1日1話・話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

9月20日・アプトン・シンクレアのトライ

2013-09-20 | 歴史と人生
9月20日は、音楽バンド「オフコース」の小田和正が生まれた日(1947年)だが、米国の作家のアプトン・シンクレアの誕生日でもある。
「シャーロック・ホームズ」シリーズを書いたコナン・ドイルは、アプトン・シンクレアを「アメリカのゾラ」と呼んだそうだ。シンクレアは社会の非情な実態を描いてベストセラー作家となった人だが、自分がシンクレアを知ったのは、彼が「ヘリコン・ホーム・コロニー」というコミュニティー(共同生活体)を作ったからだった。

アプトン・ビール・シンクレア・ジュニアは、1878年、米国メリーランド州のボルチモアで生まれた。父親はお酒のセールスマンで、アルコール中毒だった。
父親であるアプトン・シニアは、商売がうまく行かず、家は貧しかったが、母親の一族はみな富裕層の人たちで、ジュニアは母方の祖父の家に滞在したりして、お金持ちの暮らしと貧乏家庭の暮らしの両方を見ながら育った。
ジュニアが10歳のとき、一家はニューヨークへ引っ越した。
14歳になるすこし前に彼はニューヨーク私立大学に入学し、19歳の年に卒業した後、コロンビア大学でも学んだ。彼は大学で法律を専攻したが、作家志望で、学生時代から子ども向けの冒険物語やジョークの小咄を書いて生活費を稼いでいた。
アプトン・シンクレアは、しだいに社会主義思想に目覚めるようになり、26歳のとき、社会主義新聞の「理性の訴え」紙の依頼を受け、シカゴへ取材調査に行った。シンクレアは、食肉加工工場に潜入調査をし、小説『ジャングル』を書き上げ、出版されると、それはたちまち大ベストセラーとなった。小説に描かれた労働者たちの苛酷な境遇もさることながら、返品されてきたカビの生えたソーセージを再加工して国内市場へまた送りだすといった食品工場のずさんな衛生管理を描いた部分が問題となり、連邦調査官がシカゴに派遣され、食肉検査法案が成立した。
28歳のとき、シンクレアは『ジャングル』で得た資金を注ぎ込んで、ニュージャージー州のエングルウッドに土地を購入し、「ヘリコン・ホーム・コロニー」というコミュニティーを創設した。これは、シンクレアなりの理想とする共同生活を実現しようとしたもので、100戸の家を建て、そこで野菜や肉やミルクなどを自給しようという計画だった。ヘリコンは創設して住人と従業員合わせて70人が暮らすようになったが、創立の翌年、火災で焼け落ちてしまった。
シンクレアは、その後、映画化された『石油!』や、『世界の終わり』シリーズなどを書き、1968年11月、ニュージャージー州のバウンドブルックで没した。90歳だった。

自分は『ジャングル』をすこし読んだことがある。大衆小説とされるだけあって、読みやすいけれど、とても真摯な態度で書かれた作品、という印象を受けた。

世界の資本主義の総本山である合衆国では、社会主義は一般的にはとても嫌われる。
そんな社会のなかでも、やはりシンクレアのような人だ出るからこそ、社会は改善されていくので、彼がいなかったら、経済効率を信奉する資本家の思惑通りに事態が進み、食中毒で死ぬ米国人はまだまだ増えつづけていたにちがいない。
コミュニティーは焼け落ち、政治家として成功できなかったけれど、彼の人生は、いいトライ(挑戦)だったと言えると思う。シンクレアのことばにこういうものがある。
「全体主義とは、資本主義に殺人を足したものだ。(Fascism is capitalism plus murder.)」
(2013年9月20日)



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『コミュニティー 世界の共同生活体』(金原義明)
ドキュメント。ツイン・オークス、ガナスなど、世界各国にある共同生活体「コミュニティー」を具体的に説明、紹介。


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9月19日・ツイッギーの不思議さ

2013-09-19 | 歴史と人生
9月19日は、トランペッターのニニ・ロッソが生まれた日(1926年)だが、ファッションモデル、ツイッギー(1949年)の誕生日でもある。
「ミニスカートの女王」ツイッギーはその昔、森永のチョコフレークというお菓子のテレビCMに出ていて、自分はそれで知った。とてもやせっぽちの人たちだった。

