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時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

いと高き先に見えるものは:ロレーヌ・ゴシックの残像

2019年05月22日 | 午後のティールーム

ノートル・ダムのガーゴイル 

 

去る4月15日から16日(現地時間)にかけて突如として起きた、パリのノートルダム教会Notre-Dame de Parisの火災の実況をTVで見た。世界にその名を知られた大聖堂の尖塔がもろくも崩れ落ちるという予想もしない衝撃的光景である。瞬時に脳裏に浮かんだのは、どういうわけか、あの9.11の光景であった。考えてもいなかったことが起きると、思いもかけない連想が脳裏で働くようだ。


12世紀に建築が始められ、幾多の風雪を経て今日まで人々の信仰の象徴となってきたあの高い塔(地上高約32m)が、2時間くらいの間にもろくも崩れ落ちた。カトリック信徒でなくとも、驚く出来事だった。何か恐るべきことが起きる予兆ではないかと思った人もいたようだ。実際、9.11後、世界は明らかに変わった。そして今、新たな戦争の可能性が語られている。

*A new kind of cold war, The Economist, May 18th-24th, 2019
 Collision course, The Economist May 11th-17th,2019 

この度の尖塔火災崩落の原因の究明は進められているが、未だ正式には発表されていないようだ。少し意外だったのは、木造部分が燃え、石造りの壁が支え切れなかったとのことだ。何度か訪れたことがある場所だが、壮大な石積み、石像、ステンドグラスの美しさなどに圧倒されて、木造部分がどこであるかは全く気づかなかった。

大聖堂の建設は12世紀、1163年に始まり、1225年に完成したとされている。その後の長い歴史においても、今回のような火災焼失は初めてのこととされる。火災発生後、今日までのわずかな間に世界から邦貨換算1000億円を超える、修復に十分な寄付が集まっていると伝えられる。フランス国民のみならず、この聖堂に対する愛と信仰がいかに大きいかがわかる。他方では、それだけの寄付をする財力がどこかにあるならば、もっと直接に貧困層などのために役立てるべきだとの批判もあるようだ。

ブログ筆者はこれまでの人生でかなりの数の寺院、教会などを見る機会があったいt。フランスではとりわけロレーヌの旅をしている間に、多くの教会、修道院などを訪れた。そのほとんどがノートルダム大聖堂と同じゴシック建築である。

聖堂を築いた人たちの熟練養成
ブログ筆者が専門としてきた領域のひとつは、社会における熟練の形成過程であった。長い信仰の歴史を支えてきた教会の石組みを見ながら考えたことは、それを作った当時の職人たちのことであった。こうした大教会・聖堂などの着工から完成までには、通常の民家などと違って、はるかに長い年月を要すると想定されている。確かにサグラダ・ファミリアのように着工後、数世紀という年月を経ても完成に至っていないというような例もある。しかし、多くの建築は数十年くらいの年月で竣工している。これは建築の依頼者や寄進者などのことを考えて計画、工事を進めるからであろう。今回焼失・倒壊したノートルダムの場合も早ければ数年で復元できるのではないかという推定もあるようだ。実際にはほとんど不可能な予感はするが。

教会建築の現場で仕事をするのは、建築設計家の指示に従って作業にあたる石切工、石工などの肉体労働者である。当時は今日と違って、コンピューターも防塵マスク、眼鏡などもなかった。最大の職業病は珪肺であり、きびしい労働環境であった。粉塵と危険に溢れた職場で、切り出された石を成形し、プランに従い積み上げ、モルタルなどで固定するというきつい仕事である。しかし、人々の信仰の場を生み出す石工には、社会の評価、レスペクトもあったようだ。ギルドの成立も早くからあった。

石工だったラ・トゥールの祖父

ブログに記したこともあるが、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの父親ジャンはパン屋であったが、ジャンの父親は石工だった。石工になるためには、親方の家に住み込みの徒弟として入り、親方の仕事を助けながら見よう見まねで技能を体得し、数年の修業を経て、職人として独立することが認められ、さらに経験を積めば、親方職人への道があった。

