時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

絵の裏が面白いラ・トゥール(5):なぜ肖像画を描かなかったのか

2019年01月24日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

   

Norbert SchThet,  Art of Portrait:Masterpieces of European Portraot Painting、1420ー1670,  TASVHEN, 2002, cover.(Georges de la Tour,  (details), after 1620, The New York Metropolitan Museum of Art.

 

肖像(画・彫刻) portrait とはひとつの定義によると:
ある個人の特徴を表現した美術作品。胸像、半身像、全身像、正面、側面、4分の3正面観など、角度もさまざまだが、顔・容貌をある程度以上写実的に描くことが条件である。ルネサンス以前は基本的に王侯貴族、高位聖職者の肖像しか作品化されなかったが、ルネサンス以降は富裕な商人なども肖像を注文するようになる。17世紀オランダでは、集団肖像画を発生させた(岩波西洋美術用語辞典)。

これは肖像画か
肖像画については、興味深いことが多数ある。今回はその一つを紹介してみたい。上掲の肖像画に関する専門書 Portrait の表紙カヴァーに描かれているのは、なんとあのラ・トゥールの名作《女占い師》の中心人物とみられる卵形の顔をしたとびきり美形の女性である。17世紀絵画に関心がある人で、この顔を知る人はかなり多い。それほど、様々な場面で目にしてきた。ブログ筆者の手元にもこの女性が表紙に使われた書籍は数冊はある。

しかし、不思議なことにこの女性の素性はほとんど何も分かっていない。ラ・トゥールの作品には宗教画が多いが、聖人の肖像についても、画家の周囲で日常みかけるような普通の市井の人をモデルに描いたといわれる。

モデルは実在したのか
しかし、ラ・トゥールのジャンルでは世俗画の部類に入る《女占い師》に描かれた占い師と詐欺師の一団に描かれている人物は、モデルが存在したのか否か、なかなか見極めがたい。しかし、占い師と詐欺師(スリ)は現実には同じジプシー(ロマ)の一団なのだろう。共謀して貴族の若者から金品を盗み取ろうとしている。画面右手の老婆の占い師は、容貌がひどく醜く描かれている。現代と異なり、占いという巫女のような仕事には年老いた老婆が従事していたのだろう。他方、左側の二人の若い女は対照的に美形に描かれているが、手がけていることは恐ろしい。おそらく貴族の若者の遊び相手の仲間なのだろう。17世紀ロレーヌの宮殿にはイタリア帰りを自称するなど、怪しげな男女が出入していたようだ。カモとなる若者は、「いかさま師」の場合と同様、世事に疎い貴族の坊ちゃんと分かる。しかし、「いかさま師」の場合よりしっかりしている容貌で描かれている。

卵形の顔をした美女の正体は
最も興味深いのは中央に描かれた卵形の顔をした異様な美形の女性である。彼女のしていることからすれば、この窃盗団の首領格なのだろう。今日に残るラ・トゥールの作品から推定する限り、この画家は自分の近くにいる人物をモデルとすることが多かった。実在しない全く仮想の人物を描くことはきわめて稀であった。当時の絵画環境から見てきわめて異様な容姿である。そこでこの背景を調べたが、確たる根拠は見出せなかった。そこで感じたひとつの仮説は、幼児の頃、ジプシーにさらわれ、成人するまで彼らの集団で育て上げられた女性がいたという言い伝えがロレーヌにあったという話があった。最近でも、ジプシーによって育てられ成人した子供の実話が公表されていた。

しかし、ラ・トゥールがこうした女性に出会っていたという証拠もない。しかし、この美術史に残る一枚を描いた画家の機智と才能にはひたすら感嘆する。不思議なことに、このPortrait なる表題の研究書では、ラ・トゥールのこの作品について一言も記していない。しかし、肖像画の専門書の表紙に取り上げたい強い魅力を感じたのだろう。

ラ・トゥールは「肖像画」を描かなかったのか
16世紀末から17世紀にかけて、肖像画は歴史画に次ぐ高い地位を享受していた。不思議なことに、今日に残るラ・トゥールの作品で、「肖像画」の範疇に入るものはJきわめて少ない。全回例に挙げた不思議な面立ちの美女も、肖像画の範疇に入れられるか、微妙なところだろう。しかし、バロックの世界に生きながら、自分はゴシックの流れに立つ孤高のリアリストであった。この不思議な美形の女性の背後には、このブログでも紹介しているジャック・ベランジェジャック・カロなどが描いた奇怪で、不思議な人物のイメージも浮かんでくる。リアリストのラ・トゥールが全くの空想でこの《女占い師》の人物像を創り出したとは考え難い。恐らく、街中でこうした光景、そして類似した人物を見ていたのだろう。

ラ・トゥールはその類稀なる天才を評価され、ロレーヌで活動していた当時は多数の愛好者、コレクターが存在した。しかし、乱世、苦難な時代に生きたこの画家は、おそらく高額な謝礼が期待できたと思われる顧客の肖像画の類をほとんど残していない。後年のラ・トゥールには、作品を欲しがる多くの顧客がいたのである。この画家の腕を持ってすれば、肖像画のジャンルでも抜群の力量を発揮したであろう。この画家をめぐる謎はまだ解けきれていない。

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絵の裏が面白いラ・トゥール(4):秘めたる才能を見出した人

2018年11月14日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

ラ・トゥールが洗礼を受けたサン・マリアン教会内陣
ヴィック=シュル=セイユ 

16世紀末、ロレーヌの小さな町ヴィック=シュル=セイユのパン屋の次男として生まれた息子ジョルジュは図抜けた画才を秘めていた。とはいっても、父親として10歳くらいの子供の才能を見きわめ、家業のパン屋を継がずに画家の道を選ぶことに同意することは、並大抵のことではない。パン屋の父親にその眼力があったとは到底考えがたい。当時の時代環境からすれば、父親の跡を継いでパン屋の修業をする方がはるかに確実だった。顧客がつくか全く不明な画家を志すことは大変リスクがあった。加えて、3〜4年の徒弟修業をするには、多額の投資も必要だった。

それでは、誰が幼い子供の画業の才を見出したのだろうか。ジョルジュ・ド・ラ・トゥールが生まれた町ヴィックには、当時ドゴス親方とブラウン親方の二つの工房があった。2人はそれぞれローカルな次元で、教会の祭壇画などの需要に対応して、活動していた。しかし、特に著名な画家というわけではなかったようだ。彼らの作品は今日まで1点も発見されていない。

そこで、浮上するのは、町の代官アルフォンス・ド・ランヴェルヴィエールという人物である。代官は17世紀の教養人のいわば象徴的存在であった。自らは神学の研究に努めるとともに細密画の才に長け、自著の挿絵なども描いていた。リュートの演奏も行い、時々は若い世代を集め、詩の朗読会なども開いていた。有望な若者の才能発掘に大きな関心を抱いていたようだ。

ランヴェルヴィリエール肖像

代官の息子はジョルジュと小学校が同級であり、ジョルジュの絵の才能は息子を通して知ったらしい。ジョルジュのデッサンも見たのではないかと思われる。そして、父親を説得し、画業の指導をドゴス親方に頼んだのだろう。代官は後にラ・トゥールの結婚に際して、リュネヴィルの貴族の娘ネールとの仲介も図ったと考えられる。社会的身分の違う2人を引き合わせたのもこの人あってのことだった。その後もジョルジュの才能に高い評価を与えていた。この人あって、ラ・トゥールの画才は花開き、その後多くの人々の心を動かす作品を生み出させた。

こうした若い人たちの隠れた才能を見出し、陰に陽に励まし、力づける人の存在は、今日の世界においても極めて重要である。今の世の中でいえば、就活における良きアドヴァイザーといえるかもしれない。新しい時代における教養人とはいかなるものだろうか。あまり注目されないテーマだが、先の見えない時代、一考してみたい。

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絵の裏が面白いラ・トゥール(3):才能を発掘した人々

2018年11月05日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

 

今日のヴィック=シュル=セイユ遠望


才能を誰が見出したのか
ラ・トゥールの父親ジャンはヴィックのパン屋だった。当時の状況からすれば、長男あるいは次男が家業を継ぐものと思われていた。パン屋は決して裕福な収入のある職業ではないが、誰にとっても必要な職業だった。ジャンはかなり商才にもたけ、ヴィックの町でも良く知られた人物だった。しかし、息子のジョルジュが画家になりたいと言い出した時には、困惑したはずである。彼は息子の画家としての才能を評価することはできなかった。それでは誰が未だ少年であったジョルジュの天賦の才に気づいたのだろうか。

その点に関する史料の類は何も発見されていない。わずかに、ジャックの手になるものではないかと考えられるデッサンが3枚残っている。しかし、サインも年記もなく、年とった男や若い女性を描いたデッサンの髭や髪の毛の描写が、後年のラ・トゥールの油彩画に示される繊細な筆致に似ていること、使われている紙の産地がヴィックに近い所であること、などから同じ画家の作品ではないかと推定されることだけである。

ジョルジュがヴィックに生まれたことを示す洗礼記録がある。1593年3月14日、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの洗礼記録が残っている。その後、長い史料上の空白があり、次に現れるのは1616年10月20日、ヴィックで友人の娘の洗礼代父を務めたという記録が残っている。ジョルジュは23歳であった。それまでの23年間、この若者はどこで何をしていたのだろうか。美術史家、研究者たちはエキサイトし、未発見の記録を求めて、ロレーヌの文書館や教会に残る埃にまみれた古文書の探索に没入した。いくつかの新しい発見もあった。その状況はこうした人々のエッセイやヴィデオに残っている。1613年、パリで親方になっていたとの短い記録も発見されているが、それを立証する記録は未発見である。ブログ筆者はこれまで世界の美術史家が未だ指摘していないひとつの推理を提示している。少なくもこの遍歴時代には、ジョルジュは短期のイタリア旅行を試みたかもしれないが、工房に入るなどの画業修業はしていないという推理である。その要点はブログにも簡単に記したことがある。

