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peaの植物図鑑

草や木の花や木の実(果実)、特に山野草が好きで、デジカメを持ち歩いて撮っています。2024年3月、85歳になります。

「えさし郷土文化館」の館長ツキイチ講座(第2回)2018年5月27日(日)

2018年06月01日 | 講演会

2018年5月27日(日)、えさし郷土文化館(奥州市江刺岩谷堂字小名丸102-1)主催の「平成30年度 安倍氏・清原氏・奥州藤原氏を考える」という相原康二館長による館長ツキイチ講座が研修室で開催されましたので、妻と一緒に参加しました。(13:30~15:00時)

第1回4月22日(日)は旅行と重なって行けませんでしたので、その時のテキスト(資料)も購入しました。(受講料:各回300円/テキストの他、各回追加資料頒布、事前申し込みは不要

「平安時代後期、胆江地方を含む奥六郡で展開された安倍氏・清原氏・奥州藤原氏の足跡を辿り、この時代の諸相を広く考える」という趣旨の講座で、中々中身の充実したものでした。

https://www.esashi-iwate.gr.jp/bunka/event/2018/course/index.html[えさし郷土文化館:相原康二館長のツキイチ講座] 

この日は、古代学研究会発行の「古代学研究」129号(1993年7月)に掲載された上野 武氏の「『陸奥話記』と藤原明衡~軍記物語と願文・奏文の代作者」という論文の紹介が主な内容でした。

陸奥話記』は、前九年合戦の顛末を記した軍記物語。『奥州合戦記』『陸奥物語』ともいうそうです。成立は平安時代後期、康平5年(1062)頃と推定されています。

『陸奥話記』の作者藤原明衡(987年頃~1066)とするを提示した上野 武氏のこの論文の内容を、詳しく説明してくださいました。この論文にある藤原明衡の著書である『新猿楽記』(塙 保己一・編『群書類従(第9輯)、下記』)の該当部分をプリントしたものまで提供してくださいました。 


芦東山記念館館長講座第1回・西郷隆盛の生涯 2018年5月9日(水)

2018年05月10日 | 講演会

2018年5月9日(水)、芦東山記念館(岩手県一関市大東町渋民字伊勢堂71-17)主催の「平成30年度・第1回館長講座」が開催されました。講師は館長の細井 計(かずゆ)氏。テーマは「西郷隆盛の生涯」(13:30~15:00時)。

 1時間30分の短い時間でしたが、現在放映中のNHK大河ドラマ『西郷(せご)どん』で粗筋を予備知識として持っていたためか、良く理解することができました。

 また、同じような理由で演題に興味をもった人たちがいたゆで、今までにない位多勢の人達が聴きにきていました。

 


平成29年度・国指定史跡鳥海柵跡シンポジウム講演を聴く 2018年2月17日(土)

2018年02月20日 | 講演会

2018年2月17日(土)、金ケ崎町、金ケ崎町教育委員会、国指定史跡鳥海柵跡と安倍氏の関連文化財

保存協議会主催「前九年合戦・安倍氏研究事業 平成29年度・国指定史跡 鳥海柵跡シンポジウム」

金ケ崎町中央生涯教育センター(金ケ崎町西根南羽沢55)大ホールで開催されたので、妻と参加しま

した。

 シンポジウムの前に行われた奈良大学文学部文化財学科 教授 千田嘉博(せんだ・よしひろ)氏の

「前九年合戦と鳥海柵」という講演を聴きました。演台を離れ、大きな身振り手振りとスライドを沢山

使用した解りやすい説明でした。 (14:00~15:00) 

(上)NHK「英雄たちの選択」井上あさひさん達と一緒の写真。

城郭としての鳥海柵:発掘による成果 扇状地の段丘を利用した防御に適した立地-南西側に防御正面。

(上と下)城郭としての鳥海柵:四面廂建物:それぞれの区域に認められる。-堀や沢に沿った位置

にあって合理的・効果的な配置。

城郭としての鳥海柵:堀と柵-格式の表象ではなく戦いに備えた施設。

(上)「後三年合戦絵巻」G 金沢柵 出入り口A(東京国立博物館蔵)

