Georges de La Tour, Saint Pierre Repentant, 1645, The Cleveland Museum of Art, Gift of Hanna Fund
純朴そうなひとりの男が涙で顔を濡らし、両手を組み合わせ、身をよじるようにして、椅子に座っている。ホームスパンの濃紺の外衣を身にまとい、サンダルを履いている。足下にはランプが置かれ、目の前の小さなテーブルには若い雄鶏がじっと坐っている。
ランプの光が、この男の足下や外衣の一部を照らし出している。しかし、顔や組まれた手、そして雄鶏を照らしているのは、ランプの光ではない。よく見ると、画面左上の方からも淡い光がさしている。ラ・トゥールの作品で二つの光源が想定されることは、ほとんどない。暁を知らせる光なのか、「超自然的な光」(キュザン)なのか。
朝を告げる鶏
作品の主題が、福音書の「ペテロの否認」のひとつのエピソードであることは明らかである(「聖ペテロの悔悟」「聖ペテロの涙」などの画題がつけられている)。キリストが捕らえられる前、最後の晩餐で、弟子のペテロは、イエスから「あなたは今夜、鶏が朝を告げる前に、三度私を知らないと言うだろう」と予言された。ペテロは、これを否定するが、いざイエスが捕らえられると、その通りの行動をとってしまう(マタイ 26:31, 33~35)。イエスの予言通りになったことに気づいたペテロは、外に出て号泣した。ペテロは大きな後悔と悲嘆にくれることになる。そして深く悔悛し、その後の人生をキリストへの絶大な献身のために過ごし、最も重要な使徒として、初代教皇に選ばれるまでの尊敬を集めることになった。
よほど注意してみないと分からないが、テーブルに坐った雄鶏の上の方に、葡萄のつた(蔦)がはい上がっている。「私は幹、あなたは枝」(I am the vine, you are the branches. ヨハネ15:5-6)という有名な言葉が思い出される。幹があってのつたである。つたは「不滅の愛」のシンボルとされていることから、キリストが悔い悲しむペテロを赦し、愛をもって包もうとしている思いが感じられる。ペテロは、キリストに最も近く、多くの出来事をともにしてきた。
分かりやすい画題
当時、カトリック教会は「悔悛」をテーマとした作品を称揚していたから、ラ・トゥールもマグダラのマリアの悔悛とともに、この聖ペテロをテーマとして礼拝用にいくつも描いている。しかし、この構図に近いものは、残念なことに本作品以外には残っていない。聖ペテロは、人間の強さと弱さを最も体現している使徒と考えられてきた。明らかな宗教画ではあるが、描かれたペテロはラ・トゥールの他の作品によく見られるように、どこにでもいそうな普通の人として描かれている。むしろいかにも気の弱そうな善人らしい容貌である。やや剽軽な感じさえ与える。使徒たりとも出自は、普通の人であるとのラ・トゥールの考えが現れている。現実にキリストの使徒たちの生い立ちをたどれば、皆そうであった。聖ペテロも猟師であった。当時の人々にとっては、他の作品以上に画題が理解しやすかったのかもしれない。(世俗の世界では、人が羨む地位を得た画家の精神構造は、推し量ると大変興味深いが、別の時にしたい。)
新たな段階への転換点か
この作品には、署名と年記1645があり、分からない部分が多いラ・トゥールの研究にとっては貴重な情報である。これまではあまり注目されてこなかった作品である(1972年のオランジュリー展には、アメリカ・クリーブランド美術館から海を渡り、出展されていた)。改めて見ると、さまざまなことを考えさせる。雄鶏、足下の縄、蔦など、聖ペテロのアトリビュートも多数描き込まれている。平凡なように見えて、全体的に情感豊かに描かれており、構図にも細かい部分に工夫の跡がみられる。画家は、この作品を制作しつつ、次の転換への発想をさまざまにめぐらしていたものと思われる(2005年5月22日記)。