時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

17世紀の色:闇の深さ(9)

2021年12月12日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋


ジョルジュ・ド・ラ・トゥール真作に基づく模作《聖アレクシスの遺骸の発見》
油彩・カンヴァス 1.58x 1.15、ナンシー・ロレーヌ歴史美術館


ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの真作に基づく模作《聖アレクシスの遺骸の発見》
1.43 x 1.17 油彩・カンヴァス、ダブリン・アイルランド国立美術館

上掲の2点の作品は、いずれもラ・トゥールの真作に基づく模作とされている。真作の制作年次は1648年末頃と推定されている。真作はロレーヌのラフェルテ総督にリュネヴィル市から1649年の新年に贈られたものとされている。しかし、この真作は発見されていない。上に掲げた作品は、この真作に基づき、ラ・トゥールの工房あるいはエティエンヌの手になるものではないかとされている。しかし、その推定根拠は弱く、ラ・トゥールの真作との推定も消えてはいない。作品の含意については、本ブログでも以前に記したことがある。

ナンシーの歴史美術館が所蔵している作品は、残念なことに作品下部が切り取られ、別の部材が上部に継ぎ足されている。この作品は真作ではないかとも推定されているが、決定には更に科学的調査が必要なようだ。作品の構図は他の画家を含めて例が少ないが、この主題はローマのPietrona da Cortona、そしてパリのClaude Mellan、そして多くの地方画家が試みたことが知られている。聖アレクシスに関わる逸話は、当時はよく知られていた「黄金伝説」に記載された話に由来するとされている。興味深いことは同様な逸話が、ヴィックで地域的な尊敬対象として崇拝されていたベルナルド・デ・バーデ Bernard de Badeについて残っている(ヴィックに銅像が存在)(Tuillier 1995, p.218)。ラ・トゥールがこうした状況で、アレクシスに関わる逸話を制作対象にイメージしたことは想像できる。

敬虔な信仰の対象としての聖人が秘かに亡くなっていたことを発見した若い従者(小姓)の真摯な尊敬の念に満ちた表情が見る人に迫ってくる。松明で闇を切り裂いたような厳粛な張り詰めた空間である。

ラ・トゥールの特徴のひとつである衣装の描写の美しさは、ここでも遺憾なく発揮されている。聖人の纏った外衣、従者の明るい胴着などが、松明の光に照らされて絶妙な美さである。構図は同じでありながら、画家は様々な実験的な試みをしているようだ。

松明の光度が強い下段の作品(ダブリン版)では、聖人、従者の表情が一段とクローズアップされている。他方、上段の作品(ナンシー版)では、光度が抑えられている反面、陰影の効果が絶妙である。ナンシー版は、従者の頭上に空間があり、松明の光量が抑えられていることもあって闇の深さが際立っているといえる。他方、ダブリン版は聖人と従者の表情がより明瞭に描き出されている。

この作品は真作ではないとの評価がなされているとはいえ、きわめて美しい作品であり、ブログ筆者としてはこれぞ真作と思いたい。とりわけ、背景の闇を描いた黒色の美しさについては、パストロウの色シリーズでも黒色(Black)が使われた象徴的作品として表紙に使われている。

作品の購入者などが、観る者の集中度を強めるために、作品の一部を切断したり、後付けをすることは、この時代では珍しいことではなかったようだ。画家の製作意図がこうした行為で歪められてしまうことは大変残念なことだ。


続く



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17世紀の色:「闇」の色は(8)

2021年11月30日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋




ジョルジュ・ド・ラ・トゥール《鏡の前のマグダラのマリア》(下掲)の頭蓋骨に乗せられた手の部分。ラ・トゥールは制作の最後の段階で人物の指の影になった部分をハイライトで強調している。


ラ・トゥールという画家の真骨頂は、宗教画である。今回はその中でも作品のヴァリエーションが多いマグダラのマリアを描いたシリーズを取り上げてみた。1996-97年のアメリカ、ワシントンDC, フォトワースでの企画展を契機に、科学的分析の進んだ作品3点の分析を振り返ってみる。

取り上げる3点は次の通り:
《書物のあるマグダラのマリア》 (La Madeleine au Livre)
78×101cm 、c.1630-1635(又は1645-1650) 油彩・カンヴァス、 個人所蔵




《鏡のマグダラのマリア》(悔悛するマグダラのマリア)
(Madeleine pénitente, dit aussi Madeleine Fabius)
113×93cm、油彩・カンヴァス、 ワシントン・ナショナル・ギャラリー



《揺れる焔のマグダラのマリア》(悔悛するマグダラのマリア) (Madeleine pénitente)118×90cm 、c.140-1644, 油彩・カンヴァス 、ロス・アンジェルス・ カウンティー美術館




画家の深慮の跡を追う
ラ・トゥールには、この3点以外にも同じ主題での異なったヴァージョンがあるが、いずれにも画家の深い思考の跡が感じられる。

「マグダラのマリア」シリーズは、いずれもこの画家の「夜の作品」のカテゴリーに入る。科学的分析のひとつの結果として判明したことは、画家がこれらの作品を制作するに際して、同一の手法を使わなかったということである。画家は主題の選択のみならず、制作手法においても文字通り見えざる努力を重ねていたことが伝わってくる。

夜の次元では光源を何に求めるかが大きな起点となる。松明、蝋燭、油燭(オイルランプ)、自然光、神の光など、画家が求めた光源はさまざまだ。

「マグダラのマリア」シリーズはジャンルは宗教画で、「夜の世界」という意味では共通しているが、それぞれの作品の間には微妙だが明らかに全体的な印象に差異がある。画家は同一の手続きでは描かなかった。ラ・トゥールは断片的な記録から、ともすれば粗暴な性格とされてきた画家であるが、それぞれの作品を表裏にわたって仔細に考察する限り、画家の精神性の深さ、熟慮は並大抵のものではなく、そうした後世のやや安易な評価には疑問が抱かれる。

まず、《鏡の前のマグダラのマリア》(略称:ワシントン版)を見ると、光源は隠されていて見えない。しかし、マグダラのマリアが手を置いている頭蓋骨の上に焔の先端は見える。焔は暖かだが、不透明な光を放っている。光が照らし出すのは画面の上半分くらいで、下半分はほとんど光が届いていない。よく見ると、光が指をかすかに照らしている。

これに対して《揺れる焔のマグダラのマリア》(ロス・アンジェルス版)では机上に置かれた油燭の状態は明瞭で、炎と煙は静かに立ち上り、画面のほぼ3分の2に明るい効果をもたらしている。

さらに《書物のあるマグダラのマリア》は、ロス・アンジェルス版に対して不透明なフィルムのような印象を与える 。画面全体が暗い。作品は個人蔵であるために、他の作品のような科学的分析はできないが、対比して観察すると多くの類似点を見出すことができる。

作品の裏側に入る
この「マグダラのマリア」シリーズを通して、画家は全体的な色調効果を統一して想定したようだ。3点共に、地塗りの段階ではグレーの層で整えられている。「ワシントン」版、「ロス・アンジェルス」版については、(少量のカルシウム系炭酸塩を含む)ケイ酸土質の画材が使われている。色調は黒色と土色の間に近い。私蔵版は科学分析はできないが、目視で観察するかぎりではロス・アンジェルス版に近い印象のようだ。

これらの作品はクールなグレーの地塗りの上に顔料の絵の具が重ねられているが、同じ地塗りという点から出発して制作されているようだ。画家は、ロス・アンジェルス版と私蔵版では、クールなグレーの表面に直接人物などを描いている。

しかし、ワシントン版については画家は強い黄色のオーカーで第2の地塗りを施している。マグダラのマリアの髪の毛が頬のあたりにかかっているような所には、半透明な絵の具をその上に使って暖かな効果を上げている。



画家が最初の構図をいかなる手法で設定し、描いたのかは判明しない。それを推定させる痕跡は何も残っていない。科学分析でも下書きの跡が見出されていない。画家はデッサンもなしに直接にイメージを思い浮かべ絵筆をふるったのだろう。

画家は最初の地塗りをしただけで、その後は素描もすることなく制作の過程で部分ごとに思い浮かべるマグダラのマリアのイメージを絵の具で対応したと推定されている。ひとつのアイディアをさまざまなヴァージョンで描くことに費やした画家だけに、描くべき対象、構図はしっかりと頭脳に刻み込まれていたのだろう。もしかすると、モデルは
妻であったネールだったのかもしれない。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
N.B.
調査によると、画材の木組みやカンヴァスの素材、張り方などは、ほどほどに粗雑、荒削りなものだが、それ自体は作品としての結果に関係しない。絵画作品としての最後の効果だけを念頭に準備されていた。それは下地(ground) 作りとしての地塗りから出発していた。地塗りは二つのタイプが準備されていた。「夜の光景」用には土色ないし黒色に近い珪酸土質の顔料が使われている。他方、「昼の光景」用には白またはグレーの下地で主としてチョーク(白亜)が組成分であることが判明している。
ラ・トゥールの作品のひとつの特徴は、この上に顔料、絵の具jを次々と重ね塗りをすることをせず、下地の上に直接絵の具で描いている。そのため画面の表の層が単層で大変薄いことが分かっている。必要な場合は、部分的に透明、半透明な色で上塗りを施している。

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『改悛するするマグダラのマリア』シリーズを通して、画面を支配する独特の暗褐色ともいえる絶妙な色調、その秘密を解く鍵のひとつは、画家が深慮の上に創り出した地塗りの色と、その統一された試みにあると考えられる。画面の表層の薄さが、下地の色を透過して全体の色調を定めている。ラ・トゥールの「夜の闇」の色の秘密である。


《鏡の前のマグダラのマリア》の袖の部分、断面の組成(magnification x 110)
a.グレーの地塗り部分、珪酸土(magnesiumalumino silicates, quartz and calcite)、黒色/褐色
b.黄褐色の層 yellow ocher with quartz, calcium-carbonate, and black;
c.ハイライト部分の最初の表層
d.ハイライト強調部分の表層 lead-white with lead-tinyellow, vermillion, black, and a substantial proportion of calcium carbonate.


