1日1話・話題の燃料

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著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

9月24日・「万能の天才」ジェロラモ・カルダーノ

2013-09-24 | 科学
9月24日は、『グレート・ギャツビー』を書いたフィッツジェラルドが生まれた日(1896年)だが、イタリアの万能の天才、ジェロラモ・カルダーノの誕生日でもある。
自分はべつのことを調べていて、たまたまカルダーノについて知った。万能の天才、レオナルド・ダ・ヴィンチと同時代のイタリアに、こんなすごい男がいたのかと驚いた。

ジェロラモ・カルダーノは、1501年、イタリアのパヴィアで生まれた。彼は私生児で、ミラノの住人だった母親は、ペストの流行を避けてパヴィアへ行き、彼を生んだ。父親は弁護士で、ダ・ヴィンチの友人だったという。
19歳のとき、ジェロラモはパヴィア大学に入学し、医学を学んだ。彼は大学卒業後、けんか腰の変わり者だという評判と、非嫡出の事実がついてまわり、なかなか定職に就けなかった。ミラノの医科大学に勤めたが、正式採用はされなかった。
44歳のとき代数学の論文『偉大なる術(Ars Magna)』を出版。このなかで、彼は3次方程式と、4次方程式の解き方を示した。この解法は、それぞれべつの数学者が発見したのを教わったもので、そのことはまえがきや本文にも記されているそうが、この本が画期的だったのは、当時は数学の解き方というのは、数学の師匠から弟子へ秘伝として伝えられるのが常識であったのを、こうやって学術論文として広く公表してしまった点だった。この旧習打破によって、どれだけ西洋科学の進歩が速まったか計り知れない。もちろんすくならかぬ非難や衝突があった。
また、この本のなかで、カルダーノは人類ではじめて、掛け合わせてマイナスになる数「虚数」の概念を示した。これも数学史の上で革命的なことだった。
52歳のとき、スコットランドのジョン・ハミルトン大司教を治療した。病に臥した大司教が治療不可能と思われていたのを治癒したことから、彼の名声は一気に高まった。
生涯にわたり生活が安定しなかったため、ギャンブルやチェスの試合を収入源にしていたカルダーノは、63歳のとき『チャンスのゲームの本(Liber de ludo aleae)』を執筆した。彼の死後に出版されたこの本は、はじめて書かれた体系的な確率論とされる。
カルダーノの業績は多岐に及び、流体力学の研究で功績があったほか、何桁かの数字を組み合わせで開くカギ「コンビネーション・ロック」の発明、ジャイロスコープのもととなるジンバルの発明、方向を変えて回転動力を伝えられるユニバーサル・ジョイント付きのドライブ・シャフトの発明など、現代でも用いられている発明が数々ある。
占星術家でもあった彼は、53歳のころにイエス・キリストのホロスコープを作図して出版していたが、その過去を69歳のときになってとがめられ、カルダーノは異端審問にかけられ、数カ月間投獄された。これは、3次方程式の解法を彼に教え、それを公表されて恨んでいた数学者タルターリアの陰謀だともいわれているが、カルダーノは教授職から身をひくことを余儀なくされ、釈放された後はローマへ移り、法王から年金をもらって暮らした。しかし、医師としての治療行為は亡くなるまで続け、1576年9月、ローマで没した。74歳だった。ということになっているが、没年については議論があり、彼はもっと後まで生きていたという異説も存在する。

英国の劇作家、バーナード・ショーのことばにこういうものがある。
「訳のわかった人は、自分を世の中に適合させる。分らず屋は自分に世の中を適合させようと頑張る。だからすべての進歩は分らず屋のお蔭である。」
カルダーノの生涯を見ると、まったその通りだなぁ、という気がする。
(2013年9月24日)




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