息子のジャンは毎日の過酷な労働を酒で紛らわす父親の生活を見ながら過ごし、自分はパン屋で生きようと決めたのだろう。しかし、パン職人も見かけによらず、厳しい労働を要求されていた。そうした環境から、画家というきわめて先の見えない職業へと移ったジョルジュの生涯は、職業選択・技能伝達という現代的観点からもきわめて興味ふかい。この点はブログにも度々記している。

Theodore Rieger, Chapelles de Lorraine, Est Libris, Metz, 2003


ロレーヌの残像

石工の労働、教会大聖堂の建築の実際の過程は、それ自体大変興味ふかいのだが、記す余裕がない。

今回はかつて辿ったロレーヌの町巡りで、気づいたことを少しだけ記したい。ロレーヌの町や村には今日でも数多くのゴシック建築による教会が残っている。メッスやナンシーのような大きな都市には多数の宗派の異なる壮麗な教会聖堂がある。ゴシック式の建築はその高く聳え立つ先端の尖ったアーチで、直ちに認識できることが多い。

ゴシックは、ロマネスク様式に続き、12世紀頃からフランスを中心に発達した。筆者にとって興味深かったことは、今日に残る教会のすべてが大聖堂のような威容を誇るものではなく、小さな村や町にはひっそりと祠のような姿で残っているものも多いことだった。そして、どんなに小さな教会であっても、いと高き天に向けての希求を示す突出した屋根と十字架で、直ちにそれと知ることができる。その背景には、地域ごとの宗派の分布なども影響しているのだろう。この点に立ち入る余裕はもはや筆者にはなくなったが、宗教改革、カトリック宗教改革の激動の過程では、ロレーヌという地は、カトリック布教の最前線であり、ローマ教会の主導の下で多くの教会、修道院が建造された。

ラ・トゥールが生きた17世紀、30年戦争を含め、この地は数多くの戦乱を経験してきた。17世紀は史上初めての「危機の世紀」として知られる。21世紀、残る時代がいかなるものとなるか。すでに国家間衝突の動きはいたるところに現れている。その行方がいかなるものとなるか、ブログ筆者は知る由もないが、戦争のない平和な世紀であることを祈るのみである。

 

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よみがえるマリア・カラスの世界

2019年04月24日 | 午後のティールーム

 

久しぶりにマリア・カラス(Maria Callas 1923年ー1977年)の歌唱を聞く。と言っても、映画『わたくしはマリア・カラス』の中である。53歳という若さで世を去った20世紀を代表するソプラノ歌手は、その卓絶した歌唱力と華やかな人生のゆえに、やや神格化されてきた。

1973-74年には来日もしており、日本人にもファンは多く、同時代人でもある。しかし、謎に包まれた部分も大変多い。映画は、未だ公開されたことのない未完の自叙伝やこれまで封印されてきたプライベートな手紙、秘蔵映像や音楽などを彼女自身の言葉と歌で綴られる。より素顔に近いマリア・カラス像が描き出されている。

マリア・カラスはかねて筆者のご贔屓の歌手の一人であり、LPのジャケットが近くに置かれていたこともある。しかし、ある時からあまり聴くことがなくなった。その顛末はブログにも記したことがある。

カラスは、ギリシャ系 アメリカ人の ソプラノ歌手。 ニューヨークで生まれ 、パリ で没し、 20世紀最高のソプラノ歌手とまで言われた。特にルチア(ランメルモールのルチア) ノルマ、ヴィオレッタ( 椿姫 トスカ)などの歌唱は、技術もさることながら役の内面に深く踏み込んだ表現で、多くの聴衆を魅了した。それにとどまらず、その後の歌手にも強い影響を及ぼした。筆者は演歌はほとんど知らないが、偶々歌手の原田悠里さんが最も影響を受けた歌手として美空ひばりとマリア・カラスを挙げていたので、さもありなんと思った。