Reference
科学的分析結果に関する部分は Melanie Gifford et al (1997)

続く 
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17世紀の色:衣装を描かせたらこの人(7)

2021年11月16日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋


ジョルジュ・ド・ラ・トゥール、《いかさま師》部分

アメリカのメトロポリタン美術館が、ラ・トゥールの世俗画
《占い師》The Fortune Teller を取得、所蔵したことで、前回記したキンベル美術館の《クラブのエースのいかさま師》と併せて、この画家が制作にあたって費やした画材、技法などについての調査・研究は格段に進んだ(《占い師》はこのブログでも何度も登場している。それでも記すべきことは尽きない)。

この画家の卓越した技量は作品を一目見れば明らかだが、なかでも人物の衣装や織物の描写の素晴らしさは多くの人が認めるところだ。描かれた人物のまとう衣装に光が当たる部分の描写などを見ると、画家の絶妙なテクニックの素晴らしさが伝わってくる。


ジョルジュ・ド・ラ・トゥール、《いかさま師》メトロポリタン美術館(ニューヨーク)

《占い師》の衣装の描写は、フォトワースのキンベル美術館が保有する《クラブのエースのいかさま師》を上回るとされている。今回はその点を少し見てみよう。《占い師》でも《いかさま師》と同様に下地に使われた白いチョークの色は、画面全体の明るい色調を定めている。しかしながら、ラ・トゥールは必要に応じて部分的には明るい灰色を下地の上に付け加えて塗っている。さらに別の箇所、例えば画面左側の黒い髪のジプシー (今はロマと称する)の女の額の部分にはオフ・ホワイトの地塗りが残されている。他方、右側の年とったジプシーの目の部分には、中間色の灰色の下塗りがなされていることが判明している。画家が細部にも多大な注意を払っていることが分かる。

制作にあたっての綿密な準備
さらに《占い師》も《いかさま師》と同様に、周到な検討の上に人物などが配置されているが、《占い師》の場合は特に慎重な配慮の下に製作されたとみられ、 pentiment (描き直し、塗り直し)の跡がほとんどないことが分かっている。


ジョルジュ・ド・ラ・トゥール、《いかさま師》

《占い師》に使われた顔料、絵の具の色も《いかさま師》よりも多く、充実している。仕上げの着色についても、慎重に考えられた配色、筆さばきが感じられる。絵の具を厚塗りし、その上に透明色を重ねるimpasto と言われる技法も各所で使われている。この占い師(右側)の衣装はとりわけ話題となることが多い。厚い布地に施された鳥や動物の刺繍が、糸目まで分かるように描かれている。占いの間にメダルの金鎖りを切り取るジプシーの女たち(左側)の袖口も布地の触感が伝わってくるようだ。

最初に掲げた占いで、まんまと騙される顔立ちはいいが、ボンクラな?貴族の若者の着る柔らかな皮革の上着も見事に描かれている。人工皮革などない時代、これ一着を作るのにどれだけの労力が費やされたことだろう。それに費やされた金の額は言うまでもない。若者の首飾り、ベルトなども見事に描かれている。

この作品を生み出すまでに画家はどれだけの努力、研鑽を積み重ねてきたのだろう。生まれ育った17世紀ロレーヌの時代環境がそこに凝縮されている。作品に登場する人物は決して空想の産物ではない。パン屋の息子から貴族に成り、ルイ13世付きの画家にまでなった画家の生涯の蓄積が作品に結実している。リュネヴィルやヴィックの街中やナンシーやリュネヴィルの宮殿で見かけた光景の一齣なのだ。この画家は人物のモデルをしばしば市井で実際に見た人々に求めた。ジプシーのカモになっている世間知らずの若者も、その中にいたのだろう。17世紀の格差問題が、極めてシニカルに描かれた作品であるともいえる。

ラ・トゥールの作品は宗教画と言われるジャンルが多いが、数少ない農民やジプシー、貴族たちの姿を描いた数少ない世俗画も、興味が尽きない。


Reference
MELANIE GIFFORD et al. "Some observations on George de Latour's Painting Practice,' Georges de La Tour and His World ed. by Philip Conisbee, National Gallery of Art/ Yale University Press, 1997, pp.246^247

続く


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​17世紀の色(6):ダイアが先か、クラブが先か(6)

2021年11月10日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋
完成度h
次の名画2点、どちらが先に描かれたでしょう


ジョルジュ・ド・ラ・トゥール《ダイアのエースを持ついかさま師》
パリ、ルーヴル美術館



ジョルジュ・ド・ラ・トゥール《クラブのエースを持ついかさま師》
フォトワース、キンベル美術館


ラ・トゥールはひとつの主題を、さまざまな角度や色彩で描いたことで知られる。《ヴィエルひき》《イレーヌに介抱される聖セバスティアヌス》などの例がある。

一度見たら忘れられないと言われる上掲の《いかさま師》シリーズにも《ダイアのエース》、《クラブのエース》が存在することが知られている。いづれも画家の真作であるとほぼ評価は定まっている。前者はパリ・ルーヴル美術館、後者はアメリカ、フォトワース・キンベル美術館が所蔵している。パリ版はブロンドの色調が目立つ明るいフォトワース版に比較して、画面全体が暗く落ち着いた印象である。描かれた人物は同じだが、衣装なども微妙に異なっている。どちらが先に制作されたかということは、所蔵者そして美術史家にとっても、かなり興味深い問題を提示している。所蔵者としては、どちらかといえば画家の最初の構想が初めてカンヴァスに具体化された作品を所有したいと思うだろう。

科学的調査が明らかにしたこと
1997年にアメリカで開催されたこの画家の企画展を契機に、科学的な調査が一段と進んだ。両者のカンヴァスの地塗りは微妙に異なっていて、パリ版の地塗りは3層から成っていることが判明している。赤褐色のオーカーの上に白亜 chalk、そして鉛白が塗られている。他方、フォトワース版は地塗りが1層、白亜で整えられている

ラ・ トゥールの初期の作品《金の支払い》の地塗りは白亜のみであることが判明している。同様な手法をとっていたロレーヌの画家
ジャック・ベランジュの影響だろうか。

両者の構図はほとんど同一であり、画家は型紙(cartoon: 原寸大下図)を用い、いずれか一方から他方へ転写したのではないかと想定される。もしそうならば、転写された図柄に応じて、画家はその後、薄い茶褐色などの線で輪郭を確認して描き、製作を続けたのではないかと推定されている。これらの点、さらに下掲の調査などの結果から、フォトワース版の方が、パリ版より先に制作されたのではないかとの説が有力視されてきた。

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画家のパレット:
フォトワース版では、画家のパレットには鉛白、鉛錫系黄色タイプの顔料、藍銅鉱 アジュライトazurite、ヴァーミリオン(朱色)、赤および黄のレーキ、オーカー、木炭系黒色などがあったようだ。
パリ版では、鉛白、鉛錫系黄色タイプの顔料、アジュライト、ヴァーミリオン、赤黄色系レーキ、ヴァーミリオン・赤オーカー、カーボンあるいは骨黒色顔料が使われたようだ。

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ラ・トゥールは当時入手できた上に記したような顔料などを使いながら、同一のテーマで制作したと思われるが、フォトワース版では、赤のエプロンとくすんだ黄色が注意深く使われ、画面全体に明かるい輝きを放ち、統一性が感じられ、クールに見えるとの評価がある。

他方、パリ版は、かなり大胆な色彩コントラストを実現している。しかし、召使いのブリリアントな赤色のスカートは暗い青緑色の胴着と金色のターヴァン、そしていかさま氏の上着と合わせてみると、配色バランスが悪いとの見方もある(Gifford et al, 1997, p.245)。

このふたつのヴァージョンでは、大きく異なる点は召使いの帽子、エプロン(胴着)、いかさま氏の上着の装飾、騙される若者の衣装などである。

カンヴァスに込められた画家の思い
いずれにしても、この二つの作品は画家が、同一テーマを同じ構図で制作した作品例として、今日に残る数少ないケースであり、画家が制作に際して構想、企画、制作、変更などの点で、さまざまに考えを巡らした内容が凝縮してうかがわれる貴重な例として興味深い。

二つの作品を比較して、主としてスタイルの観点から、パリ版の方が最初に制作されたと主張する1974年のBenedict Nicolsonの説もあるが、どちらかと言えば今では賛同者が少なくなっている。フォトワース版でのX線調査においても、その点を裏付ける事実が発見されている。制作途上で塗りつぶされた残像 pentimentoが多いなどの点でもフォトワース版の方が先きに制作されたとの評価が妥当と考えられている。

ペンティメント pentimento (Italian)
「悔やんでやり直したもの」という意味。制作途上で描き直された線や色彩の跡をいう。繰り返し描かれた描線や絵具の下層に透けて見える修正箇所である。画家の制作過程を知る上で、作品の評価・鑑定上も重視される。画家の初発的な芸術意欲の反映とも見られる。

フォトワース版では召使いの帽子の上が切断されている。これは見る人の視線が、描かれた人物に集中して画面が引き締まるとの当時の考えが反映したものだといわれ、同様な例は他にもある。現代人の目、少なくも筆者にとっては、人物の頭上が詰まっていて窮屈な感が否めない。もったいないことをしたなあとの思いもある。作品によってはこうした考えを反映して、切断された部分を修復時などに付け加えた例もある。この点、パリ版は人物が全体としてゆったりと収まっていて完成度は高いように見える。

しかし、これで決着がついたわけではないところが、面白い。今後新しい発見があれば、この順番は逆転する可能性も十分残されている。17世紀の人と現代人の審美感も同じとは保証できない。制作された17世紀当時の人々の美的感覚が如何なるものであったかを追求したい。「同時代人の眼に立ち返って見る」という視点は、ブログ筆者が絶えず心掛けてきた考えである。そのためには、画家と作品を取り巻く状況を可能な限り調べたいと考えてきた。

さて、改めて上の2点の作品の前後関係、皆さんはどう思われますか。 

続く



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17世紀の色:裏から見た作品(5)

2021年10月27日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋
                     最下段に上級者向け(?)クイズがあります。