この空白期における興味ふかい問題のひとつは、ジョルジュの秘めたる才能を誰が最初に見出したのだろうかという点である。ロレーヌの小さな町のパン屋の息子の画才の芽生えに気づき、それを育てる上で力となったのは誰だろうか。父親である息子の隠れた画才に気づくだけの能力があったとは到底思えない。この点もブログ筆者はひとつの仮説を持っているが、今日はこのくらいにしておきたい。


続く

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絵の裏が面白いラ・トゥール(2): ロレーヌを愛した画家

2018年11月02日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

 

絵の裏が面白いら・トゥール(2)


ジョルジュ・ド・ラ・トゥールは、史実として判明している限り、ほとんど終生ロレーヌ(現在のフランス北東部)で過ごした。画家はロレーヌ公国のみならずフランス王国ルイ13、14世の王室付き画家であったから、パリへ移住し、戦火に追われることもなく恵まれた生涯を過ごすこともできたろう。しかし、ラ・トゥールは自らが生まれ育ったロレーヌの地へ戻り、終生をロレーヌという地方の画家として過ごした。

画家の生まれた町ヴィック=シュル=セイユは、今の時代に訪れると、時の流れから取り残されたような思いがする。17世紀の古い町並みが残り、当時の城壁の一部や修復された城門を見ることができる。ロレーヌの歴史に刻まれるこの著名画家は、出自を辿れば、この地のパン屋の次男であった。今でもその後を継いでいるというパン屋もある。

戦火の絶えなかったロレーヌの町では、住民が交代で城門の見張り番に立った。ラ・トゥールがこの当番を怠り、罰金を請求された記録が残っている。パン屋の次男に生まれ、画家として天賦の才に恵まれたこの画家は、貴族で大地主となってからは、ひとたび確保した貴族特権を振りかざし、税金支払いの拒否など、剛直、粗暴な行動があったようだ。画家のこうした行動については、一部住民からそれを非難する文書も残っている。しかし、ラ・トゥールにしてみれば、ロレーヌ公から付与された貴族特権を放棄することでもあり、それを固守することに懸命だった。事実、多くの下級貴族たちはひとたび得た特権を子孫の代まで継承することに最大限の努力を払った。

 ラ・トゥールの息子エティエンヌは父親が活動していた間は、画家として父親の工房を助けて、自らも画家として活動していた。父親の名声で貴族にもなっていた。しかし、画業を継ぐだけの才能はなく、父親の没後は貴族として生きる道を選び、ロレーヌ公から領主に取り立てられている。父親の画風は子孫には継承されなかった。しかし、3世紀余りの時空を超えて20世紀初めに、再発見されたラ・トゥールの名はロレーヌ、そしてヴィックの歴史に燦然と輝いている。

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絵の裏が面白いラ.トゥール(1)

2018年10月26日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

 

The New Bornchild
Museé des Beaux-Arts, Rennes

 

ラ・トゥールの世界へ立ち戻る
ジョルジュ・ド・ラ・トゥールは作品の裏が面白い。ブログ筆者の作業場にはここ10年くらい、『生誕』のポスターが掛かっている。精緻に印刷されたコピーに額縁をつけただけである。コピーはかつてレンヌの美術館で求めたものであり、額縁の方がはるかに高い。その前は、ルーブルの特別展で求めた『大工聖ヨセフ』『イレーヌに介抱される聖セバスチアヌス』などが掛けられていた。

このところ、ラ・トゥールの記事が減りましたねと言われた。確かにそうなのだが、トピックスには事欠かない。この画家だけでもさらに10年は記事を続けないと尽くせないと思うときもある。なにしろ、これまで半世紀近くおつき合いしてきたのだから。しかし、人生にブラックアウトの時は迫っている。少しだけ記してみたい。

ラ・トゥールの作品『生誕』については、以前にも記したことがあるが、描かれているのは世界一可愛いと言われる赤ん坊がおくるみに包まれ、母親と思われる女性に抱かれ、もう一人祖母と考えられる女性と共に描かれている。赤ん坊を抱く若い女性の顔は俯き、なんとなく憂いのような表情が見てとれる。新しい生命の誕生を手放しで喜んでいるわけではなさそうだ。背景にも何も描かれていない。この画家は自らが伝達したいと考える必要最小限しか描かない。ほぼ同時代ながら、なんでも描きこんであるフェルメールとは対照的だ。画家が活動した政治・経済、文化的背景が全く異なっていた。

折しも東京では『ルーベンス展』『フェルメール展』と次々に17世紀美術の企画展が予定されている。ラ・トゥールと比較して活動時期は前後するが、ほぼ同時代の画家である。しかし、フェルメールだけを見ていただけでは、この時代、17世紀ヨーロッパは分からない。当時、ヨーロッパの多くの地域は戦乱や疫病、飢饉などに苦しむ「危機の時代」の最中であった。

モナ・リザはここにもあった
この作品、今やレンヌ美術館が手放さない「モナ・リザ」(Coisbee)といわれる。そして、ラ・トゥールの他の作品と同様、多くの論争の的となって来た。そのひとつは画家がこの作品で、何を描こうとしたのかという点だ。幼いイエスと聖母マリアではないか、と思うのはやや早計だ。そこには当時の宗教画に特有のアトリビュートらしきものは格別描きこまれていない。画家は画題を記すことはほとんどなかった。しばしば署名さえしていない。画家と顧客あるいは観る者の間に、画家が描いたものについての暗黙の了解が成立していたからだ。作品の所有者は、教会、修道院などの宗教関連、あるいは個人である。美術館など無い時代である。しかし、その当時から400年近くも経過した現代では、画家の意図と画題との間に乖離も生まれる。

ひとつの見方は、画家が抱く宗教的イメージを世俗の設定の下に描いたという想定である。幼きイエスを抱く聖母マリアと聖アンヌが想定されている。他方、当時の普通の幼い子供、母、祖母を美しく描くことが、画家の目指したことであり、そこに聖性を感じるのは観る者次第であるという解釈もできる。ラ・トゥールの熱心な愛好者であったオルダス・ハクスレイは、画家の制作意図についての疑問は重要ではないと述べたことがあった。「ラ・トゥールのアートが全く宗教性を欠いているとしても、それはきわめて宗教的であり、比類ない強さをもって聖性を発現しているという限りで、宗教的なのだ」という趣旨のことを述べたことがあった。

この画家は天使の翼や聖人の頭上の光輪(ハロー)を描くことなく、観る人にとっては宗教画以上の宗教性を感じさせる。その非凡な力量は、時代を超えて、同じ作品を毎日観ていても、多くのことを考えさせる秘めたる力を画面から感じさせる。

 

 

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見る人が試される瞬間

2018年07月03日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

 


日本経済新聞 2018年7月1日、 The STYLE/ART という特集で、「絵画の戒め(上) 故意の一瞬 醒めた誘惑」と題し、次の3点が取り上げられていた。

ジョルジュ・ド・ラ・トゥール《ダイヤのエースを持ついかさま師》(ルーヴル美術館蔵)、クエンティン・マサイス《不釣り合いなカップル》(ワシントン・ナショナル・ギャラリー蔵)、ルーカス・クラーナハ(父)《不釣り合いなカップル》(ウイーン美術史美術館蔵)

このブログでも取り上げたことがあり、ご存知の方も多い作品である。いずれも含意はそれぞれ異なるが、ある社会階層の男性が揶揄、批判、物笑いなどの対象として取り上げられている。

ここではよく知られているラ・トゥールの作品について考えてみよう。カード詐欺師のグループに ’むしりとられる’ 世間知らずの富裕な貴族の若者が描かれている。

この作品は今や大変著名なもので、この画家の代表作のひとつとしてよく知られるまでになった。ラ・トゥールは17世紀、現在フランスの東北部ロレーヌの小さな町のパン屋の息子として生まれたが、天賦の才と努力、隠れた才能を見出した代官などの支援などもあって、ルイ13世付きの画家にまで上り詰めた。当時は大変”有名な画家”であったが、その後忘却され、20世紀初めに再発見されるまでは全く忘れ去られていた。

再発見後、ラ・トゥールは長らくロウソクの焔で映しだされる”夜の画家”としても知られてきたが、この作品の発見で”昼の画家”でもあることが話題となってきた。ブログ筆者は、この画家には”昼、夜の別”はないのだと考えている。この作品は”昼の世界”を描いたとされてきたが、作品の意味するところからすれば、昼でも夜でもない深い闇の世界の次元である。

リアリズムの視点から問題の核心に迫ることを特徴としてきたラ・トゥール作品の解説は別として、ブログ筆者が関心を寄せてきた点の一つは、描かれた人物は画家の純然たる想像の産物か、実在のモデルが存在し、それにある程度依拠しているのかということにある。想像上の結果とすれば、この画家は、リアリズムの画家としても知られており、多くの作品が画家の身辺にいた実在の人物をモデルとしてきた。この作品でひときわ目立つのは、美術評論家のベルト・ロンギが”ダチョウの卵”と形容した卵形の顔で美貌だが、妖しい影のある女性である。当時宮殿社会で見かけられた高級娼婦ではないかとされてきた。改めて見直すと、どの人物も一癖ありげな容姿である。他方、貴族の若者はカード詐欺師の仲間から剥ぎ取られる世の中が見えていない若者として類型化されている。

