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peaの植物図鑑

草や木の花や木の実(果実)、特に山野草が好きで、デジカメを持ち歩いて撮っています。2024年3月、85歳になります。

芦東山記念館館長講座「盛岡藩家老席日記『雑書』にみる旅、その2」 2016年2月17日(水)

2016年02月17日 | 講演会

 2016(平成28)年2月17日(水)芦東山記念館(館長:細井 計(ほそい かずゆ)、一関市大東町渋民字伊勢堂71-17)の館長講座第5回盛岡藩家老席日記『雑書』にみる旅、その2(13:00~14:30時)が開催されました。今回は、「参勤交代」が主な内容でした。 

 

 参勤交代制:(1)制度化されたのは、寛永12年(1635)武家諸法度(ぶけしょはっと)

 大名小名在江戸交替相定むるところ也、毎歳夏(注:旧暦4~6月)四月中参勤致すべし従者の員数近来甚だ多し、且つは国郡の費(つい)え、且つは人民の労れ也、向後それ相応を以って、これを減少すべし、

これに違反した大名には罰則が科せられた…寛永13年(1636)、3代藩主南部重直は参勤遅滞と無届けによる新丸石垣築城により逼塞を命じられている。

 今度出府の儀遅滞、並びに盛岡新丸石垣築城数か条を咎めて重直公逼塞仰せ付けらる(『奥南旧指録』)。

(2)参勤交代が一時的に緩和された時期があった…幕府の財政立て直しのため、享保(きょうほう)7年(1722)~享保15年(1730)。[1716年4月、将軍家継死去(8歳)。8月、紀州藩主徳川吉宗、将軍となる。「享保元年」となる。]上米の制を定め、参勤期限を在府半年に緩和。

 御代々御沙汰もこれ無き事に候えども、万石以上の面々より米指し上げ候よう、仰せ付らるべしとお思し召し候、左候はねば、御家人のうち、数百人も御扶持方召し放さるべきよりほかこれ無く候ゆえ、御恥辱をも顧みられず仰せ出され候、高壱万石に付き百石の積り指上げらるべく候、…これにより在江戸半年宛御免成され候間、緩々(ゆるゆる)休息致し候ようにと仰せ出され候、(『雑書』享保7年7月12条)[盛岡藩の場合は、10万石だから1000石を上米。(この年に限り半分だけ上納)。

1730年(享保15年)4月、上米の制を止め、参勤期限を旧に復す。

 水野和泉守(忠之)様仰せ渡され候は、御勝手向き御不調に付き、近年上げ米仰せ付けられ、御用も弁ぜられ、御機嫌に思し召され候、右上げ米、今年にも御用捨遊ばされたく思し召し候えども、いまだ御勝手向き相調えがたき旨に付き、来年より上げ米御用捨遊ばされ候、これに依り、来年より参勤交代の儀、前々のとおりたるべく候(『雑書』享保15年4月23日)

(3)参勤交代の大幅緩和…文久2年(1862)の幕政改革:3年ごとに大幅緩和された。

[1月、坂下門外の変(老中安藤信正、水戸浪士らに襲われ負傷。2月、家茂と和宮の婚儀挙行。4月、島津久光、藩兵を率いて入京し、朝廷に公武融和策を建議。8月、生麦事件。閏8月、会津藩主松平容保を京都守護職に任命など](以下省略)

http://blog.goo.ne.jp/tom33aa/e/f04b1fd92e8a0615e7d53bec3a243fb5 [盛岡藩の参勤交代]

http://iwate-isn.sakura.ne.jp/bunkasalon/50kai.htm [盛岡藩雑書の世界]


芦東山記念館館長講座・第3回を聞く! 2015年10月14日(水)

2015年10月15日 | 講演会

細井 計(ほそい・かずゆ):1936年、群馬県に生まれる。1967年、東北大学大学院文学研究科博士課程修了。現在、東北福祉大学教授、岩手大学名誉教授、文学博士。

主要著書:『近世の漁村と海産物流通』(河出書房新社、1994年)、『近世東北農村史の研究』(東洋書院、2002年)、『岩手県の歴史』(共著、山川出版社、1999年)、『街道の日本史6・南部と奥州道中』(吉川弘文館、2002年)など。[『南部と奥州道中』より]

