松村知也、猫が大好きな爺さん

自身の忘備録です、日記風の記述だが政治的な意見や専門領域(電子工学・品質管理)の記述は意図的に避けています。

三浦綾子の泥流地帯

2011年03月05日 | 文学事評
パソコン教室のお弟子さんの中に三浦綾子の小説がお好きな方がいらして、講義の合間に絶対的な愛の形、あるいは神の存在とはという命題をお話しているうちに三浦綾子を読み返してみる気持ちになりました。読み返すなならばまずは泥流地帯・続泥流地帯ではないかと考えて昔の文庫本を取り出して読んでみました、23年前くらい前でしょうか、私が40歳代初めのころ最初に新潮社から文庫本で発行されたときに読んだ本なのですが、当時大きな感銘を受けた事を覚えています。ただ23年前にこの本を読んだ時にはユング著「ヨブへの答え」を知りませんでした。「ヨブへの答え」とは原題を「Antwort Auf Hiob Dritte, revidierte Auflage」と言います。私はドイツ語の勉強のため原語で読みましたが、1995年にみすず書房から邦訳が発刊されています、今はすでに廃版でしょう、突然ユングの話になりましたが、続・泥流地帯の終わり近く主人公の耕作と長兄拓一の母である佐枝が聖書のブックマークを示して「ここを読みなさい」と常々兄弟に言っていたというページが旧約聖書の「ヨブ記」だったのですね、小説では『約百記』と記載してありますが日本聖公會祈祷書 日課諸表 1915版からは漢字表記は『約伯記』となります、余談は置いてそのヨブ記のヨブの問いかけにに対する回答と言う形でユングが自著「ヨブへの答え」で展開した独創的な解釈は「神は人間ヨブが彼を追い越したことをひそかに認め、人間の水準にまで追いつかなければならないことを知った。そこで神は人間に生まれ変わらなければならない」というものなのです。新約聖書におけるイエスの誕生につながる旧約と新約の世界にまたがる神と人間の関係を極めて人間的に考察しているところが面白いのです。ヨブ記を読んだ人は誰もがヨブが罰を受ける理由が解らないから悩むわけです。三浦綾子も正しい人たちが徹底的に痛めつけられる小説の展開に自身の云いわけとしてヨブ記を引用したのではと私は考えるのですが、キリスト教徒でもなければ信仰心もほとんど持ち合わせていない私が敬虔なクリスチャンしかもプロテスタントであられた三浦綾子のこの小説の展開をとやかく解釈する資格はありません。ただ明治から昭和初期にかけて北海道の開拓農民たちの置かれた環境の厳しさには改めて考えさせられました。