画家が出入りを許されていたと思われるロレーヌ公国ナンシーの宮殿にはこうしたいかがわしい人物が出入りしていたと推定されている。とりわけ、イタリア帰りの若者は、世界の文化の中心地ローマのファッション、マナーを身につけているということだけで、宮殿世界では’モテモテ’の存在だったようだ。貴族女性の格好なお遊び相手でもあった。

いかさま師に怪しげな目配せで指示をする女性、その召使いなどはいかにもうさんくさい。新聞紙上の印刷では作品の微妙な色合いなどは感じ難いが、実際の作品に接する機会があれば、その微妙さに引き込まれる。この帽子の色は”ラ・トゥールの黄色”と言われる深みがある。画家がその顔料をどこから入手したかを探索するだけでも、脳細胞は活性化する。

描かれているのは、詐欺師たちがこの勝負にかける緊迫した一瞬だ。彼らは若者のテーブルに置かれた金貨をすべて巻き上げることを企んでいるはずだ。次の瞬間、ゲームはどう展開するか。作品を鑑賞する側の能力が試されている。

近年、美術、音楽などを、現代社会のさまざまな病、とりわけ精神面の病や疲労のセラピーの手段として活用する試みがなされている。この作品は癒しの手段としては遠いが、画家が見る人を試している意図を探ることで、衰えた脳細胞もかなり生き返る。みなさんは画面にみなぎる一瞬の緊迫感を感じられますか。

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ヨブとその妻:ラ・トゥールの革新(8)

2017年10月13日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

ジョルジュ・ド・ラトゥール
「妻に嘲笑されるヨブ」部分
エピナル(フランス)県立古代・現代美術館
クリックで拡大 


不透明なヨブの妻の位置
「ヨブ記」にはヨブの妻のことは、ほとんど記されていない。筆者は、初めてこの ラ・トゥールの作品に接して以来、美術史家などがつけた画題「妻に嘲笑されるヨブ」に疑問を感じて何度かヨブ記を読んでみた。「ヨブ記」に残る短い記述だけが、ヨブの妻についてその輪郭を推定させるわずかな材料となっている。しかし、聖書の翻訳と解釈は文語訳、口語訳、あるいは言語の違いもあって、かなり混沌としているところがある。ラ・トゥールのヨブの妻が描かれた作品についても内外のカトリックの友人に画像の印象を尋ねてみても、納得できる答えはほとんど何も戻ってこなかった。これまで考えたこともないという答え、あるいはなぜそんな質問をするのかという反応がほとんどだった。しかし、踏み込んでさらに議論すると、なるほどと答える人もいる。

結局、自分で調べ、考えるしかない。「ヨブ記」はよく知られている割には、現代人が読むと疑問が次々と生まれてくる。元来、「神こそ全て万能、正しい」という弁神論(悪の存在が神の本来性、特にその聖性と正義に矛盾しないことを主張する説)で書かれているので、多少の矛盾は目をつぶるとしても、目前の絵画イメージから生まれた疑問は解決しない。

通説では、ヨブの妻は自分の身の上に降りかかった想像を超える災厄・苦難に耐え忍ぶヨブに「どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう」と言ったという。もうひとつは、「神を祝福して、死んでしまったら」という解釈だ。後者は前者のeuphonies(耳障りの良い表現)との説もある。「ヨブ記」は歴史上最初に、無垢な者の苦しみに正義の神が苦難を与えうるのかという問題に集中した作品であるとされる。誰がいつ頃書いたかについても、諸説ある。

 * "are you still holding on to your integrity?" 
       "curse God and die" 
       Job 2:9
       邦訳は、「ヨブ記」2-9、新共同訳「聖書」日本聖書協会

 

 さらに、ヨブの妻自身の感情は、ヨブへの短い嘲り?の言葉以外、何も示されず、ヨブのように神から試練や苦難を受けることもない。しかし、現実的に考えると、10人の子供を失い、家や家畜などの財産を全てヨブが失った以上、妻も大きな苦難の中にあったはずだ。彼女がヨブを見捨てているならば、炎熱と皮膚病に苦しむヨブに水をかけてやったり、見舞いにくるだろうか。

解けない謎
本ブログ筆者が注目するのは、ヨブの妻の衣装である。全ての財産を失ったヨブの姿とは対照的に美しい。しかも、聖職者などに近いイメージである。もし、妻が神に仕える身であれば、この作品に込めた画家の含意も異なってくる。

信仰の本質的問題を歴然とさせる作り話だとする宗教学者もいる。あるいはアイロニーだとも言われる。現世的な利益が全て失われても、人は神を信じることができるのか。「苦しいときの神頼み」という表現もある。

ラ・トゥール作品の謎は未だ解けない。

ちなみに、ジョルジュ・ド・ラ・トゥール夫妻が共に死去した1652年1月の時点で、夫妻の間に生まれた子供8人のうち、生存していたのはエティエンヌ、クロード、クリスティーヌの3人だった。

 


 Albrecht Dürer, Hiob von seiner Frau verhöhnt, Städtische Galerie, Frankfurt am Main 





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ヨブとその妻:ラ・トゥールの革新(7)

2017年10月03日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

 

ジョルジュ・ド・ラトゥール
「妻に嘲笑されるヨブ」
油彩・カンヴァス
145x97cm
油彩・カンヴァス
エピナル(フランス)県立古代・現代美術館 

 

しばらくラ・トゥールについて書くことがなかった。記したいことは多いのだが、他のテーマの記事に時間を取られてしまった。記憶を新たにする意味で、これまでの記事と少し重複するかもしれないが、続けてみたい。今回の話も、ヨブ記にまつわる問題である。日本人でこのラ・トゥールの作品を目にした人は多分、数少ないだろう。画家自身についても知名度はそれほど高くはない。筆者が最初に接したのは、半世紀くらい前の話だ。ラ・トゥールの名を知る人も少なかったころだった。1972年パリで開催されたラ・トゥールの総合企画展でこの画家の作品に初めて接した時は、大げさではなく、ほとんどすべての出展作品の前で立ちすくむほど感動した。

その後、滞仏時にザールブリュッケンに住んでいた友人夫妻とロレーヌの各地を巡った時、エピナルで再び対面した。その時の感動は、今でも鮮明に残っている。特に、構図、色彩すべてが美しい。広い意味での宗教上の主題を扱いながらも、現代の画家が描いたような斬新さを感じる。その後、何度か対面したが、そのつど目を奪われてきた。この画家の現存する作品は数少ないが、それぞれが様々な謎を含んでいる。制作に当たっての画家の深い思索の跡が感じられる。この時代、特に17世紀の宗教画にはテーマをめぐる社会の受け取り方、多くの伝承、教会の美術への規制(例えばトレント公会議)へのなど、配慮すべきことが多い。

さて、上掲の作品に少し深入りする。ヨブ記の重要な論点の一つは、なぜ真に良き(神にいささかも疑うことない畏敬の念を抱いている)人に最悪なことが起きるのかという命題にある。髪を疑うことのないヨブがまるでホロコーストのような悲劇的惨状に陥ることを、神はサタンに認めたのか。話は連綿として展開する。

事の起こり
 ウツの地にヨブという人がいた。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた。七人の息子と三人の娘を持ち、羊7千匹、らくだ3千頭、牛500くびき、雌ろば5百頭の財産 があり、使用人も非常に多かった。彼は東の国一番の富豪であった(ヨブ記1.1-15)。

 主はサタンに言われた。「それでは、彼をお前のいいようにするがよい。ただし、命だけは奪うな。(ヨブ記:1-16-2-7)。
 

結果として、サタンはヨブと妻を残して、ヨブの子供と財産を全て地上から抹消してしまった。神はそうした行為をサタンに許すのか。ヨブ記は、多くの疑問を内包している。しかし、ここではラ・トゥールの作品主題に限定する。

以前に記したが、ラ・トゥールのこの作品の主題がなんであるか、しばらく定まらなかった。しかし、ルーブルでの修復の際にヨブと思われる老人の足元に、欠けた土器のようなものが描かれていることが分かり、ヨブ記にあるように、神をサタンがそそのかした結果、ヨブはすべての子供や家屋、財産を失い、自らもひどい皮膚病におかされて、それに耐えている情景を描いたものではないかという主題が明らかになってきた。主題におけるヨブの位置はほぼ明らかになった。それでは、その傍らにろうそくを手にヨブの顔を覗き込むように立つ女性は誰で、何をしにきたのか。実はこの点が難題であった。

作品に主題が記されているわけではない。しかし、美術史家や画商たちは深く考えることなく、この作品に「妻に嘲笑されるヨブ」Job Mocked by his Wifeという作品名をつけてしまった。例えば、ラ・トゥール研究の大家テュイリュエ、(Thuillier 1972, p.226)でさえも、その点を疑わなかったようだ。それほど、当時流布していたヨブ記のストーリーが疑問を抱かせることなく、継承されていたのだろう。

素朴な疑問
しかし、筆者はこの作品に接して以来、この伝統的解釈?に疑念を抱いてきた。そのことはこれまでのブログで概略を記してある。この作品に最初に接し、疑問を抱いてきたのは、とりわけヨブの妻の表情、そしてその衣装であった。ヨブについては、ヨブ記に記されたような悲惨な状況であり、ほとんど疑問はない。謎は次の点から生まれる。

1)ヨブは洞窟とみられる場所で暑さを避け、じっと苦難に耐えている。そうした場所に現れたヨブの妻は、彼の言動を嘲笑うために来たのだろうか。しかし、妻の表情を拡大してみても、そこに嘲笑と思われる表情は感じられない。

彼女はヨブの苦衷を慰めにやってきたのではないか、ヨブ記が伝えるような両者の間に険悪な空気は感じられない。何よりもヨブが子供や家財、家畜など全てを失ったことは、ヨブの妻にとっても劣らず衝撃的なことであったはずだ。