20世紀初め、長い忘却の闇から発見された時は、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールという稀有な画家の作品や生涯については、ほとんど謎に包まれていた。しかし、その後、新たな作品の発見と研究は急速に進んだ。今日ではこの画家が、いかなる画業生活を送ったのかという点については、かなりのことが明らかになっている。この画家の数少ない作品と断片的な史料についての多方面にわたる分析と知見の蓄積が進んだ成果と言える。

この画家の手になると思われる50点余りの作品は、今日ではフランスに限らず、アメリカ、日本など世界中に拡散して保蔵されている。そのため、全ての作品が一堂に集められるというような機会はほとんど期待できない。そのため、1996-7年のNational Gallery of Art, Washington,D.C.やKimbell Museum での特別展などが開催された時には、アメリカ各地に所蔵されている10点の作品についての科学的研究が一挙に進んだ。

ラ・トゥールがいかなる修業を行ったかという点については、依然として不明なことが多い。しかし、この時代に活動していた画家のほとんどはその作品も生涯もほとんど知られることなく歴史の闇に埋没してしまって知られることはない。幸いラ・トゥールは、その卓越して見事な作品の故に、多くの研究者の調査と探索の対象になってきた。

史料の調査、研究が進み、徒弟、遍歴の時期を除く画家の生涯もかなり明らかになった。ラ・トゥールの若い時代の画業修業は不明だが、後年この画家自らが親方として徒弟を採用した記録が残っており、この時代の画業修業の輪郭を思い描くことができる。

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N.B.

ラ・トゥールの5番目で最後の徒弟であったジャン・ニコラ・ディドロの徒弟契約書(1648年9月10日)によると、期間は4年間とされ、親方の馬の世話、手紙を届ける使い、食事の給仕をするなどが定められている。ディドロは「顔料を砕くこと、画布の地塗りをすること、絵画に関わる全てのことを行い、配慮すること、必要が生じた場合、人物を描き、またデッサンの際のモデルを務めることが求められる」などが記載されている。
17世紀のヨーロッパにおいて、画家としての職業生活を送るについて、徒弟制度の持つ重みについては、これまでも記したことがある。3〜4年の徒弟生活を過ごし、職人となったとしても、作品が売れなければ生活してゆくことも難しい。ラ・トゥールの工房で修業した5人の徒弟のうち、画家となったことが判明しているのは1名、なかにはロレーヌ公国の兵士となった者もいる。残り3人の消息は分からない。画家になったと思われる1名にしても、その後の行方、作品も不明である。

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ラ・トゥールの制作手法
画家はそれぞれ自らの制作のスタイルを持っている。当時の画家の多くは、あらかじめ対象をデッサンしておいて、それを参考にしながらカンヴァスに向かって制作を進めていったとみられている。これに対して、ラ・トゥールはほとんどデッサンはしなかったのではないかと考えられている*。この画家は通常は直接カンヴァスに輪郭を描いていたようだ。前回記したように、ラ・トゥールは作品に署名、年記を記したものが少なく、《聖ペテロの悔悟》はひとつの基準とされている。

ラ・トゥールの手になったのではないかと推定される 
デッサンも数は少ないが発見されている。しかし、カンヴァスに描かれた作品に比して、デッサンは後世に継承されて残ることが少ない。


ジョルジュ・ド・ラ・トゥール《農婦》、サンフランシスコ美術館

《農夫》《農婦》はいかにして描かれたか
この2作は画家ラ・トゥールの作品では比較的初期のものと考えられている。さらにカンヴァスのサイズなどから、一対の作品として制作されたと考えられている。地塗りからは少量の鉛白、黄橙のオーチャー、そしてbone black(骨炭、顔料)が発見されている。全体としてクールな灰白色の色調になっている。ラ・トゥールは2作ともに下絵を描くことなく、暗い赤褐色のような色のスケッチで直接カンヴァス上に描き始めている。しかし、全体の輪郭をスケッチしてから部分を描き始める、あるいはグリザイユという手順ではない。手法としては17世紀に広く使われていたらしい。幸いラ・トゥールと同時代の画家であるル・ナン兄弟が、この手法を使った未完成の作品が残されている。ラ・トゥールも《農夫》Old Man で空間を確定するために使っている。ル・ナン兄弟がアトリエを開いた時と、ラ・トゥールがルーブル宮に滞在した時は記録上は1年違いであり、両者の間に接触があったかもしれない。

グリザイユ grisaille: 全体を灰色の濃淡で描く画法。


The Le Nain brothers, Three Men and a Boy, National Gallery, London
未完成作品:ラ・トゥールの手法と類似する手法 painted sketch が使われている。

《農夫》《農婦》の2作については、ラ・トゥールは衣装の織地の描写に力を入れていたと思われる。とりわけ《農婦》のエプロンの描写にそれがうかがわれる。拡大して見ると、画家が費やした絶妙な手腕の成果がうかがわれる。


ラ・トゥール《農婦》部分

今日判明している研究結果では、ラ・トゥールはこの2点の制作に際して、一貫した手法で段階的に制作を進めたことが判明している。それによると、画家はモデルの顔の部分を最初に描き、次に衣服に移り、最後に背景に取りかかっている。色彩についても、明るい、軽い色の部分を最初に描き、続いてより色調の濃い部分へと移っている。

《農婦》の白いブラウスの部分が描かれた後に、より濃い色のヴェストとスカートに移っている。


ジョルジュ・ド・ラ・トゥール《農夫》、サンフランシスコ美術館



クイズ:農夫の杖はどの段階で描かれたか
ここで読者の皆さんにクイズをひとつ。
上掲の農夫が手に持つ杖(4)は、画家の制作のどの段階で描かれたのでしょうか。 回答例:(1)→(2)→(3)→(4)
(1) 背景の壁
(2)床(地面)
(3) 人物


答:(3)→(1)→(4)→(2)
「杖」は「人物(農夫)」に次いで「背景の壁」が描かれた後「床」が描かれる前に描かれています。言い換えると、杖は床の前(上)に置かれていません。地塗りの上に直接描かれています。


Reference:
Melanie Gifford et al. Some Obbservations on Georges de La Tour`s Painting Practice
Georges de La Tour and His World, ed. by Philip Conisbee, National Gallery of Art, Washington, New Heaven; Yale University Press, 1998


続く





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17世紀の色:裏から見た作品(4)

2021年10月21日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

コロナ禍が収束するか不明なままに、2年が経過しつつある。クリスマスも目前になった。この時期にふさわしいと思われるテーマを選んでみた。
あなたは次のどちらの絵がお好みでしょうか。

下段の2点の画像はカラヴァッジョ (1571-1610)とジョルジュ・ド・ラ・トゥール(1593-1652)という17世紀を代表する巨匠が,同じ主題《羊飼いの礼拝》the Adoration of Shepherds を描いた作品である。イタリアとロレーヌという風土も反映するのだろうが、両者の作品が与える印象はかなり異なり、きわめて興味深い。制作に当たっての画家の考え、手法などには注目すべき差異がある。その点を知ることは、この二人の巨匠の作品理解にとって極めて意義のあることに思われる。

1609年に制作されたカラヴァッジョ《羊飼いの礼拝》は、画家の作品の中では傑作のひとつと言われるが、この画家の代表作というわけでは必ずしもない。制作の時期、この粗暴な画家は大きな罪を犯し、追われる身にあった。


二人の画家に共通するものは、画面に漂う夜の静寂と容赦ない光の氾濫からの休息である。柔らかな光が聖母と幼な子に集中する。しかし、画面を輝かせる光の根源は何処か分からない。

 カラヴァッジョの作品は、聖母マリアとその手に抱かれた幼な子キリストに見る人の視線が集中し、祝福に訪れた羊飼いたちとの間には微妙な間隔がとられている。画面から伝わってくるのは、この画家特有の強いリアリズムであり、昼とも夜ともつかない黒褐色が優った暗い色調の中に人物が浮かび上がっている。背景は納屋の壁だろうか。よく見ると、微かに牛の頭のようなものが描かれている。


Michelangelo Merisi da Caravaggio, The Adoration of the Shepherds,
oil on canvas, 314x211 cm,Messina, Museo Regionale

 他方、ラ・トゥールの作品では、見る者の視線はまず中心に眠る幼な子イエスに集まる。それと共に左側の聖母マリアとみられる女性の姿と表情にも自ずと視線は向かうだろう。幼な子は世界で一番可愛く描かれているともいわれ、独特のおくるみ dwinddling 姿とともに、見る人の網膜に残る。

聖母マリアの姿はその表情とともに注目を集める。突如として自らが負うことになった重い位置と役割に戸惑っているような複雑な面持ちである。画家の深い思索の表れといえる。画面全体の印象はカラヴァッジョの作品と比較すると、狭い空間に羊飼いを含めて隙間なく描かれ、親しい者たちが寄り集まったような暖かな感じを与える。人々の間から子羊が藁の一本を差し出しているのも、ほのぼのとした温かみを与えている。ヨセフと思われる右側の男性がかざす蝋燭の光で、夜ではないかと思われるが、いかなる場所であるかはまったく分からない。全体に鄙びた雰囲気が漂っている。

ロレーヌの画家ラ・トゥールにとって、作品《羊飼いの礼拝》は、今日に残された作品数が極めて少ないこともあって、この画家の制作に当たっての思想、制作手法を知る上で極めて貴重な意味を持っている。制作年代はカラヴァッジョよりも30年くらい後の時代である。1640年台のロレーヌは絶え間ない戦乱の地であり、さらに頻繁に発生する飢饉と度々襲ってくる悪疫に、人々には苦難が絶えなかった。日々の生活には安心の時が少なく、未来への不安感に絶えず苛まれていた。わずかに城郭で囲まれたリュネヴィルの地は、城外の災害、災厄から、かろうじて城民の生活を遮っていた。

Georges de La Tour, The Adoration of the Shepherds, oil on canvas, Paris Musee du Louvre



Georges de La Tour, details                                    Caravaggio, details


