)を包括、発展させた考え。(詳細は省略)

(3)角塚古墳関連説

 朝倉授氏がアテルイ通信46号『「阿弖流為」、そして「大墓公阿弖利為」~アテルイの名前に関して(中)~』、第60号『「大墓家」銘墨書土器と「大墓公」』で示した見解に代表される考え。(詳細は省略)

2.発掘情報/胆沢エミシとアテルイ時代のムラ(詳細は省略)


3.アテルイの本拠地はどこか 

発掘情報から判明するアテルイ時代のムラは、大きく5地域(角塚古墳周辺を3群に細分した場合は7地域)となる。この中から、地名考証と発掘情報を踏まえ、文献資料に散見する幾つかのキーワードからアテルイの本拠地を推定する。 

(上)胆沢の有力エミシとみなされる人物に胆沢公阿奴志己がいる。類聚国史延暦11年(792)正月11日条に、『陸奥國言。斯波村夷胆沢公阿奴志己等。~』と記述されている。延暦8年(789)、紀古佐美とアテルイの戦いから3年後のことで、「斯波村の夷」と説明されています。何らかの理由で胆沢を離れ斯波村に居たものと思われるが、このことに符合する発掘情報に、8世紀頃に姿を消したと考えられるムラがある。(中略)この地域で姿を消した玉貫遺跡は胆沢を離脱した胆沢公阿奴志己の拠点集落と見做すことができ、胆沢川北岸地区はアテルイの本拠候補地から除外できると考える。

残る4地域のうち東大畑遺跡では、大規模なムラを想定することができないので除外。宮地遺跡、落合遺跡、兎Ⅱ遺跡、力石Ⅱ遺跡など河東に位置する江刺地域も、ムラの出現時期や巣伏村との関係から該当しないと考える。宮地遺跡などのムラは、アテルイ時代の一時期、8世紀後半でも終末段階と考えられる。「続日本紀延暦8年(789)6月3日条は、阿弖流為之居」の北に「巣伏村」を置き、巣伏村をアテルイの本拠地に位置付けていないように見える。「

 以上のことを踏まえると、角塚古墳近接遺跡群(清水下遺跡、二本木遺跡、漆町遺跡、塚田遺跡、沢田遺跡A区)と杉の堂遺跡群アテルイ本拠地の最終候補地になる。前述した角塚古墳関連説と北上川両岸地区説の2説に絞り込むことになるが、後説が想定している本拠地の修正が必要となる。河川区域を形成する河東にムラを想定することはできないので、河西の杉の堂遺跡群に限定することになる。

アテルイの本拠地が角塚古墳近接遺跡群と杉の堂遺跡群のどちらにあったか。現状での確定は難しく、次の点(①アテルイ関連地名の信憑性。②アテルイ本拠想定地域の」修正。)からを踏まえ、帰納的に推論した場合、アテルイの本拠地は角塚古墳近接遺跡群になる。


日本最初の溶鉱炉と大島高任 2016年7月13日(水)

2016年07月20日 | 講演会

2016年7月13日(水)「平成28年度・芦東山記念館館長講座」第2回『日本最初の溶鉱炉と大島高任』の演題で行われました。(13:00~14:30時)。講師細井 計(ほそい・かずゆ)館長

2015年7月8日、ユネスコの世界遺産委員会により、釜石市の橋野鉄鉱山を構成資産に含む産「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の世界遺産登録が決定してから、橋野鉄鉱山跡と盛岡藩生まれの「近代製鉄の父」・大島高任(おおしま・たかとう)が脚光を浴びています。今回は、この大島高任についてのお話しでした。 

江戸末期、欧米列強の脅威から国を守るため、日本各地で大砲を製造するための設備として「反射炉」が建設された。しかし、日本古来の「たたら製鉄」は従来、刃物や農工具などを製造してきた製鉄法で、大型で丈夫な大砲を造るには限界があった。大島高任は、反射炉で使うための鉄の原料として、良質な鉄鉱石から造り出す銑鉄(せんてつ)が必要と考え、甲子村(現在の釜石市)に洋式高炉を建設。安政4(1858)年12月1日に日本で初めて磁鉄鉱(鉄鉱石の一種)の精錬に成功した。現在も12月1日「鉄の記念日」に制定されている。

 

(上と下)『いわて~「世界遺産の國、いわて。」観光ガイドブック』より

 

 


一関市「芦東山記念館」館長講座『真田一族の動向』を聞く! 2016年5月11日(水)

2016年05月11日 | 講演会

 

2016年5月11日(水)、一関市立芦東山記念館(大東町渋民字伊勢堂71-17)主催の平成28年度第1回館長

講座『真田一族の動向』と題する講演会が開催されたので、妻と共に聞きに行ってきました。(13:00~14:

