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著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

9月22日・アンナ・カリーナの眼差し

2013-09-22 | 映画
9月22日は、映画運監督の牧野省三が生まれた日(1878年)だが、映画女優、アンナ・カリーナの誕生日でもある。
自分がはじめてアンナ・カリーナを見たのは、映画「気狂いピエロ」でだった。スクリーンのなか、アンナ・カリーナの存在感は圧倒的で、しかも、彼女が発していたのは、ほかのどの女優にもない新しい種類の個性だった。

アンナ・カリーナは、1940年、デンマークのコペンハーゲンで生まれた。本名は、ハンネ・カリン・バイヤー。父親は船の船長で、母親は洋服店を3軒経営していた。
ハンネが1歳のとき、父親は妻子を捨てて出ていき、それからハンネは母方の祖父に預けられたり、一時的に里子に出されたりした後、再婚した母親のもとへ引き取られ、
落ち着かない幼年期をすごした。中学を中退したハンネは、エレベーターガール、イラストレーターの助手、映画のエキストラなどを務め、18歳のとき、短編映画「靴を履いた少女」に出演した。主人公の彼女のひとり芝居のようなこの作品はカンヌ国際映画祭に出品された。(四方田犬彦『ゴダールと女たち』講談社現代新書)
この作品を撮り終えると、すぐにハンネは母親と大げんかをして家を飛びだした。ヒッチハイクをして仏国パリへ渡った彼女は、ほとんど一文なしだったが、デンマーク人の牧師と知り合い、彼の世話でなんとか泊まる部屋を確保した。フランス語がまったくできなかった彼女は、映画館に入りびたり、同じ映画をわかるまで何べんも繰り返し観てフランス語を覚えた。
街角のカフェにすわっているところを、スカウトされ、彼女はモデルの仕事を得た。ファッション雑誌の撮影のとき、出会ったデザイナーのココ・シャネルが、彼女にこれからは「アンナ・カリーナ」と名乗るといい、とアドバイスをくれた。
アンナ・カリーナになった彼女は、あるとき石けんのテレビCMに出演した。これが映画監督のジャン・リュック・ゴダールの目にとまった。ゴダールは映画「小さな兵隊」で彼女を女スパイ役に起用し、これが彼女の長編映画デビュー作となった。
カリーナはその後、「女は女である」「女と男のいる舗道」「アルファヴィル」と、立て続けにゴダール作品に出演し、25歳のとき、ゴダール監督のカラー作品「気狂いピエロ」に主演した。ベルモンドとカリーナが恋と犯罪の逃避行を続ける映画「気狂いピエロ」は、ヌーヴェルバーグの最高傑作とも言われ、映画史に残る歴史的名作となった。
21歳の年にカリーナはゴダールと結婚。27歳のときに離婚した。
その後も彼女は、ジャック・リヴェット監督の「修道女」、ルキノ・ヴィスコンティ監督の「異邦人」、トニー・リチャードソン監督の「悪魔のような恋人」など多くの映画に出演し、映画監督として「ともに生きる」「ヴィクトリア」などを撮っている。

自分は、アンナ・カリーナの出演作では「女と男のいる舗道」と「気狂いピエロ」が印象に強く残っている。とくに「気狂いピエロ」は、アンナ・カリーナのために作られたような映画で、自分は20回以上は見ている。

それにしても、中学中退、十代でお金も持たずに家出し、ヒッチハイクして行った異国でモデルになり、世界的な映画女優になったという人生経緯には驚かされる。人生、一寸先は光。彼女が時代をつかみ、時代がまた彼女をつかんだ、そういうことなのかもしれない。その経歴といい、そのパーソナリティーといい、アンナ・カリーナという存在は、ひとつの奇跡だという気がする。
2000年の夏、59歳の彼女は来日して、リサイタルを開いた。ステージの終わりに、「気狂いピエロ」のなかで歌った「私の運命線」を歌ったそうだ。
(2013年9月22日)




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