9月9日は、重陽の節句、菊の節句。この日は、名曲「ドック・オブ・ベイ」を歌ったソウルシンガー、オーティス・レディングが生まれた日(1941年)だが、ケンタッキー・フライドチキンで知られるカーネル・サンダースおじさんの誕生日でもある。
かつて友人に、ケンタッキー・フライドチキンを食べない日が二日も続くと頭がおしくなるという男がいた。自分はケンタッキー・フライドチキンの創業者、カーネル・サンダースは65歳からこの事業をはじめた立志伝中の人物だと聞いて、尊敬していた。
ハーランド・デヴィッド・サンダースは、1890年の重陽の節句に、インディアナ州ヘンリービルで生まれた。肉屋だった父親が、彼が5歳のときに没した。母親はトマト缶詰工場へ働きに出、幼いハーランドは母親のかわりに料理をするようになった。
10歳のころから他人の農場で働いていたハーランド・サンダースは、14歳のころには学校をやめていた。小さいころからからだが大きかった彼は、ペンキ塗り、路面電車の車掌、軍隊、鉄道の鍛冶屋助手、機関士、裁判所事務、保険の営業など、さまざまな職業をへて、29歳のとき、フェリー運行会社を興した。
31歳のとき、その運行会社を売却して、アセチレン・ライトの製造会社を興した。が、これが失敗し、34歳にして全財産を失った。 それからタイヤのセールスマンはじめ、一から出直し、ガソリンスタンド経営、レストラン経営と事業を軌道に乗せた。
レストランを経営していた45歳のとき、ケンタッキー州から「カーネル」の称号を受けた。これは「大佐」でなく、ケンタッキー州が功労者に授与する名誉の称号である。
50歳のころには、独特の製法によるフライドチキンも作るようになった。
しかし、近くに州間高速道路が開通し、レストランのある街道の交通量が激減すると、サンダースの店は急速に傾きだした。65歳のとき、彼は店を競売にかけて売り、負債を処理し、ほとんど無一文になった。サンダースは、くじけず、自分にできる事業はないものかと頭をひねった。そして、フライドチキンの製法をレストランに教え、そのフライドチキンがひとつ売れたごとに、4セントをもらう、フランチャイズ方式のビジネスを思いつき、実行に移した。ケンタッキー・フライドチキンのフランチャイズ店はつぎつぎと増え、海外にも店舗ができた。
74歳で会社を売却した後も、彼は店の広告塔として世界をめぐって働きつづけた。日本にも3度来日している。サンダースによれば、日本の「ケンタ」は、彼のオリジナルの製法を正確に守り、とてもおいしいそうだ。
1980年12月、彼は肺炎のため、ケンタッキー州ルイヴィルで没した。90歳だった。
カーネル・サンダースの人生を見渡すと、ため息が出る。苦しい境遇から身を起こし、紆余曲折があった。成功と失敗が交互にやってきた。大恐慌は彼が40歳で、ガソリンスタンドをやっていたころである。
彼の伝記によると、窮地におちいったときは、夜はくよくよせずにぐっすり眠ることが肝心らしい。くよくよ悩んで眠りにつくと、気分が落ち込むだけだが、いい眠りがあれば、朝になって、いい知恵がひらめくかもしれない。
それにしても、頭脳もからだも衰えてきている65歳にして無一文になり、そこから新ビジネスを考えだし、実現し、成功させて見せたサンダースの姿に、勇気づけられるのは、自分だけではないのではないか。苦しいとき、困ったとき、悩んだときは、ケンタッキー・フライドチキンを食べて、ぐっすり眠る、これだ。
(2013年9月9日)
●おすすめの電子書籍!
『9月生まれについて』(ぱぴろう)
カーネル・サンダース、シェーンベルク、ツイッギー、アンナ・カリーナ、スプリングスティーン、メリメ、マーク・ボラン、島木健作、棟方志功、家永三郎、長友祐都、矢沢永吉など9月誕生30人の人物論。9月生まれの人生論。ブログの元になった、より深く詳しいオリジナル原稿版。
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かつて友人に、ケンタッキー・フライドチキンを食べない日が二日も続くと頭がおしくなるという男がいた。自分はケンタッキー・フライドチキンの創業者、カーネル・サンダースは65歳からこの事業をはじめた立志伝中の人物だと聞いて、尊敬していた。
ハーランド・デヴィッド・サンダースは、1890年の重陽の節句に、インディアナ州ヘンリービルで生まれた。肉屋だった父親が、彼が5歳のときに没した。母親はトマト缶詰工場へ働きに出、幼いハーランドは母親のかわりに料理をするようになった。
10歳のころから他人の農場で働いていたハーランド・サンダースは、14歳のころには学校をやめていた。小さいころからからだが大きかった彼は、ペンキ塗り、路面電車の車掌、軍隊、鉄道の鍛冶屋助手、機関士、裁判所事務、保険の営業など、さまざまな職業をへて、29歳のとき、フェリー運行会社を興した。
31歳のとき、その運行会社を売却して、アセチレン・ライトの製造会社を興した。が、これが失敗し、34歳にして全財産を失った。 それからタイヤのセールスマンはじめ、一から出直し、ガソリンスタンド経営、レストラン経営と事業を軌道に乗せた。
レストランを経営していた45歳のとき、ケンタッキー州から「カーネル」の称号を受けた。これは「大佐」でなく、ケンタッキー州が功労者に授与する名誉の称号である。
50歳のころには、独特の製法によるフライドチキンも作るようになった。
しかし、近くに州間高速道路が開通し、レストランのある街道の交通量が激減すると、サンダースの店は急速に傾きだした。65歳のとき、彼は店を競売にかけて売り、負債を処理し、ほとんど無一文になった。サンダースは、くじけず、自分にできる事業はないものかと頭をひねった。そして、フライドチキンの製法をレストランに教え、そのフライドチキンがひとつ売れたごとに、4セントをもらう、フランチャイズ方式のビジネスを思いつき、実行に移した。ケンタッキー・フライドチキンのフランチャイズ店はつぎつぎと増え、海外にも店舗ができた。
74歳で会社を売却した後も、彼は店の広告塔として世界をめぐって働きつづけた。日本にも3度来日している。サンダースによれば、日本の「ケンタ」は、彼のオリジナルの製法を正確に守り、とてもおいしいそうだ。
1980年12月、彼は肺炎のため、ケンタッキー州ルイヴィルで没した。90歳だった。
カーネル・サンダースの人生を見渡すと、ため息が出る。苦しい境遇から身を起こし、紆余曲折があった。成功と失敗が交互にやってきた。大恐慌は彼が40歳で、ガソリンスタンドをやっていたころである。
彼の伝記によると、窮地におちいったときは、夜はくよくよせずにぐっすり眠ることが肝心らしい。くよくよ悩んで眠りにつくと、気分が落ち込むだけだが、いい眠りがあれば、朝になって、いい知恵がひらめくかもしれない。
それにしても、頭脳もからだも衰えてきている65歳にして無一文になり、そこから新ビジネスを考えだし、実現し、成功させて見せたサンダースの姿に、勇気づけられるのは、自分だけではないのではないか。苦しいとき、困ったとき、悩んだときは、ケンタッキー・フライドチキンを食べて、ぐっすり眠る、これだ。
(2013年9月9日)
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