時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

大英帝国の盛衰を感じる一枚:ターナーの傑作(2)

2020年09月11日 | 絵のある部屋

最後の帆船軍艦として保存されている「戦艦ヴィクトリー」(ポーツマス港)


戦艦テメレールの終幕の光景(前回)を描いたターナーは、船体がスクラップとして解体される場所にまで足を運んだようだ。この画家は最終的な作品がいかなる形で制作されるかに関わらず、描かれる対象についてスケッチを初めとしてできる限りの準備をして制作に当たった。

《戦艦テメレール》の場合も、周到な準備に基づいて描かれた作品だが、現代人にとっては当時の戦艦あるいは海戦のイメージを思い浮かべることは容易ではない。そこでこの作品が生まれた背景について前回に追加して記しておこう。
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N.B. 

ネルソン提督のイギリス地中海艦隊の実態
ターナーは三本のマストと三層のデッキのある船を描いているが、いかなる構造なのか細部は分からない。そこで、現在最古の軍艦としてポーツマスに保存されているかつての英国海軍の旗艦Victoryの写真を掲げておこう。ネルソン提督が乗船した旗艦であり、テメレール(戦列艦)はその第2列に配置された。ヴィクトリーを見ると歴然とするが帆船としての3本のマストが目立つ。船体は硬いオーク(ブナ科)材で作られ3層から成っていた。
戦時の乗組員は合計でおよそ750人で、同規模の商船よりはるかに多い。船内の生活条件は厳しく、寝床はベッドではなくハンモックだった。支給された食物も新鮮ではなかった。監獄にいるような状況だった。報酬は契約期間が終了する時に賃金が支払われた。そのため、不満が鬱積し反乱がしばしば発生したが、決まって残酷な対応を受けた。


テメレールの場合、反乱は1801年12月アイルランド沖で起きた。この船はイングランドを離れ、すでに9年近くが経過していた。船員たちは故郷へ帰りたがったが、海軍本部は無情にも西インド諸島への航海を命じた。耐えきれなくなった船員の間で反乱が起きた。14人のリーダーが捕らえられ絞首刑に処せられた。反乱参加者は国王陛下の艦船で騒乱を起こしたとのかどで船員から永久追放となった。
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その後苦難な時を過ごした戦艦テメレールにとって、反乱の恥辱をぬぐい、栄光の日とする出来事が起きた。トラファルガーの海戦の勃発である。
 
栄光の日
「英国は各員がその義務を尽くすことを期待する」

海戦に際して、ネルソン提督が戦艦ヴィクトリー艦上に掲げた信号旗

トラファルガーの海戦は、1805年英国艦隊がスペイン・フランスの連合艦隊を破り、ナポレオンのイギリス侵攻の意図をくじいたことで知られている。1805年10月26日はイギリス艦隊にとって海戦史上に残る栄光の日となった。ネルソン提督 (Horatio Nelson, 1958-1805)は、旗艦Victoryに乗船、26隻の船舶でスペイン南西海岸、大西洋に面するジブラルタル岬の沖合でスペイン・フランス艦隊に大勝した。当時の海戦は遠く離れて砲火を浴びせる形ばかりではなく、しばしば相手に接近し、銃砲火を相手に浴びせたり、相手艦船に乗り移り戦うという形も多かった。戦いは「ネルソン・タッチ」として知られる接近戦で、スペイン・フランス連合艦隊の半分以上を撃沈・拿捕、イギリス艦隊は喪失艦なしという見事な勝利だった。ネルソン提督は過去の海戦で右目、右足を失っていたが、この戦いで被弾し、イギリスの勝利を見届けて息を引き取った。最後に残した言葉は「神に感謝する。わたしは義務を果たした」だったと伝えられている。戦艦ヴィクトリーはその後保存の道が開かれたが、海戦に参加した他の艦船はテレメールを含めて相次いで後方での再活用、解体、廃船への道をたどった。悲しいことに、解体して価値のあったのはオーク材と銅の継ぎ手くらいだったと伝えられている。