絵画資料からの検討(上と下2つ)

 ●絵画資料から知られる城郭との類似性(「後三年合戦絵巻」)

  -切岸(堀)、櫓、柵、板塀。櫓と石落とし

 ●同時代の事例との比較(秋田県 大鳥井山遺跡

  -堀、柵、櫓、門:巧妙な城郭としての構造。基本構造に鳥海柵と共通性。

(上)「後三年合戦絵巻」金沢柵 出入り口B(東京国立博物館蔵)

(上)「後三年合戦絵巻」金沢柵 出入り口C(東京国立博物館蔵)

(上)鳥海柵復元案

鳥海柵の城郭構造の検討 全体構造の復元:本丸?-航空写真の判読と発掘成果 近世城郭の本丸・二の

丸・三の丸という階層的な城のイメージで捉えてよいか?

鳥海柵の分立的城郭構造:鳥海柵の築城主体は、安倍氏を中心にしつつ、相対的に独立した集団が幾つ

か集まった連合的な構成→安倍氏を考える手がかり。中世期の城郭にも普遍的に見られた城郭構造→

その後の中世城郭が継承した要素。

世界の城から見た鳥海柵:城郭考古学を研究している千田講師は、鳥海柵跡と同時代のドイツやイタリ

アの城を紹介。両方とも中世の特徴である城を中心とした都市形成がなされているとし、「鳥海柵は日

本だけでなく世界史的に見ても古代から中世への転換を示すものだ」と分析した。

(上)ドイツ ホイネブルク(Heuneburg)紀元前7世紀の食い違い出入り口、連続櫓、多聞櫓。

城壁・城門、建物の一部を原位置に原寸大復元ガイダンス施設、博物館を設置。

(下4つ)CG(コンピュータ・グラフィックス)による全体復元→世界に向けた情報発信。

イタリア ロカ・サンシルベストロ(Rocca San Silvestro):ヨーロッパ11世紀からの中世の城郭

都市形成-インカステラメント(incastellamento)。

●一定の地域の中で、政治・経済・宗教・文化といった中心地機能を発揮したのが「都市」。

●イタリア中・南部をはじめとして、11世紀から封建領主の城を核とした中小都市が一斉に出現。古代

以来の中心地機能が大変化。

●インカステラメントによる中心地の成立によって、城を核とした中心地ネットワークができ、中世的

世界の基盤が形成された。

ドイツローテンブルク(Rothenburg o.d.T)と周辺の紀元後11世紀の城

●ドイツ ローテンブルク周辺に築かれた中世までの城は16カ所。このうち11世紀以降の中心地機能を

備えた3カ所には構造上の特徴を指摘できる。●本丸(Kernburg)+外郭(Vorburg)による組み合わせ。

●一部に石造りの城郭建築をもったが、主体は土づくりの城。●最終的に11世紀末~12世紀初頭に廃絶し、

ローテンブルクが都市機能を吸収。

ドイツ ティレダ(Tilleda)紀元後11世紀後半

●ドイツ ザクセン・アンハルト州にあるティレダ城は、11世紀後半~12世紀前半においてドイツ皇帝

ハインリッヒⅣ世・Ⅴ世の最も重要な王宮。

●石造りの城門・櫓を備えた城壁で防御。本丸(Kernburg)には王宮と教会があり、外郭(Vorburg)

には骨角器職人、銅および青銅職人、鉄器職人、機織り職人、パン職人など、様々な手工業者が集住。

→城を核とした中心地を形成。

(上)ドイツ ティレダ Tilleda、11世紀半ば(Grimm1990に加筆)

おわりに 鳥海柵の歴史的価値

 

2018年2月20日(火)付「岩手日報」 


芦東山記念館々長講座第5回を聴く  2018年2月14日(水)

