時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

ラ・トゥールを追いかけて(22)

2005年05月19日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

聖アレクシスの遺骸の発見

Georges de La Tour, The discovery of the corps of the St. Alexis, Dublin National Gallery of Ireland   
ラ・トゥールの原作に基づく模作と考えられる

  たいまつを掲げ、真剣な顔をした少年が、椅子に座った聖人とおぼしき人の様子を見つめている。髭をたくわえ美しい髪の老人は、すでに息が絶えているのか、もはや目を瞑り、地味だが整った服装で横たわっている。手には手紙のようなものを持っている。

  少年は美しいサテンの服に、縁取りのある薄紫の胴着を身につけている。金色の刺繍のある白い襟、金細工の鎖飾りのある黒い縁なしの帽子、そして羽根飾りが、少年のかかげるたいまつの焔が生む風で舞い上がる様子が美しく描かれている。ラ・トゥールの独断場ともいえる描写である。

  光に映し出され、神妙な面持ちの少年と長い人生を終えた老人の無言の対話は、感動的な空間を創り出している。

パスカル・キニャールの試論に  
  ラ・トゥールの他の画題と同様に、この作品でも16-17世紀の人々には、よく知られた伝承(アレクシス伝説)が画題となっているが、現代のわれわれにとっては、説明が必要となる。私自身、テュイリエ(Thuillier 1992)の解説を手にするまでは、詳しい背景を知らなかった。   

  たまたま、キュザン=サルモン(2005)(*1)に、フランスの作家パスカル・キニャールPascal Quignardの作品の一部が掲載されていた。これは、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールに関する試論で、「夜と沈黙」La Nuit et le Silenceという題名である。1991年に出版され、1995年に再版された。

  この著作は、後述するように、ラ・トゥールの『聖アレクシスの遺骸の発見』をテーマに書かれたものである。すなわち、「主題があいまいな「絵」の奇妙な連続」のなかで「意味がはっきりしている唯一の絵画であるラ・フェルテ氏のために(pour M. de La Ferté)、1648年に描かれた『聖アレクシスの絵』」をテーマとしている。   

  やや長い引用だが、聖アレクシス伝説の内容を知るには、このキニャールの作品の方がテュイリエの解説よりも分かりやすいので、ここに紹介しておこう(キュザン=サルモン邦訳、169-171)。 [(  )内および名称は、Thuillier, 1992, p.218―221およびCuzin et Salmon 2004に基づき、私がメモ代わりによけいな加筆をした部分。] パスカル・キニャールから(引用)  

「エウフェミアヌスEuphémienはローマ一裕福な市民で、知事であった。彼はアグライアAglaéと結婚して、ひとりの息子がいた。彼らはその子をアレクシスAlexiとなづけた。(アレクシスは彼を愛する美女と結婚する。)結婚式の晩、若妻は服のホックをはずしていたが、アレクシスは妻の胸をおおい、恥じらいを保ち続けるようにいった。そして、自分が身につけていた金の指輪と帯を妻に渡し、それらをしまっておくように頼んだ(そして、行く先を知らせずに旅に出た。) 彼は船に乗ってラオディケアLaodicée(トルコ)へ向かった。そこから、シリアの町エデッサEdesseへ行った。その町では、住民たちが、布に刻まれた主イエス・キリストの肖像を大切に保管していた。アレクシスは服や下着をすべて人々にあたえ、裸で、エデッサの聖マリア教会のポーチで物乞いを始めた。   

  17年後、彼はエデッサを離れ、オスティアOstie(イタリア)に到着し、ローマにある父の宮殿にたどりついた。(そして、最下層の召使いとして仕えていた。)誰も、彼のことがわからなかった。彼の父は、彼に施し物をあたえた。17年間、彼は誰にも正体を知られないまま、父母の家にとどまった。   