2015年10月14日(水)、芦東山記念館館長講座の第3回「盛岡藩家老席日記『雑書』にみる旅、その1」が同館(館長・細井計=ほそい・かずゆ、一関市大東町渋民字伊勢堂71-17)で開催されたので、妻と一緒に聞きに行ってきました。

(上)「猿沢村絵図」(一関市猿沢市民センター蔵)からトリミングした猿沢地区の絵図。

この日は、10月1日(木)から開催中の秋季特別展・絵図の世界~江戸時代のふるさとの姿~が展示されていたので観てきました。これからの展示期間中「無料開館日」というのが次の通り設定されていますので、見学をお勧めします。東北文化の日の10月31日(土)、11月1日(日)、文化の日の11月3日(火、祝)。

 盛岡藩家老席日記『雑書』にみる旅 その1:講演(13:00~14:30時)の概要

1、藩の呼称について:藩の呼称は原則として(1)城地(城が建っている所の地名)をつけて仙台藩、盛岡藩、弘前藩などと呼ぶべきである。伊達藩や南部藩など大名の名をつけた藩名だと不都合なことがある。(伊達藩の場合、宇和島藩などがあり、南部藩の場合、八戸藩、七戸藩も南部氏である。)但し、西南の雄藩(薩摩、長州、土佐、肥前など)の場合は、旧国名を付けて呼ぶのもやむを得ない。(例外的に認める。)

2、盛岡藩家老席日記『雑書』について:

(1)伝存状況 寛永21年3/14[徳川家光治世、12/16正保元年(1644)と改元]~天保(てんぽう)11年(1840)まで、197年間分が190冊、うち、欠本14年分があり、特に寛文4年(1664、9/12重直病死、お家騒動が起きた)と貞享3年の欠本が惜しまれる。

家老席には4~6名の右筆(書記)がおり、家老が記録すべきことを決めて記録させた。この記録を始めたのは、三代藩主の重直公と考えられる。①信直、②利直、③重直(跡継ぎを決めないまま病没したため、幕府の裁定で盛岡藩10万石のうち)④重信(8万石)と④直房(八戸藩、2万石)に分配された。[文化5年(1808)から20万石]

(2)記録内容 盛岡藩領の出来事が中心であるが、時には、将軍家をはじめとする他藩の記事も散見する。各年度とも正月の儀式に始まり、5節句[人日(じんじつ、1/7、七草粥を食べることから七草の節句ともいう)、上巳(じょうし、3/3)、端午(5/5)、七夕(7/7)、重陽(ちょうよう、9/9)]を経て歳暮に至っているが、その間に、領内に起こった政治・経済・社会・文化など(例えば、参勤交代、藩主の鷹狩、幕府へ献上の鷹・白鳥・鶴・菱喰・鮭・鱈・薯蕷(山芋)、城内での能興行と大般若執行、役人の人事異動・休暇願、藩士の家督相続・婚姻・嫡子願、神社仏閣の祭礼、社寺参詣、繋・鶯宿・台・鹿角大湯・湯瀬などへの湯治、打首獄門、他領追放、抜参り、逃亡、火事、風水害、酒の値段の公布など)、あらゆる面に亘る出来事が記録されている。したがって、盛岡藩政史の研究を進める上での最も基本的な史料となっている。

(3)翻刻出版

『盛岡藩雑書』第1巻~15巻(熊谷印刷出版部)。

『盛岡藩家老席日記雑書』と名を変えて第16巻~第37巻(寛政8年~享和元年、1799~1801)まで刊行済み。(東洋書院)[平成27年7月現在]。第4巻から責任校閲・細井計。