ツイッギーは、1949年、英国ロンドン郊外のニースデンで生まれた。本名は、レズリー・ホーンビー。父親は大工で、母親は印刷工場で働いていた。レズリーの上に年の離れた姉が二人いて、上の姉はレズリーと15歳、下の姉は7歳ちがいだった。
小さいころから母親に裁縫を習い、自分で服を作っていたというレズリーは、子どものころ「ツイッグ(小枝)」というあだ名で呼ばれていた。
高校に通っていた1966年、彼女は17歳になるすこし前に、雑誌「ウーマンズ・ミラー」のカバーモデルとなった。きわめて細く芸術的で、子どものように華奢(きゃしゃ)で、無性別的なその容姿は、当時の若者文化が花開いたおしゃれなスウィンギング・ロンドンのムードにぴったりと合い、また当時発表されたミニスカートのブームとも重なり、彼女はたちまち注目され、トップモデルとなり、時代の象徴的存在となった。
美容師をしていた彼女の恋人は、彼女のマネージャーとなり、彼女に「ツイッギー」と名乗るよう説得し、「ツイッギー」の名は、その小枝のような細いスタイル、ボーイッシュに短くカットした髪、そして黒い長いまつげのイメージとともに、たちまち世界へ響き渡った。
1967年には来日し、日本中に「ミニスカートの女王」フィーバーを巻き起こした。日本女性のあこがれの的となった彼女のサイズは、身長165センチメートル、体重は41キログラムで、まだ18歳だった彼女の年収は1000万ドル(当時のレートで36億円)と言われた。
ツイッギー自身は、自分の外見についてこう言っていた。
「わたしは自分の見てくれを嫌っていた。だから、みんな、頭がおかしくなってしまったと思ったわ(I hated what I looked like, so I thought everyone had gone stark raving mad.)」
22歳のとき、映画「ボーイ・フレンド」に出演し、ゴールデングローブ賞主演女優賞を受賞。その後も、ツイッギーは、モデル、映画女優、歌手として活躍を続けて現在にいたっている。

1990年代になると、クラウディア・シファー、シンディ・クロフォード、ケイト・モスなど「スーパーモデル」 がもてはやされる時代になったが、ツイッギーは彼女らの先駆で、「世界最初のスーパーモデル」とも言われる。
でも、ツイッギーの存在感は、スーパーモデルの後輩たちとはだいぶちがうと自分は思う。1990年代のモデルたちは、みんな女性的でセクシーさがウリだけれど、ツイッギーはセクシーかセクシーでないかという次元の問題ではなく、どこか人間離れした感じ、異星人的な印象をもっていて、それが彼女をして、ほかのモデルたちとはちがう、ある一時代の象徴たらしめているのだと思う。
あの異常な感じはすばらしいと思う。まさに「ワンダーキッド(不思議な少年、すばらしい子ども)」だった。
(2013年9月19日)



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『7月生まれについて』ぱぴろう
ジョルジオ・アルマーニ、バーナード・ショー、フリーダ・カーロ、プルースト、ジャクリーン・ケネディ、黒沢清、谷崎潤一郎など7月誕生の31人の人物論。7月生まれの存在意義とは。


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9月18日・グレタ・ガルボの「恋の夢」

2013-09-18 | 映画
9月18日は、振り子の実験で地球の自転を証明した物理学者、レオン・フーコー(1819年)が生まれた日だが、映画女優、グレタ・ガルボの誕生日でもある。
ガルボを、自分は若いころから大好きで、彼女の映画はよく観た。あの大きく見開かれた目。恋をまっすぐみつめる、くっきりとした眼差しがいいのだと思う。

