フィリピンに関するある文献を探索する過程で出会った一冊である。春江一也氏の作品は、「プラハの春」、「ウイーンの冬」そして最近の「ベルリンの秋」まですべて読んでいるつもりだったから、一瞬とまどった。これまでの作品の印象から、次の舞台も東欧か中欧という思いこみがあった。そのためもあって、今回手にした文庫版*に先だって、この作品が2002年に刊行されていたことをうかつにも知らなかった。
しかし、本書を取り寄せてみて、直ちに納得した。春江氏はフィリピン、ダバオの総領事館に勤務した経験もあったのだ。同氏の作品は、いずれも外交官時代の経験に基づいて、事実面での考証がしっかりしており、その上に組み立てられるストーリー展開は大変巧妙であり、いつも一気に読んでしまった。最近の妙な日本語では、「読まされてしまった」といえようか。読み出すと、他の仕事を放り出してしまうので、「プラハの春」に出会った時から、春江氏は私にとって「危ない」作家だった。エンターテイニングな作品でありながら、しっかりと調べられた時代的背景などにも惹かれてのめり込んでしまう。
いまやほとんど知る人がいなくなった、20世紀初めフィリピンへの日本人出稼ぎ労働者のその後が本書で展開する。フィリピンへ出稼ぎに行くが、志を果たせず、マニラなどで貧困にあえぐ生活をしていた日本人出稼ぎ労働者が、ある実業家に連れられて、ダバオに移住した。
彼らは文字通り艱難辛苦の時を経て、1930年代にマニラ麻の原料アバカの栽培に成功した。ダバオは日本人が発展の素地を築いた地であった。カリナンはダバオの郊外に現存する小さな町Calinanのことである。しかし、第二次大戦によって状況は一転、荒涼たる光景へと変わる。
そして、戦後を舞台とした同じ場面において、この小説の主人公柏木雪雄が登場する。柏木は日本の一流銀行の経営幹部の一人であった。しかし、バブル期の放漫経営の結果、破綻する。特別背任の罪を背負った主人公は責任感も強く、服役する。そして、刑期満了後、自らが背負った個人としての遠くなった記憶の糸をたどり、ダバオを訪ねる旅に出る。
彼の背景には読者があっと思うような過去が存在し、そのための自らの再生の旅もまた思いもかけない展開となる。フィリピンと日本の関係は、単に複雑だという表現はそぐわないほどである。大変長く深く屈折した過去につながっている。日本人で、その全体像が見通せる世代の人々はきわめて少なくなった。一時、大きな話題となった「山下財宝」が重要な道具立てとして登場してくる。といっても、ご存じない世代の方が圧倒的に多い時代になりました。
フィリピンと日本の関係は、戦前、戦後を含めて、容易に説明しえないほど入り組んだ経緯をたどってきた。サスペンス・ドラマの形をとりながらも、巧みに歴史的事実をふまえた着実なストーリー展開に思わず引き込まれて読みふけってしまう。 あとがきでは、重要な登場人物のひとりである女性医師も、アメリカに行っている。フィリピンの医師、看護婦が海外へ多数働きにいっている問題は、このブログでもとりあげたことがある。半ば楽しみながらも、フィリピンという国と日本との関わり合いを改めて考えさせられてしまう。
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春江一也『カリナン』集英社文庫、2005年(2002年に同社から刊行された作品の文庫化)。
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