1938年アテネ王立歌劇場で『 カヴァレリア・ルスティカーナ』( マスカーニ作曲)のサントゥッツァを歌ってデビューした。 1947年には ヴェローナ音楽祭で『 ラ・ジョコンダ』の主役を歌い、 1950年には ミラノ・スカラ座に『 アイーダ』を、 1956年 には ニューヨークの メトロポリタン歌劇場で『ノルマ』を歌ってデビューし、それぞれセンセーショナルな成功を収めた。今日、メディアを通して聴いても、その素晴らしさは直ちに分かる。

カラスの特に傑出した点は、そのテクニックに裏打ちされた歌唱と心理描写、演技によって、通俗的な存在だったオペラの登場人物に血肉を与えたことといわれる。持ち前の個性的な美貌と声質を武器にして、ベルカントオペラに見られるありきたりな役どころにまで強い存在感を現した。

1958年1月2日、 ローマ歌劇場が行った ベッリーニ『 ノルマ』に主人公ノルマ役で出演したが、カラスは発声の不調のため、第1幕だけで出演を放棄してしまった。その結果、場内は怒号の渦巻く大混乱となり、この公演はさんざんな失敗に終わった。

その後、イタリアでのスキャンダルから逃れるようにフランスの 「パリ・オペラ座」 と契約。 1958年オペラ座にておこなわれたデビューコンままを映画化(『マリア・カラス 伝説のオペラ座ライブ』)される。

1973年と 1974年に来日。1974年には ジュゼッペ・ディ・ステファーノ(テノール)とピアノ伴奏によるリサイタルを行った。この1974年の日本公演は前年から始まっていたワールドツアーこれが彼女の生涯における最後の公式な舞台となってしまった。

カラスの私的生活には、取り立てて関心はなかったのだが、映画を見て少し見直した。カラスの最初の夫は30歳年上のイタリアの実業家ジョヴァンニ・バッティスタ・メネギーニであったが、後に オナシス のもとに出奔し離婚。オナシスとの愛人関係は ケネディ 大統領未亡人 ジャッキーとオナシスの結婚後も続いた。その後ディ・ステファーノと恋愛関係に入る。しかしステファーノとの関係も1976年12月末に終わった。

1977年]9月16日、隠棲していた パリ16区の自宅にて心臓発作で、53歳で死去。 遺灰は ペール・ラシェーズ墓地に一旦は埋葬されたが、生前の希望により 1979年に出身地の ギリシャ沖の エーゲ海)に 散骨された。カラスにはやはり青いエーゲ海の血が流れていたのだ。久しぶりにカラスを聴いてみよう。

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モントリオールの思い出

2019年04月12日 | 午後のティールーム

 

たまたまTV番組で、タクシーで「モントリオールを走る」(再放送)を見た。これまでの人生でかなりの数の外国都市を訪れてきたが、この都市にはとりわけノスタルジックな思いがある。学生時代に友人たちと貧しいながらも楽しい日々を過ごし、その後は仕事でかなりの回数訪れている。多分50回は優に越えていると思う。友人・知人も多かったが、今は数人になってしまった。

モントリオールとの縁ができたのは最初は1960年代、ベトナム戦争たけなわの時代であった。アメリカの大都市では黄色い衣、を着たヒッピーが目立ち、反戦運動が報じられていた。ベトナム派遣を忌避してカナダへ逃げる学生もいた。ちなみに 1975年4月30日のサイゴン陥落によってベトナム戦争は 終戦となった。

モントリオールとニューヨークは、同じ北アメリカの都市でもかなり違うように思えた。とりわけ、道路や橋など公共資本がかなり荒廃していた当時のニューヨークと比較すると、モントリオールは落ち着いた美しい都市であった。地理的には、セントローレンス川とオタワ川の合流点に近い島であり、川を望む展望が美しい。周辺には多くの景勝地が点在する。このブログでも一部は記したが、日本ではあまり知られていない所が数多くある。一時はこの大河の流域の植民、開発を新たな視点で描いてみたいと思ったこともあったが、その時間はないようだ。それでも、16世紀半ばから1760年までのいわゆる植民地時代、モホーク・インディアンなどの先住民の居住地やジャック・カルティエ広場など、植民者の名前が残る場所など、記憶が鮮明に残る場所も多い。