2)ヨブの妻の特別な衣装にも注目したい。デューラーの同じテーマでも描かれているように、ヨブの妻は聖職か祭事に関わっていたのではないかと思われる。ヨブの妻も夫のヨブと同様に愛する子供たちすべてを失い、家屋を含めて財産の全てを失ったはずである。

ヨブの一点の曇りなき神への畏敬は、妻もかなりの程度、共にするものではないのか。ヨブ記では、ヨブの妻についてはあまり記されてはいない。ヨブの妻は一点の疑いもなく、神を畏怖し、サタンのなすがままに全てを失い、さらに苦しんでいるヨブの純粋さに、妻としての深い愛と若干の危惧を抱いて、見舞いに来たのではないか。しかし、謎はまだ解けていない。


続く

カズオ・イシグロ氏 ノーベル文学賞受賞をお祝いいたします。ちなみにこのブログで取り上げた数少ない文学者の中でオルハン・パムク氏に次ぐ受賞者です。

 

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ヨブの妻は悪妻か:ラ・トゥールの革新(6)

2015年08月25日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

アルブレヒト・デューラー『メランコリアI』 銅版画、1514


 ラ・トゥールの『ヨブとその妻』は、前回記したように、ヨブと妻の対話、ヨブの神を疑うことのない信仰心の篤さについて、夫と妻がお互いに見つめ合い、真意を確認しあう構図がきわめて斬新である。加えて、ヨブの目の奥を覗き込むような妻の位置どり、身につけている衣装の美しさがきわめて印象的である。初めてこの作品に接した時から妻の衣装は、どことなく彼女が聖職にかかわっている、あるいはなんらかの祭儀の折の装束のように思われた。

16-17世紀の他の画家たちの手になる作品では、ヨブの妻はほとんど例外なく年老いた、美しくない女として描かれてきた。衣装も粗末なものが多い。『ヨブ記』のストーリーが、かなり素朴な形で社会に受容されていたことを思わせる。

ラ・トゥールはなぜ従来、社会に流布してきた世俗的理解とは異なる形で、この主題を描いたのだろうか。筆者はこの作品に出会って、深く感動するとともに、作品に秘められた謎に長らく疑問を抱き、探索を続けてきた。その結果、謎を解くひとつの鍵は、あのアルブレヒト・デューラーの同主題の作品にあるように思われた。デューラーの作品では、ヨブの妻はラ・トゥールの作品に類似したルネサンス風の明るい衣装を身につけ、腰帯に鍵の束をつり下げていた。

鍵は「鍵」に
キリスト教美術における「鍵」はしばしば重要な意味を持たされてきた。聖ペテロの「天国への鍵」はよく知られているが、今回のような女性の場合についてみると、パリの守護神とされてきた聖ジュヌヴィエーヴ St. Genevieveは、しばしば鍵をアトリビュートとして手にしたり、帯に下げている。また、聖マルタやローマの聖ペトロニラなどのように鍵束をアトリビュートとしている聖女もあり、彼女たちは家事・家政を受け持つ主婦や奉公人の守護聖人とされてきた。近世の家庭における夫と妻の関係において、妻が果たす役割について一定の評価がなされていたことをうかがわせる。デューラーの作品で妻がつり下げている鍵束は、そうした点を反映し、夫ヨブが試練に耐えている間、家庭を守る主婦として夫ヨブと対等の立場を保持していることを意味しているのではないだろうか。

さらにデューラーより少し時代を下った、北方オランダ北方ルネサンスの画家ヤン・マンディンJan Mandyn(ca.1500-1560)の作品の場合、作品の解釈が難しい部分があるが、画面左側(全体は本ブログ記事最下段掲載)に描かれたヨブと妻についてみると、妻は白い帽子と衣装を身につけ、鍵束を持つなど、デューラーの作品に類似する部分がある。妻の衣装も日常着とは異なり、不思議な形の帽子を被り、祭儀の衣装のような感じを受ける。鍵は財産など特別なものを保護するために、鍵の持ち主が他人が立ち入れない領域(ドメイン)を支配していることを意味している。その点で、ヨブの妻がそうした特別の領域に関わっていることが推察できる。

ヤン・マンディン『ヨブとその妻』 部分


侮蔑か慰めか
デューラーそしてマンディンの作品には、専門家の間でも解釈が異なる部分がいくつかある。たとえば、デューラー作で、妻がヨブに桶で水をかけている場面を、ヨブに対する妻の侮蔑、残酷な行為とみるか、妻の救い・慰めの行為とみるかで、判断が分かれる。筆者は後者をとり、ここまで神に対して真摯な信仰を持ち続ける夫ヨブへの妻の慰めの行為と解釈したい。水をかける行為も背中にかけており、頭からかけるような乱暴な行為には見えない。妻の表情も嘲笑や侮蔑感という印象は受けない。

マンディンの作品(下段に全体を再掲)の右側の楽師たちの描写にしても、苦難に耐えているヨブを、嘲笑している光景なのか、ヨブと妻を慰める演奏を行っているのか、その含意に定説はない。

関連して、デューラーのヤーバッハ祭壇画の2人の楽師の画面は、同様にヨブへの慰め、癒しの意味を持つのではないか。ヨブの家、財産が焼失している背景に、小さく悪魔(サタン)のようなものが描かれている(画面左奥、燃えさかる火炎の前)。サタンが自らヨブに与えた業火の中に滅失しくいくことを含意していると考えるのは現代的すぎるかもしれない。しかし、その後の画家たちの画面からも、サタンのような存在は消えている。

ラ・トゥールの作品では、妻は蝋燭以外に鍵束のようなアトリビュートは身につけていない。しかし、デューラーの作品における妻の衣装に共通する部分がある。特別の衣装から明らかに聖職などに関わっていることを暗示しているようだ。必要最小限のものしか描き込むことをしなかったラ・トゥールの画風からすれば、この衣装だけで、当時の人々にはその意味を十分伝達できると考えたのだろう。このブログ・サイトが一貫して重視している「コンテンポラリー」の意味を改めて考えさせられる。ラ・トゥールは16-17世紀に多い凡庸な画題の表現を、根底から考え直し、きわめて美しく感動的な画面へと大きな転換をもたらした。

続く


 

ヤン・マンディン『ヨブとその妻』


References
Katherine Low, The Bible, Gender, and Reception History: The Case of Job's Wife, London: Bloomsbury, (2013) 2015pb.

デューラー(前川誠郎訳)『ネーデルラント旅日記』岩波書店、2007年。 

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ヨブの妻は悪妻か:ラ・トゥールの革新(5)

2015年08月14日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋




ジョルジュ・ド・ラ・トゥール
『ヨブとその妻』部分(上半分)
クリックして拡大




 
今年の夏の異常な暑さにとりまぎれて、このブログでは中途半端のままに放置されているシリーズが2,3ある。そのひとつは『ヨブ記』の解釈をめぐるデューラーやラ・トゥールの位置づけである。これまでの話と少し重複するが、おさらいしながら続けてみたい。

  『ヨブ記』におけるヨブとその妻の世俗の評価は、17世紀になってもかなり固定したイメージであったようだ。要約すれば、ヨブの妻は、ヨブが財産や家族に恵まれ、豊かな暮らしをし、家族も健やかにあった時には良き妻であったが、ヨブが神の手先のような専横な振る舞いをするサタンの横暴、非道な策略によって、すべての財産を奪われ、子供たちも失い、家庭も破壊されてしまうと、冷酷無情に夫を嘲罵する悪しき妻に変貌してしまったというストーリーである。

広がってしまった世俗的理解
 中世以降、世の中に広まっていたこうした一般的理解に従って、多くの画家たちも、ヨブをひたすら神への信仰を失うことなく、いかなる苦難にも耐え忍ぶという忍耐の権化のようなイメージで描いた。持てるもののすべてを失い、炎天下で堆肥や塵芥溜まり(ラ・トゥールの場合は(塵芥桶)の上に座り、ひどい皮膚病に苛まれながらも、土器のかけらでわが身をかきむしって苦痛に耐えているという姿だ。他方、ヨブの妻については、苦痛に苦しむ夫ヨブをいたわり、励ましてもよいはずなのだが、夫の神への疑心のまったくない信仰の姿にあきれたのか、嘲罵の言葉を投げかけるまでになる。


 世俗の世界の話に置き換えてしまえば、ヨブの妻の対応も理解できないではない。設定さえ変えれば現代でもあり得る話ではある。ヨブの妻はそれまでの幸せな妻としての座を失い、ひたすら神への信仰に心身を捧げてゆくヨブのあり方に愛想がつき、切れてしまう。世俗の妻であったならば、さもありなんと思われる。かくして良妻賢母のイメージはたちまちにして悪妻へと反転、転落してしまう。『ヨブ記』では主役はやはり信仰篤いヨブであり、妻は脇役の位置にある。そのため、妻はヨブを引き立てるような役割を負わされてしまった。画家や後世の美術史家たちの関心は、ヨブにひきつけられてしまった。

 ヨブの妻はその後しばしば年老いた女の姿で描かれることになる。しかし、『ヨブ記』には、ヨブがサタンに打ち克ち、神の信頼を確保し、かつての幸せな生活を取り戻した後における妻のことにはなにも記されていない。ヨブのもとを去ったとも描かれていない。聖書の話だから、すべて仮想の組み立てである。

ラ・トゥールの新しい試み
 ここで、ラ・トゥールの『ヨブとその妻』を画題としたと思われる作品について、立ち戻ってみる。この作品に最初に接した時に、作品の与える不思議な美しさに感動させられた。