第1巻の刊行は昭和61年(1986)。平成27年で30年間、全体の5分の4を翻刻出版したが、後5年間ぐらいかかる。

3、近世の陸上交通

(1)幹線道路として五街道

(ィ)五街道の呼称

 ①東海道 海端を通り候に付き、海道と申すべく候。

 ②中山道 只今迄はの字書き候えども、向後の字書き申すべき事、

 ③奥州道中 是は海端を通り申さず候間、海道とは申すまじく候、

 ④日光道中 右同断

 ⑤甲州道中 右同断

 右の通り向後相心得るべき旨、申(正徳六年)四月十四日(6月に享保と改元、1716年)河内守殿より松平石見守・伊勢伊勢守へ仰せ渡され候(『駅肝録』)、

(ロ)文化8年(1811)6月の五街道の発着地点についての伺い、その中では、東海道、中山道、甲州街道、奥州街道、日光街道…(『諸例撰要』と記す。これに対する道中奉行の返答では、東海道、中山道、甲州街道、… 日光道中は千住より鉢石迄、奥州道中は白沢より白河迄(白沢、氏家、喜連川、佐久山、太田原、鍋掛、堀越、芦野、白坂、白河の10宿、千住から宇都宮までの17宿は日光道中と兼ねていた。

(ハ)道中奉行支配の分

東海道。中山道、甲州道中、日光道中、奥州道中、美濃路、例幣使通、日光御成道、水戸佐倉道、右の外、都で脇往還の分は、御勘定奉行取扱い候事、

(上の地図)[社団法人 東北建設協会:企画発行「東北の街道~道の文化史いまむかし~」(1998年7月15日 初版発行)より]

(2)地方の街道

(イ)白河以北の街道

    〇多様な呼称 仙台より江戸道中、江戸道中、仙台より盛岡道、南部盛岡道中、仙台海道、南部海道、奥道中、奥街道、中通道中、中海道、松前街道、函館街道、

 〇宿駅を読み込んだ『奥道中歌』:国分の町よりこゝえ七北田よ、富谷(新町)茶のんであちは吉岡(大和町)、さむひとて焚かれぬものは三本木、雪の古河荒谷つめたや、おもひきゃ日は高清水宿とりの、杖築館て道いそぐとは、あれ宮野沢辺の蛍草むらに、なく鈴虫のこゑは金成、噂する人にくせ有壁に耳、口のあけたて一ノ関なり、山の目で酒呑んだゆゑ前沢を、つい水沢に通る旅先、けふの日もはや入相の金ケ崎、旅のつかれを相去の関、東路を国のつつみに鬼柳、みどりつきせぬ千代のよはひを、紅の色あらそふや花巻の、石鳥谷よりも見ゆるやま畑、時鳥(ほととぎす)こえはりあげて郡山、卯の花咲るはなの盛岡、枝柿の渋民なれと沼宮内、やどえみやげはこれが一ノ戸、梅が香に風の福岡うちこえて、春のながめはせん金田一三の戸をたち行たびの、麻水五の戸もすぎて伝法寺宿、七の戸やけふの細布細からぬ、ひろひ野辺地に人の小湊、たびまくら春の野内に一夜ねん、すみれにまじる草の青森、降雨にながす桐油の油川、日よりになるは飛鳥あさてか、くむ酒の左関とてたび人の、よい中沢にとまる相やど、咲そむる花の蟹田ものどかさに、野田かとおもふ春の平館、むかしより今別なれや三馬屋の、往来にきほう人を松前、

(ロ) 盛岡城下から江戸日本橋まで139里、宿駅91次の行程。

(3)領内外の諸街道

 (イ)街道の呼称

  和賀郡鬼柳村より仙台領金ケ崎宿への道

  岩手郡橋場村より秋田領小保内村への道(『郷村古実見聞記』)、

  西磐井山ノ目町より東山松川町への海道(白石家文書『天明元年御用留』)、

  安永4年(1775)、渋民村の『風土記御用書出』(写、『宮城県史』28、風           土記、補遺)は、道 三筋として次のように記す。

  大原町より猿沢町への道 壱筋  

  築館町より摺沢町への道 壱筋

  猿沢町より摺沢町への道 壱筋

  〇滝沢村(滝沢市)分れの安政3年(1856)の道標には「右は かづの道 左   柳沢道」と記されている。

 (ロ)盛岡城下を起点とする街道。

  秋田街道(秋田往来)、雫石海道、仁沢瀬付近の長山への分岐点の道標には(「右 長山道 秋田往来」)とある。鹿角街道(津軽街道)、大槌街道、釜石街道、宮古街道(閉伊街道)、野田街道、庄ケ畑の寛政元年(1789)の道標には、「右 野田往来 左 釘平 日戸 玉山」)と記されている。

