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時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

バタヴィアへ行った画家の娘

2007年10月14日 | レンブラントの部屋




Lynn Cullen. I am Rembrand's Daughter. Bloomsbury USA 2007, 307pp.
Cover



旅の道連れとして、
何冊かの本を鞄に放り込んで行く。ほとんどは肩のこらないエッセイや小説のたぐいである。今回はしばらく積読のままで気になっていた『私はレンブラントの娘』という小説を入れておいた。表題から明らかなように、レンブラントが出てくる小説である。というより、レンブラントの娘の目から見た17世紀アムステルダムに生きる画家の晩年の日々といったほうがより正確かもしれない。

レンブラントを主題とした小説はいくつかあるが、このブログでも、画家の最晩年に近い1667年末、トスカーナ大公コジモ3世が、ローゼンフラフトのレンブラント宅を訪問したところから始まるサラ・エミリー・ミアーノの小説『ファン・リャン(レイン)』(2006)を紹介したことがあった。あのシント・アントニディクの豪邸を競売処分し、労働者街の小さな家へ移った後のことであった。このリン・カレンの小説も、この時期を描いたものである。 

レンブラントの生涯は文字通り波乱万丈であった。その生き様は下手な小説?より格段に興味深い。ラ・トゥールやレンブラントなどの17世紀の画家に強く惹かれるのはいくつか理由があるが、そのひとつは、作品の素晴らしさは別にして、それぞれの画家の生き方にある。レンブラントは人生後半になって舞台が大きく暗転し、多額な借財を抱えて厳しい零落の道を歩んだが、それがある感動を呼ぶのは、いかなる境遇にあっても最後まで画家としての自分の信念をしっかりと貫いたことだ。

もうひとつ挙げておくべきは、彼らが過ごした人生のかなりの部分が、今日では謎に包まれていることにあり、それ自体が後世の人々にとってさまざまな推測をさせてくれる楽しみがある。レンブラントの場合、1669年の死後、作品の多くは人手に渡り、世界各地に散逸しながらも継承されて今日にいたった。しかし、この天才画家が、いかなる生涯を過ごしたかについては十分知られることなく、350年近い時が流れた。

レンブラントについては、同時代の他の画家と比較すると今日では格段に解明が進でいるといってよい。しかし、それでも多くのことが謎に包まれており、小説家が興味を惹かれるのも理解できる。「事実は小説よりも奇なり」なのだ。レンブラントの作品を見るようになってからいつしか、この天才画家が過ごした人生についても、次第に関心を抱くようになった。

レンブラントの晩年は強い哀感が漂うものがある。子どもたちのほとんどは生後間もなく亡くなってしまい、レンブラントの最晩年近くまで生きていたのは息子のティトゥスと(画家とヘンドリッキエ・ストフッエルスとの間に生まれたと思われる)娘のコーネリアであった。最初の妻サスキアとの間にはティトゥスの他にも3人の子が生まれたが、いずれも乳児の間に死んでしまった。画家はとりわけティトゥスを可愛がり、たびたびモデルとして描いている。文字通り溺愛であったのかもしれない。幼少のころの肖像などは本当に可愛く描かれている。ティトゥスはサスキアの忘れ形見であり、激動した画家の人生を支える柱のような存在だった。

しかし、不思議なことに娘であるコーネリア(1654ー?)についてはまったくとりあげていない。少なくも彼女がモデルと思われる作品は確認されていない。この点は、以前からどうしてだろうと思っていた。一時、トロントの美術館が所蔵する『犬を膝に置いた若い女性』Portrait of Young Woman with a Lapdog, ca.1662 ではないかと勝手に想像したこともあったが、年格好などからもどうもそうでもないらしい。