グレタ・ガルボは、1905年、スウェーデンのストックホルムで生まれた。本名はグレタ・ロヴィーサ・グスタフソン。父親は日雇い労働者、母親は裁縫仕事の内職をしていた。グレタが15歳のとき、父親が没し、彼女は理髪店の見習いをへて、デパートの売り子になった。帽子のカタログ用のモデルを務めたところ好評で、デパートの宣伝映画に出るようになり、これが映画関係者の目にとまり、彼女はコメディ映画の端役を演じた。そして、王立演劇学院に通い、演技の勉強をはじめた。
彼女が18歳のとき、スウェーデンの映画監督、マウリッツ・スティルレルが新作に起用する俳優を求めて、彼女の演劇学院にやってきた。スティルレルは、なるたけ素人らしい、もっとも成績の悪い生徒を紹介してくれるよう、学院側に頼んだ。それで紹介されたのがグレタだった。彼女を見たスティルレルは、こう叫んだという。
「もう10キロばかりやせてくれなきゃ!」(山田宏一編『シネアルバム12グレタ・ガルボ マレーネ・ディートリッヒ』芳賀書店)
スティルレルは彼女に「グレタ・ガルボ」という芸名を与え、新作映画「イェスタ・ベルリング伝説」のヒロインに抜擢した。映画は欧州で大ヒットし、これを観た米国のMGM映画社から、スティルレル監督に、ぜひハリウッドへとの誘いの声がかかった。このとき、スティルレルは、MGM側にひとつ条件をつけた。「グレタ・ガルボといっしょなら」と。MGM側は、その条件をのんだ。ガルボは19歳のとき、スティルレル監督といっしょに船で大西洋を渡り、ハリウッド入りした。
ハリウッドでは、スティルレル監督は現場と衝突し、撮影途中で監督を降ろされたりして活躍できず、ひとりスウェーデンに帰っていった。
一方、ガルボのほうは、3年ほどかけて大改造がおこなわれた。もじゃもじゃのちぢれ髪に、まばらな眉、ひどい出っ歯の肥った娘は、髪を伸ばし、ヘアスタイルを決め、眉を細くくっきりと描き、歯を嬌声し、ダイエットし、メイキャップを施し、絶世の美女「神聖ガルボ帝国」へと変身させられた。そして「明眸罪あり」「肉体と悪魔」などに主演し、ハリウッドを代表するスターのひとりとなっていった。
23歳のとき、映画の撮影中にガルボは、恩人スティルレル監督がスウェーデンで没したとの報せを聞き、顔色をなくし、ことばを失ったという。
トーキー時代には「アンナ・クリスティ」「マタ・ハリ」「グランド・ホテル」「クリスチナ女王」「アンナ・カレニナ」「椿姫」「ニノチカ」などに主演。
36歳で引退し、その後は公の場を避け、ニューヨークでひっそりと暮らした。
1990年4月、腎不全と肺炎により没した。84歳だった。

現代の映画では、人生や恋愛の残酷な一面などが生々しく描かれることが多いけれど、グレタ・ガルボの時代は、そうではなく、当時の映画のヒロインの性格は恋愛至上主義と相場が決まっていた。男を愛してしまったら、もう観念して、恋のため、相手のためにすべてを捧げる。だから、恋人のために自分がすすんで犠牲となり命を捨てたり、恋人を救うために悪者の言いなりになったりする、そういう女性だった。
単純といえば単純な人生観だけれど、とても気持ちがいいもので、そういう意味では、昔の映画は、美しい夢を見せてくれていたなあ、と感慨深い。
人が夢をみると書いて「儚い(はかない)」と読む、とは言うけれど。
(2013年9月18日)





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『12月生まれについて』
ディートリッヒ、ゴダール、ディズニー、ハイネなど、12月誕生の31人の人物評論。人気ブログの元となった、より長く深いオリジナル原稿版。12月生まれの取扱説明書。


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9月17日・正岡子規の基準

2013-09-17 | 文学
9月17日は、プロゴルファーの石川遼(1991年)が生まれた日だが、歌人の正岡子規の誕生日でもある。正岡子規というと、有名な俳句、
「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」
が学校の教科書に載っていた。これはK音の多用によって、歯切れのよさとか緊張感が生まれ、そこがいいのだと友人が解説していた。なるほど、と思った。

正岡子規は、慶応3年(1867年)9月17日に、現在の愛媛県松山市で生まれた。名は常規(つねのり)で、幼名は処之助(ところのすけ)といった。父親は松山藩の武士で、母親は藩の儒学者の娘、そのあいだに生まれた長男だった。
小学校に入る前から塾で漢文を素読していた子規は、13歳の年に愛媛中学に入学。ここで同級生になったのが後に海軍中将となる秋山真之で、彼と彼の兄で、後に陸軍大将となる秋山好古、そして正岡子規の三人を軸に展開される司馬遼太郎の歴史小説が『坂の上の雲』である。
子規は16歳のとき中学を中退して上京。現在の東京大学に入った。哲学科で入った後、国文科に移り、このころから「子規」と号するようになった。大学で英文科の夏目漱石と知り合った後、中退した子規は、25歳のころに新聞「日本」の記者となった。
1894年、27歳になる年に日清戦争がはじまると、従軍記者として戦地へ向かった。戦争が終わり、日本へ帰ってくる船の上で喀血。以後、結核に苦しみ、療養のかたわら俳句雑誌「ホトトギス」を創刊し、『歌よみに与ふる書』を書き、俳句と短歌の革新に努めた。1902年9月、東京の根岸で没した。34歳の若さだった。辞世は、
「糸瓜(へちま)咲て痰のつまりし仏かな」