Georges de La Tour, details

美術史の発展の過程で、単にカンヴァスの表面に描かれたイメージの段階に止まらず、制作の手法や材料にわたって、作品をひとつの記憶の場として科学的に分析する領域が生まれた。絵画は単に画布に描かれたイメージの次元に止まらず、それが生まれた時代、画家の人生と一体化した作品として理解しようとの試みである。その試みの一端を記しておきたい。

稀有の天才だが荒くれ者であったカラヴァッジョは、ダークブラウンのカンヴァスをしばしば使い、下地に直接的、一気に絵筆を使っている。これに対して北方ネーデルラントのカラヴァジェスティやロレーヌのラ・トゥールなどの間には、背景などの色調に微妙な違いが見られる。

科学的手法の成果
この点を解明するに、赤外線写真、紫外線蛍光写真、X線写真、絵具層断層面の調査(クロスセクション)などによって、画家の制作の跡をできる限り、深部に渡って厳密に探索して作品の新たな読み方を提示する試みがなされてきた。署名や年記の不明な作品あるいは経年劣化した作品の修復について、科学的手法を活用して、制作当時の画家の意図を確かめ、対応する。

滅失、逸失などで現存作品数が極度に少なく、署名や年記の記載が少ないラ・トゥールの作品については、この観点からの調査、研究で多くの知見が生まれ、蓄積されてきた。フランス博物館科学研究・修復センターを中心に、内外のいくつかの美術館などが研究を行なってきた。

最初の貢献はX線写真である。X線は鉛白のような物質には吸収されるため、写真では明るく写る。一方、土性顔料やグレーズなどは通過する。このように各層の厚さや成分によって違いが生まれ、画像が形成される。制作者か後世の修復家の手になるものかも判別できることがある。

Glaze:厳密な定義はないが、通例では顔料を少量含む被覆加工をいう。特質はその透明性にある。不透明、淡色の顔料を用いた場合は、<ぼかし> scumblesと呼ぶ。

画家ラ・トゥールは結婚後、妻の生まれ育ったリュネヴィルで工房を持ち、画業生活を送った。度重なる戦乱、火災などで、この間に制作されたであろう多数の作品は逸失・滅失し、今日でも世界中で50点余りの作品しか残存していない。上掲の作品はフランス王からロレーヌの総督に任命されたラ・フェルテ Marquis de La Ferte に市民から贈られたものであったがために、幸にも今日まで継承されてきたとも思われる。画家には市民に課せられた税金から700Fという多額が支払われた。

変化する地塗り
 16世紀から17世紀初め、パリ、フランドル、ロレーヌなどでは、工房での地塗りの方法が変わりつつあった。最初は白亜(chalk: 天然産の炭酸カルシウムの一つ。イギリス海岸、北フランスなど広く鉱床がある)を中心とした白い地塗りが行われていた。その後、少し褐色の色がついた(天然の)土性の粉(鉛白、白亜、オーカー)をリンシド油に溶かして塗るようになっていた。さらに少し黄色味を帯びた白色塗料を塗った。そして最後にもう少し地色の濃い塗料を塗ってよく乾かして仕上げた。

比較的最近行われた上掲のカラヴァッジョの《羊飼いたちの礼拝》(メッシーナ地方美術館)とラ・ トゥールの《羊飼いたちの礼拝》(ルーヴル美術館蔵)の比較研究によると、カラヴァッジョの作品の地塗りは赤褐色を帯びた濃い色だが、ラ・ トゥールの作品の地塗りは白色系で、画家は表面の絵の具を巧みなグレージングで溶かして制作していたことが判明している。これは1620年代初期、カラヴァジズムがヨーロッパを席巻していた頃、ホントホルストやフレミッシュの画家が使った手法といわれる。こうした画材の化学的分析からも、作品年代の推定が可能になったことも近年の美術史研究の成果である(Merlini and Storti, 2010, p.187).

カラヴァッジョとラ・トゥールの制作技法の違いを示すのが、両者の作品の一部を採取した標本の断層面である。これらの標本から知り得た事実については、次回に記すことにしたい。


カラヴァッジョ            ラ・トウール 


続く
2011年11月25日から2012年1月8日まで、パリ、ルーヴル美術館がミラノで開催したラ・トゥール企画展では、《羊飼いの礼拝》と《大工聖ヨセフ》が展示の中心であった。

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17世紀の色:裏から見た作品(3)

2021年10月14日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋


ジョルジュ・ド・ラ・トゥール《聖ペテロの悔悟》1645年の年記、署名が確認できる作品

ラ・トゥールが活動した17世紀には、絵画作品は文字通り画家や工房における手仕事の作品であった。今ならば、画材店でカンヴァスや顔料、絵の具などを購入することは日常のことであり、画家は画布上にいかなるイメージを描き出すかにほぼ専念できる。フランスやイギリスでは18世紀以降は画家養成のため設立されたアカデミーがこれらの作業段階を受け持ったが長続きせず、その後は画材商などの手に移った。この意味で、17世紀の絵画は、画布(カンヴァス)に描かれた部分を含む手仕事作品として存在している。

戦乱・災厄の時代の画家であったラ・トゥールの場合、作品に関わる史料があらかた失われており、作品目録も不確かであるため、僅かに残されたおよそ40-50点の作品の真作確認は困難を極めた。1638年のリュネヴィルの戦火などで、工房や地元の愛好者などが保有していた作品の多くは失われたと推定されている。さらに、当時の画家は必ずしも署名や年記を作品に残さなかったこともあり、真作の確認は多くの時間を要した。現存するラ・トゥール作品の中で、署名、年記が明瞭に確認されているのは、1645年の《聖ペテロの悔悟》(上掲)と1650年の《聖ペテロの否認》の2点にすぎない。

こうした事情もあって、作品の確定、鑑定の作業は今日まで続いている。この点を理解するには、当時の絵画作品が生まれるまでの画家の工房などでの作業についての知識と理解が欠かせない。

工房の役割
17世紀ヨーロッパの工房の作業内容は、親方の体得している知識と技能に基づいており、徒弟制度apprenticeshipというシステムを通して、伝承されてきた。徒弟制度は基本的に契約に基づいており、親方と子弟を徒弟にしたい親などの間で、修業の内容を記した契約を交わすことが普通だった。ラ・トゥールの場合、生涯に5人の徒弟をとっていることが判明しているが、契約書に徒弟がなすべき仕事の内容が明記されている場合もある。例えば、乗馬の名手でもあったとみられるラ・トゥールの場合、徒弟に求められた仕事の一つに馬の世話が含まれていた。徒弟の形態としては、親方の家に住む、「住み込み徒弟」が多いが、両親の家からの「通い徒弟」もあった。

油彩画家の工房では、徒弟は先ずカンヴァスを張る木枠を作ることを学ぶ。そして次に多くは地元で織られた1メートル足らずの細い幅の麻布、時には亜麻布を画布として、木枠に釘,鋲、紐などで固定する。次に画布に「目止め」を塗る作業がある。カンヴァスなどの支持体に「地塗り」をする作業だが、大体は徒弟に割り当てられる仕事であった。地塗りに使う塗料は白色系統が主であり、ジェッソ、ゲソ gesso と呼ばれる石膏と水、膠などを混ぜた液体である。白亜や様々な土性顔料が主成分である。

インプリマトゥーラ impurimatura 英 ともいわれる。
「印を付けること」を意味するイタリア語に由来。地塗りの上に塗って絵具の発色を良くする絵具層。「下塗り」ともいう。画布の全面あるいは部分について実施。


地塗りは作品が制作される過程で下地として隠れてしまうが、不透明なため作品の全体的な色合いに影響を与える。画家や作品によって微妙に色調などが異なっている。

ラ・トゥールがどこでいかなる画業の修業をしたかは明らかではない。しかし、当時の周辺事情からおそらく地元ヴィックで活動していた若い画家クロード・ドゴスの工房で、その一部あるいはほとんどを終えたと推定される。工房入りし、徒弟としての修業をしなかった画家もいないわけではなかったようだが、工房に蓄積された情報、技法の量は膨大であり、多くの画家は何らかの形で工房での修業に関わった。そこでの就業は体系化はされておらず、徒弟は親方の身の回りの世話、使い走りなどを含め、On-the-Job-Trainingの形で、画業に必要な知識、技能を習得しなければならなかった。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
N.B. 

 
クロード・ドゴスはヴィックに住み、活動していた。当時ドゴスは20歳くらいの若い親方だった。地域ではかなりの評判を獲得していたと思われる。彼は1607年5月に最初の徒弟フランソワ・ピアーソンFranxois Pierson (僧院長のおい)を受け入れている。1610年には司教区管轄地域の法律家の息子を受け入れている。同時に二人の徒弟を受け入れることは、ヴィックのような小さな町では、よほど大きな仕事でもないかぎりありえない。そうなると、ここでラ・ トゥールが修業した可能性は早くとも1611年以降ということになる。(推定年齢ラ・トゥール18歳)。これは当時の標準的な徒弟修業(12-14歳から開始)には遅すぎる年齢であった。ラ・ トゥールが若い時のドゴスの所で徒弟修業したとは思えない。恐らくラ・ トゥールの若い頃に、通い徒弟のような形で、短い期間、当時の画法の基本や流行などを習得したくらいではないか。そしてドゴスは1611年にはナンシーのかなり富裕な薬剤師の家から妻を娶っていた。1632年ヴィックの聖堂参事会サン・エティエンヌ教会の祭壇画を描き、300リーブルという多額な報酬を受け取っている。このことは、彼がこの地でかなりの評判の画家であったことを示している。1647年、ラ・ トゥールの息子エティエンヌは、ドゴスの姪アンネ・キャサリン・フリオと結婚している(Thuillier 2013, p.23)。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

こうした背景の下で、後世20世紀初頭(191~34年)になって再発見されたラ・トゥールの作品と経歴の探索過程は、多くの謎に包まれたものとなった。その後、数々の謎の解明に当たっては美術史家が果たした貢献は極めて大きいが、作品の解明には科学の力が大きく寄与した。

なかでも、フランス博物館科学研究・修復センターの果たした役割は極めて大きく、1972年の大回顧展以来、作品の解明に大きな貢献をしてきた。さらに1996-97年アメリカ、ワシントン国立美術館、フォトワース、キンベル美術館で開催されたラ・トゥール展の際に、当時アメリカが保有していた10点の作品について、科学的検討を実施した結果が多くの知見をもたらした。いかなる検討が行われたか、次回にその一部を紹介したい。


 Georges de La Tour AND HIS WORLD edited by Philip Conisbee, 1996, National Gallery of Art, Washington, D.C.cover

続く



Reference
エリザベト・マルタン「記憶の場としての絵画ージョルジュ・ド・ラ・トゥールの作品の科学的調査」『Georges de La Tour ジョルジュ・ド・ラ・トゥール: 光と闇の世界」東京展カタログ、2005年

MELANIE GIFFORD AND OTHERS, ”Some Observations on George de La Tour’s Painting Practice” in Georges de La Tour AND HIS WORLD edited by Philip Conisbee, 1996, National Gallery of Art, Washington, D.C.

