1日1話・話題の燃料

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著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

9月17日・正岡子規の基準

2013-09-17 | 文学
9月17日は、プロゴルファーの石川遼(1991年)が生まれた日だが、歌人の正岡子規の誕生日でもある。正岡子規というと、有名な俳句、
「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」
が学校の教科書に載っていた。これはK音の多用によって、歯切れのよさとか緊張感が生まれ、そこがいいのだと友人が解説していた。なるほど、と思った。

正岡子規は、慶応3年(1867年)9月17日に、現在の愛媛県松山市で生まれた。名は常規(つねのり)で、幼名は処之助(ところのすけ)といった。父親は松山藩の武士で、母親は藩の儒学者の娘、そのあいだに生まれた長男だった。
小学校に入る前から塾で漢文を素読していた子規は、13歳の年に愛媛中学に入学。ここで同級生になったのが後に海軍中将となる秋山真之で、彼と彼の兄で、後に陸軍大将となる秋山好古、そして正岡子規の三人を軸に展開される司馬遼太郎の歴史小説が『坂の上の雲』である。
子規は16歳のとき中学を中退して上京。現在の東京大学に入った。哲学科で入った後、国文科に移り、このころから「子規」と号するようになった。大学で英文科の夏目漱石と知り合った後、中退した子規は、25歳のころに新聞「日本」の記者となった。
1894年、27歳になる年に日清戦争がはじまると、従軍記者として戦地へ向かった。戦争が終わり、日本へ帰ってくる船の上で喀血。以後、結核に苦しみ、療養のかたわら俳句雑誌「ホトトギス」を創刊し、『歌よみに与ふる書』を書き、俳句と短歌の革新に努めた。1902年9月、東京の根岸で没した。34歳の若さだった。辞世は、
「糸瓜(へちま)咲て痰のつまりし仏かな」

正岡子規が奈良で詠んだ俳句、
「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」
は、子規の友人だった夏目漱石が、鎌倉で詠んだ句、
「鐘つけば銀杏ちるなり建長寺」
を下敷きにしたものらしい。漱石がこの句を子規に送り、子規はこれの推敲ヴァージョン、または本歌取りした返礼として詠んだ。そういうことを、自分は学校を出てだいぶたった後に知った。二人の友情の結晶だとか、美談として語られるようだけれど、いまだったら、盗作だとか、パロディだとか言われるかもしれない。自分は、子規の「柿を食う」という動物的な感じがいいと思うとともに、オリジナルである漱石の句の水彩画的な感じがとても好きで、漱石らしいと思う。

正岡子規が「日本」の新聞社にいたころ、同郷の中学の後輩が上京してきて、就職の相談に子規のところへやってきたことがあった。後輩は、なるたけ給料のいい新聞社に入りたいと考えていたが、彼に向かって子規は故郷の方言でこう言ったという。
「人間は最も少ない報酬で最も多く働くほどエライ人ぞな。一の報酬で十の働きをする人は百の報酬で百の働きをする人よりエライのぞな。入の多寡は人の尊卑でない事くらゐ分つとろがな。人は友を擇ばんといかん。『日本』には正しくて学問の出来た人が多い。」(司馬遼太郎『この国のかたち 四』文春文庫)
この子規のことばは、自分の胸の奥に直接血を吐きかけられたように痛切に響く。
(2013年9月17日)



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