[以上の例でわかるように、江戸時代の地方の街道については、それぞれの目的地の名をつけて、「どこどこへの道(街道)」というのが一般的な呼称であった。このことは街道沿いに残る各地の道標からも指摘できる。]

(4)、街道の並木と一里塚

 (イ)『雑書』延宝元年(1673)10月25日条:仙北町同心町のはづれより鬼柳舟場迄の海道、并(あわせて)夕顔瀬より雫石町迄の海道通り両脇へ、先年植え置き候松、漆枯れ候て所々これ無く候間、来年寅の年より辰の年迄三か年の内、枯れ木壱本もこれ無きように、壱間に松にても漆にても壱本宛植え継ぎ申すべく候…

 (ロ)『徳川実記』、『郷村古実見聞記』、特に『塩尻』の記述

 慶長9年(1604)2月4日、台徳大相国(徳川秀忠)東海道、越後道、奥州路等に命じて、各一里ごとに両塚を築かしめ、樹を植えしめ給う、同年5月下旬にことごとく成就せし、今に残て行人里程に便す、

 (ハ)『雨窓閑話』の記事:今において往来の旅人歓ぶ事限りなし、その並み松の間をゆけば、夏は日をよけ暑さを凌(しの)ぎ、冬は風を除け散らして悩みなし、その上、一里塚といふものあれば、今一里々々と思う競ひ心の一図に、この塚をたのしみに道のはかどり格別にして、遠近をはかり行程の便にする事、天下の人の大いなる爲なり、

 参考文献:細井計『街道の歴史』(盛岡市文化財シリーズ、第32集、盛岡市教育委員会、1998年)、細井計『南部と奥州道中』(吉川弘文館、2002年)、細井計『増補行程記』(東洋書院、1999年)[以上、講師が配布した資料より。] 

(下)今回講演の奥州街道などに関することは、下記の書籍に詳細が記載されていますので、一読をお勧めします。吉川弘文館発行、細井 計・編『街道の日本史6・南部と奥州道中』(2002年5月20日第1刷発行、定価:本体2,300円+税、)

 


芦東山記念館夏季特別展講演会「なべづる線と大東地域」 2015年9月5日(土)

2015年09月06日 | 講演会

(上)線路が龍の形をしていることから「ドラゴンレール」として親しまれている大船渡線(一関~盛間、気仙沼~盛間運休中)ですが、別名「なべづる線」と呼ばれています。この大船渡線一ノ関駅と摺沢駅間が開通して90周年というので一関市博物館と市立芦東山記念館で関連した特別展が開催されているのですが、今回は芦東山記念館主催の下記の講演会について報告します。

 講師の菅原良太(すがわら・りょうた)氏は、一関市千厩町千厩在住(39歳)の郷土史家で、平成25年から一関市文化財調査委員をしています。立正大学文学部史学科卒(平成11年3月)、岩手県文化財保護指導員(平成27年から)、東磐史学会会員。

講演「なべづる線と大東地域」:講師の菅原良太氏は、東磐史学会発行『東磐史学』平成21年度 第33号と第34号「なべづる線沿革史」「続・なべづる線沿革史~政治と国有鉄道大船渡線~」を寄稿していますので、詳しいことを知りたい人はそちらをご覧ください。

一関から東磐井郡への鉄道建設計画まで:明治中期まで…陸上交通の主役は人・馬。明治27年(1894)ころ気仙沼街道(県道)が開通し、車両の通行が可能になった。客馬車が薄衣と気仙沼間を運行した(公共交通機関の始まり)。