30時)。現在放送中のNHK大河ドラマ『真田丸』に関係する話でもあり、とても興味深く聞いてきました。

配布された4ページ余のプリントを基に話がなされましたが、NHK大河ドラマを毎回観ているので、良く理解

することができました。ドラマはほぼ歴史的事実を踏まえて制作されていると思いました。

 テレビドラマは、真田信繁(通称・幸村)を主人公にした物語ですが、歴史的事実は武田信玄に仕え、真田家

の礎を築いた信繁の祖父の幸隆(幸綱)[一徳斎(いっとくさい)]辺りからしか記録に残っていないそうです。

その頃の真田氏は、信州(長野県)上田盆地一帯を支配した滋野党(しげのとう)の一員で、海野(うんの)氏

の庶流。 

天文10年(1541)5月、甲斐(山梨県)の武田信虎の海野平(うんのだいら)攻め[小県(ちいさがた)海野

平合戦]により、真田郷の真田幸隆(幸綱)は、宗家の海野棟綱(むねつな)と共に上野国(群馬県)へ亡命。

その後、武田信玄(信虎の子)に召し出される。

天文20年(1551)幸隆は調略(策謀)と奇襲で村上義清の支城砥石城(といしじょう)[長野県坂城(さか

き)町]を乗っ取る。その功績により旧領を回復、砥石城の山裾に城下町を作る。

天文22年(1553)真田昌幸(まさゆき、幸隆三男、信繁の父)は武田信玄の人質、小姓として仕え、その

後、頭角を現して武将となる。[幸隆(幸綱)には4人の男子がいたが、長男・信綱は、天正2年(1574)父の

死で家督を相続したが、二男・昌輝と共に天正3年(1575)の長篠合戦で武田信玄の先鋒となり戦死。三男の

昌幸が2兄死後真田家を相続。四男の信尹(のぶただ・昌幸の弟)は、天正10年武田家滅亡後、北条から家康

に仕えて幕府の旗本となる。]

天正2年(1574)5月、幸隆病死(62歳)。天正3年(1575)5月、三河(愛知県)の長篠合戦(織田信長

・徳川家康連合軍と武田勝頼軍の戦い)で真田信綱・昌輝の二兄が戦死したので、三男の昌幸が真田家を相続し、

岩櫃(いわびつ)城(群馬県東吾妻町)を拠点に活躍する。

天正8年(1580)、昌幸は安房守を名乗り、上野の名胡桃城(なぐるみじょう、群馬県沼田市)・沼田城を攻

め取る。昌幸は独立大名へと進む。

天正10年(1582)3月、武田勝頼自刃(37歳、武田氏滅亡)。昌幸は織田信長に従属。6月2日の本能寺の変

後、旧武田領は無主の地として徳川・上杉・北条三氏の草刈り場となったので(天正壬の乱)、昌幸は上杉景

に従属、7月、北条氏に属したのち、10月、徳川家康に寝返り、北条攻めに参加。

天正11年(1583)、昌幸、家康の支援を受けて上田城(上杉景勝の侵入防備のための前線基地)を築城。

天正13年(1585)、昌幸、沼田城の割譲を拒否して徳川氏から離反、上杉景勝に従属。同年閏8月2日、上杉

景勝と連携して、上田城を攻めた徳川勢を撃退、真田信之も奮戦する(第1次上田合戦、徳川勢7000人、真田勢

2000人)。この合戦後、豊臣秀吉に臣従し、大名として自立する。

天正14年(1586)、家康大坂城で秀吉に会う(秀吉に臣従)。秀吉、関東・奥羽の諸大名に戦闘行為の停止を

命ずる。(惣無事令)。

天正15年(1587)、昌幸、秀吉に従属。秀吉の命により家康の与力大名となる。

天正17年(1589)2月、信之は家康の許に、信繁は秀吉の許に人質として出仕(徳川・豊臣二分の芽生え)。

この年、秀吉の裁定で沼田城を北条に割譲。沼田城代の猪俣邦憲(いのまたくにのり)、名胡桃城主の鈴木重則

をだまして名胡桃城を乗っ取る。この名胡桃城事件が惣無事令に違反したと激怒した秀吉は、北条氏討伐を決定。

昌幸は前田利家を総大将とする北国軍に加わる。

天正18年(1590)7月、北条氏直、秀吉に降伏する。北条氏政・氏照兄弟は切腹、氏直は高野山へ追放されて

北条氏滅亡。秀吉、奥州仕置(奥羽仕置)に向かう。 

江戸に入った家康は、真田信之を沼田城主とする。ここで信之は父昌幸から独立して徳川大名となる。信之の妻

は徳川四天王の一人本多忠勝の娘小松殿(こまつどの、家康の養女)。

慶長5年(1600)、昌幸は徳川家康に従い、信行・信繁と共に、会津の上杉景勝討伐のため出陣。その途次、

石田三成から勧誘がきた。下野国犬伏(いぬぶし、栃木県佐野市)で、真田一族の去就を決断するために密談し、

昌幸と次男信繁(妻は石田三成の盟友大谷吉継の娘)は石田三成方、長男信之(妻は本多忠勝の娘)は徳川家康

方に付くことに決定する。このように一族が分裂したことを、通説では「真田存続の策」と言われているが、伝

説とみる考えもある。

慶長5年(1600)9月6日、昌幸・信繁は第2次上田合戦(徳川勢3万8000人、昌幸・信繁の真田勢2500人)