正岡子規が奈良で詠んだ俳句、
「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」
は、子規の友人だった夏目漱石が、鎌倉で詠んだ句、
「鐘つけば銀杏ちるなり建長寺」
を下敷きにしたものらしい。漱石がこの句を子規に送り、子規はこれの推敲ヴァージョン、または本歌取りした返礼として詠んだ。そういうことを、自分は学校を出てだいぶたった後に知った。二人の友情の結晶だとか、美談として語られるようだけれど、いまだったら、盗作だとか、パロディだとか言われるかもしれない。自分は、子規の「柿を食う」という動物的な感じがいいと思うとともに、オリジナルである漱石の句の水彩画的な感じがとても好きで、漱石らしいと思う。

正岡子規が「日本」の新聞社にいたころ、同郷の中学の後輩が上京してきて、就職の相談に子規のところへやってきたことがあった。後輩は、なるたけ給料のいい新聞社に入りたいと考えていたが、彼に向かって子規は故郷の方言でこう言ったという。
「人間は最も少ない報酬で最も多く働くほどエライ人ぞな。一の報酬で十の働きをする人は百の報酬で百の働きをする人よりエライのぞな。入の多寡は人の尊卑でない事くらゐ分つとろがな。人は友を擇ばんといかん。『日本』には正しくて学問の出来た人が多い。」(司馬遼太郎『この国のかたち 四』文春文庫)
この子規のことばは、自分の胸の奥に直接血を吐きかけられたように痛切に響く。
(2013年9月17日)



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『出版の日本語幻想』
編集者が書いた日本語の本。編集現場、日本語の特質を浮き彫りにする出版界遍歴物語。「一級編集者日本語検定」付録。


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9月16日・緒方貞子の名前

2013-09-16 | 歴史と人生
9月16日は、画家の竹久夢二が生れた日(1884年)だが、国連で活躍した国際政治学者、緒方貞子の誕生日でもある。
自分が緒方貞子の名前を知ったのは、1991年、イラクでのクルド人難民救済に国連の難民高等弁務官が行動を起こしたというニュースでだった。自分にとって、そんな国際組織のトップに、日本人の女性がいるということが驚きだった。

緒方貞子は、1927年、東京で生まれた。母方の曾祖父が犬養毅首相で、父親は香港総領事を務めた外交官という名門だった。「貞子」の名前は犬養毅がつけた。
米国へ留学した後、33歳の年に結婚。生まれた子どもを育てながら、大学の非常勤講師をしていた彼女が41歳になる年に、市川房枝が訪ねてきた。市川は戦前から婦人参政権運動の先頭をきってきた女性政治家で、緒方に国連の代表団に加わって米国ニューヨークへ行ってくれないかと頼みにきたのだった。
緒方は承諾し、ニューヨークへ渡り、41歳で国連にデビューした。
49歳のころからは、国連の日本政府代表部に勤務し、1990年、63歳のときに8代目の国連難民高等弁務官(UNHCR)に就任した。
イラクによるクエート侵攻があったころで、緒方が就任すると、すぐにイラク国内のクルド人難民の問題が起きた。これは、当時のイラク・フセイン政権によるクルド人への攻撃から逃れようとしたクルド人難民が、トルコ国境へ押し寄せ、発生した問題だった。国内のクルド人によるテロ問題を抱えていたトルコ政府は、国境を閉じ、クルド人難民を追い返した。クルド人の難民はイラク国内から出られず、国境近くの寒い山岳地帯で、食糧もテントもないまま立ち往生し、赤ん坊や幼児がばたばたと死んでいた。そこに立ち上がり、救いの手を差し伸べた高等弁務官が緒方貞子だった。
当初、UNHCRの事務所内では、UNHCRは手を出すべきではないという意見がすくなくなかったという。UNHCRは、難民を救うのが任務だけれど、難民の定義は「国外にいて、迫害され危険な状態にある人々」なので、イラク国内にとどまっているクルド人は難民にあたらず、これを救うと救済の限度がなくなるから、と。
緒方はみんなの意見をひと通り聞いた上で、クルド人難民の救済を決定した。
「大切なのは、ルールを守ることでなく、命を救うことだ」
テント、食糧、医薬品などが難民たちに供給され、国連軍も平和維持に動いた。
その後も緒方貞子は、1992年のボスニア・ヘルツェゴビナ紛争や、1994年のルワンダの大虐殺に際しても、つねに難民の立場に立って、救済を決定した。
2000年、73歳のときに高等弁務官を退任した後も、緒方はアフガニスタン復興支援国際会議、国際協力機構(JICA)など、国際協力をうながす組織で活躍を続けている。