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17世紀の色:裏から見た作品(2)

2021年10月08日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋




1972年、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの大回顧展がパリ、オランジュリーで開催された。しかし、40年近くが経過した今では、当時の状況を知る人たちは、きわめて少なくなった。ブログ筆者は仕事でパリに滞在しており、幸運にもこの歴史的な展覧会を見ることができた。オランジュリーでは、当時あまり例を見ないといわれた長い行列ができていたことが印象に残っている。およそ35万人というひとりの画家の作品展としては、記録的な観客数であったといわれていた。

17世紀ヨーロッパの美術愛好者にとっては、それまで散発的に展示されていた多くの謎に満ちた画家の作品が、初めて包括的に展示されたという意味で、きわめて強い印象を残した。ブログ筆者の手元には当時のLe Monde紙の切り抜き(下段に掲示)があるが、美術欄で大きな紙面を割いて、この画期的な展覧会について記している。

「昼の作品」の発見
なかでもそれまで「夜の画家」といわれてきたこの画家について、初めて「昼の画家」としての作品が発見されたことを報じていた。今では画家の名前は知らない人でも、絵は見たことがあるという《
ダイヤのエースを持ついかさま師》が大きく取り上げられていた。あの一度見たら忘れられない顔である。

かくして、この画家の作品には「昼の絵」、「夜の絵」という区分が生まれた。この画家に魅せられ、作品を仔細に見るようになったブログ筆者は、この区分はあくまで後世の美術史家、ジャーナリズムなどの間に生まれた便宜的なものであり、画家自体がそうした区分を意識していたものではないと考えてきた。画家が意識していたとすれば、テーマが宗教的なものか、世俗的なものかのいずれかであったにすぎない。

事実、ラ・トゥールの作品を見ると、「昼の絵」といえども背景は陽の光など自然光を思わせる色は使われていない。背景には、場所を示すような具象的なものは、ほとんど何も描かれていないか、微かにしか描かれていない。この画家は主題を伝えるに不必要と思うものは徹底して描かなかった。代わりに、必要と考えるものは老人の顔の皺から髭1本に至るまで、現代の写真も及ばないと思うほどリアルに描き込んでいる。画面に余すことなく仔細に描きこんでいるフェルメールのような画家とは全く作品に対する考えが異っている。

ラ・トゥールの作品の背景は暗褐色ともいうべき不思議な色で支配されている。色には微妙な濃淡があり、あえて光源らしきものを求めると、蝋燭や燭台が描かれている場合は別として、神の光ともいわれるどこからともしれない光が差し込んでいるだけである。そこで使われている画法といえば、キアロスクーロ*1といわれる明暗の効果を、黒色系の濃淡を持って強調した特異な手法テネブリズム*2であった。ラ・トゥールの色調はカラヴァッジョとは異なるが、カラヴァッジョの影響を受けていると考えられる。イタリアとロレーヌという地域の文化的風土の違いも影響しているだろう。

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N.B.
*1 キアロスクーロ chiaroscuro (Italy)
「明暗」という意味で、画面上に光による明暗の効果を描き出す画法であり、レオナルド・ダヴィンチが創め、その後カラヴァッジョが画法として深め、カラヴァジェスティなど17世紀画家の間に広がった。実際には様々な意味で使われている美術用語だが、17世紀にはスペインのホセ・デ・リベーラ、ローマ在住のドイツ人画家アダム・エルスハイマー、さらにカラヴァッジョ、ルーベンスなどによって充実し、北方の画家、フランスのラ・トゥールなどに伝わり、様々な展開を遂げた。

*2 テネブリズム tenebrism (English)
「暗闇」の意味のイタリア語 tenebra に由来。17世紀に流行した背景を暗くし、人物など主要モティーフに光を当て、明暗を強調した絵画手法。カラヴァッジョの影響を受けたカラヴァジェスティに広く見出される。
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17世紀にあっては、画家は画材の準備から顔料の調達まですべてを自らのできる範囲内で行わねばならなかった。工房における親方、徒弟制度が形成されたのも、そうした下準備を行うためでもあった。カラヴァッジョは自らの工房を持たなかったとされ、社会的にもならず者として逸脱、放埒な人生を送ったため、いかなる形で画業の修業を行なったか定かでない。

他方、ラ・トゥールはロレーヌという戦乱、悪疫などが襲うことが多かった地域で画家としての生涯の多くを過ごした。しかし、そうした中でも工房を維持し、画業を続けた。ブログ筆者が長年にわたる探索のテーマとしてきた社会における熟練・スキルの蓄積、形成のあり方にも関わっている。

続く

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17世紀の色:裏から見た作品(1)

2021年10月02日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋



ジョルジュ・ド・ラ・トゥールという画家の作品と生涯に惹きつけられて以来、図らずも同時代の多数の画家の作品を見る機会があった。その過程で多くのことを学んだが、ブログでは到底書き尽くせない。ブログ筆者の関心が画家の作品と生涯を一体としてみたいという次元にあるので、半世紀近く見てきた画家でも次々と新たな興味が生まれる。

1972 年のパリ、オランジェリーでのラ・トゥール大回顧展を見た当時を思い起こすが、カラヴァッジョ(1571-1610)の影響を受けたのではないかとの指摘は見られたが、二人の関係についての研究も初期段階にあった。カラヴァッジョに関する研究もその後の国際カラヴァジェスティ・ムーヴメントといわれる研究の進展を思うと、昔日の感がするほどであった。日本においては、カラヴァッジョ?、ラ・トゥール?「それ誰?」といわれたほどの知名度だった。ラ・トゥール(1593-1652)にいたっては、クァンタン・ド・ラ・トゥール(La Tour, Maurice-Quentin de, 1704-88、18世紀フランスの著名なパステル・肖像画家、ルイXV世の肖像画家)と混同されていた美術史家?もおられたほどだった。ブログ筆者も経験した本当の話である。

閑話休題。
これらの画家に魅せられてからしばらくして気づいたのは、作品の背景の色であった。純然たる黒色でもなく、褐色でもない不思議な色である。黒褐色とでもいえるだろうか。

画家や作品によって、濃淡や色調の差異はあるとはいえ、気づけば画面を支配する圧倒的な色である。電灯のような人工の光がなかった時代、昼とも夜ともつかない不思議な色である。

ラ・トゥールについては、しばらくの間「夜の画家」といわれていたが、『いかさま師』や『占い師』など昼光の下での光景を描いたと思われる作品が発表され、それらは「昼の絵」と形容されるようになった。しかし、画家自身は「昼の絵」、「夜の絵」と自ら意識して区分していたわけではなく、後世の美術史家がつけた区分にすぎない。強いていえば、世俗画といえる画題の作品に「昼の絵」という形容区分がなされているにすぎない。

この暗褐色ともいえる独特の色は、17世紀に入り、カラヴァッジョあるいはの作品などに顕著に目立つようになった。現代の美術史研究書などでは、「黒色」の分類に入れられていることもあるが、純然たる黒色というわけでもない不思議な色調である。

同時代の画家でも、カラヴァッジョの影響をあまり受けていない画家、風景画や背景に多くを描き込んでいる画家の作品ではあまり感じられない。ラ・トゥールの生まれたロレーヌは、現代でも夜は灯火が少なく、闇が支配している地域が多いが、リアリズムの画家といえども闇を描くにはかなり苦労したのではないか。17世紀の闇は、神秘で不安や恐怖が支配する空間だった。

この闇、夜を描くに当時の画家たちは、いかなる思いを抱き、カンヴァスに向かったのだろう。この問題について、しばらくメモを記しておきたい。
続く



N.B.
作品の色彩に関わる問題について考えるに際しては、現代における印刷や画像技術の発展が不可欠である。作品に対面し、問題意識を持って観察しない限り、ともすれば見過ごされてしまう。

カタログ、カタログ・レゾネなどの印刷技術の貢献は、この問題を考える場合に不可欠ともいえる。現作品に頻繁に対面できる機会は、一般には極めて限られているからである。
ちなみに、筆者の手元にある1972年のラ・トゥール展のカタロクは、表紙と7点の作品だけがカラー印刷であり、その他は全てモノクローム印刷である。

Exhibition Catalogue Cover
Georges de La tour,
Orangerie des Tuileries
10 mai - 25 September 1972
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​神様、どうか火が消えませんように!

