時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

イタリアの光・オランダの光(2)

2008年05月11日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

マルタ騎士団の紋章

  
  最近日本でも、レンブラント、フェルメール、カラヴァジォ、ラ・トゥールなどのファンがかなり増えてきたようだ。イタリア・ルネッサンスやフランス印象派の愛好者は非常に多いのに、17世紀の画家や作品はあまり知られていないので、大変喜ばしい。2001年にカラヴァジォの展覧会が東京都庭園美術館で開催された時、どうしてもっと大きな会場を選ばないのかと思った。しかし、当時の状況ではあの程度の規模が適当だったのかとも思う。

    画家と作品も、時代の流行や嗜好から無縁ではいられない。今は巨匠といわれる画家でも、活動していた時代には評価が低かったことも珍しくない。もちろん、その逆もしかりだ。

17世紀美術への関心 
  フェルメールやカラヴァジォは、いまでこそ企画展の目玉商品になるほどの人気だが、かつては「忘れられ」、「関心を惹かなかった」画家でもあった。それでも欧米ではかなり早くから再評価もされ、巨匠の中に入れられ関係出版物も多数存在していたが、日本で人気が生まれたのは比較的近年のことだ。しかし、このところ、小林頼子、若桑みどり、石鍋真澄、岡田温司、宮下規久朗氏など美術史専門家の力作が次々生まれて、一般の美術愛好者の間でも理解は格段に進んだようだ。美術に限ったことではないが、言語の関係でどうしても避けがたい翻訳文化のバイアスが、少しでも正されることは望ましい。

  ラ・トゥールについても、2005年国立西洋美術館での特別展もあって、かなり知られるようにはなった。しかし、知名度調査によるわけではないので、まったくの憶測にすぎないが、その名を聞いて作品が思い浮かぶ人の比率は依然としてかなり少ないのではないか。
日本ではかなり美術に関心のある人でも、すぐに作品が思い浮かぶのは10人のうちで一人か二人ではないかと思うほどだ。田中英道氏の先駆的労作は燦然と輝いているが、今では図書館か古書でしか利用できない。それでも、ローザンベール=ブルーノフェルトの画集(邦訳)、2005年東京展カタログが出版されたのは大きな救いだ。 

  昨年パリのオランジェリー美術館で、ラ・トゥール、ル・ナン兄弟などに関する歴史的な展覧会が、同じ館内で開催されているのに、この画家の名を知らず、常時展示のモネが目当てで、それしか見なかったという日本人に会った。もう2度と見られない企画であっただけに、大変残念なことだ。  

  美術史家でもないのに、いつの間にか17世紀画家の世界にかなりのめりこんでいた。理由がないわけでもない。ラ・トゥールは作品、画家に関わる記録がきわめて少ない。それでも、これまでの人生の間に、偶然や幸運にも恵まれて、日本人がほとんど見ていなかった頃の特別展に接したり、ラ・トゥールが生涯の大部分を過ごしたロレーヌの地を再三追体験する機会があったりして、脳細胞に深く刻まれた断片がいつの間にかかなり蓄積された。これまでの自分の仕事とはまったく関係がない分野なのだが、不思議と思うくらいの縁が、この画家や時代を結んでいるような気がしている。思い出すままに断片を記しているが、まだかなり残っているようだ。ということで、この変なブログが続いている。

カラヴァッジョとラ・トゥール 
  ラ・トゥールに惹かれるようになった頃から、疑問に思ったことのひとつは、この画家とイタリア美術、とりわけカラヴァジォとの関係だ。美術史家の間で、テネブリズム的な特徴を持つカラヴァジストとしてさしたる説明もなく直結してしまう見方が目立つが、すぐには飲み込めないものを感じてきた。カラヴァジォの影響をどこかで受けていることは、否定しがたいのだが、いかなる脈絡で、その関係を推理するのかが気になっていた。たまたま、マルタ島ヴァレッタ(マルタ騎士団、カラヴァジォ「洗礼者ヨハネの斬首」を描いたサン・ジョヴァンニ大聖堂で著名)への旅から戻ったばかりの人が近くにいることもあって、少し考えてみた。  

  ラ・トゥールが、その生涯の間にカラヴァジォの名前や作品を知らなかったとは思えない。ヴィックもリュネヴィルも、そしてロレーヌ公国の首府ナンシーも、当時のヨーロッパのさまざまな地域を結ぶ文化の十字路であった。主導的な画家たちは、時代の風向きに敏感だったはずだ。カラヴァジォは38歳という短い人生を波瀾万丈、疾風のように駆け抜けた画家だが、作品数は多く、幸いにもかなりの作品が現存している。

  しかし、17世紀当時は、現実に評判となっている作家の作品を目にする機会は、今と違って大きな制約があった。たとえば、ラ・トゥールはどこでカラヴァジォの作品を見ることができたのだろうか。ひとつの可能性は、今日ナンシー美術館が所蔵する「受胎告知」だ。もしかすると、ラ・トゥールが最初に見たカラヴァジォかもしれない。カラヴァジォ晩年の作品であり、ロレーヌ公妃の父親マントヴァ公がカラヴァジォの庇護者であった縁で仲介し、ロレーヌ公が1909年、ナンシー首座司教座聖堂の完成を祝って主祭壇画として贈ったと推定されている。この時期はラ・トゥールが徒弟などの画業修業中あるいは遍歴の時に相当し、地理的関係からも、この作品に対面した可能性はきわめて高い。


Michelangelo Merisi da Caravaggio (September,1571-July 1610)
1608-09
Oil on canvas, 285 x 205 cm
Musée des Beaux-Arts, Nancy

  この「受胎告知」については、色々と思い浮かぶことが多い。ともすると、リアルすぎて辟易する作品も多いカラヴァジォだが、この作品は落ち着いた色調で美しい。構図もかなり凝っている。ここでは、とても書き尽くせないので別の機会にしよう。

  来歴についてだけ一言。この作品、一時はミケランジェロの作とされたり、興味深い点がある。現在のところ、カラヴァジォの最晩年に近い作品で、画家の2回目のナポリ滞在の時に制作されたらしい(1959年、ロベルト・ロンギの推定)。ナポリからナンシーへ輸送されたようだ。この点も興味を惹く。

  作品の構成にも、ラ・トゥールとのつながりを感じさせるものがあるが、これも別の機会としよう。真作、模作を含めて、今日残るラ・トゥールの作品には、「受胎告知」の主題は残念ながら存在しない。生涯にはおそらく描いたに違いないのだが、作品の残存点数は40点余で、きわめて少ない。

 カラヴァジォのヴァレッタ滞在との関連では、「書き物をする聖ヒエロニムス」がある(下掲)。暗い室内でなにごとかを書きつけている聖ヒエロニムスの背後は、ほとんど闇のように見えるが、よく見ると左側の壁に掛けられている枢機卿帽など、アトリビュートが確認できる。



Michelangelo Merisi da Caravaggio
St. Jerome Writing, 1607 Oil on canvas, 117 x 157 cm St John Museum, La Valletta

この作品をラ・トゥールが見た可能性はきわめて少ないが、コピーなどが流布されていた可能性はある。ラ・トゥールの「枢機卿帽のある聖ヒエロニムス」(下掲)を想起させる作品だ。

 Georges de La Tour, Saint Jerome, c.1630-1632, Nationalmuseum, Stockholm


 北方を目指すはずの旅がどうやら南へ来てしまったようだ。やはりイタリアの引力は大きいのか。


 

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