UNHCR時代の緒方は、どこの国も自国の利益にならないからと手を出したがらないために、放置されたままになった紛争地帯へ進んで乗り込んでいき、危機に瀕している人々の声をその耳で聞き、彼らが必要としている手だてを敢然と実行した。弱者を重視する現場主義者であり、ルールを軽視する目的第一主義者だった。
立派な人が日本にもいたものだと思う。彼女の英断によって多くの命が救われたアフリカには、「サダコオガタ」と名づけられた女の子が、あちこちにいるそうだ。
(2013年9月16日)





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9月15日・アガサ・クリスティの尽きない泉

2013-09-15 | 文学
9月15日は、元「敬老の日」で、いまは「老人の日」。祝日の「敬老の日」は9月の第三月曜日に引っ越した。この日は、『東方見聞録』を書いたマルコ・ポーロが生まれた日(1254年)だが、「ミステリーの女王」アガサ・クリスティの誕生日でもある。
自分は中学生時代から、アガサ・クリスティの名はよく知っていた。「灰色の脳細胞」をもつ名探偵、エルキュール・ポアロや、近所のうわさ話を聞いて推理し事件を解決してしまうミス・マープルの生みの親である。

アガサ・メアリ・クラリッサ・クリスティは、1890年、英国イングランドのトーキーで生まれた。父親は裕福な米国人で、母親は北アイルランド出身。アガサの上には、11歳上の姉と、10歳上の兄がいた。母親の強い信念によって、アガサは小さいとき、学校に行かず、家庭で母親によって読み書きや数学、音楽などを教わった。
彼女が11歳のとき、病弱だった父親が心臓発作で没し、12歳のとき、女学校に入った。
大人になったアガサは、婿さがしのかたわら、戯曲や詩や音楽を書いた。そうして、小説を書くようになった。
アガサは、貴族の屋敷で開かれたダンスパーティーで出会ったアーチボルド・クリスティーと恋に落ち、婚約。やがてはじまった第一次世界大戦のさなか、二人はアガサが24歳クリスマスイヴに結婚した。こうして彼女は「アガサ・クリスティー」となった。
以前からシャーロッ・ホームズものなどを読んでミステリー小説が好きだったアガサは、口ひげをたくわえ、たまご型の頭をしたベルギー人の探偵、エルキュール・ポアロ
が登場する『スタイルズ荘の怪事件』を書き、出版社に持ち込んだ。するとある出版社が、結末を変えることを条件に出版に応じ、アガサは変更を承諾した。そして、彼女が
30歳のときに本が出版された。
36歳のとき、『アクロイド殺し』を発表。奇抜なトリックをめぐってミステリーファンのあいだに論争が巻き起こり、アガサは一躍ベストセラー作家になった。
38歳のとき、アーチボルドと離婚し、40歳のときに14歳年下の考古学者と再婚。彼女はこの再婚についてこういうジョークを飛ばしている。
「考古学者は女性にとって最高の伴侶だわ。だって、女性が年代ものになっていくほど、彼は興味をひかれていくのだから。」
以後、『ABC殺人事件』など、現在でも読み継がれているミステリーの名作を書き、「ミステリーの女王」と呼ばれた。
1976年1月、オックスフォードシャー州で没した。85歳だった。

アガサ・クリスティの作品のうち、自分が読んだのはわずかだが、『オリエント急行殺人事件』『そして誰もいなくなった』の意匠の鮮やかさは、いまでも強く印象に残っている。トリックといい、人物造形といい、目指しているレベルが高い、という感じがした。『オリエント急行殺人事件』は、拙著『名作英語の名文句』でも取り上げた。
長編だけでも六十編以上、短編はそれ以上を書き、80歳をすぎてもまだ書き続けていた彼女の頭にある、くめども尽きぬ創作の泉の豊かさには、ただただ感嘆するほかない。

どこでミステリーのアイディアを考えるかについて、アガサはこう言っている。
「本のプランを考えるもっともいいときは、お皿を洗っているときよ。(The best time to plan a book is while you're doing the dishes.)」
(2013年9月15日)



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9月14日・矢沢永吉の運命

2013-09-14 | 音楽
9月14日は、ギャグマンガ家、赤塚不二夫が生れた日(1935年)だが、歌手「永ちゃん」こと、矢沢永吉の誕生日でもある。
自分が中高校生のころ、矢沢永吉は暴走族やリーゼント好きの不良連中、日本のロックファンなど若い男性層をコアとして、すでに絶大な人気をもっていた。自分は当時、日本のロックを聞かず、デヴィッド・ボウイやセックス・ピストルズを聴いていたので、彼がいた「キャロル」というバンドも、まったく知らなかった。矢沢がソロになってからのCMソング「時間よ止まれ」ではじめて知った。いい曲だなあ、と思った。