鉄道建設計画:明治期に2回にわたり民間での鉄道建設が計画されたが、私鉄会社のため十分な資金が集まらず挫折している。

1回目は磐仙鉄道で、明治29年(1896)頃より一関・気仙沼の有志が計画(北方・中央の両計画あり)、明治30年(1897)3月11日 創立認可願を逓信大臣に提出(発起人…摺沢村の佐藤精・佐藤秀蔵ほか総計24名・沿線有力者)。明治32年(1899)11月、敷設予定線路を大船渡まで延長願提出。明治33年(1900)4月13日、仮免状下付(一関~気仙沼~大船渡)。明治36年(1903)1月26日「本免状の申請せざるに付き失効」(官報)。

2回目は磐仙軽便鉄道で、明治44年(1911)からの軽便鉄道ブームの時代背景のもと、明治45年(1912)4月5日、敷設免許申請願を内閣総理大臣に提出しています。発起人:地方の有力者と中央の経済人で構成、発起人総代は摺沢村佐藤秀蔵→のち荒井泰治(仙台)。

ルートは磐仙鉄道とほぼ同じ一関~摺沢~気仙沼と千厩支線。大正元年(1912)9月25日 敷設免許状下付。再度の敷設工事延期願提出(経済不況や八十八銀行問題のため)。大正4年(1915)8月28日 免許証返納。

このように明治期に2回にわたり民間での鉄道建設が計画されたが、どちらも千厩を通らない発起人の地元を通過するルートだった。

この当時の宮城県知事と発起人間のやり取り。明治45年(1912)5月。

「一関~気仙沼間は薄衣・千厩・折壁と直線に県道が通っているが予定線路は長坂・摺沢・奥玉とだいぶ遠回りしており、一関と気仙沼を連絡する線路としては非常に不適当である。このような線路を予定線とした理由はいかなるものか?」。これに対する発起人の応えが下記の「~千厩は単に官公庁の所在地で多少人が集まる程度の町だから支線くらいで十分だ」というものでした。

 国による鉄道計画:大正4年(1915)10月に磐仙軽便鉄道の計画が頓挫して「遂に其実現を見るに至らず爾来其声を聞くことなくして」(『岩手毎日新聞』大正7年1月19日)数年がいたずらに経過した大正7年(1918)1月、政府鉄道会議にて一関~気仙沼間国有軽便鉄道敷設案可決…当時は一関~千厩~気仙沼間直通の計画?(距離31マイル=約50㎞)…経由地を明確にせず摺沢と千厩の間で誘致運動始まる。

時代背景:政友会・憲政会の政党政治と党勢拡張。大正7年9月、政友会総裁・原敬(はら・さとし)内閣組閣。大正9年(1920)5月の衆議院選挙の際第七区(両磐地区)地盤の柵瀬軍之佐(憲政会)の対抗馬として摺沢横屋の佐藤良平が出馬し見事当選。岩手県下選出議員7人全て政友会所属議員で固める。「この時、鉄道問題をエサにして政友会に投票させることに成功した?」 

大正10年(1921)頃には摺沢経由のルートで建設することがほぼ決定し、今から丁度90年前の1925(大正14)年7月25日に、鉄道交通の要として大船渡線一ノ関~摺沢間が開通したのである。

 (上)大船渡線一ノ関摺沢間開通記念絵葉書、大正14年(1925)、左上は北上川橋梁。(下)大船渡線開通時の摺沢のにぎわい。

摺沢より先は当初奥玉経由で折壁へと向かっていたが、猛運動により千厩経由となり、更に千厩駅は市街地により近い位置へ設置されることになった。そして昭和2年(1927)7月15日には摺沢~千厩間が開業した。 

一方、大原町の有志は鉄道建設の望みを捨てたわけではなかった。昭和2年(1927)4月、政友会内閣成立(田中義一首相)。岩手県第六区(胆沢郡)選出衆議院議員志賀和多利が鉄道参与官に就任。昭和2年8月、摺沢~大原間の国有鉄道敷設の計画具体化する?(新聞記事参照)