レンブラントはティトゥス(1641-1668)を可愛がり、晩年は財産名義を息子に変え、債権者の追求を逃れるとともに、生活も支えてもらってもいた。ティトゥスの存在はレンブラントにとって想像以上に大きなものであったようだ。しかし、この息子も1668年2月にマグダレーナ・ファン・ローと結婚して、画家と住居を別とした。そればかりか、そのわずか数ヶ月後の同年9月に急な病で亡くなってしまった。これらの出来事は画家にとっては決定的な打撃となったようだ。翌年ティトゥスと若い妻マグダレーナの間にできた娘ティティアが生まれたが、レンブラントはどんな思いで見ていたのだろうか。人生は苛酷な試練を画家に与えた。レンブラントは生きる目標を失ったかのように、翌年1669年に世を去った。マグダレーナも若い人生をこの年に終えた。

小説ではまもなく14歳になるコーネリアCornelia van Rijn が過ごす多難な日々を描く。愛する母親を数年前に失い、ただ一人わずかに明るさをもたらしてくれていた異母兄弟の兄ティトウスも結婚してしまう。家に残るのは、気むずかしい、自分本位の父親レンブラントだけ。ティトウスと自分へのレンブラントの対応はどういうわけか明らかに違っている。そして、レンブラントはティトウスが結婚して家を出て行ってから、すっかり気落ちしてしまったようだ。

このリン・カレンの手になる小説は、微妙な心理描写が大変優れている。小説家としての推理の過程が大変興味深い。普通は小説家は作品を生み出すについての発想の源や、推理の過程などは職業機密?でもあり、あまり記さないものだが、本書では「あとがき」でわざわざ短いノートとして記している(フェルメールをとりあげたトレーシー・シュヴァリエなども、同様なノートをつけている)。それによると、発想の源となったのは、レンブラントの2枚の作品『ダビデ王の手紙を読むパテシバ』)(1654年)と『ニコラエス・ブライニンフの肖像』(1652年)であるという。『バテシバ』はよく知られており、ルーブルで何度も見たのですぐにイメージが浮かんだが、後者については、ちょっと思い出すのに時間がかかった。

画集を見て、なるほどこれだったかと確認した。今日残るレンブラントの肖像画の中では珍しいほどくったくのない笑顔の美青年として描かれている。レンブラント、娘コーネリア、母親、青年などこれらの人物がいかなる関係にあったか、巧みなプロットの展開だ。



 






Rembrandt. Portrait of Nicolas Bruyningh(1620/30-1680). 1652. 
Oil on canvas. 107.5x91.5
Staatliche Kunstsammlungen
カレンが記しているように小説ではあるが、レンブラントの晩年を史料研究が明らかにしたかぎりで、忠実にフォローしている。この小説のために8年をかけたとのこと。美術史家は通常作品、資料が明らかにした範囲を出ようとしない。それでもしばしば諸説が生まれるのだが。ラ・トゥールがイタリアに行ったとの記録が残っていないかぎり、行かなかったことになっている。しかし、実際には行っているのに記録がないだけなのかもしれない。ここに想像の持つ面白さがある。


レンブラントやラ・トゥールあるいはフェルメールを主題とした小説はそれぞれ数冊づつあるのだが、いずれもこうしたいわば「虚実皮膜の間」を描いたものといってもよい。

小説の展開は読者のために触れないでおくとして、主人公でもあるコーネリアは、画家レンブラントが世を去った翌年1670年、16歳に満たない若年で結婚し、画家である夫コーネリス・スイゾフとともに、世界史に著名な東インド会社の東洋の拠点、オランダ領時代のバタヴィア(現在のインドネシアの首都、ジャカルタ)へ赴く。夫はそこで監獄の看守をしながら画業についていたと思われる。しかし、1678年二人目の息子の出産後、彼女と家族の記録は消えてしまっている。コーネリアの願いは、レンブラントのように自分も絵を描くことにあったようだ。その思いは果たされたのだろうか。

 
Rembrandt. Bathsheba, 1654, oil on canvas, 142x142, Musee du Louvre, Paris.



 

コメント (2)
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