人形と動物の文学論

人形表象による内面表現を切り口に、新しい文学論の構築を目指す。研究と日常、わんことの生活、そしてブックレビュー。

「文学と翻訳をめぐって」感想

2013-03-10 11:31:35 | 学会レポ
 昨日はたまたまお休みがとれたので、岡山大学であった公開シンポジウム「文学と翻訳をめぐって」に行って来ました。
 沼野充義さんの講演題目が「村上春樹VSカラマーゾフ」となっていたのですが、私はどうも春樹は苦手だし、カラマーゾフも旧訳(たぶん米川正夫)でしか読んでないので不安だったのですが、これは一種の客寄せパンダだったみたいで一安心。カラマーゾフ、旧訳そんなに古めかしいかな、十分普通に読めるけど、と思っていたけれど、考えてみれば私の専門は『源氏』だから…。

 
 柏木隆雄(以下、敬称略)「翻訳文学の力―翻訳は何を創ってきたか―」は、明治初期までの漢文学の影響を概観した上で、近代文学におけるフランス文学の影響を丁寧に考察したもの。特にゾラと花袋『蒲団』、藤村とルソー『懺悔録』(今の訳だと『告白』)を中心に考察されていました。太宰文学におけるフランス文学についても準備されていたようですが、時間の関係で省略。正確で丁寧な翻訳が出てくる時代になり、太宰はそれを自由に改変して利用している、という内容のようでした。

 柏木センセって、かなり饒舌な方なんですね。むかしながらの文学者、という感じ。面白いけど、でも、時間は把握しようよ…。
 疑問に思ったのが、大きくは2つ、細かいところで1つ。
 大きなところでは、近代においてフランス文学が流入してきたことで、オリジナリティの概念がどう変わった(発生した)のかということ。これについては会場で質問したので詳しく述べません。
 もう1つは、翻訳される文学間のメインストリームの変化とか、かけひきのようなもの。近代以降翻訳される文学の主流は欧米に移りましたが、だからと言って漢文の役割が減退したわけでもない。特に戦前は欧文を翻訳するときは漢文調で翻訳していましたし、抽象的な概念に訳語を当てる場合たいてい漢語で造語されました。近代ナショナリズムを形成する上で漢文が利用されてきた歴史も指摘されています。それから、政治や経済において影響を受けている国(戦前はドイツ、戦後はアメリカ)と、文学において影響を受けている国(フランスやロシア)が違うような気もしているので、そのへんの兼ね合いってどうなのかな…と。
 細かいところでは、ゾラと花袋『蒲団』について。花袋の場合は「それを引き出して」とあるので、蒲団を引き出している。確かここ、記憶が定かではないのですが、押入れのなかにしまわれていた蒲団を出していたような気がします。で、それに鼻をつけて嗅いでいる。一方でゾラの場合は、蒲団は部屋の中にあって、それをしまおうとして(原文ではベッドメイキングのようですが、あげられていた、花袋が読んだ可能性のあるテクストだと「蒲団を上げる」)いる。で、画室全体に匂いが満ちている。たぶんここには、かなり大きなイメージの差があって、それが花袋が選びとったものなんじゃないかと思います。つまり、隠されたものを引き出して語る。


 沼野充義「村上春樹vs.カラマーゾフ 現代日本の翻訳文化と世界文学」は、翻訳論について丁寧に説明されたものでした。まず最初に翻訳の不可能性(翻訳によって失われるもの)について触れ、直訳か意訳か、さらに馴化・国内化・同化(分かりやすい、文化的に受け入れやすいものにする)か、異国化・異化(原文に忠実に訳す)かという2つの立場を紹介します。沼野はこの2つの間の「媒介的」な立場を重視しますが、それを説明する前に、翻訳不可能なものに出会った場合の対処法の数々をナボコフの理論から紹介し、さらに、同化的な訳になるか、異化的な訳になるか、ということには、原語の文化と翻訳先の文化に高低があるとみなされるか否かが影響していると言います(垂直的翻訳と水平的翻訳)。最後にベンヤミンの翻訳論に触れながら、「翻訳」とは、「ある言語の文化的土壌のうえで一度限り起こった言語的事件」を、「別の土壌のうえで」「もう一度」「起こそうとする」「試み」であり、「もとの事件とは別の意味を持って別の生命を生きはじめることがしばしばある」と結論づけます。

 ベンヤミンを引用しながらも、ベンヤミンの翻訳論はよくわからない、正直言ってそんなに良いのか、と言う沼野センセイ。会場の質問でも、ベンヤミン分からん、というものがありました。そんなによく分からないかな? 私わりと納得したんだけど。純粋言語なんて、純粋に抽象的な概念なんだから、具体的にイメージする必要はないと思うんだけど。
 私が納得したのは、ベンヤミンの翻訳論の、翻訳とはひとつの言語体系のなかにおける言葉と言葉の関係を、別の言語体系に移すことだ、という部分。随分昔に読んだので記憶の彼方にあって、正確な引用じゃないと思いますが。私は語学ができないので翻訳についてはわからない部分も多いのですが、研究するときに、表現の連鎖によって生まれる運動をどうにかして捕まえたいといつも思うので、納得出来ました。ただ、だから逐語訳じゃないといけない、とまでは言いません。日本語に翻訳されたんだったら、日本語文学として言葉と言葉の関係性が成立してればそれでいい、と思います。


 シンポジウムでは、『罪と罰』がほんとうは『犯罪と刑罰』だとか、『パルムの僧院』じゃなくて『パルマの僧院』だと言っていたらより正確に言えば『パルマの……修道院』だとか、誤訳、あるいは不正確な訳が定着した例をあげて…みたいな話に流れてしまったのが残念でした。翻訳に関してはわりとそういう話になりやすいんですけども。
 わたしは、『罪と罰』でも、『犯罪と刑罰』でもどっちでもいいと思うんですよね。でも、『罪と罰』でいくんだったら、本文中も「罪」と「罰」で訳す。ニュアンスを正確に訳すとか、日本語としてどうかとかはそこまで気にならないんですが、同じ単語には一貫した訳語をあててほしいですよね。言葉と言葉の連環が崩れるから。


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