2021年04月26日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋


Georges de La Tour
LA FILLETTE AU BRAISIER. A Girl Blowing on a brazier/
private collection, USA
oil on canvas, 76x55 cm, ca 1646-48, indistinctly signed upper right...a Tour.
ジョルジュ・ド・ラ・トゥール《火鉢の火を吹く少女》


顔立ちからみてせいぜい10歳くらいだろうか。暗闇と思われる中で、小さな顔の女の子が、火鉢の中の火種を絶やさぬよう口をすぼめて吹いている。画面に描かれているのは上半身だけであり、他に取り立てて目立つものはない。背景もほとんど闇である。宗教的含意のようなものも感じられない。

Q:  BRAISIER (火鉢)の中で燃えているのは何でしょう? 
答は本記事文末に。

《火鉢の火を吹く少女》A Girl Blowing on a Brazier (La Fillette au brasier)と題されたこの絵画は、17世紀、ロレーヌ(現在のフランス東北部)で活動した画家ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの晩年の作品と考えられている。

この時までにラ・トゥールは、フランス王ルイ13世やロレーヌ公の宮廷画家にもなっており、画家としての名声は確立していたが、その生涯や作品にはいまだに謎の部分が多い。作品については専門家によって鑑定にも違いがあるが、大体50点余が今日現存する画家の真作とされている。

この作品はラ・トゥールの中心的テーマであるろうそくの焔に照らされた人物画の中で、唯一私有されていた作品とされてきた。その他の作品は美術館など公的機関の所有になっていた。しかし、コロナ禍の下、昨年末、この作品もドイツで競売に付され、個人の手を離れた。しかし、最終的行方は公表されていない。

作品はこれまで多くの場所で展示されてきたが、最近では2016年マドリッドのプラザ美術館での特別展に出展された。さらに2020年、コロナ禍の下であったが、ミラノのPalazzo Realeでも展示された。幸いブログ筆者は1997年 Grand Palaisの展示で見る機会があった。

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N.B.
2020年12月、17世紀フランス・バロックの画家ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの絵画が、ドイツの競売ハウスLempertzで€4.3 million (買い手費用含みで$5.2million、邦貨換算約5億6千万円)で落札された。入札前の予想では、€3million~€4millionと推定されていたので、それを上回った。

判明している来歴を見ると、この作品は、1646~48年頃制作されたとみられ、その後1940年頃にトゥルーズで発見されたらしい。1947年頃ニースのJan Negerが取得したが、その後何度か所有者が変わった。その後ケルンに本拠を置くオークション・ハウスLempertzでゲルマニア航空会社の創立者であった故ビショッフ Hinrich Bischoffのコレクションの一部として競売に付された。ビショッフは1975年にロンドンのクリスティの競売で本作品を£17,850で競り落としていた。その前にはニューヨークの蒐集家Spencer Samuels が所有していた。彼はロンドンのサザビーで1968年に£25,000で取得していた。

この作品は画家の真作とされているが、作品の劣化が進み画面右上の署名はほとんど読めなくなっており、ラ・トゥールの工房作ではないかとの説もある。同じ主題の作品は本作品の他に3点ほどあるともいわれている。しかし、すでにラ・トゥール研究の大家などが多くの賛辞を与えている(ex. Pierre Rosenberg 2006)。
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火が燃える神秘
この画家には類似の主題で《ランプの火を吹く坊や》《タバコを吸う若者》を描いた作品がある。炭火やタバコの火を吹いて絶やさないようにするという行為に、17世紀ロレーヌで活動した画家、そして顧客が何か惹かれるものを感じていたのだろうか。火が燃えるという現象自体、科学的な解明がなされていなかった時代である。焔に息を吹きかけて、それが燃え上がるという現象に神秘的なものを感じたとしても不思議ではない。
ラ・トゥール以外にも、エル・グレコなど同じテーマで制作を試みた画家もおり、なぜ当時の人々がこの行為に興味を惹かれたのか、今後の研究課題でもある。ユトレヒトのカラヴァジェスティからラ・トゥールがインスピレーションを得た可能性もある。

ラ・トゥールのジャンルとしては、どちらかといえば傍流といえる作品だ。あえてジャンルの分類をするならば、風俗画に入ると考えられる。しかし、観ていると次第に惹きつけられ、時間を忘れさせるなにかがある。この画家の中心的なジャンルは宗教画なのだが、一見すると世の中の普通の人々を描きながら、不思議と強い宗教性を感じる作品が多い。《生誕》が良い例だ。

さらに、この画家ラ・トゥールのジャンルには謎が多い。画家としてこれだけの力量を持っていたら、肖像画などの注文が多数あったと思えるが、現存する作品の中には見当たらない。また当時のジャンルの中では上位にあった歴史画も描いていない。しばしば対比される同時代の画家プッサンとは大きく異なる。これは、プッサンが生地フランスへ戻ることを拒否し、生涯にわたり居住し続けたローマが歴史研究に絶好の環境を提供していたのに対して、ラ・トゥールの活動したリュネヴィルの地は、戦乱や疫病などに絶えず脅かされることが多かったことが影響したのだろう。

しかし、ラ・トゥールはそうした不利を一点の制作に多くの時間を費やすことで克服しようとしたのではないか。生涯における制作数も数百点といわれるが、あくまで根拠の乏しい推定に過ぎない。ただ、ロレーヌという画家の活動した地域が、絶え間ない激動と苦難の地であり、逸失、滅失した作品は数多いと思われる。

苦難を癒す
ラ・トゥールの作品としては、やや周辺的とも思われる世俗画だが、想像するに、この画家の多大なエネルギー、努力が傾注された宗教画などの作品には当時から高値がついていた。画家のそれらの作品を自らのものとできない愛好家たちが、なんとかラ・トゥールの作品を手元に置きたいと考え、画家や工房に依頼し、それに画家が応えた作品ではないだろうか。



References
Georges de la Tour, the Last in Private Hands, Set Record of $5.2M
https://www. artmarketmonitor.com/2020/12/09/georges -de-la-tour-noctuurne-the-last-in-private-hands-sets-recird-of-5-2-million/

Jaques Thuillier, GEORGES DE LA TOUR, Paris:Flammarion, 2012

記事中のQuestionへの答
石炭といわれています。この地方ロレーヌは石炭、岩塩、銅などの鉱物資源には恵まれていました。

オークション・ハウス Lempertzの競売広告

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ラ・トゥールも避けるコロナウイルス

2020年04月12日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

 

カタログ表紙の作品は

ジョルジュ・ド・ラ・トゥール《鏡の前のマグダラのマリア》ナショナル・ギャラリー・オブ・アート、ワシントンD.C.

闇が深いほど光は明るく射す
今年2020年2月7日からイタリア、ミラノで、17世紀フランスで今や最も著名な画家とされるジョルジュ・ド・ラ・トゥールの特別展が予定されていた。しかし、折り悪く新型コロナウイルスの大規模感染地となった北部イタリアのミラノ王宮が開催場所であったため、開催は4月13日に延期された。しかし、今日になっても、状況は顕著な改善の兆しが見られないため、5月3日まで再延期されることになった。大規模な展覧会が2度も延期されるのは、極めて希有なことである。ちなみにイタリアでラ・トゥールを取り上げた展覧会は厳密には初めてではないが、 ミラノ王宮 Milan’s Palazzo Reale としては、初めて本格的にジョルジュ・ド・ラ・トゥールの作品と作品世界を迎えることになる。


苦難の時代を生きた画家
この画家の背景を知る者にとっては、興味深い点がある。ジョルジュ・ド・ラ・トゥールが生きた時代、17世紀ロレーヌは、戦争、飢饉、疫病の蔓延で苦難の連続であった。画家の生涯においても、ペストと思われる疫病の流行で多くの犠牲者が出て、画家夫妻も感染症で命を落としたことが判明している。子供が10人いても、親が世をさる時には3人くらいしか生存していなかった(その詳細は、本ブログを訪れてくださった皆様はすでにご存知のことだろう)。

この苦難に満ちた時代を生き、希有な生涯を過ごした画家の深い精神的沈潜に基づく作品を鑑賞するには、今はある意味で格好な時かもしれない。ミラノ展については、いずれウイルス禍の嵐が過ぎ去った時、ご紹介できるかもしれないが、予告編としてお知らせだけしておこう:


Georges de La Tour

 L’Europa della luce

ジョルジュ・ド・ラ・トゥール
ヨーロッパの光

〜 イタリアで初めて、17世紀フランスで最も有名な画家、そして同時代の偉大な画家たちに捧げる展覧会 〜

 ミラノ展ではラ・トゥールの作品を柱に、同時代フランス、北方ネーデルラントの画家(エリット ファン・ホントホルスト、ポウル・ボル、トロフィーム・ビゴー、フランツ・ハルスなど)の作品との比較を通して、ジャンル画および視覚的な実験について新たな視角を導入することを企図している。この点についてはラ・トゥールという神秘的な画家に未だまつわる多くの問題に立ち入って検討することを含んでいる。作品の貸出し側は3カ国28カ所と多岐にわたっている。本ブログ筆者はラ・トゥールの作品はすでに何度も接しているが、その他の関連画家の作品には、なかなか目にしない作品も含まれており、楽しみな企画である。目前の闇が深いほど、前方に射す光は輝く。早く暗闇の先に光を見たいですね。



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ラ・トゥールの謎に迫る?

2019年12月15日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

 

ジョルジュ・ド・ラ・トゥール(1593 - 1652)という画家は長らく「謎の画家」と言われてきた。その生涯は、作品発見の過程から今日まで多くの謎に包まれてきた。この時代の画家に必ずしも限ったことではないが、当時の画家の生涯や作品の全てが、今日明らかであるわけではない。名前すらほとんど知られることなく、歴史の中に埋没してしまった人々の方がはるかに多いといえる。

その後、美術史家たちの弛まぬ努力の結果、類稀な才能に恵まれたラ・トゥールという画家の生涯と作品制作の実態が次第に解明され、今日にいたった。今や17世紀フランス画壇にそびえる中心的画家のひとりである。

それにもかかわらず、この画家の生涯、そして作品の制作をめぐっては多くの謎が生まれ「謎の画家」としても知られてきた。その謎のいくつかは画家がたどった人生と画業にまつわるものである。ロレーヌという戦乱の地で画業生活を過ごした画家であったため、史料や作品の多くが散逸し、その多くは戦火などで失われたものと推定されている。発見された史料の類は数少なく、断片的である。そのため、史料の解釈をめぐっては、多くの異論が提示されてきた。画家の生前の精力的な制作活動から推定して、現在画家の真作と推定される50余点を数倍は上回る作品だを残したと思われる。