セントローレンス川は大河であり、流域には広大な大地が広がっている。移民国家としても、一時は混乱もあったが、総体として出入国管理、共生政策が比較的巧みに運営されてきた。北米3カ国の国境で、カナダ・アメリカ国境は比較的静かにとどまっている。先住民との衝突も多かったが、広大な地域の思いがけない所にまで入植者が入っている。

今では、モントリオールはカナダ第二の都市であり、住民の大半がフランス系カナダ人を中心にしたヨーロッパ系だが、世界各地からの移民も多い多民族都市になっている。筆者がしばしば訪れた1960-1980年代頃は総じて英語が優位なような印象が残っている。友人、知人も多くは英語が得意な人たちが多かった。ほとんどが移民あるいはその子孫であり、フランス系、ベルギー系、ロシア系など出身国は様々だった。

「北米のパリ」とも呼ばれ、ノートルダム大聖堂などフランス入植者の歴史が色濃く残る。住民の大半が フランス系カナダ人を中心にしたヨーロッパ系だが、市内の人口の約32%は非白人と世界各地からの移民も多い。TV取材の対象となった運転手もほとんど移民で、フランス語が得意な人たちが多かった。今では、周辺地域を含むモントリオール大都市圏の人口は約380万人であり、モントリオール大都市圏の住民の7割弱が 第一言語をフランス語とし、フランス文化の薫り高い異国的な雰囲気、フレンチ系の美食レストランが多いことでも知られる。

他方、都市部の住民の1割強の第一言語は英語であり、19世紀の終わりから20世紀の始めにかけて英国系移民によって街が発展してきたことから ヴィクトリア朝の建物が多いなど英国文化も色濃く残る。地上を歩いていると、人通りもさほど多くなく、落ち着いた感じがするが、冬が厳しいので地下街が発達していて、暖かくショッピングができる。モントリオール郊外は、北には ローレンシャン山地、夏は キャンプ、冬はスキー などのアウトドアレジャーで賑わう。秋の「メープル街道」も有名だ

大都市の例にもれず、モントリオールも高層ビル群が目立つが、市内のモン・ロワイヤル山(233m)より高いビルの建設は禁止されている。ちなみにこの山頂からの眺望は昼夜を通して素晴らしい。日本には美しい山と川がこれほど町に近く、対比できる大都市が見当たらないが、景観だけで見れば札幌などが近いだろうか。

 

◆「モントリオールを走る」NHKBS! 1月12日(土)【BS1】20:00~20:50の再放送

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ふたつの花の来し方

2019年03月31日 | 午後のティールーム


この国の国民にとって、花といえば桜である。誰もが愛し、様々な思いを重ねる桜、その開花の時を迎えた今年の春は、例年と異なり特別な感慨を与えるものだろう。ブログ筆者にとっても、いつになくこころぜわしい。ひとつの時代が終わり、新たな時代が始まるということにとどまらない。この国の未来、そして世界のあり方に様々な思いが心をよぎる。とは言っても到底、ここに書き尽くせる様なものではない。

チューリップの来し方
ここでふと、もうひとつの花のことを思い出した。以前にはしばらく記していたチューリップのことだ。年々、秋に球根を植え、春に開花するのを楽しみにしてきた。今でも相変わらず、秋には球根を植えている。植える時期、植え方、種類などによって開花のあり方が微妙に異なる。しかし、期待を裏切ることなく、春ともに地上に芽を出し花を開く。その自然の摂理にさまざまなことを考えてきた。今年は今、開花の時を迎えている。桜の開花とほとんど時を同じくしている。

「チューリップ・バブル」の真実は
チューリップというと、思い出すのはオランダであり、その黄金時代の光と陰だ。数年前に読んだいわゆる「チューリップ・バブル」に関する一冊の本*のことを思い出した。このテーマに関する書籍の数はおびただしく、一般向けのタイトルだけでもどれだけあるか、チューリップに囲まれるように住んでいる友人のオランダ人に尋ねてもよく分からないという。