昭和3年(1928)2月の衆議院選挙で大原町の有権者の大部分が候補者・志賀和多利に投票した。

 昭和4年(1929)、第56回帝国議会に摺沢~大原線を含む鉄道敷設法改正法律案が提出されたが、貴族院で審議中に会期終了で廃案となる。

「(摺沢より大原に至る鉄道は)六哩(マイル)一分と云う極く短い鉄道でありますからして、どうも国に於て之を是非ともやらなければならぬかと云うことは非常に疑があるのです…是は鉄道省の参与官の志賀和多利君の選挙地盤でありまして、昨年の選挙の時に此地方に於て自分の方に投票すれば、其線路を付けてやる、斯う云うことを申されたと云う事実があるのであります…(大船渡線は)丁度鍋弦線と云うことを俗に申して居るのでありますが、鍋弦のやうに政友会の時に摺沢の方の北に曲げ、憲政会の時に千厩と云う南の方に下って来て居る、之に依って鉄道の延長が六、七哩(マイル)延びたことになります…斯う云う詰り政党の最も露骨なる鉄道に及ぼす害悪の最も甚だしい例が此処に現れて居るのです」貴族院議員・佐竹三吾(元鉄道省監督局長)答弁(昭和4年2月26日、第56帝国議会 貴族院議事速記録)

「地方産業の振興文化の開発は一に交通機関の完備にあり交通完備は鉄道に依らざるべからず茲に於て政党政派を超越した大同団結をなし時の田中内閣に請願す鉄相小川平吉氏議会に提案衆議院を通過したるに貴院に於て佐竹三吾等の党略的反対を蒙り審議未了となりしは本町の爲め遺憾に堪えず…」大野清太郎編、千葉忠質翁自叙伝 (『大原町誌(補遺)』)

 


どうして黒田官兵衛の兜が盛岡にあるのか? 2015年3月4日(水)

2015年03月05日 | 講演会

2015年3月4日(水)、13:00~14:30時、平成26年度 芦東山記念館館長講座(全7回)の最終回の講話が、同館ホールで行われました。今回のテーマは「黒田騒動と栗山大膳~黒田官兵衛の兜が盛岡へ~」。

 講師は同館館長細井 計(ほそい・かずゆ)氏(岩手大学名誉教授)。講話の要旨が記載されたA4版5ページのプリントが配布されましたので、かなり理解し易かったように思います。

館長さんは盛岡の安倍館の近くにお住まいだとか。今朝盛岡は20㎝程も積雪があり、踏み跡もない道を難儀しながらバス停に着いたら、バスは遅れて、その上、盛岡駅行きでないバスに乗ってしまって…と出発時の苦労話をした後、どうにか予定した電車に間に合って一関に着いたら雪は全く無くて…と、前回と同じく「一関はいい所です」と聴衆をくすぐる挨拶をされました。

主題の「黒田官兵衛の兜が盛岡にあるのは何故か?」の話。妻と私は、この兜を見るために1月4日にもりおか歴史文化館に行って来たので、大略は知っていましたが、改めて館長さんのお話をお聞きして良く理解することができました。平成27年度の館長講座は5月頃から予定しているそうですので、次回も聞きに行きたいと思います。

2014年のNHKテレビ大河ドラマ「軍師官兵衛」で評判になった官兵衛愛用の兜「銀白檀塗合子形兜(ぎんびゃくだんぬりごうすなりかぶと)」は、黒田孝高(よしたか)/官兵衛/如水)が死に臨んで、子供の長政(福岡藩初代藩主)を筑前国(福岡家)福岡藩黒田家草創の功臣であった栗山善助(利安)に託し、この兜を下腸されました。また長政は2代藩主・長子忠之の補佐を栗山善助の子・大膳(利章)に遺言しました。大膳は長政の意を受けて忠之に諌言を繰り返したことから忠之の反発と憎悪を蓄積させてしまいました。寛永8年(1631)、善助(利安)の死と同時に忠之の報復が表面化し、大膳は領地を没収される。身の危険を感じた大膳は、寛永9年、主君黒田忠之「幕府に謀反あり」と訴えました。翌10年、徳川家光の直裁で黒田家は改易を免れ、大膳は長男大吉(利周)とともに陸奥・盛岡藩(3代藩主南部重直)に御預けとなった。この事件が「黒田騒動」と呼ばれるもので、栗山善助(利安)の子である栗山大膳(利章)が盛岡へ流された後、大膳の子孫が陸奥盛岡藩主・南部家へ献上したもの。現在この兜は同地にあるもりおか歴史文化館に保存されている。