矢沢永吉は、1949年、広島市で生れた。母親が家を捨て、自転車屋をやっていた酒飲みの父親が原爆の後遺症で没したため、彼は祖母に育てられた。彼は極貧の子ども時代をすごした。高齢の祖母は、生活保護を受け、草刈りの日当を市役所からもらいながら永吉を育てたという。
中学のときに、ラジオでザ・ビートルズを聴き、ロックに目覚めた矢沢は、高校を卒業すると、アルバイトで貯めた5万円とギターをもって夜汽車に乗った。そうして横浜で降り、そこで働きながら、バンド活動をはじめた。
23歳の年に、ロックバンド「キャロル」を結成。レコードデビューを果たした。
26歳の年、キャロルを解散し、「I LOVE YOU, OK」でソロデビュー。武道館ライブを含むライブ・ツアーを精力的におこない、29歳のとき、CMソングとなった「時間よ止まれ」をリリース。大ヒットし、
「矢沢、ビッグ、よろしく」
の名ゼリフを吐く大スターとなり、以後絶大な人気を保ちつづけている。

49歳のころ、矢沢はオーストラリアの不動産にからんで、被害額約35億円と言われる詐欺にあった。彼は懸命に働き、この借金を56歳のころまでに完済したという。
矢沢だからこそ、これだけ巨額の借り入れられたとも言えるし、矢沢だからこそ返済できたとも言えるけれど、彼はなんにも悪くないのである。だから、とんでもない詐欺にあった被害者として、それを世間に訴えて同情を集める道もあり得たところを、それをせず、寡黙に音楽活動に打ち込んで復活を遂げた。強靱な精神力を感じる。

矢沢永吉は、作曲家、歌手であると同時に、しだいに自分の音楽環境を整えて、自分の楽曲の著作権管理、コンサートの制作、興行をこなし、さらに海外ミュージシャンの招聘までを自分でおこなうようになった。これは、もちろん「永ちゃん」というカリスマ的人気をもったアーティストだから可能だったことだけれど、音楽業界では画期的というか、奇跡的なことだった。
矢沢永吉はいろいろとすごいことをなし遂げてきた男だけれど、自分がいちばんすごいと思うのは、この自分のビジネスを自分で把握している点である。
自分の運命を自分でちゃんと握った男、それが「矢沢」だと思う。
(2013年9月14日)



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9月13日・シェーンベルクのよりどころ

2013-09-13 | 音楽
9月13日は、イタリアの軍人・政治家、チェーザレ・ボルジアが生れた日(1475年)だが、作曲家、アルノルト・シェーンベルクの誕生日でもある。
自分がはじめて聴いたシェーンベルクは、グレン・グールドが弾く「ピアノ組曲」や「ピアノ協奏曲」だった。曲がはじまるとすぐに思った。
「おお、これは前衛だ」
それまで耳にしてきたクラシック音楽と、まったくちがう。

アルノルト・シェーンベルクは、1874年、オーストリアのウィーンで生れた。父親はユダヤ人の靴屋だった。8歳のころからヴァイオリンを弾きはじめたアルノルトは、音楽のかなりを独学で身につけた。
15歳の年に、父親が肺炎で亡くなると、彼は学校をやめ、銀行の徒弟として働きはじめた。17歳でオーケストラに加入し、そこでチェロを弾くようになった。
シェーンベルクはピアノ曲、室内楽曲、管弦楽曲、合唱曲など、さまざまな楽曲を作曲したが、彼はしだいに「無調」の音楽を探求するようになった。それまでクラシック音楽には、中心となる主音や終始音があったが、そうした「調性」がない音楽を彼は創造した。「六つの小さなピアノ曲」はその成果だと言われる。
さらに、シェーンベルクは、十二音技法を確立し、「五つのピアノ曲」を書いた。この技法は、12平均律にあるオクターブ内の12の音を均等に使用することで、そこによりどころを求め、調の束縛から離れようとするものである。
24歳のとき、シェーンベルクはルター派のプロテスタントに改宗した。が、後にナチスが台頭し、反ユダヤ主義が強まってきた35歳のとき、ユダヤ教徒にもどった。
第二次世界大戦がはじまると、シェーンベルクは米国へ避難し、西海岸カリフォルニア州の大学で教えながら、作曲を続けた。
1951年7月、喘息の発作により、ロサンゼルスで没した。77歳だった。
作品に、室内楽曲「浄められた夜」、合唱曲「グレの歌」などがある。

