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著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

6月17日・原節子の発熱

2024-06-17 | 映画
6月17日は、「エースをねらえ!」の漫画家、山本鈴美香が生まれた日(1949年)だが、伝説の映画女優、原節子の誕生日でもある。

原節子こと、本名・會田昌江(あいだまさえ)は、1920年、現在の横浜市保土ケ谷区で生まれた。父親は生糸屋で、上に姉が4人、兄が2人いた。
生まれたとき、昌江はひどく色黒の赤ちゃんで、色白の姉たちに同情された。
昌江が9歳になった1929年、ニューヨークの株式市場の株価が暴落し、世界恐慌がはじまると、輸出向けの生糸が売れなくなり、家業は急速に傾いた。
学校の成績がつねにトップクラスだった昌江は、公立の難関高校を目指したが、受験当日に高熱をだし、結果、不合格となり、不本意ながら学費のかかる私立の横浜高等女学校に入学した。当時同校では、中島敦が教鞭をとり、教師稼業のかたわら小説を執筆していた。
14歳年上の次姉の結婚相手である映画監督・熊谷久虎に女優になるよう勧められ、家計を助けるため、昌江は女学校を2年で中退し映画界へ飛びこんだ。このとき女学校の校長は、
「学費は私が面倒を見る。だから、考えなおしてみてはどうか」(石井妙子『原節子の真実』新潮社)と、成績優秀な彼女を引き留めようとしたという。
15歳になる年に日活の撮影所に入社し、映画「ためらふ勿れ若人よ」で映画デビュー。映画中の役「節子」から芸名をとり、ここに女優・原節子が誕生した。
デビューの翌年、原節子は、来日したドイツ人監督アーノルド・ファンクに見いだされ、日独合作映画「新しき土(ドイツ語タイトルは「サムライの娘」)」のヒロインに抜擢された。これは、日本と防共協定を結ぼうとするナチス・ドイツが、日独両国を好印象づけようと制作した国策映画で、日本全国で広くロケがおこなわれた。原は16歳だった。
映画は完成すると、日本や満州、ドイツで公開され、原節子は試写会出席のため洋行した。
一躍国際的女優となった原は帰国後の一時期、演技力のない「大根女優」と叩かれたが、第二次大戦中もスター女優として、戦意高揚を促す国策映画に多数出演した。
戦後は、化粧品のイメージガールを務め、黒澤明監督の「わが青春に悔なし」、今井正監督の「青い山脈」、小津安二郎監督の「晩春」「麦秋」「東京物語」、成瀬巳喜男監督の「めし」「山の音」「驟雨」などに出演し、大女優として君臨した。
43歳のとき、小津安二郎監督が没すると、その通夜に出たのを最後に、映画出演はもちろん、公の場にいっさい姿を見せなくなり、伝説の女優となった。
約50年間にわたる隠遁生活の後、2015年9月、肺炎のため神奈川県内の病院で没した。95歳だった。訃報が知らされたのは、死後3カ月近くたった後だった。

眉と目がはっきりした印象深い顔立ち。際立つ上品さ。登場するとそこが明るくなる、LEDのような女優だった。「新しき土」「決戦の大空へ」「白痴」なども観たが、「晩春」「青い山脈」「東京物語」が印象深かった。

原節子は、日本映画が景気がよかった映画黄金時代のトップスターで、ギャラも高額だった。31歳ごろの彼女の映画1本の出演料は約300万円で、これを年間に3本から5本撮っていた。当時の公務員の初任給が6500円だったというから、その収入額は驚くべきである。

高校受験の当日に高熱を出し試験を失敗した、それがなかったら、彼女は私立校へ通うことも、家計への責任を感じて高校中退、映画界入りを決意することもなかったろと思うと、人間の運命はまったくどこでどう転ぶかわからないものだと痛感させられる。
(2024年6月17日)



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