http://morioka.keizai.biz/headline/1733/ [盛岡で黒田官兵衛所用の合子形兜を展示~エックス線解析調査報告も:盛岡経済新聞]

http://matome.naver.jp/odai/2139711378115060501 [個性的すぎる黒田官兵衛の「兜」:NAVERまとめ]

 


旅芸人繁太夫の「筆満可勢」にみる奥州~芦東山記念館館長講座 2015年1月21日(水)

2015年01月31日 | 講演会

芦東山(あしとうざん)記念館(岩手県一関市大東町渋民字伊勢堂71-17)主催の館長講座第5回目が、「旅芸人繁太夫の『筆満可勢(ふでまかせ)』にみる奥州」と題して2015年(平成27年)1月21日(水)13:00~14:30時 同記念館で行われました。講師は岩手大学名誉教授で同館館長の細井計(ほそい・かずゆ)氏

 『筆満可勢(ふでまかせ)』というのは、江戸深川仲町、富本節の繁太夫(しげだゆう)という男の文政11年(1828)6月12日~天保2年(1831)2月30日までの奥羽越後紀行日記で、江戸時代の庶民の生活を記録したものとして貴重なものだそうです。

講師の細井館長は、三一書房発行(1969年)『日本庶民生活史料集成』第三巻から抜粋した原文をもとにしたA4紙6ページのプリントを配布して、旅芸人・富本節の繁太夫が1828(文政11)年6月12日(陰暦)に江戸を出立するところから、1829(文政12)年9月4日までの日記の内容など、当時の盛岡藩の様子を主に紹介されました。

”(陰暦)9月9日 南部の国、大根はことの外風味克(よく)、網す杯(など)決してなし。大根せん六本をヒキナといふ。出行ことをデワハルといふ。玉茎(陰嚢)をシンズッコと云。陰門をベベ、ヘッペともいふ。行すぎ者のきいた風杯(など)いふ事をキイタブリと云。小児をワラシ。惣してシの字はスと違ふ。イエの仮名相違・…仙台にては金壱分の事を一ト切れといふ。其義理にて、金弐朱を半切れといふ。…両国(仙台・盛岡)とも女芸者の事を女太夫不濁、といふ。始て聞し時は、乞食小屋より出る女太夫と思ひし也。何事も物の出来することをデルと言う。向ふより何か出てくるといふをデキルと言。此唱へ江戸杯(など)とは行違ひ也。南部国風にて何事を申にも詞の跡へナス、ナモといふ事を付る。譬へは、江戸杯(など)にて是はとふもむずかしひなともいふ事を、是はどふもナモむつかしい杯(など)言。上方杯(など)にて、是はナ夫はナ杯(など)いふくせ有り。是はナス、夫はナス杯(など)言。此二つ口くせにてうるさし。”

因みに江戸時代の通貨制度は (小判1枚)一両=四分=十六朱(四進貨幣)、 一貫匁=千匁、(ゼニ)一貫匁=千文、十文=銭一疋。これに対する相場は時代によって大きく変動し、繁太夫が旅をした文政年間から天保の初期にかけては、金一両に対して銭六千五百文から七千文というのが相場だったようです。上の文章の仙台における相場は、金壱分=一切れ(=4朱)、2朱=半切れだったそうです。 

  この『筆満可勢』については、同じ三一書房刊『日本庶民史料集成』第二巻及び第三巻所収の『筆満可勢』をテキストにした織田 久著「江戸の極楽とんぼ~『筆満可勢』ある旅芸人の記録」(無明舎発行)という本がありますので、興味がある人は読んでみてください。