2018年02月15日 | 講演会

2018年2月14日(水)、芦東山記念館(一関市大東町渋民字伊勢堂71-17)主催の「平成29年度芦東山記念館

々長講座・第5回”高山彦九郎が見た天明の飢饉直後の東北地方(その2)」(13:00~15:00時)が実施され

たので、妻と共に聴きに行ってきました。

前回[2017年12月22日(金)]の続きで、高山彦九郎が見た天明飢饉直後の東北地方(その2)」

高山彦九郎は、寛政2年(1790)6月7日、44歳のときに蝦夷地踏査のため江戸より津軽へ向け旅をし

ます。9月3日、津軽半島宇鉄(うてつ)に着きましたが、…渡航を断念しています。帰路東北各地の

飢饉の様子を記録した「北行日記」を残しています。

講演は、天明3年(1783)の大飢饉から7年後寛政2年(1790)戌6月7日の記述からでした。

 配布されたA4判7ページのプリントのうち9月20日の条(現在の10月末)で、時間切れとなってしま

いました。

  高山彦九郎が見た天明飢饉直後の東北地方(その2):『北行日記』

寛政二年(1790)戌六月七日、丙辰。快晴。夜七つ時に江戸橋木更津川岸発船す。永代橋佃島を左に見て

  東海道大森沖に及んで夜明けたり。日の海上に湧き出で玉ふ赤ふしてほうづきの如し。(省略)

 八日、午の下刻に木更津に船着す。(以下省略)

(九月)十一日条(省略)五ノ戸より八ノ戸迄東に来る。此所南部内蔵頭殿二万石の城下也。[(注)盛岡藩の南部利直公には三人の男子(重直、重信、直房)があり、重直が継いでいたが、世継ぎを決めないままに寛文4年(1664)9月に病死した。しかし、前以て幕府に世継ぎのことを願い出ていたため、藩は断絶されず、重信に8万石が与えられて盛岡藩が存続した。直房にも2万石が与えられて分藩「八戸藩」が成立した。]城は町の北に有り平城也。(省略)仁井田入口、三十余の圯橋(いきょう、土橋)を渡る。宿らん事を乞へども許さず。十日市ばに及んで暮に及び雨降り来る。又タ宿らん事を欲するとも宿らしめず。暫くにして晴れて月朗らか也。仰ぎてよめる。

宿るへき里もあらねは独り行く旅の空なる月のさやけき 正之[彦九郎の本名]とぞ。牛追おひに追ひ付ひて語りつ田代村に至る。(省略)庄屋作之丞所に宿す。(省略)

田代村元家百二十件、今は三十二軒、往還には三軒のみ、是れも元は七軒有しとぞ。飢年に餓死道路にたをれて八ノ戸馬の往来も止み、八ノ戸にて穴を四つ掘りて投込みけるに、余りてつつみの内へ水葬したる多ふし。野草より雉犬牛馬を喰ひ尽し人を食ふに至る。人食ひたるものは生るもの百か一もあらす、千万の内一人生るのみ。八ノ戸二万石の下計りにても六万人餓死す。餓孚のもの共の骨、今に道路に有りとぞ。空宅の内を見れば人の骨のみ也とぞ。侯(八戸藩主)も窮して一人に付き米壱升計りの手当有りける。家中(家来・武士)にも死する人ありけらし。侯の命にて月に六日、壱人に付き米壱升三百三十二文に売られしとぞ。今夜も畳(ムシロ)を着て寝ぬ。[盛岡藩や八戸藩の農民土間住居を強いられワラやモミガラを敷いた上で寝たという。]