 デューラーをやや別とすれば、従来の画家たちによる『ヨブとその妻』を題材とした作品とラ・トゥールの大きな違いは、次の点にあるように思える。(1)ヨブと妻との対話の構図の形成、(2)妻の容姿が大変美しく描かれ、醜い年老いた女性のイメージではまったくない。少なくもヨブと対等する位置が与えられている。一見すると聖職に携わっているような雰囲気さえ見る者に感じさせること、そうだとすれば、(3)妻の社会的役割はなんであるのか、ラ・トゥールは『ヨブ記』の伝統的解釈にいかなる革新を導いたのかなどの諸点に関心が集中する。

 第一のヨブと妻の対話の構図については、この主題を絵画化した16-17世紀の作品のほとんどは、肥料桶や堆肥などの上で、皮膚病とたたかいながら、神の真意を深く考えているヨブの姿(多くは下を向いて考えている)に対して、妻とおぼしき年老いたあまり美しいとはいえない女性が、厳しい形相で対している構図である。そこに見られるのは神から苛酷な試練を課せられた夫ヨブに、口汚く罵り、あざけるような表情である。

 これに対して、ラ・トゥールの作品では、神へひたすらの信仰心を抱いて苦闘している夫と、その様子を憂い、真意を確かめに来た妻という対話の構図が初めて採用されている。

 従来の画家の作品では、ヨブは炎天下の堆肥などの上で皮膚病に苦しみながら、下を向いて、じっと耐えているポーズが多い。他方、妻はすっかり切れてしまって、夫を嘲笑するみにくさが前面に出た姿で描かれてきた。

 さらに、16-17世紀の絵画では、ヨブに計り知れない苦難を与えているサタン(悪魔)のような奇怪な存在もしばしば大きく描かれている。デューラーの作品にも、よく見ないと気づかないほど小さな姿ではあるが、サタンとみられる怪しげなものが背景に描き込まれている。しかし、デューラーの場合は、妻が炎天下のヨブに桶で水をかけてやっている構図であり、ヨブを嘲るような表情ではない。妻の衣装もルネサンス風の美しいものだ。ヨブとその妻をめぐるストーリーの受け取り方は、時代が経過しても地域や画家の受け取り方次第で大きな差異がある。ラ・トゥールと同時代のジャック・ステラはヨブを嘲笑する妻という従来の解釈をそのまま受けとっている。16-17世紀の画家たちはほとんどがヨブの妻を年老いた美しくない女性として描いている。

 デューラーとラ・トゥールの間には、およそ1世紀近い時空の経過がある。ラ・トゥールがデューラーの作品(祭壇画)を見る機会があったか否かについては、確たる証拠はなにもない。しかし、デューラーという偉大な画家についての情報は、カラヴァッジョについての情報同様に、ラ・トゥールが生きたロレーヌの地にも届いていた可能性は高い。ヨブとその妻を題材としたデューラーの作品には、前回記したように,右側にヨブを慰める楽師たち(そのひとりはデューラー自身の像といわれる)が描かれていた。この作品にはひたすら苦難に耐えるヨブを慰めようとする画家の心情がこめられているように思われる。炎天下のヨブに水をかけてやる妻にも、嘲笑や愚弄の色はない。背景に描かれている悪魔のごとき存在も、次第に小さくなっている。ヨブの忍耐と信仰の篤さが、勝利を収めようとしていることを暗示していると考えられないか。

 デューラーからほぼ1世紀を経て、ラ・トゥールは同じ主題を取り上げた。ラ・トゥールはいわば17世紀ヨーロッパ画壇にひとつの革新をもたらしていた。この画家は決して安易に時流に流されなかった。同じ主題であっても、深く考えていた。長い因習にとらわれていた人々には、その点が読み抜けなかった。そのこともあって、この美しい作品は、長い間画題が定まらず、『天使によって虜囚の身から救い出させた聖ペテロ』といった誤った評価すら与えられてきた。

 ラ・トゥールのこの作品を理解するには、描かれた新しいヨブの妻のイメージについてさらに踏み込む必要があるだろう。そのためには、ヨブと彼の妻が置かれた社会的位置と役割について、バランスのとれた理解が求められる。

続く 

 

 

 

 

 

 

 

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ラ・トゥールに射す光:暑中お見舞い

2015年08月04日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

 


暑中お見舞い申し上げます。

日本は亜熱帯になっ
たような異常な暑さ。それでなくとも間延びしてきたブログもさらに間が抜けて夏休み状態。

その中で庭の片隅に5年ほど前に植えた百合カサブランカは、いつも花屋や近隣の家々よりはかなり遅れたペースで、しかし前年よりも一段と大きく開花しました。時々水をやるくらいでほとんど世話をすることはないのに、自然の摂理はどこかでしっかりと働いています。今年の猛暑も、自然界の変化の大波の中では、小さな波なのかもしれません。見事な開花を見せた後は、本体は枯れて球根となり、地中で力をたくわえ、再び新たな輝きを見せる時を待ちます。

閑話休題 

さて、あのラ・トゥールの『ヨブとその妻』 で、妻が着ている美しい衣装、当時としても普通の人が日常着ているものとは明らかに異なる感じがします。それまでは、ヨブの妻はしばしば年老いた女性、当然若い女性、美女とは異なり、美しくない 女性として描かれてきました。しかしデューラーやラ・トゥールは、美しい衣装をまとった不思議な雰囲気を秘めた女性として再登場させます。なにが、こうした変化をもたらしたのでしょう。

この絵に限らず、ラ・トゥールが残した数少ない作品は、一枚、一枚が深い謎や物語を背後に秘めており、その奥深さは今は亡きラ・トゥールの大研究者テュイリエ教授が東京展のカタログに残したように、フェルメールの比ではありません。

画家の生涯もまた文字通りドラマティックなものでした。この画家を理解するに欠かせない小さな特別展が、今夏、画家の生地ヴィック・シュル・セイユのジョルジュ・ド・ラ・トゥール美術館で開催中です。実際に訪れてみると、小さな、小さな美術館ですが、この画家のファンにとっては一度は訪れる価値があります。今回の催しのポスターに使われているとなったのは、あのレンヌの『生誕』です(前回ブログの最後に掲載)。この作品、見れば見るほど魅入られます。作品表題が『生誕』(聖誕)
nativityに定まるについても議論は尽きませんでした。しかし、今は疑う人はありません。

このブログを開設するに当たり、この画家をご存知ない方のために、『生誕』が子守歌を集めたCDアルバムの表紙に使われている小さな本を取り上げました。長年、私の仕事場に掲げられたこの作品のポスター、もう私の命あるかぎり取り替えられることはないでしょう。 

 

 

県立ジョルジュ・ド・ラ・トゥール美術館のロゴ。
モダーンなデザインの意味を考えてみてください。

いまや17世紀フランスを代表するラ・トゥールには、最近新たな関心が高まってきたような気がします。これについても、晩夏の時を待ちつつ、ゆっくりと考えてみましょう。

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ヨブの妻は悪妻か:ラ・トゥールの革新(4)

2015年07月23日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

Albrecht Dȕrer(1471-1528), Job and His Wife, c.1504, oil on panel,
Städel, Frankfurt, and Wallraf-Richartz Museum, Cologne, detail.

アルブレヒト・デューラー『ヨブとその妻』 部分、鍵に注意
画面クリックで拡大 


神は細部に宿る
 このラ・トゥールの画題と意味について、なぜこうした一見些細なことにこだわるのかとおもわれるかもしれない。確かにブログ開設の頃は、大学生や一般社会人向け教養講座の水準であったが、10年余りも経過すると、内容も時にかなり深入りし、継続して読んでいないと分かりにくい水準にまでなっている。管理人の覚え書きの代わりを果たすこともあり、ブログにしては少し重いことは自覚している。しかし、同時にこの問題にかぎらず、細部を知ることなくして、世の中の真理は分からないと思っているので、ヨブのように(笑)、じっとがまんして読んでくださる方には有り難く感謝したい。

 ラ・トゥールという希有な画家の作品の一枚も、細部を知らないと、なにを描いた作品なのか分からずに、ただきれいな一枚の絵で終わってしまう。これまでも繰り返し強調してきたが、ラ・トゥールという画家については、特に見る人と画家(作品)との精神的対話が求められる。その対話なくして,ラ・トゥールは分からない。

 実は人生も同じなのだ。世の中の出来事を注意深く観察する目を養いながら、細部に関する知識を累積してゆくことで、次第にその深みが見えてくる。最近では、再び大学の危機が議論の俎上に乗る中で、「教養」の必要が話題となっているが、筆者は昨今の教養をめぐる議論には大きな疑問を抱いている。あまりに大きな疑問なので、いつか改めてブログ上に登場させるかもしれない。

閑話休題

 前回のアルブレヒト・デューラーの作品『ヨブとその妻』を思い起こしてみよう。16世紀初頭、1503年頃の制作と推定されている。画面にはヨブに多大な苦難を与えているサタンのような姿、あるいはヨブが座って考えこんでいる汚い堆肥のような、一見してあまり美しくないものは、依然として描かれているが、同時代の他の画家あるいは17世紀のステラの作品で見たように、あまり見たくないという作品ではない。作品が祭壇画として描かれたこともあるが、美しい作品である。ヨブとその妻の話に関心を抱く人にとっては、きわめて興味深い作品になっている。ちなみに、この祭壇画は3枚から成るが、左側にあるべき一枚は逸失しており、諸説あって今日の段階では確定されていない。この2枚も、別々になっていたが、ヨブの妻の衣装のつながりから、接続していたことが確認された。