思えばシェーンベルクは、その音楽も、生き方も、反抗的で、解放的だった。
自分はいまだによくわかっていないのだけれど、シェーンベルクの無調、十二音技法のことをすこし知り、なるほどなぁ、と納得する部分もあった。
やはり音楽に自由を求める人は、ハ長調とかイ短調とかいった「調」から、曲を解放しようと考える。しかし、調をなくし、てきとうに音符をおいていけばよいかというと、そうでもなくて、てきとうにおくと、かえって調ができてしまう、といったこともあるらしい。そこで、十二音技法をよりどころとして、曲を作っていくのだろうけれど、この辺の事情は、ジャン・コクトーが詩の韻について言っていたのと通じる気がする。
「韻を抛棄し、また自由詩の愉快な乱雑さも拒否する僕たちには、どうしてもこれらに代わるなにものかが必要だった。それは子供がいつもたいがい冒されている頭脳の奇癖とかなり似ている。それは神秘的な均衡を保つことであり、人に見つからないで、生活を儀式で一ぱいにすることである。その儀式とは、例えば年齢、日付、家屋の番号などで計算すること、瓦斯燈や立木の間隔を歩数で計ること、通行人が右側にすれ違うとき左肩を上げること、その反対ならば右肩を上げること(中略)などをいうのである。」(佐藤朔訳「職業の秘密」『ジャン・コクトー全集第四巻』東京創元社)
きっとわれわれ人間は、なにかよりどころとなる縛り(約束ごと)がないと、ふらついて立っていられないのだ。
(2013年9月13日)





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『1月生まれについて』
村上春樹、三島由紀夫、モーツァルトなど1月誕生の31人の人物評論。人気ブログの元となった、より長く、深いオリジナル原稿版。1月生まれの教科書。


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9月12日・「不撓不屈」長友佑都

2013-09-12 | スポーツ
9月12日は、『ソラリスの陽のもとに』を書いたSF作家、スタニスワフ・レムが生まれた日(1921年)だが、サッカー選手、長友佑都(ながともゆうと)の誕生日でもある。
長友選手は、世界最高のリーグのひとつとされるイタリアで大活躍している。彼は一対一に圧倒的に強く、守備は磐石で、ものすごいスピードでサイドライン際を駆け上がり、ドリブルで切り込んで、鋭いシュートを放つ。シュートを打つ際、足を振り上げてから、ボールを蹴るまでの時間が短い。シュートを打つのかな、と見ていると、もうすでに打っている、といった感じである。自分は彼の技量や、その存在感の大きさにも驚いたが、彼のこれまでのけっして平坦でないキャリアを知り、余計に感心した。

長友佑都は、1986年、四国愛媛の三芳で生まれた。小学校3年生のころ、両親が離婚し、母親に連れられて、母親の実家に近い小さな家に引っ越し、母子家庭となった。ただし、子どもが姓を変えたくないだろうという母親の気遣いから、姓は「長友」のままとなった。母親の仕事は冠婚葬祭の司会業で子どもたちを育てた。
サッカー少年だった長友は、小学校6年生のとき、愛媛FCの下部チームに入るべくテストを受けたが、不合格。失意のまま、進学した中学のサッカー部に入った。
中学のサッカー部は不良のたまり場で、長友も練習そっちのけでゲームセンター通いする不良部員となった。しかし、新たに赴任してきたサッカー部の顧問の教師による熱心な説得、励ましにより、ふたたびサッカーに情熱を傾けるようになった。
高校は、サッカーの強豪校である九州の東福岡高校へ進み、寮生活を送った。
高校のサッカー部ではレギュラーだったが、全国的には無名で、大学へはスポーツ推薦が得られず、長友はやむなく指定校推薦で東京の明治大学へ入学した。明治大学のサッカー部は、スポーツ推薦で入学した者はすんなり入部できたが、それ以外の入部希望者は1カ月の練習参加の後、選考がおこなわれて、入部の可否が判断される狭き門だった。長友はその門をくぐった。
大学時代は、椎間板ヘルニアで苦しみ、練習や試合に出られない時期を長くすごした。スタンドで太鼓をたたいてチームを応援しながら、長友は体幹を鍛えることで、その病気を克服した。
22歳になる年、大学に籍をおいたまま、JリーグのFC東京の特別指定選手となり、プロデビュー。すぐに日本代表、オリンピック代表のメンバーとなった。
24歳の年には、ワールドカップ南アフリカ大会の日本代表の全試合にフル出場。決勝トーナメント進出への大きな力となった。これきっかけに、イタリア、セリエAのACチェゼーナへ移籍し、さらに翌年、インテルナツィオナーレ・ミラノ(インテル)へ移籍し、世界的ビッグクラブの主力メンバーとして、また、日本代表を引っ張るリーダーのひとりとして活躍を続けている。