 十四日条(省略)[大野村郊外の]兵右衛門所に宿す。八ノ戸湊神明神主村上主計(かずえ)、久慈の浜杉本藤馬と同宿す。あるじ酒を出たして饗応す。(省略)飢年には野草禽獣も食ひ尽し、親は子が死せば食はん事を思ひ、子も又た親の肉を食んとす。侯の制禁を出たされて人の肉を食ふものをは捕へて刎首す。され共、人の肉にて命をつなぎ今に在命のものもありと聞ゆ。(以下省略)

https://ayiva.sakura.ne.jp/misc/tiraura/html/x20-book-hokkounikki1790.shtml [book:高山彦九郎(1790)「北行日記」にみる天明飢饉」2014.10]

http://burari2161.fc2web.com/takayamahikokurou.htm[高山彦九郎]

http://www5.wind.ne.jp/hikokuro/ [太田市立高山彦九郎記念館(公式ページ)]


平成28年度・芦東山記念館館長講座第5回」を聞く! 2017年2月15日(水)

2017年02月16日 | 講演会

平成28年度・芦東山記念館館長講座第5回が、平成29年(2017)2月15日(水)13:00~14:30時、芦東山記念館(岩手県一関市大東町渋民字伊勢堂71-17)で開催されました。

テーマは、盛岡藩家老席日記『雑書』にみる歴史~庶民も名字・御国風を守る・環境衛生に注意など~ 講師は、芦東山記念館館長・細井 計(ほそい・かずゆ)氏。

今回は、講師の細井 計氏の著書『雑書の世界~盛岡藩家老席日記を読む』(2016年、岩手復興書店発行)にも書かれているものの中から、「盛岡藩家老席日記『雑書』にみる歴史」と題して幾つか話していただきました。

『雑書』について:寛永21年(1644、12/16改元「正保元年」)~天保11年(1840)まで、197年間分で190冊。3代藩主・重有公が参勤発駕(3/14)のときより起筆。このうち欠本14年分[特に寛文4年と貞享3年の欠本が惜しまれる。寛文4年(1664)、3代藩主・南部重直死去に伴う御家騒動。貞享3年(1686)巌鷲山噴火。]

記録内容:盛岡藩領の出来事が中心であるが、時には、将軍家をはじめとする他藩の記事も散見する。各年度ともに正月の儀式から始まり、5節句[人日(じんじつ・1/7)、上巳(じょうし・3/3)、端午(5/5)、七夕(7/7)、重陽(ちょうよう・9/9)]を経て歳暮に至っているが、その間に領内に起こった政治、経済、社会、文化など(例えば、参勤交代、藩主の鷹狩、幕府へ献上の鷹・白鳥・鶴・菱喰・鮭・鱈・薯蕷 (山芋)、城内での能興行と大般若執行、役人の人事異動・休暇願、藩士の家督相続・婚姻・嫡子願、神社仏閣の祭礼、社寺参詣、繋・鶯宿・台・鹿角大湯・湯瀬などへの湯治、打首獄門、他領追放、抜参り、逃亡、火事、風水害、酒値段の公布、飢饉など)、あらゆる面に亘る出来事が記録されている。[盛岡藩政史の研究を進める上での最も基本的な史料となっている。] 

 翻刻出版:『盛岡藩雑書』(第1~15巻、熊谷印刷出版部)、『盛岡藩家老席日記雑書』(第16巻~、東洋書院)、平成28年11月現在、第40巻[文化5年(1808)~文化7年(1810)]まで刊行済み。第41巻は近刊予定。(第4巻からは責任校閲:細井計)。[第1巻の刊行は昭和61年(1986)。平成28年で30年間、全体の約5分の4を翻刻出版し、完結まで後5年ほど。]

『雑書』の記述から:

1.上の橋、紙町の橋 

 イ、享保8年(1723)6月24日条 上の橋御普請奉行 御者頭 織笠庄助。

 下奉行 達曾部三郎右衛門 紙町橋懸け直し仰せ付けられ、右両人へ御家老席に於いて、    (中野)筑後これを申し渡す、

 ロ、享保8年6月15日条 紙町の橋懸け直し取り付け吉日、名26日、午ノ刻吉時の旨、永福寺考え上げ候に付き、御普請奉行へ御目付どもより申し渡す、

[なお、星川正甫『盛岡砂子』には、「世俗、この橋を紙丁の橋とばかり云う、上・紙訓同じなる故に、上の橋と云う事を知らざる者多し、中・下の橋を含めて(中津川)三橋と云う」とある。]

