ここ数日は曇天が続いている。今日も朝から空を雲が覆っていた。今日は室内にいるよりも外の方が風が吹いて涼しいくらいだった。職場の裏山の葛の葉がかなり広がって来た。来月には赤紫の花が見られるだろう。相変わらず今日もシジュウカラが群れでやって来た。外が涼しいせいか、今日は蝉の声も聴こえなかった。休日は久しぶりに、沿岸沿いに釜石の北になる山田町方面へ出かけた。東日本大震災で被災した地域を走ることになるが、釜石の両石地区も鵜住居地区も前回訪れた時よりもさらに復興工事が進んでいた。とは言え、まだまだ時間がかかりそうだ。震災前には沿岸部には海水浴の出来る綺麗な砂浜がたくさんあった。しかし、震災でその多くが消えてしまった。特に鵜住居川が流れ込む根浜海岸は2Kmに近い長い砂浜があった。今ではその片鱗が見られるだけになった。山田町には震災前から船越半島の荒神社のそばに砂浜のある海水浴場があった。今はやはり半島の付け根部の低地の復興工事で、砂浜への道も仮のものになっている。船越の名は全国に見られるが、その昔、半島を回る代わりに、半島の付け根で、船を陸揚げして、陸を横切って、反対の海からまた船を出していたために、船越の名が付いたものだ。帆船ではなく、手漕ぎの時代であろう。荒神社の砂浜は震災前とほとんど変わらず残されている。夏休みに入った子供達を連れた家族が幾組か来ていた。北海道ほどではないにしろ、海水温はあまり高くはないのだろう。泳ぐ人は少ない。外気温も高くはない。水は綺麗で、海底の岩も見える。少し離れたところに以前は海水で遊べる海浜公園のようなものがあったが、津波で壊されたようだ。荒神社はさほど被害を受けていないので、以前とあまり変わらない。この神社には以前からとても惹かれるものがあった。「荒神社」の名そのものもそうだが、奉納されている彩色された鉄剣に刻まれた「御祖大神 理久古円段」「正一位 荒神大明神」の文字だ。先日書いた紫波町の日本最北の式内社である志賀理和氣神社ですら852年に正五位下に叙されている。また、陸前高田の氷川神社には西宮に理訓許段神社、中宮に登奈孝志神社、東宮に衣太手神社の3社が祀られ、やはり852年に理訓許段神社・衣太手神社が従五位下に叙されている。荒神大明神の正一位の伝承は謎である。大船渡の尾崎神社も理訓許段神社とされ、式内社となっている。山田町の荒神社の理久古円段も大船渡、陸前高田の理訓許段もいずれも「りくこた」の神とされる。大船渡の尾崎神社には1200年前から伝わるイナウがあり、津波の中で被害を免れた。震災の翌年、北海道のアイヌの人たちがこの神社を訪れ、アイヌの祭祀で使われるイナウと同じものであるところから、被災を免れたイナウを前にアイヌの人たちが祭祀を執り行っている。「りくこた」の神、アイヌは何らかの関係があるのだろう。縄文時代の最後に列島にいた津保化族(つぼけぞく)の言葉が北海道のアイヌの人たちや東北の方言に残されているのではないかと考えている。
荒神社の前の砂浜
荒神社に奉納された鉄剣
荒神社境内に咲いていた藪萱草