
1977年。パンク・ムーヴメント燃えさかるロンドンに舞い降りた日本人少年パディは、伝説のパンクバンド、RAPEDにドラマーとして加入。初期UKパンク・シーンに参加した唯一の日本人プレイヤーとして、多くのパンクロッカーたちと交流。
1978年。RAPEDはシングルを2枚リリースしたのち、Cuddly Toys(カドリー・トイズ)と改名しグラム/ニューウェイヴ色を強めていく。ロンドンのカムデンにあったミュージック・マシーン(キャパ2500人)に月1回ヘッドライナーで出演するなど精力的に活動。ポスト・パンク系バンドの中ではバウハウスと並ぶほどの存在となる。
デビッド・ボウイとマーク・ボランの共作曲『MADMAN』(邦題/狂った抱擁)をボウイより提供され、1979年にデビュー・シングルとして日本先行でテイチクよりリリース。アルバム『GUILLOTINE THEATRE』(邦題/倒錯のギロチン・シアター)もリリースし、「謎の日本人少年が率いるイギリスのバンド」として音楽誌などで大きく取り上げられる。なお『MADMAN』はイギリスでは1980年にリリースされ、UKインディー・チャート3位を記録した。

1980年、パディは滞在ビザの問題からCuddly Toysを辞めて日本へ帰国。その後、改めてロンドンへ戻り、メンバーを集めて新バンド、PANACHE(パナッシュ)を結成。PANACHEは、美少年キーボーディストのポール・ハンプシャーの存在が注目され、日本ではデビュー前から話題となる。1981年に東芝EMIからリリースしたファースト・アルバム『倫敦美学』で一躍人気バンドに。しかし、ヴォーカルのコルムとリーダーであるパディとの間にあつれきが生じ、1982年の来日公演直前、パディは自分が作ったバンドから去る。
以後、バンド仲間やマネジメント関係者とも連絡を断ち、音楽シーンから完全に姿を消す。
2002年、脳硬塞でロンドンの自宅で倒れ、緊急入院。かろうじて一命をとりとめ「生きられるなら、もう一度ドラムをたたきたい」と強く思う。その時、パディの右手右足はマヒしていたが、握力ゼロの状態から懸命なリハビリを開始、奇跡的に回復へ向かう。倒れて約1年後、ドラムの練習をスタート。
2005年8月。日本に一時帰国したパディは、Cuddly Toysをリスペクトするグラムロック・バンド、ヤング・パリジャンのライブを見に行き、若いミュージシャンたちに熱烈に歓迎される。その後、ヤング・パリジャンのツネグラム・サムの協力で、元Cuddly Toysのメンバーや元PANACHEのポール・ハンプシャーと再会。かつての仲間からの励ましと刺激を受けて、本格的に新バンド結成へと動き出す。音楽誌『DOLL』(No.221)に4ページにわたる復帰インタビューが掲載され話題となる。
2006年、初期ロンドン・パンクとして再評価されているRAPEDのコンピレーション・アルバムや、Cuddly Toysのファースト・アルバム『倒錯のギロチン・シアター』がCD化され、日本ではVIVID SOUNDよりリリースされる。
以後、数年は日本とイギリスを行き来しながら音楽活動を続け、現在は日本を拠点にノイズ系バンドのNEWTOYZと、英Cuddly ToysのDNAを日本で継承するCuddly ToyZ、2つのバンドで活動中。