  ハ、中津川の上の橋の擬宝珠(ぎぼし)銘 [山菜「ウルイ」は、ギボウシ]

 慶長14己酉年(1609)10月吉日、中津川上之橋、源朝臣利直

 ニ、中津川の擬宝珠の由緒

慶長14己酉年中津川三橋御由緒、太祖光行公より12代の後胤六郎政行公、後光厳院(北朝)の御宇京都御在番の頃、応安年中(北朝年号、1368~1370)の春、北野叡山辺にて鹿の鳴こと止まず、叡聞に達し、時ならぬ春鹿の鳴こと奇怪なり、洛中洛外を触れて歌伏にせよと、綸言(りんげん、天皇の言葉)にて鹿と言う題を出され、政行公敷島の道を学び、夢庵老翁に伝授なり、一首を詠じ献じ給う、 春霞秋たつ霧にまがいせば、おもい忘れて鹿や鳴らん

 此の歌、叡覧に備うる処、叡感斜めならず、殊に鹿の鳴き声止みしとなり、宣旨(せんじ、天皇の命を伝える公文書)に因って、政行公参内有り、辺土の武士歌道に心を寄せ、名歌を詠ぜし事神妙の旨、勅定にて即ち従五位下(じゅごいのげ)に叙し、遠江守に任じ給う、且つ松蔭の御硯を拝台戴、今に御宝蔵にこれ有り、また都に増さる歌人なれば、何ぞ帝都の模様を在所へ移すべき旨、勅宣にて、加茂川の橋の擬宝珠を勅許有り、在番ゆえ明年御下向有りて、三戸の城下熊原川の橋擬宝珠を付けさせられ、欄干に金銀をちりばめて其の由来を彫り付け、程なく橋の造立成就せしかば、隣国近遠郷よりも老若男女群集して是を見物し、金銀を以ってちりばめ、其の美なるが為に、世の人是を称して黄金(きがね)橋と唱うると云々、…

従四位下(じゅしいのげ)信濃守利直公の御、慶長年中(1596~1615)今の盛岡御城御普請の節、中津川へ右の由緒を以って擬宝珠を御移し、熊原川の擬宝珠へ足し銅成られ、鋳直し、右橋へ御造立成らると、

中津川上の橋御普請は、慶長14年(1609)なり(己酉年十月渡り初め)、大奉行三千石七戸隼人正直時(毛馬内靫負直時)、普請奉行二百石野田弥右衛門、弓鉄炮同心頭三百石目時左馬助、杖突役歩行の衆数人、大工美松長門、同年橋造立成就、橋渡り初め米内村大豆門の権現通り、その次、三ツ割村左京と言う百姓九十一歳、孫彦、十人渡り初め、上の橋は追手と言う天下の往還ゆえ、規式荘厳諸事厳密なりと、

中の橋御普請は慶長16年辛亥年(1611)八月渡り初め、大奉行はこれ無き事、普請奉行二百石(御弓頭)田代治兵衛、弓鉄炮同心頭二百石工藤権太夫、杖突役歩行の者数人、大工美松長門、

下の橋御普請は、慶長17壬子年(1612)九月渡り初め、大奉行はこれ無き事、普請奉行三百石波岡八左衛門、弓鉄炮同心頭三百石田代治兵衛、杖突歩行の者数人、大工美松長門、

右三か所の橋御普請擬宝珠は、上の橋、中の橋両所へ計かり附けさせらる、下の橋はその頃御城内へ計かりの通路口ゆえ、高欄計かりにてこれ有る由、…(時間になり、ここまで)

http://blog.goo.ne.jp/enn37[ゾウさんと暮らす:擬宝珠は「春おぼろ……」のおかげで]