充実する画家としての生活
いまやロレーヌを代表する有名画家となったラ・トゥールは、努力が実り、収入や資産も大きく増えた。しかし、戦乱が続き、時代環境が大変厳しかったために、その維持・保全のためには多くの努力が必要だったようだ。前回のブログにも一端を記したように、徴税吏との衝突を初め、訴訟などにかかわる記録もこの時期に多い。
画家としての職業生活を円滑に維持するためには、画業を支える工房の充実も必要だった。すでに記したように1636年には悪疫が流行し、その年5月26日には、受け入れたばかりの幼い徒弟ナルドワイヤンの命が奪われてしまった。その後、ラ・トゥールはおそらく息子のエティエンヌに頼って仕事を続けてきたものと思われる。しかし、画家としての名声が高まるとともに、エティエンヌだけでは工房での仕事も大変になってきたのだろう。1643年に入って、新しい徒弟を受け入れた記録が残っている。
新しい徒弟の受け入れ
1643年11月10日*リュネヴィルでラ・トゥールは、新しい徒弟クレティア・クレティアン・ジョルジュChretien Georgesと契約を交わしている。クレティアンはヴィックの出身で、ラ・トゥールは結婚によってその家族とつながりが生まれたらしい。徒弟契約には次のような内容が含まれている:
「当事者たるラ・トゥール殿は、当事者のクレティアンを3年の期間、その家に受け入れて住まわせ、養育するものとする・・・・・・今後、条件や状況・変化に応じて、この期間彼に対して隠匿することなしに率直かつ熱心に絵画の技や知識を教え、また学ばせるものとする・・・・・クレティアンに対し、その師匠に仕えるのにふさわしい品位ある、しかるべき衣服を遅れずにまた欠かさずに支給し、また彼が必要とする肌着類や身の回りの品々についても同様にするものとする。クレティアンは、市内および市外において、要求されるかれの仕事に従事し、またその仕事が必要な場合は畑に行き、食事の給付をし、また朝夕熱心によくその乗用馬の世話をするものとする。これらすべてのことを、善き献身的な召使として忠実かつ熱心に勤めること」。
この内容から推測されるとおり、この時代には徒弟は親方である画家の家に住み込み、食事の準備や乗馬の世話まで、親方の身の回りの世話をする召使としての役割が求められており、その反面で親方は技能を秘匿することなく、伝達することが条件とされていた。親方は徒弟がそれにふさわしい衣服などを着用できるよう心がけることが求められていた。ラ・トゥールは馬を乗用に使っていたことが分かる。リュネヴィルの近郊やパリなどへの旅行は馬に頼っていたとみられる。当時の貴族がそうであったように、 ラ・トゥールはかなりの乗り手であったと見られる。
徒弟制度の役割
徒弟制度は画家にかぎらず、社会的に必要とされる職種を独立して営業するために、必要な技術を習得するための制度であった。それに加えて、ある職種を営む上での絶対条件ともいえる同業者組合加入のための通過儀礼的な制度でもあった。そして、徒弟は親方の家に住み込み、仕事を手伝い、同時にさまざまな家の用事をこなす使用人でもあった。 徒弟期間は徒弟契約時に徒弟が親方に払う金額により増減した。
息子などを徒弟に出す家庭としても、厳しい政治・経済環境の下では、時に思わぬ変動に見舞われたりで、費用の支払いも大変だったようだ。現に、1643年にラ・トゥールは新たに採用した徒弟クレティアンの保護者が支払いを滞らせていた費用200フランについての請求訴訟を起こしている(Thuillier 182)。
親方には技術だけでなく同業者組合に加入が許される新たな親方、同僚を育てるための教育を徒弟に施す必要性がある。徒弟制度はその意味で単なる技術取得の教育ではなく、同業者組合という精神のゲマインシャフト加入のための教育も含まれている。こうした要件を備えていない職人を送り出すことは、その親方の資質を疑われることになる。そのため、工房での徒弟の教育は全人的なものとなる。徒弟制度においては徒弟の質の維持・向上を理由に一人の親方が受け入れる徒弟数が制限されていた。たいていは1人で、多くても3人程度であった。
18世紀には徒弟制度に代わり技能伝達の場となったアカデミーや学校と異なり、徒弟制度の下では徒弟は親方の工房で仕事も行う。仕事を行うことがそのまま教育になり、教育と仕事の境界線は明確ではない。そして、学校教育では作業効率の面が無視されてもさしつかえないが、徒弟制度では教育とはそのまま仕事でもあるので作業効率に無駄が出ることはそう許されることではない。
最後の徒弟
1648年このクレティアン・ジョルジュの徒弟年期が終了した後、ラ・トゥールは1648年には、その生涯で最後となった5番目の徒弟ジャン・ニコラ・ディドロを受け入れている。ラ・トゥールによって教育されたことが判明している弟子のうち、エティエンヌを別とすれば、1620年のクロード・バカラ、その6年後のシャルル・ロワネ、1636年のフランソワ・ナルドワイヤン、1643年のクレティアン・ジョルジュに続き、ジャン・ニコラ・ディドロがという順番となった。
9月10日の徒弟契約書では期間は4年間とされ、師匠の馬の世話を引き受けたほか、手紙を届けること、食事の給仕をすることなどが定められており、ディドロは「顔料を砕くこと、画布の地塗りをすること、絵画にかかわるすべてのことを行い、配慮すること、必要が生じた場合、人物を描き、またデッサンする際のモデルを務めることが求められる」とされている。もしかすると、ディドロはラ・トゥールの作品に描かれているのかもしれない。
その上、契約書の次のくだりは、エティエンヌが父とともに描いていただけでなく、父が死去した場合はその工房を引き継ぐ可能性をも示唆している:
「この職務の性質上、同じ原則やおきてに従って続けられることが求められるので、当該のジョルジュ・ド・ラ・トゥール殿の息子で同じく臨席のエティエンヌ・ド・ラ・トゥール殿が、その父君が死去した場合、当該のニコラ・ディドロを引き取り、残りの年月、前述の条件で徒弟修業を継続することを承認し、約束するものとする。」
生まれなかった後継者
ラ・トゥールも晩年に近づき、これまでは徒弟契約書に記載されなかったような条項が登場したとも考えられる。 ラ・トゥールの工房で徒弟修業を終えた職人が画家として独立し、作品を残したという記録はない。わずかに息子のエティエンヌが父親の後を継いだが、彼自身も画家としての才能がないと認識したのか、貴族の称号を得た後、画業に精を出した形跡はない。親方画家ラ・トゥールと自らの才能の大きな格差に気づき、画家として身を立てることをあきらめたのだろうか。あるいは、わずかな記録からの推察に過ぎないが、ラ・トゥールの厳しい指導に耐えられなかったのだろうか。父親と比較すれば、画家として身を立てるにはきわめて恵まれた条件が準備されていたはずなのだが。一人の天才的画家の誕生には、実に複雑な要素がかかわっていることを改めて認識する。
*Thuillier p.108 では16 September 1643と記載されているが、ここではより新しい文献であるサルモンによっている。
Reference
Jacques Thuillier. Georges de La Tour, Flammarion, 1992, 1997(revised)
ディミトリ・サルモン「ジョルジュ・ド・ラ・トゥール:その生涯の略伝」『ジョルジュ・ド・ラ・トゥール』国立西洋美術館、2005年
Personal Note: 国立博物館へ「北斎展」を見に行く。質量ともに圧倒的な作品に改めて驚かされた。こうした驚異的な画業活動が、徒弟もつかわずに社会的にいかなる仕組みで支えられていたかについては知りたいことも多い。