いまでこそ「サッカーの天才」である長友も、小さいころは、およそ天才ではなかった。しかし、彼は将来はプロのサッカー選手になることを信じて、体力作りや走り込み、練習をずっと続け、プロ選手となり、さらに階段をのぼって、ついに「世界のナガトモ」になった。彼はまた、けがに泣かされ、それを克服してきた。「不撓不屈」とは彼のことである。
「人は生かされているんだと感じ始めたことで、長友佑都という人間が生きる意味を考えるようになった。」(長友佑都『日本男児』(ポプラ社)
どこまで成長するやら、末頼もしい大人物である。わずかなりとも見習いたい。
(2013年9月12日)



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9月11日・O・ヘンリーの奇想天外

2013-09-11 | 文学
9月11日は、『チャタレー夫人の恋人』を書いた作家、D・H・ロレンス(1885年)、独国サッカーの「皇帝」フランツ・ベッケンバウアー(1945年)が生まれた日だが、米国の作家、O・ヘンリーの誕生日でもある。
O・ヘンリーといば有名な短編小説の名手で、自分も中学生くらいのときに『最後の一葉』を読んで感心して、ほかにもいろいろ読んだ。ほんとうにうまい人である。

オー・ヘンリーこと、ウィリアム・シドニー・ポーターは、1862年、米国ノースカロライナ州のグリーンズボロで生れた。父親は医者だった。ウィリアムが3歳のときに、母親が亡くなり、南北戦争が終わった。ウィリアムは高校に行った後、17歳のときから叔父の経営する薬屋で2年ほど働いた。
20歳のとき、テキサス警備隊のレンジャーだった人を追って家を飛びだし、テキサス州オースティンの裕福な雑貨屋の娘と駆け落ち結婚した。ウィリアム・ポーターは、テキサスの地で不動産屋、土地管理局に勤めた後、銀行の出納係になった。
銀行で働きながら、彼は32歳のころ、ユーモア週刊誌「ザ・ローリング・ストーン」を刊行し、みずから文章やスケッチを描いて雑誌に載せた。
雑誌経営は苦しく、追い打ちをかけるように、銀行から公金横領の疑いをかけられた。彼は銀行を辞め、「ヒューストンポスト」紙のライターをはじめた。
いったんは不起訴になった銀行の公金横領容疑が、再燃して、ポーターは34歳のとき、逮捕、拘留された。
知人たちが積み立ててくれた保釈金によって、ポーターは保釈されたが、裁判がはじまる前に須田方をくらました。病気の妻と7歳の娘を残しての謎の逃亡だった。
ポーターは米国南端の街ニューオリンズをへて、ホンジュラスへ逃げていたが、約1年後、妻の危篤を知り、テキサスへ舞いもどった。そうして、妻の最期を看取った後に、あらためて裁判で有罪判決を受け、刑務所に服役した。
刑務所ないでのポーターは囚人仲間からその体験を取材し、それもとに短編小説を書き「O・ヘンリー」というペンネームで刑務所の中から外の雑誌へ投稿をはじめた。
38歳のとき、刑務所から出所したとき、彼は小説家「O・ヘンリー」になっていた。
出所後、彼は娘と、義理の父親がいるピッツバーグへ行き、新聞のフリーランスの記者として働きながら、小説投稿を続けた。そうして、40歳のとき、単身ニューヨークへ出て、連載をもつ小説家となり、再婚し、娘を呼び寄せていっしょに暮らした。
しかし、過労と飲酒がたたり、1910年6月、彼は糖尿病に肝硬変などを併発して没した。47歳だった。

米国には「O・ヘンリー賞」があるくらい、O・ヘンリーは有名である。自分も『名作英語の名文句』のなかで『最後の一葉』を取り上げた。そのほかにも、『二十年後の再会』『賢者の贈り物』など名作は多い。自分としては、読んで笑ってしまう傑作として『赤い酋長の身代金』『シャムロック・ジョーンズの冒険』をぜひおすすめします。
それにしても、事実は小説よりも奇なりというか、O・ヘンリーの人生は、彼が書いた奇想天外な小説以上に奇妙だし、謎に満ちていると思う。
(2013年9月6日)




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