「昼」でも「夜」でもない世界
今回は、ら・トゥールにまつわる伝承や謎に関わる問題のひとつを取り上げてみたい。ラ・トゥールは長らく「夜の画家」あるいは「闇の画家」と言われてきた。しかし、1972年にパリ・オランジェリでこの画家の全作品を集めた特別展が開催され、《ダイヤのエースをもつ女いかさま師》、《女占い師》が初めて公開され、大きな反響を呼んだ。画面には蝋燭も松明も見当たらず、それまでラ・トゥールの作品の特徴として伝承されてきた「夜の作品」ではなかった。

ラ・トゥールの研究者たちは、この長らく忘れられ、多くの謎に包まれた画家が、「昼の作品」をも制作していたことに驚かされた。ここでいう「夜あるいは闇の画家」という意味は、作品の背景が夜のごとく暗く、画中には蝋燭、油燭、たいまつなどの光源が描かれ、人物などを映し出している。光源らしきものは見当たらず、「神の光」とも言われるどこからともなく射し込んでいる光が描かれている作品もある。画面には、画家が最も重視する人物などが細部にわたり、委細克明に描かれている。他方、「昼の作品」といわれる絵画には、蝋燭など光源のようなものは一切描かれていない。

余計なものは描かない画家
ラ・トゥールの作品の特徴の一つは、テーマに直接関連しないと思われる部分は徹底して省略されていることにある。例えば、この画家の作品で、背景の壁などが、それと分かるように描かれているものはほとんどない。夜とも闇ともつかない不思議な暗色系の色で塗りつぶされている。
同じ17世紀のオランダの画家フェルメールが室内にあるものすべてを克明に描いているのとは全く正反対であり、ラ・トゥールは自分が考える必須の対象だけに集中し、その他のものはほとんど描いていない。対象への集中に専念したのだろう。フェルメールの作品は現代人の多くの目には、大変美しく見えるが、画家の抱く精神的世界での沈潜は浅く、厳しい評価をすれば、表面的な美の世界にとどまっている。他方、ラ・トゥールの作品の多くは、描かれた人物の生涯、精神世界に観る者を引き込む引力を感じさせる。
 この画家の作品を長年にわたり見てきたブログ筆者は、ラ・トゥールは「昼の画家」でも「夜の画家」でもなく、「光と闇のはざまに生きた画家」と考えている。この画家の作品を、この視点から見直すと、室内とも屋外ともつかず、背景は不思議な暗色で塗り込まれている。思うに、この画家にとって、昼と夜の区分は問題ではない。


《大工ヨセフ》の作品に見るように、室内とも屋外とも、場所も定かではない。ヨセフと幼きイエスは同じ空間に描かれながらも、二人の視線は交差することなく、あたかも俗界と霊界を区分する色の色が支配している。


ロレーヌの冬の空は薄暗く、春が待たれる。車道から離れ、少し森の中に踏み込むと、獣道のような道ともいえない道があり、深い森に続いている。立ち入るほどに昼なお暗く、土地の人の話では猪や鹿狩りも行われているという。事実、筆者が訪れた時にも、遠くで銃声のような音が聞こえていた。17世紀までは、夜になると魔女が集まり、踊り狂う恐ろしい場所でもあった。


戦争、飢饉、重税など、絶えず襲ってくる幾多の災厄、危機に、農民のみならず、画家の心象風景も揺れ動いていた。

 

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絵の裏が面白いラ・トゥール(7):画家の謎に迫る

2019年09月20日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

 

ラ・トゥール(1593 - 1652)という画家は長らく「謎の画家」と言われてきた。その生涯は、作品発見の過程から今日まで多くの謎に包まれてきた。この時代の画家に必ずしも限ったことではないが、当時の画家の生涯や作品には不分明な点が多く、今日すべてが明らかになっているわけではない。画家の中には名前すらほとんど知られることなく、歴史の中に埋没してしまった人々の方がはるかに多いといえる。

その後、美術史家たちの弛まぬ努力の結果、たぐい稀な才能に恵まれ、異色な生涯を送ったラ・トゥールという画家の生涯と作品制作の実態が次第に解明され、今日にいたった。ラ・トゥールは今や17世紀フランス画壇にそびえる中心的画家のひとりである。

それにもかかわらず、この画家の生涯、そして作品の制作をめぐっては多くの謎が生まれ、「謎の画家」としても知られてきた。その謎のいくつかは、この稀有な画家がたどった人生と画業にまつわるものである。ロレーヌという戦乱や災害に苦しんだ地方で画業生活を過ごした画家であったため、史料や作品の多くが散逸し、その多くは戦火などで失われたものと推定されている。発見された史料の類は数少なく、断片的である。そのため、史料の解釈をめぐっては、多くの異論が提示されてきた。画家の生前の精力的な制作活動から推定して、現在画家の真作と推定される50余点を数倍は上回る作品を残したと思われる。


「昼」でも「夜」でもない世界
今回は、ラ・トゥールにまつわる伝承や謎に関わる問題のひとつを取り上げてみたい。ラ・トゥールは長らく「夜の画家」あるいは「闇の画家」と言われてきた。しかし、1972年にパリ・オランジェリでこの画家の全作品を集めた特別展が開催され、《ダイヤのエースをもつ女いかさま師》、《女占い師》が初めて公開され、大きな反響を呼んだ。

画面には蝋燭も松明も見当たらず、それまでラ・トゥールの作品の特徴として伝承されてきた「夜の作品」ではなかった。ラ・トゥールの研究者たちは、この長らく忘れられ、多くの謎に包まれた画家が、「昼の作品」をも制作していたことに驚かされた。ここでいう「夜あるいは闇の画家」という意味は、作品の背景が夜のごとく暗く、画中には蝋燭、油燭、たいまつなどの光源が描かれ、人物などを映し出している作品を意味している。光源らしきものは見当たらず、「神の光」とも言われる、どこからともなく射し込んでいる光が描かれている作品もある。画面には、画家が最も重視する人物などが、委細克明に描かれている。他方、「昼の作品」といわれる絵画には、蝋燭など光源のようなものは一切描かれていない。「昼の作品」が見出された後には、他の画家の作品ではないか、あるいは習作ではないかとの評もあったが、間もなく画家の真作であることが確認された。今日では画家の代表作の一つとなっている。


余計なものは描かない 
ラ・トゥールの作品の特徴の一つは、テーマに直接関連しないと思われる部分は徹底して省略されていることにある。例えば、この画家の作品で、背景の壁や家具あるいは景色などが、それと分かるように描かれているものはほとんどない。夜とも闇ともつかない不思議な暗色系の色で塗りつぶされている。

同じ17世紀のオランダの画家フェルメールが室内にあるものすべてを克明に描いているのとは全く正反対であり、ラ・トゥールは自分が考える必須の対象だけに集中し、その他のものはほとんど描いていない。対象への集中に専念したのだろう。フェルメールの作品は現代人の多くの目には、大変美しく見えるが、画家の抱く精神的世界での沈潜は浅く、厳しい評価をすれば、表面的な美の世界にとどまっている。これに対して、ラ・トゥールの作品の多くは、描かれた人物の生涯、精神世界に観る者を引き込む引力を感じさせる。多くの作品が何を描いたものであろうかと、観る者に思索を求める。一例を挙げれば、《ヨブとその妻》や《蚤をとる女》などがそれに当たるだろう。

 この画家の作品を長年にわたり見てきたブログ筆者は、ラ・トゥールは「昼の画家」でも「夜の画家」でもなく、「光と闇のはざまに生きた画家」と評価している。この画家の作品を、この視点から見直すと、多くの作品が室内とも屋外ともつかず、背景は不思議な暗色で塗り込まれている。思うに、この画家にとって、昼と夜の区分は問題ではないのだ。


大工ヨセフ》の作品に見るように、室内とも屋外とも、場所も定かではない。ヨセフと幼きイエスは同じ空間に描かれながらも、二人の視線は交差することなく、あたかも俗界と霊界を区分する見えない線が引かれているようだ。

そして、ラ・トゥールの晩年の名作《砂漠の洗礼者聖ヨハネ》を見ても、その点がうかがわれる。疲れ切った青年が目の前の羊に草を与えている。しかし、その場所がどこであるか、まったく分からない。どこからか光が微妙に差し込んでいるが、昼か夜かの区別すらできない。


ジョルジュ・ド・ラ・トゥール《砂漠の洗礼者聖ヨハネ》

ロレーヌの冬の空は暗く、春が待たれる。自動車道から離れ、少し森の中に踏み込むと、獣道のような道ともいえない道があり、深い森に続いている。立ち入るほどに昼なお暗く、土地の人の話では猪や鹿狩りも行われているという。事実、筆者が訪れた時にも、遠くで銃声のような音が聞こえていた。17世紀までは、夜になると魔女が集まり、踊り狂う恐ろしい場所でもあった。魔物の住む恐ろしい闇が待ち構えていると恐れられていた。闇が人々の生活を支配していた時代だった。

戦争、飢饉、重税など、絶えず襲ってくる幾多の災厄、危機に、農民のみならず、画家の心象風景も不安や見えないものの恐れに揺れ動いていた。キャンバスに向かう画家の心には描くべき対象だけがすべてであり、昼か夜かなどの区分は問題にならなかったのだろう。

 

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離れるほどに見える世界:ユトレヒト・カラヴァッジョとヨーロッパ

2019年05月03日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

UTRECHT CARAVAGGIO AND EUROPE, exhibition catalogue cover


『令和』の時代を迎えて、世の中はなにかと騒がしい。しかし、今後この時代が、後世いかなる時代イメージを伴って認識されるかは、まったくわからない。しかし、長い時間を挟むことではっきり見えてくることがある。

このブログで何度もとりあげた16世紀ローマを主たる舞台に鮮烈な印象を後世に刻み込んだ画家カラヴァッジョ(1571-1610)とその画壇への影響力も、その例である。雑事が重なり、今年3月までユトレヒト中央美術館で開催されていたカラヴァジェスティ展(カラヴァッジョの画風・スタイルなどの後継者)の分厚いカタログを読了するには大変時間がかかってしまった。

新たな知見
ユトレヒト・カラヴァジェスティに関する特別展に限っても、これまで1952, 1986/87, 2009年に行われており、今回が4回目になる。ブログ筆者も全てを見たわけではないが、嬉しいことは毎回、新たな知見が得られることだ。この間、特に今世紀に入って、これらの画家についての研究が着実に進んだことを示している。今回もいくつかの指摘に目を開かれた。

