時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

ロレーヌの春(1)

2007年02月26日 | ロレーヌ探訪

Photo Y.Kuwahara   


  ロレーヌは、もう春の光が射していた。土地の人の話では、今年は冬がなかったという。雪もほとんど降らなかったようだ。野原の木々には若緑の芽が見えている。この地方、比較的平坦ではあるが、地平線のかなたまで野原や畑が続くというわけではない。適度になだらかな丘陵や遠くに山も見えて目に優しい。雨量が多かったため、ほとんど草原や畑の中に埋もれたような川が岸からこぼれんばかりに、しかし静かに流れている。

  何度目のロレーヌへの旅になるだろうか。かつて仕事でしばらくパリに滞在していたころ、ザールブリュッケンの大学にいた友人の誘いで週末に何度か訪れた。冬の休みには1ヶ月くらい家に泊めてもらったこともあった。親切な友人で、遠来の客をもてなそうと、暇を作っては朝から夕方まで小さな町や村などに残る教会や城跡を案内してくれた。城砦の構築の仕組みに興味を抱くようになったのも、この頃からだった。友人夫妻の子供はまだ1歳にならず、乳母車を車へ持ち込んでの移動だった。その子供も今はスラヴ文化の研究者となった。

  ロレーヌの歴史やジョルジュ・ド・ラトゥールへの関心が深まってからは、ここは
きわめて親しみのある土地となった。アルザス・ロレーヌは、政治的にも複雑な経緯を辿った地域である。各地に刻まれたさまざまな記念碑や古い戦車、大砲などが幾多の戦争を記憶に留めるために残されている。それにもかかわらず、自然の美しさは傷跡を癒すかのように残っており、なだらかな丘陵の合間に点在する小さな町や村には、静かな生活が営まれている。

  今度の旅はこれまでとは、かなり異なるものとなった。ラトゥールという画家が過ごした環境をできるだけ追い求めてみたいという目的があった。過去に訪れた場所も含めて記憶をたどる旅でもある。最初に訪れたのは、ラトゥールの生まれた土地、ヴィック・シュル・セイユである。ここもかつて訪れた場所である。基本的には17世紀以来の自然環境はほとんど残っているのではないかと思われる小さな町である。

  ナンシーから車で30分くらいであった。森や野原に穏やかな春の光が指している実に美しい道だった。自動車文明が生み出した影響を除くと、400年前もこうした状況だったのではないかと思われる自然が残されている。鹿や猪に注意との道路標識が目につく。アメリカのパットン戦車が置いてある村もあった。

  以前訪れた時と比べて、ひとつ大きく変わった点があった。町を歩いていてほとんど人影もないような小さな町に、立派な美術館が生まれた。ラトゥールという一人の著名な画家が残してくれた記念碑である。ジャンヌ・ダルク広場にあった、かつての古い町役場を再設計して構築された。外観は小さなオフィス・ビルのようではある。昔の面影をもっと残したかったようだが、所蔵品の展示のために5階建ての作りとなり、かつての面影はわずかにビルの角に小さなニッチを設けただけになった。美術館の周辺はかなりきれいに整備されていた。

  しかし、開館時間の9時30分に行ってみたが、入り口が開いていない。開館していることは調べてあったが、もしかすると臨時休館かという思いが一瞬頭をかすめた。折りよく通りがかった犬を連れた中年の女性に聞いてみると、休みではないはずだから少し待ってみたらと言ってくれた。10分くらいして、男性が現れてお待たせしましたと言って、ドアを開けてくれた。午前中は館内にいたのだが、その間他には誰も訪問者はなかった。美術館を独り占めにしたような満足感だった。

  都会の美術館であったら、観客の肩越しに見ることになる作品をいつまでも一人で見ていられるという考えられないような至福の空間があった。 「荒野の中の洗礼者聖ヨハネ」が目前に掲げられている。採光の良い条件の下で見ると、以前に暗い照明の下で見た時よりも鮮やかであった。ラトゥールの現存する最晩年の作品ではないかといわれるが、言葉を失なうような見事な作品である。この画家の作品は、大美術館で鑑賞するにはあまり適していない。作品が持つ深い精神性が伝わりにくいのだ。幸いこの作品は落ち着くべきところを得た。長旅の疲れもあって体調はよくなかったが、ここまで来てよかったという深い充足感がこみあげてきた。

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