  彼は、パンくずを食事として食べていた。彼は階段の下に住んでいた。死が近いのを感じた彼は、文字を刻むための錐を手に入れ、自分の人生の物語を書きとめた。 皇帝アルカディウスArcadeusとホノリウスHonorius、ローマ教皇インノケンティウスInnocentは、神の人がエウフェミアヌスの家にいると夢で知らされた。彼らは使いを送り、宮殿の召使いたちを調べた。対象外の人物を除外して行くことで、調査はすぐに終わった。階段の下に横たわり、物乞いをしている男以外ではありえなかった。たいまつを持ったひとりの小姓が、ローマ教皇インノケンティウス(宛)の手紙を手にしたまま、すでに死んで硬直した聖人のほうへ身を乗り出した。」(パスカル・キニャール『夜と沈黙』フロイックFlohic、1995年)

作品の背景  
  ロレーヌのヴィック地方では、このアレクシス伝説にきわめて似た別の伝承(バーデのベルナール信仰)があったようだ(Thuiller 92, 218)。いずれも宗教的禁欲主義asceticismを説くに格好な伝承であった。   

  さて、このダブリンのアイルランド国立美術館が所蔵する作品(ナンシーの修道院が所蔵するもうひとつの作品に由来するとも推定されている)は、1958年の購入時にはパリゼ Parisetによって真作とみなされた。しかし、今日では優れた模作とする意見で一致しており、息子エティエンヌの手によると考える研究者もいる(Wright、1969)。   

  1649年1月、リュネヴィル市は新年の贈り物として、ロレーヌ総督ラ・フェルテに、ラ・トゥールが1648年末に描いた「聖アレクシスの画像」を贈った(キニャールの主題)。今日では、これが失われた原作であり、現存する二点の作品、つまりダブリンのアイルランド国立美術館所蔵の作品とナンシーのロレーヌ博物館の所蔵作品は、この原作に基づく古い時代の優れた模作であると推定されている(*2)。

ラ・トゥールの非凡さ  
  この伝承を画題とした作品は、現存するものが比較的少ないと云われている。パリにいた画家クロード・メランClaude Mellan の銅版画が、テュイリエの研究書(218)に掲載されている。それを見ると、朝日が丸窓から差し込む宮殿のホールの場が設定されている。そして、石造りの階段の下に十字架を下げて横たわるアレクシスと、発見した3人の人々、遠くで見守る人々が描かれている。アレクシスは、ラ・トゥールの作品のような美しい巡礼服ではなく、粗衣を身につけているだけである。   

  ラ・トゥールは例のごとく、伝承を作品にするについて、多大な工夫をこらしている。まず、作品の効果を考え、聖アレクシスの遺骸発見の舞台を朝ではなく、夜に変えた。たいまつの光の下に、若い従者によって発見されるという話に変えたのである。そして、彼が身近かにいたことを知らなかった両親や妻の悲しみやインノケンティウス皇帝の夢見の話はとりあげていない。発見者を輝くような若い従者にすることによって、世の中の誘惑を退け、禁欲主義を貫いた聖アレクシス自らが、人生の過ごし方を次の世代へ伝えるという、当時の時代にアッピールする「革新」を行っている。ラ・トゥールの非凡さは、同じ主題を扱いながら、きわめて多くの思索を作品創作に費やしていることである。かくして、この絵は大変美しく、静かな感銘を見る人に与えるものとなった(2005年5月18日記)。

*1)Jean-Pierre Cuzin et Dimitri Salmon, Georges de La Tour,:Histoire d’une redécouverte, Paris: Gallimard, 2004 (邦訳『ジョルジュ・ド・ラ・トゥール』高橋明也監修、遠藤ゆかり訳、 創元社、2005年)

*2)ナンシーの作品も、これを真作とする見解もあるが、画面の下部が切断され上部が大きく継ぎ足されている。一方、ダブリンの作品はラ・トゥールが意図したままの構図を伝えていると思われる。 

コメント
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