検討される地域はイタリア、スペイン、フランス、フランダースに及んでいるが、柱になっているのは、三人のユトレヒト・カラヴァジェスティ、Hendrick ter Brugghen (1952-1629)、Gerald van Honthorst(1592-1656) およびDirve van Baburen (c.1592/93-1624) である。

カラヴァジェスティの生まれた時代環境
17世紀までのイタリア・ローマは、世界のいたるところから文化、芸術の極致を求めて集まる中心地であったが、現代世界は多様化・分散化していて、そうした場所は見当たらない。17世紀初め、とりわけ1600-1630年は2700人近い画家たちがローマに画家として登録しており、そのうち572人は外国人でほぼ同地域に居住し、若い画家たちの中には、住居を共にしていたものもかなりあったようだ。彼らの中で若い画家たちはカラヴァッジョのリアリズムの画風を拡大しようとの集まりもあったようだ(International Caravaggio movement)。ローマは文字通りヨーロッパの文化センターであった。観光客と日本人のやらなくなった仕事を求めてくる外国人が目立つ今日の日本とは大きく異なった状況だ。

何れにしても、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの謎の遍歴仮説もかなりその道が見えてきたようだ。 

ユトレヒトの大きな役割
カラヴァッジョ亡き後のカラヴァジェスティもその知名度、作品評価などによって、かなりの数に上るが、上記の三人はやはり中心的存在である。今回の企画では、年譜に沿いながら、ユトレヒトからローマへ行き、再び故郷へ立ち戻って活動した三人のカラヴァジェスティの位置づけ、その後の伝播、作品の交流・分散などがテーマとして明確に示されている。本ブログで興味の赴くままに断片を記してきたユトレヒト・カラヴァジェスティの全体像が一段と確立されている過程が整理されている。

今回の展示では、ホントホルストの《聖ペテロの磔刑》1616年作が、この画家がローマで活動していた最初の証明として挙げられている。

ホントホルスト《聖ペテロの磔刑》1616年

The Crucifixion of St Peter, 1616 pen on paper, brown wash, 178x265 mm, Nasjonalmuseet for kunst, architlktur of design, Oslo

 

さらにヘンドリック・テル・ブルッヘンの《受胎告知》1629年作 Diest, が、彼の死去の年の作品として展示されている。この作品は見たことがなかった。バビュレンはこれより前の1624年に世を去っている。そして、ホントホルストは次第に以前の古典的スタイルへと回帰している。
 

テル・ブルッヘン《受胎告知》1629年

Hendrick ter Brugghen, The Annunciation, 1629, Canvas, 216.5 x 176.5cm, Signed and dated, Dtadsmuseum De Hofstadt, Diest 

今回のユトレヒト展には78点が出展されたが、1点を除き全て1600年から1630年の時期に制作されており、この時期がユトレヒト・カラヴァジズムの盛期であったことを暗示している。展示カラヴァッジョの作品および16人の同時代の画家たちは、全てローマへ行った第一世代であった。展示にはデ・リベラ Jusepe de Ribera (1591-1652)とマンフレディ Bartolomeo Manfredi (1582-1622)の作品も展示されていたことは、彼らがバビュレンとテル・ブルッヘン を含めて、当時の画家の世界でいかなる位置を占めていたかを知るにきわめて興味ふかい。

機会が許せば、多くの興味ふかい論点も記したいが、その時間は次第に限られてきたようだ。

 

REFERENCE
'Utrecht, Caravaggio and Europe' by Brend Ebert and elizabeth M. Heim


ティールームの話題

* 10連休の影響で遅れて配送されてきた英誌 The Economist April 27th-March 3rd, 2019 は「君主制の免疫」Sovereign immunity  と題し、日本の天皇退位と新皇室の誕生を例に、世界における君主制の変遷を追っている。多くの国では君主制は過去のページの残渣の様に見える。一部の国で君主制が栄えている背景の一つは、民主制の困難さのゆえにあると論評している。20世紀初め160か国あった君主制は今日40か国程度にすぎないと記している。BREXITに悩むイギリスが君主制を維持していることは、日本との対比において興味ふかい。「午後のティールーム」では話題として、ちょっと議論を呼びそうだ。

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絵の裏が面白いラ・トゥール(6):「バロック」の流れに抗した「ゴシック」画家

2019年03月07日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

 

George de La Tour - Dice players -   c.1651, oil on canvas
92.5 x 130.5 cm
Preston Hall Museum, Stockton-on-Tees, Cleveland, UK
bequeathed by Annie Elizabeth Clephan, ca.1630

ジョルジュ・ド・ラトゥール《ダイス・プレーヤー》ca. 1651、油彩・カンヴァス、プレストン美術館(ストックトン)

 

この作品、見覚えのある方がおられるだろうか。本ブログを訪れてくださる方は、ジョルジュ・ド・ラ・トゥール (1593-1652)の最晩年の作といわれる《聖ペテロの否認》にきわめて似ていることに気づかれるだろう。そうであれば慧眼の方である。

聖ペテロの否認》の場合は、画面左側にペテロと女性の姿が描かれている。他方、この作品には、ほとんど宗教的含意や暗喩は見出されない。胴衣のようなものを身につけた若者が蝋燭の光の下で、ダイスプレー(サイコロ遊び)をしており、それを右側の若い女性が覗き込んでいる。左側のやや年上の男はタバコを吸いながら、視線はとりたてて盤上の帰趨を見ているというわけでもない。どうも右端の女性に向けられているようだ。

しかし、上半身だけが画面に現れるこの女性の表情は、なんとなくこの場にそぐわない。もしかすると《いかさま師》に描かれている悪事に加担するジプシーの美女の一人なのか。若者たちの服装は戦塵に汚れた着衣というわけではなく、当時の流行の衣装のように見える。貴族の子弟たちが、宮殿などの一室でダイス・プレーを楽しんでいる光景を描いたかのようだ。彼らの胴着や容貌もなんとなくラ・トゥールの独断場であったリアリズムとは距離を置いた類型化が感じられる。現代のゲームの一場面と置き換えてもおかしくない。しかし、《いかさま師》のようなごまかしや教訓が込められた作品とは異なり、ダイス・ゲーム自体が主題であるようだ。しかし、別の読み方があるかもしれない。ここがこの画家の興味ふかい点でもある。


この作品がラ・トゥールに帰属すとるとなると、なんとなく全体の印象が、他の作品とは異なったモダーンな感を受ける。光の当たった部分と影の部分が絶妙な光のコントラストを示す。

ちなみにジョルジュ・ド・ラトゥールの現在まで残る50点余の数少ない作品で、イギリスの美術館あるいは個人の所蔵として残るものはきわめて少ない。強いて数えれば、この《ダイス・プレーヤー》の他、《聖歌隊の少年》、《乞食》などにすぎない。そしていずれもラ・トゥールに関連するとしても、ただちに真作とは評価されず、画家の工房作あるいはジョルジュの息子エティエンヌ作などの評価がついていることが多い。近年、《聖歌隊の少年》などは真作との評価がほぼ定まったようだ。ちなみに、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの作品で、署名あるいは年記があるものはきわめて少ない。

こうしたことも反映してか、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの作品は真贋論争の対象になることが多かった。その中でこの作品はやや異質な感を受ける。批評家によっては、ラ・トゥールの作品かもしれないが、晩年の作品であり、しかも画風に「退行現象」が見られると評するものもいる。要するにこの画家に期待されている高い水準に達していないのではないかという指摘である。

確かに最晩年の作品とされる《聖ペテロの否認》についても、その点が指摘されており、ラ・トゥールの作品であるにしても、後期の工房作ではないかとの評もある。その理由としてあげられるのは、主題の評価において迫力が不足している、描かれた対象に一体感、緊迫感が足りないなどの諸点である。

この点の評価は難しい。いかに優れた芸術家といえども、その全作品が優れた出来栄えであるとはいえない。見る人によって凡作に類する作品も当然ある。さらにラ・トゥールがこの主題で制作活動を行なった時期は、もしかすると画家が新たなイメージによる画風の活性化を図った試作の一枚とも考えられる。当時の顧客の嗜好に合わせた作品を模索していた可能性もある。この作品を見られた方は、いかなる評価をされるだろうか。

 さらに、画家ジョルジュ・ド・ラ・トゥールは、美術史上の流れでは「バロック」の画家として位置づけられることが多い。しかし、ブログ筆者はこの画家と作品に魅せられてから、そうした評価に強い違和感を覚えてきた。ロレーヌの地を巡って見た多数のゴシックの教会などを見て、その感を強くした。この点については、時が許せば記してみたいこともある。日本におけるラ・トゥール研究の先駆者田中英道氏もフランス・ゴシックの源流として、同様な指摘をされている

16世紀末まで、フランスのルネサンスは文学、思想、芸術、建築などの諸分野で新たな次元への展開を見せるともに、ルネサンスは終末を迎えつつあった。ルネサンスと同様にフランスにおける新たな次元は、当初イタリアにおける文化的開花に即発されたものだった。イタリアでは先駆的な芸術家たちはハイ・ルネサンス美術の自然主義の流れから、最初はマネリズムとして知られる様式へと移行していた。

そして、16世紀末から、次の世紀にかけてバロック・スタイルとして知られる溢れるような古典主義へと移って行った。バロックはルネサンス古典主義からの断絶ではなかった。むしろ発展であった。バロックは新しい古典主義の一つの段階だった。

他方、ゴシックは「野蛮なゴート人の美術」という悪口に由来し、13-14世紀の西欧中世の美術様式であった。フランスやドるイツでは16世紀初頭も残存していた。15世紀のネーデルラント美術は、北方ルネサンス美術に分類されるが、実態は後期ゴシックとも言える。ラ・トゥールはバロックの圧倒的な流れの中で、それに抗しながら生きたゴシック画家だった。

 

田中英道「30年戦争の時代に闇を描いたラ・トゥール」『美術の窓』2005年3月

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