鍵の持つ意味
 前回、ヨブの妻の腰帯に鍵の束がつけられていることに着目した。実は「鍵」は絵画を見る際にきわめて重要なアトリビュート(その人の属性などを示す持ち物)なのだ。古くはイエス・キリストが聖ペテロに神の国への鍵を渡したことで、よく知られている。今日でもオリンピックなどの祭事などの時に、市長などが大きな鍵を持っている光景を見ることがある。鍵は権威の所在、持ち主などを象徴的に示すものでもある。

 16世紀のデューラーやさらに時代を下って17世紀、ラ・トゥールの作品を見ていると、ヨブと妻の関係が、それまでの夫に従わない悪い妻であるというイメージが、時代ともに少しずつ変化していることに気づく。財産も子供もすべて失ってしまい、さらに自分が皮膚病に苛まれ、それでもじっと耐えている夫ヨブの背中に水をかけてやる妻の顔色には、夫を嘲り、蔑むような感じは、まったく見られない。むしろ、サタンが企み、神が認めた、ヨブの身体を究極の苦難にさらすという試練に、じっと耐えている夫への愛と同情が感じられる。それは、『ヨブ記』では、図らずも口にしてしまう妻の一言とは別の次元と思われる。

 若い世代の人たちには、第一回に掲げた『ヨブ記j』の文語訳は、理解しがたいかもしれない。筆者は文語訳に慣れていて抵抗感はないが、ここに口語訳聖書の該当部分を記しておこう:ふりがなは原則省略。
ことの起こり
1(略)
2 またある日、主の前に神の使いたちが集まり、サタンも来て、主の前に進み出た。主はサタンにいわれた。
「お前はどこから来た。」
「地上を巡回しておりました。ほうぼうを歩きまわっていました」とサタンは答えた。
主はサタンに言われた。
「お前はわたしの僕(しもべ)ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。お前は理由も亡く、わたしを嗾して(そそのか)して彼を破滅させようとしたが、彼はどこまでも無垢だ。」
 サタンは答えた。
「皮には皮を、と申します。まして命のためには全財産を差し出すものです。手を伸ばして彼の骨と肉に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません。」
主はサタンに言われた。
「それでは彼をお前のいうようにするがよい。ただし、命だけを奪うな。」
 サタンは主の前から出て行った。サタンはヨブに手を下し、頭のてっぺんから足の裏までひどい皮膚病にかからせた。ヨブは灰の中に座り、素焼きのかけらで体中(からだじゅう)をかきむしった。
 彼の妻は、
「どこまで無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう。」と言ったが、ヨブは答えた。
「お前までが愚かなことを言うのか。わたしたちは神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」
 このようになっても、彼は唇をもって罪を犯すことをしなかった。
 (以下、略) 
聖書(新共同訳)「ヨブ記」2.8 (旧)776-777 

 ここでは,「ヨブ記」のさらに詳細については触れないが、この文脈の流れに沿って、宗教的・社会的イメージが形成され、それはカトリック、プロテスタントを含めて大きな影響を及ぼした。その時代に生きた画家たちもそうした時代の受け取り方の中で、最大限の創造力を発揮して、この主題に挑んだ。

画家の創意に迫る
 さて、本題に戻って、前回までのラ・トゥール、そしてそれより一世紀前の巨匠デューラーの作品が、他の多くの画家たちの作品あるいは多くの理解と異なって、画家独自の主題理解、創意とその工夫が画面に込められていることを記した。

 とりわけ、筆者は伝統的に伝えられてきたヨブの肉体的苦難の描写以上に、ヨブとその妻の対比的位置、妻の衣装、アトリビュートなどに関心を惹かれた。いうまでもなく、この2人の天才的画家の作品は、この主題のきわめて残酷な情景を極力回避し、きわめて感動的で美しいものに仕上がっていた。筆者がラ・トゥールに惹かれるようになったいくつかの作品の中で、図抜けて美しく魅力的なものであった。

 しかし、ラ・トゥールの作品には多くの謎が込められている。それらの謎を解くためにこの主題を描いたいくつかの作品、研究成果などを探索している過程で、出会った一枚は、デューラーの作品であった。 デューラーとラ・トゥールは、時代をほぼ1世紀隔てるが、そこには共通したものが流れている。特にヨブの妻のルネサンス風の衣装とラ・トゥールの描いたヨブの妻の聖職者を思わせる美しい、しかし、ヨブとの特別の社会的関係を思わせる衣装に目を惹かれた。

 そして、気づいた点のひとつはデューラーの作品で、ヨブの妻の腰帯につけられた鍵(束)であった。デューラーもラ・トゥールも制作に当たり深い思索をこらし、作品の主題に不必要なものは極力描かない。逆に言えば、描かれたものには意味があるのだ。 

 さて、こうしてヨブの妻の衣装、そして腰帯につけられた鍵の意味を探索する試みを続ける旅の途上で出会った作品が次の一枚だった。

なぞに迫る一枚


Jan Mandyn(1500-1560), Les épreuves de Job, Musée de la Chartreuse-Douai, Phototheque-Musée du Douai. 画面クリックして拡大
ヤン・マンディン『ヨブの試練』 

 オランダ北方ルネサンスの美術家ヤン・マンディンJan Mandyn(ca.1500-1560)は、ヨブをあざける光景を描いている。画面の左側にはヨブとその妻が描かれている。ヨブの妻の腰帯にはあの鍵がつり下げられている。そして、ヨブの妻の衣装は、筆者がラ・トゥールの作品で感じたように、普通の町の人々が着る日常着ではない。明らかになにか特別の恐らく宗教的な意味を持つ衣装である。

 この作品を残したヤン・マンディンはオランダの画家ヒエロニムス・ボッシュHieronymus Bosch の画風に従ってきたといわれる。Boschの作品は、ご存知の方はすぐに思い浮かぶように、作品の明快な解釈を難しくずる特異な画風だった。Boschの工房でもヨブの生活を1507年から  3枚折の祭壇画を制作した。この作品では楽士たちと町の人たちを描いているが、ヨブの妻は描かれていない。どちらの作品でもヨブを嘲弄する場面を描いたものとされる(画題は後世の人がつけたものかもしれない)。しかし、描かれた人物の性格は依然として謎を秘めたものだ。

 上掲の作品を制作したヤン・マンディンは、オランダの画家である。この作品が収蔵されている場所の名から、最近話題となったある映画名を思い起こす方もあるかもしれない。Chartreuse-Douaiはフランス最北部に近い所にある。このことも、デューラーやラ・トゥールの議論に関連するかもしれない。まだ、謎の解明は終わらない。今日はこれまでにしましょう。


続く

 

 

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ヨブの妻は悪妻か:ラ・トゥールの革新(3)

2015年07月14日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

 

アルブレヒト・デューラーヨブとその妻』
ヤーバッハ祭壇画の一部
クリックで拡大

 

 ヨブとその妻についての話を知っていたり、関心を持っている人は、ブログ読者の中でも数少ないのだろう。そのことはアクセス数その他で直ちに知ることはできる。身近かなカトリックの信者の方に聞いても、当方の疑問についての手応えある答や説明が戻ってくることは少なくなった。旧約聖書に出てくる聖人の名前でしょうか、聞いたことがあります程度の反応で終わってしまうことが多い。

 ヨブの妻が長らく悪妻の象徴的存在のひとりにされてきたことについても、ほとんど知る人が少ない。今回話題としているラ・トゥールの作品についても、きれいな絵ですね、初めて知りましたなどのコメントは多数いただくが、実際にこの作品の主題がいかなる内容であるかを答えられる人も少ない。世の中が変わったといえば、それまでなのだが、少なからず残念な気がする。

ラ・トゥール効果
 ほぼ同時代の画家フェルメールのように、ただ目の前にある世俗的情景を美しく描いた作品と異なって、ラ・トゥールの多くの作品には画家の深い思索の結果が凝縮されている。風俗画など世間で話題のテーマをそのまま描いたものはない。世の中でよく知られたテーマであっても、この画家は安易に時代の風潮に乗ることをせず、常に他の画家と一線を画すいわば革新を企図していた。一枚の絵からは、その制作に精魂込めた画家の精神、さらには背景にある画家が生きた社会の姿が浮かび上がってくる。不思議なことに、ひとつひとつは小さなことだが、こうしたことが積み重なって行くと、広く時代を見る力、先を見通す力など、多難な時代を生き抜く上での手がかりのようなものが得られる気がする。


 一般社会人のセミナーなどで、何度か少し立ち入った話をすると、終わりの頃には、かなり核心に迫った質問や感想が出てくる。こうした人たちは目に輝きが増し、自分で考えさらに調べてみようという意気込みが感じられる。これはとても嬉しいことだ。

 西洋美術史家でもない私が、あえてこうしたトピックスをとりあげていることについては、いくつかの理由がある。およそ半世紀前にフランスの小さな町の美術館で、この作品に接した時の衝撃は、今も残っている。同行してくれたドイツ人夫妻との議論も長く続いた。掲示されていた画題から、画家がなにを描いたものであることは分かったが、長年にわたる伝承と作品の間隔に、なんとなくしっくりしないものを感じてきた。さらに美術史家の説明にも納得できるなかった。これは前回に記した作家のパスカル・キニャールも感じたことに近い。しかし、パスカル・キニャールは残念にもそれ以上、探求することをせず、旧来の伝承を受け入れてしまった。

 このラ・トゥールの『ヨブとその妻』は、神への信仰の真実さを確かめる最後の試練として加えられた皮膚病に苦しむヨブよりも、妻の側に重点が置かれている。この作品での妻の存在感は、ひと目見ただけで圧倒的だ。しかも、そこからはヨブに対する蔑みや愚弄する言葉は聞こえてこない。雑念を離れて見れば、そこには神へひたすら傾倒し、その信仰の真実性を試すために加えられた厳しい病に悩む夫と、それを心配し、慰めに来た妻というきわめて自然な関係が見えてこないだろうか。