で、徳川秀忠勢をゲリラ戦術で撃退したが、9月15日の関ケ原合戦で三成方が敗れたため、昌幸・信繁は連座の

死罪を免れて紀州(和歌山県)高野山へ流罪。のち紀州の九度山(くどやま、和歌山県九度山町)に屋敷を建て

て移る(父子の助命は信之と本多忠勝の嘆願によるという)。信之は沼田領6万7000石に上田領6万8000石が

加増されて、13万5000石となる。

慶長16年(1611)昌幸、九度山で死去(65歳)。九度山での生活は困窮し、真田紐を織る。紀伊の庄屋や

豪農は信繁に好意的だったようだ。

慶長19年(1614)、豊臣家からの誘いを受けた信繁は、九度山を脱出して大坂城に入り、大坂冬の陣で大坂

城東南隅の真田丸で徳川方に大損害を与える。

慶長20年(1615)4月、信繁、大坂夏の陣で討ち死に。大坂城炎上。

元和8年(1622)10月、上田藩主の真田信之松代(当時は松城)13万石に転封(てんぽう)、大名として

存続する。真田信之は堅実で地味な現実的な生き方をし、性格は慎重で誠実であったが、内面は質実剛健と言え

る人物だったようである。万治元年(1658)、93歳で死去。なお、猿飛佐助・霧隠才蔵・三好青海入道などの

真田十勇士」は架空のヒーロー。しかし、現実には真田忍者の活躍があったことが知られている。(以上、

当日配布のプリントを基に作成。) 


作家・山川修平氏の講演を聞く!  2016年2月28日(日)

2016年02月29日 | 講演会

2016年2月28日(日)、一関市&一関市川崎町自治会連絡協議会主催の「平成27年度一関市川崎町社会教育各種講座学級生大会・社会教育各種学級合同閉講式」に付属して開かれた講演会(14:20~15:30時予定)を聞かせていただきました。この講演会は一般の市民も聴講可能と聞いたので妻と共に行ったのでした。大東町渋民市民センターでご一緒した文学講座の仲間が沢山来ていました。

合同閉講式のあいさつ(一関市川崎市民センター所長・菅原庸夫さん)が行われている間にぞろぞろ入場して失礼してしまいましたが、講演会はすぐに始まりました。

講師:作家 山川修平 氏。演題:「故郷と作家への道」

山川修平さんは、1936(昭和11)年岩手県東磐井郡川崎村(現在の一関市川崎町)生まれで、現在は東京都在住。本名は千葉勝也。現在79歳で、10月の誕生日が来ると80歳になるとのことでした。10代後半、肺結核のため長期療養生活を送らざるを得なかったそうです。その時に一関市山目にある結核療養所で一緒だったのが、井上ひさしさんの実兄・井上滋さんで、その頃の様子を面白おかしく語ってくださいました。これは、「井上ひさし略年譜」によると1949(昭和24)年9月頃のことのようです。

 あるとき、有名な作家・火野葦平氏[『糞尿譚』で第6回芥川賞受賞、1937(昭和12年下半期)]が一関に講演に来ると知って井上さんたち文学仲間と共に療養所を黙って抜け出して聞きに行ったことがあるそうです(当時、結核療養所は隔離病舎で、外出には院長の許可が必要だったそうです)。井上ひさしさんの実兄・滋さんは現在も釜石市で元気にしているそうです。

話の中で、「同世代の井上ひさしも、中津文彦も、三好京三も、内海隆一郎も死んでしまったのに自分のような肺病たかりが長生きしている。」と笑わせていましたが、人は必ず死ぬものなので、明日も必ず生きているという保証は誰もないのです。

21歳で岩手県立一関一高に入学、6歳下の同級生と共に学んだそうです。この高校時代より同人誌を発刊したとのこと。その後、早稲田大学に入学(心理学科)卒業。出版社勤務を経て独立、専門誌『著者と編集者』を発刊。出版業挫折後、住宅産業界に転身。住宅(ハウス)メーカーに勤務する傍ら創作活動を続け、『早稲田文学』『北の文学』等に小説を発表。定年退職後は住宅産業ジャーナリストとして執筆活動に当たってきたとのこと。著作に『人間の砦』『白磁の画家』『小説北上川』(以上、三一書房刊)などがある。

話の中で、岩手県からは直木賞の受賞者が何人もいるが、芥川賞の受賞者は未だ一人も出ていない。この先若い人たちの中からきっと出てくると思っていると述べられたが、調べてみたら直木賞の受賞者は、第49回[1963(昭和38年上半期)]の佐藤徳二(さとう・とくじ)『女のいくさ』(二見書房)、第76回[1976(昭和51年下半期)]三好京三『子育てごっこ』(文藝春秋)、第96回[1986(昭和61年下半期)]の常盤新平(ときわ・しんぺい)『遠いアメリカ』(講談社)、第106回[1991(平成3年下半期]高橋克彦『緋い記憶』(文藝春秋)などがいました。

http://www.iwanichi.co.jp/ichinoseki/8546.html [流域の戦中・戦後 克明に 川崎出身作家:Iwanichi Online 岩手日日新聞社]