戦艦テメレールは自力での航行能力を失い、戦争終了後タグボートで近くの港へ曳行され、必要な補修を受けて戦線後方で補給船、監獄船、新兵収容艦として使用された後、1816年軍艦としての役割を終えた。その後解体のため1838年に売却された。この間に同艦のたどった勇敢な歴史は詩、本、絵画、歌などで讃えられた。

蒸気が櫂(かい)に取って代わる:エネルギー革命
この戦いのひとつの特徴はそれまでの帆船・櫂主体の艦船から蒸気船へと移行する転機であった。テメレールが解体されスクラップになった年は、ブリストルからニューヨークへの汽船が初めて就航した年であった。

このことはエネルギーの主力が風や人力から次の主力の石炭へと移行したことを意味している。ターナーの作品で真っ黒な煙突から煙を上げて、帆船の戦艦を牽引するタグボートは、産業革命のシンボルといえる。タグボートの黒い煙突は、このブログで取り上げてきた
L.S.ラウリーの作品に描かれた大煙突とも重なる。タグボートの煙突から立ち上る黒煙は、プロレタリアートの台頭を暗示するかにみえる。背後に見える美しい船体と重なり、進歩がもたらす悲劇を象徴するかのようだ。新しいものが容赦なく古さに取って代わった時代である。


大きく変わったターナーの画風
ターナーの画風も大きく変わった。《戦艦テメレール》の作品を受け取って版画として出版しようとした出版業者は線と色の区分が明瞭であったそれまでの画風が一変し、何を描いたのか、どこが対象を区分する線なのか、色の境界も判然としなくなった作品に、呆然としたようだ。それまでの風景画のように銅版画などの作成がまったくできなくなってしまった。


《戦艦テメレール》の一部(背景)

《戦艦テメレール》を曳航するタグボートも実際には2隻だったが、ターナーは自らの目的に沿って1隻しか描いていない。タグボートの後方に漠然と描かれたテメレールに、批評家や版画家たちがこの絵は現実に合わない、誤りだと評しても意に介さなかった。タグボートにもマストがあり、煙突はその後方にあったことも知りながら、あえてこのような構図を追求した。従来の画風に固執していた画商や顧客はさまざまに不満や批評を展開したが、ターナーは撤回しなかった。ターナーは最前列に醜悪なタグボートを描き、それに粗暴で非人間的なイメージを持たせたのだ。資本主義が蹂躙する時代の到来を感じていたようだ。煙突の煙で存在が薄れるテレメールは、彼女の時代が終わりつつあることを暗示していた。

さらにターナーは、沈みゆく夕日の中に薄れゆく船体を描き、美しく、高貴に、そして崇高なイメージを作り上げた。そしてタグボートを除くあらゆる俗物、テーマに関係ないものは総て捨象した。

この作品が1839年、ロイヤル・アカデミーに初めて出展された時、人々は感嘆、絶賛した。
小説『虚栄の市』Vanity Fair で著名な作家ウイリアム・M・サッカレー (William M.)は、1839 年のロイヤル・アカデミーの展覧会に出展されたターナーの作品を見て、「これほど荘厳な作品は世界のどのアカデミーでも見られなかった。どの画家のイーゼル上に描かれたことはなかった」と絶賛した。「勇敢な年老いたテメレール」という歌唱曲は、1世紀以上の年月にわたり歌い継がれたほどの人気であった。

ターナーのこの新しい画風は、さらに後年大きな絶賛を得た《雨、蒸気そしてスピード》などの作品にも受け継がれていった。



William Turner, Rain, Steam and Speed--The Great Western Railway, 1844, London: The National Gallery
W.ターナー《雨、蒸気そしてスピードーグレート・ウエスタン鉄道》1844年


コメント
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