ヤーバッハ家の祭壇:デューラーの試み
 それまでの通念は、ヨブの妻は夫を侮り、軽蔑する、高齢で容姿も決して美しくない女として、描かれてきた。しかし、ラ・トゥールの情景には、そうした妻のイメージはない。むしろ、自分の肉体への試練という厳しい事態に、強い信仰心をもって耐え抜いている夫の本当の心を確認したいと思い、見舞いにきた妻の姿とみるべきだろう。その姿、形は際だって美しく見える。

 実は伝統的なヨブとその妻に関する通念、とりわけ神に対して疑うことのないヨブとそれについて懐疑的な世俗的な妻との関係は時代と共に、すこしづつ変化してきたと筆者は考えてきた。ラ・トゥールとの関係でそれを想起させたのは、以前にも記したアルブレヒト・デューラーの作品との関連であった。ラトゥールよりもほぼ1世紀前の画家である。ラトゥールの作品と比較してなにが分かるだろうか。

Albrecht Dȕrer(1471-1528), Job and His Wife, c.1504, oil on panel,
Städel, Frankfurt, and Wallraf-Richartz Museum, Cologne 

アルブレヒト・デューラー、『ヨブとその妻』 3枚パネルの一部

 

 この作品はヤーバッハ・祭壇画として知られる祭壇画の一部であり、恐らくサクソニー選帝侯フレデリックIII世によって画家に依頼され、ウイッテンベルグの城内の教会に、掲げられたものと推定されている。1503年における悪疫の終息を感謝しての作品と思われている。元来3部で構成されていたようだが、祭壇側面部の作品だけが今日残されている。

 今日では上掲の右側と左側の作品は、別々の美術館が所蔵している。ここではヨブの妻の衣装の続き具合などを考慮して、イメージ上で仮に接合してある。この作品を含む全体の構成については、多くの議論があり、定まっていない。18世紀末には、これらの作品はケルンのヤーバッハ家の礼拝堂を飾っていたといわれるが、その後、散逸し、今日に至っている。

 上のパネルの右側には2人の楽人が立っている。ドラムを持った右側の人物は、デューラーの自画像ではないかと推測されている。彼らの役割、意味については、定説はまだない。

 上のパネルの左側が、ヨブとその妻の関係を示す作品と思われる。言い伝えのように、ヨブは堆肥の上に皮膚病に侵された半裸体のまま、消耗しきってなにかを考えるかのように座っている。彼の心中は、家族、財産のすべてを失っても切れることなく維持してきた神への絶大な信仰と、ここまで来てしまった自らの行いについての懐疑と悔悛の心が入り乱れているのだろう。遠くには火炎を上げて燃えるヨブの豪華な家も見える。火炎の中には小さな悪魔のようなものも描かれている。この点は『ヨブ記』についての時代の受け取り方を反映している。しかし、16世紀の人でありながら、天才デューラーは、ヨブとその妻についての長年にわたる伝承の路線上にありながら、従来の固定した観念とは、かなり異なった新しい試みを行っている。

 たとえば、ヨブの妻は美しいルネサンス風の衣装をまとい、ヨブの背中に水をかけている。この時代に多い、ヨブの妻は歳をとり、容貌も醜く夫の行動を嘲るような、見るからに悪い妻というイメージは少なくも画面の上からは感じられない。手桶で炎天下に熱くなってしまった夫の脊中に水をかけてやっているが、頭からかけているわけでもなく、ごく普通の仕種である。妻であったなら、夫の苦難を和らげてやりたいという普通の行動ではないか。しかし、疲れ切ったのか,ヨブは妻の方を見ることなく、考え込んでいる。ここで注目すべきは、妻が腰の帯に吊しているひと束の鍵である。これがなにを意味するか。ラ・トゥールにつながる謎を解く鍵となるかもしれない。



続く

  



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ヨブの妻は悪妻か:ラ・トゥールの革新(2)

2015年07月05日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋



ジョルジュ・ド・ラ・トゥール『妻に嘲笑されるヨブ(あるいはヨブとその妻』 
ヴォージュ県立博物館、エピナル、部分(クリック拡大)

  


迫られる作品との対話

 ラトゥールの「ヨブとその妻」を見ると、同時代の画家たちの作品と比較してきわめて異なる強い印象を受ける。この画家については、とりわけ描かれている人物との対話が求められるようだ。画題は記されていないことがほとんどだから、解釈は見る人の力が試されることになる。

 この画題が旧約聖書『ヨブ記』(前回記事参照)の話の一齣を描いたものとしても、未解明で注目すべき点は多々残されている。ラ・トゥールの生きた17世紀を含めて、この『ヨブ記』の主題を描いた作品は、その多くに悪魔のごとき奇怪なものが描かれていたり、ヨブの座っている所が汚い堆肥の上であったり、ヨブの全身に皮膚病の発症した状態が見る者をおじけさせるように描かれている。しかし、ラ・トゥールのヨブは、恐らく暑さを避けての洞窟内を想定したのであろう、半裸ではあるが、皮膚病の発症などはほとんど確認できない。そして、あのサタン(悪魔)のごときおぞましいものも、堆肥のごときものも描かれていない。この画家は自ら深く考えて必要であると考えるもの以外は描くことがない。画題の本質の理解に不必要なものは極力描かない。しかし、ひとたび必要と考えた対象には細部にわたり全力を傾注している。

 前回の続きで注目すべき点は、ヨブの妻の姿態、衣装である。 この作品においては、同じ主題を描いた画家が、ヨブに注目しているのに対して、ラ・トゥールはヨブの妻により大きな比重を与えている。ヨブの妻は16-17世紀まで、ほとんど例外なく、年老いた容貌で、夫のヨブを嘲り、言葉で鞭打つような姿で描かれてきた。しかし、ラ・トゥールのこの作品を見た者は、長い間刻み込まれてきたヨブの妻のイメージとの大きな違いに驚かされ、戸惑ったに違いない。そのこともあって、過去には美術史家によって誤った画題が想定されてきたこともしばしばだった。

 以前にも記したが、筆者の私は、これはひとり苦しみに耐えるヨブの所へ、妻が見舞いに来た光景ではないかと思った。しかし、長い歴史の間に刻み込まれた社会的通念は多くの人の思考を強く制約している。

 ここに描かれた女性は、背が高く、帯が高く締められており、画面上部との関係で、多少窮屈な印象を与える。しかし、これは画家の想定したことなのだ。ヨブの妻の頭上に洞窟の天井が迫っていることもあって、身体を折り曲げて、座っているヨブの顔を覗き込んでいる光景としてみれば、絶妙な位置関係である。こうした構図はラトゥールの「農夫」、「農婦」などの作品にも感じられる。重心が意図的と思われるほど下方に置かれ、強い意志を秘めた人物であることが見て取れる。


ジョルジュ・ド・ラ・トゥール
『農婦』
サンフランシスコ美術館
画面クリックで拡大 


 ヨブの妻の衣装は、洞窟の中、蝋燭の光に美しく映えている。なんとなく聖職や祭事に関連する衣装であるかのような印象を与える。画家ベランジュやカロの作品にも見られるように、この時代のロレーヌの画家は、衣装を精細、華麗に描くことが多い。『農婦』が誇らしげに着ているエプロンや胴衣も、実に美しく、彼女の自慢するものなのだろう。この『農婦』の場合も、人物の重心が意図的に下方に置かれたかのように描かれ、安定感としたたかさを感じさせる。

 ラ・トゥールの「ヨブの妻」の来ている衣装については、筆者は作品の初見時から聖職など、特別の役割が込められていると考えてきたが、これも本作品の謎のひとつであり、次回以降に触れることにする。

 
通い合う夫と妻の視線
 画面をさらに見ると、ヨブの妻は左手の蝋燭の光の助けで、右手をヨブの髪の少なくなった額に触れんばかりに近づけ、 顔を上げたヨブの目の色を読むかのようにじっと覗き込んでいる。ふたりの目は心中考えることは互いに異なるかもしれないが、あきらかに視線は取り結んでいる。

 ラ・トゥールの『大工聖ヨゼフ』や『聖ヨセフの夢(聖ヨセフの前に現れたる天使)』などの作品を思い起こしてほしい。いずれの作品においても、対峙する2人の視線は、交差していない。あたかも霊界の人と世俗の世界の人間を見えない壁が区切っているかのごとくに描かれている。この点、管理人の知るかぎり、これまで内外の美術史家の誰も記していない。だが、ラ・トゥールは作品の数は少ないが、主題に深く沈潜、熟考して制作した画家であった。いうまでもなく、ヨブも妻も世俗の世界の人である。

 ヨブの妻の目には、この主題を描いた17世紀までの他の画家の作品に多い、夫ヨブへのあからさまなあざけりや見下げた感じはない。ヨブの妻は、神がサタン(悪魔)の手を介し、この世の財産をすべて奪われ、 3人の息子と7人の息女まで失うことになったヨブが、ついに自らの身体に加えられた究極の試練としての病いに耐え苦難の時を過ごしていることを知り、見舞いに現れたのだ。

  これほどの苦難にありながら、夫のヨブは依然として神への畏敬の念を失わずにいるのだろうか。あたかもヨブの心底を読もうとするかのごとく深く食い入るように覗き込んでいる。そこに嘲けりやからかうような表情を感じることはできない。他方、ヨブの目は度重なる苦難に疲れ切ってはいるが、深く悟りきった純粋なものである。

 ヨブの妻はこれまで、夫とともに想像を絶する試練を共有してきた。しかし、今や自らの身体を危うくする苦難にも神を疑うことのないヨブの忍耐に、ついに彼女の評価を定めてしまったあの有名な一言を口にしてしまうことになる(前回参照)。ラ・トゥールが描いた光景は、まさにこの言葉が出てくる少し前の場面と考えられる。しかし、ラ・トゥールは他の画家のように、ヨブの妻を夫を嘲り、罵る悪い妻として描いていない。その謎を解くには、描かれたヨブの妻の側のイメージにさらに立ち入る必要があると思われる。

続く 


 

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ヨブの妻は悪妻か:ラ・トゥールの革新(1)

2015年06月26日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

 

ジョルジュ・ド・ラ・トゥール
『妻に嘲弄されるヨブ(ヨブとその妻)』
油彩・カンヴァス、 145x97cmj
エピナル、ヴォージュ美術館 



 梅雨模様のこの頃、あまり意欲が高まる時期ではないが、それなりに考えてみたいことはある。「カードゲーム:いかさま師物語」も中断しているのだが、新たに興味深いことが思い浮かぶので、忘れないうちにメモしておきたい。今回のトピックスはまたラ・トゥールである。

 この画家の作品は不思議なもので、今になってもさまざまな疑問が浮かび上がって来る。そのいくつかは再び作品を見たり、文献を読んだりすることを通して、なんとか納得できる答に行き着くのだが、まったく手がかりのない文字通り謎に近いようなものもある。こうした探索・思考の過程は想像以上に楽しいことが多い。

作品との出会い
   そのひとつを取り上げてみたい。初めてこの画家に魅せられたのは、いまやはるか昔となる1972 年、パリ、オランジェリーで開催されたラトゥールの企画展(Georges de La Tour, Orangerie des Tuileries, 1972)を見た時であった。この画家の生涯と作品世界が初めて描き出された展示であった。しかし、当時の作品の中には、カタログを読んでもなにを描いたものなのか、主題を十分理解し得たか、こころもとないものがいくつかあった。

  その中に『妻に嘲弄されるヨブ(ヨブとその妻)』 Job Mocked by his Wife, Musée Departmental des Voges, Épinal と題された一枚があった。その概略については、すでにこのブログでも記したことがある。美術史上でもこの作品の主題の確定については、かなり右往左往したようだ。作品の主題がなにであるか、すぐには分かりにくいのだ。多数の美術家や鑑定家が、現在の「旧約聖書ヨブ記」にある「ヨブとその妻」の一場面を描いたものではないかとほぼ確定するまでには長い年月を要した。 

 この作品を所蔵するフランス、エピナルの美術館を訪ねた時にも、謎は十分解けていたわけではない。それでも作品に接してその絶妙な美しさに心を奪われた。バロックの華麗な作品が多い時代にあって、シンプルな構図でありながら見る人に深い感動を与える作品である。これまでにも多くの人々の思索の源泉となってきた。この作品の主題が明らかにされた後は、数多い評論や推論が生まれた。

主題の発見 
 作品主題の確定については、作品の下部に画家の署名が見出された後、大きな進展を見せたようだ。画面右手に座っている男の足元にある小さな物体が、欠けた土器らしいということが判明したことが鍵となった。サタン(悪魔)によって、平穏な生活を破壊される。家畜(財産)を奪われ、さらに愛する子供たちを失い、ついには自らもひどい皮膚病(腫れ物)に侵されたヨブは、それでも神をひたすら畏れ敬い、絶大な信仰の心を維持してきた。堆肥桶(塵芥)の上に座り、土器の破片で、皮膚の苦痛をまぎらわしていた。その話が美術史家に、「ヨブとその妻」の話を想起、類推させたとみられる。

  しかし、その説明を読んだ後でも管理人は十分納得が行かないでいた。それまで仕事の傍ら調べていた、この物語の内容、そしてとりわけ、それぞれの時代の画家がいかにヨブ記を理解し、作品に表現しようとしたかを考えてきた。その一端を書いて見よう。

社会の通念と革新
  ラトゥールという画家は、それまでの画家たちが繰り返し描いた主題であっても、深く考え抜き、自らの思索の末を描いた。時代の風潮、通説に流されていない。その結果、時には時代の通念とかなり異なる表現、体裁をとった。現代フランスを代表する大作家のひとりで、ラトゥールに造詣の深いパスカル・キニャールも、ラトゥールのエピナルの作品を見て、最初は考え込んだようだ。これがヨブとヨブの妻の話を描いたものだろうか、疑問を感じながらも、最終的には「ヨブ記」を主題にしたという美術専門家の見解を受け入れているようだ(Pascal Quinard, Georges de La Tour, 2005, 57-58)。

  他方、管理人はその後、展覧会やエピナルでこの作品に接する毎に、細部を確認したり、モノグラフを読んだりするうちに、画家ラトゥールはこれまでの「ヨブ記」の解釈に大きな革新をもたらしたのではないかと思うようになった。ヨブとその妻の話を描いた部分は、神に対する絶対の信仰を信じて疑わないヨブの強い忍耐心とそれを嘲弄する妻の関係が主題となっている。しかし、その作品化に際しては画家が置かれた社会の通念や道徳規範などが背景にあり、画家がそれらをいかに理解し、作品に具象化するかというプロセスがある。

 それまでこの主題を描いた作品は、ヨブの皮膚病に侵された無残な身体、ヨブの妻の厳しく嘲けるような、年老いた女の容貌が、ひとつの特徴をなしてきた。たとえば、ラトゥールと同時代の画家ジャック・ステラの作品は、この時代に社会に浸透していた伝統的なヨブとその妻の認識とほとんど重なっている。

 

ジャック・ステラ「皮膚病に苦しむヨブ」油彩、カンヴァス、パリ、国立文書館
http://www.wikigalllery.org/ 


 ジャック・ステラの他の作品は、バロックの華麗なものが多いだけに、これはあまり見たくない作品である。旧来の社会に定着している社会的通念に忠実に、苦難にひたすら耐え忍ぶヨブとヨブを嘲弄する妻の関係がそのまま描かれている。作品の印象は凡庸で、新味がない。もっとも、この時代までの多くの画家は、ヨブとその妻に対して、ステラ同様にかなり固定した理解をしてきた。それは、「ヨブ記」に記されたこの逸話を、そのままに受け入れてきた社会における理解の反映でもある。長い間、「ヨブとヨブの妻」の話は、ヨブの揺るぎのない神への敬い、信仰心とそうした夫の強い信念についていけない凡庸な妻が、夫を嘲り、からかうという行動として理解し、描いている。ステラの理解にとどまらず、この時代、社会的にはヨブの妻は、問題ばかり起こす女、悪妻の代表のごとく考えられてきた。

 さらに、そこにはヨブあるいは妻(一般に名前は知られていない)についてのきわめてステレオタイプ化した理解がある。ヨブにはひたすら神の与える試練への「忍耐」の象徴であるかのごときイメージを与え、妻には彼女が発した短い一言で、「悪女」という固定化したイメージを創りあげてきた。言い換えると、妻として苦難の極みにある夫を支えることを放棄している妻として、不適な女というステレオ・タイプの形成がみられる。

思索する画家
 実は「ヨブ記」には一般の読者にはよく分からない点が多々ある。たとえば、神とサタン(悪魔)が同じ場(次元)にいて、神はサタンが提示し、実行する暴虐、非道ぶりを制止することがない。しかし、こうした点は、ここではとりあげないでおく。問題にするのは、16,17世紀における「ヨブ記」あるいは聖書の他の部分についての社会の受け入れ方の変化の推移である。たとえば、いつの間にか、この主題の作品にしばしば登場していたおぞましい悪魔のような姿、あるいはヨブが置かれた塵芥の捨て場のような光景は、画家が描かなくなっている。悪女には年老いた女をもってするという通念のようなものも薄れてきていた。

  これと比較すると、ラトゥールの作品は、全体のイメージがまったく異なる。大きな特徴は、ヨブと妻の間に対話の雰囲気が感じられることである。ひたすら罵詈雑言をもって夫であるヨブをさらに苦しめるがごとき妻のイメージは感じられない。そして、同時代の画家たちでもしばしば描いていたおぞましい悪魔のような姿も、ヨブが座る塵芥の捨て場のようなものも見いだせない。ヨブの妻は左手をヨブの頭部に近づけて、右手の蝋燭の光で、夫ヨブの様子を確かめているかにみえる。ヨブの妻の一見窮屈そうにみえるイメージも、洞窟の中の光景と考えれば、理解できる。なによりも注目するのは、通常の夫と妻の間の関係が、そこに復活しつつあるかにみえることにある。。

  ラトゥールの作品はイメージとしても実に美しい。ヨブの妻も同時代の他の画家の作品とはまったく異なった姿、形で描かれている。なにかの聖職者のようにもみえる。おぞましいサタンや不潔な環境はどこにも見当たらない。ラトゥールの生きた17世紀といっても、地域差や画家の作品嗜好の違いもあり、同時代の画家といっても、かなり相違が見られる。画家の生まれ育ったロレーヌはその点、きわめて厳しい環境にあった。なにが、ラ・トゥールをしてこうした作品を制作させたのだろうか。

続く 

 

 

参考
『ヨブ記』 (2-7~10)
 敵対者はヤハウエの前から出ていって、ヨブの足の裏から頭の天辺まで悪い腫物で彼を打った。そこでヨブは陶器のかけらをとって体をかきむしり、灰の上に座っていた。彼の妻が彼に言う、「あなたはまだ自分を全きものにしているのですか。神を呪って死んだらよいのに。」ヨブは彼女に言った。「おまえの言うことは愚かな女の誰かれが言いそうなことだ。われわれは神から幸いをも受けるのだから、災いをも受けるべきではないか」。これらすべてのことを通じてヨブはその唇をもって罪を犯さなかった。

『旧約聖書ヨブ記』 (関根正雄訳)岩波書店、(1971)2015

 

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