「チューリップ・バブル」というと、通説では1930年代半ば、オランダ(ネーデルラント連邦共和国)の黄金時代に、当時のオスマン帝国からもたらされたチューリップの球根が異常に高騰し、そして、1637年には突如として急激に下落し、社会的な混乱と国家財政的破綻を引き起こし、世界史上初めての投機的バブルとされてきた。ある種類の球根は1932年当時の10倍くらいに高騰したとされる。この急騰・下落によって数千の投資家が破産したといわれる。結果として、オランダの商業を中心に、経済も大打撃を受けたとされ、資産価値がその内在価値を大幅に逸脱して下落し、関係筋に大きな損失を与える現象という意味で、後年比喩的にも使われるようになった。

フィクションの支配からの脱却
他方、結果としてもっともらしいが、「チューリップ・バブル」として、必ずしも実証的裏付けがない群集心理的フィクションが多数出回り、リスクが見えない愚かな騒ぎという、事実とは離れたバブル観が作り上げられてきた。このチューリップ・バブルも信頼しうる統計・資料などで理論的に論証されたものではなかった。誇張も多く実態ともかけ離れていたイメージが形成されてきた。その経緯が次第に明らかになり、出来うる限り事実に即した理解への修正がなされるようになった。ここで取り上げるアン・ゴルガーの著作*1もその方向に沿っての大変優れた作品と言える。この著作は以前にも取り上げ近い将来補足をしたいと考えていた。今回改めて読み直してみた。

ロンドン、キングズ・コレッジの初期近代史の研究者アン・ゴルガーは当時の取引資料などを広範かつ詳細に検討し、一般に伝えられる内容とは異なり、当時のチューリップの球根1株の価格は、まずまず穏当なものであり、破産に追い込まれた取引業者や投資家などの数は今日伝えられるほど多数のものではなかったようだ。こうした調査に基づき、彼女はこのチューリップの球根価格の変動はオランダの経済というよりは、当時興隆していた市民階層の生活態度、文化的価値観、彼らが熱狂したチューリップという花の美しさなど、従来通説となっていた狂乱した経済という見方を大きく書き換えて見せた。顧客が好む花の美的・芸術的側面、それを生み出すための科学的努力と模索など当時の関係者が抱いていたチューリップという花について抱いていたイメージ、市場で歓迎される花の球根の育成、市場化、取引の仕組みなどが、当時の史料に立ち返り、再構成されている。

歴史家の目
大変精緻に書き込まれ、それまで流布していたオランダ経済の大きな栄光と狂乱的破滅というイメージとは、きわめて異なったオランダ社会の文化的側面を提示している。これは、フェルメールについての作品だけに重点を置いた見方を改め、画家とその家族をめぐる制作の裏側により着実な光を当てた経済史家モンティアス*2の分析に通じるものがある。

17世紀のヨーロッパは、その先端にあったオランダのような近代的市民層の勃興によって全てが支えられていたのではなく、現代世界のように、絶えざる戦争、気象変動、飢饉、悪疫、貿易などの国際的関係、政治、宗教的衝突など、多くの要因によって揺れ動いていた。

桜と同様にチューリップの開花期間は短い。二つの花が咲き誇る様を眺めながら、しばし花と人間の関わりを考えていた。

 


References
*1 Anne Goldgar, TULIPMANIA: Money, Honor and Knowledge in the Dutch Golden Age, Chicago: The university of Chicago Press, 2007.

*2 John Michael Montias. Vermeer and His Milieu: A Web of Social History. Princeton: Princeton University Press, 1989.

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セラピーとしてのアート

2019年02月16日 | 午後のティールーム
 

 


 人はなぜ美術館へ行くのか。美術館へ入る前と比較すると、帰りは自分の知的資産が多少なりとヴァージョン・アップ?したと思うだろうか。変な質問と思う人は多いだろう。しかし、人は何かの動機や衝動、期待にかられて、美術館の入り口をくぐるのではないだろうか。

 今,私たちが生きている世界は色々な意味でストレスを生み出す事象に満ちた社会だ。気候激変などの自然現象、戦争、災害、難民、格差、貧困、難病など天災、人災を含めて枚挙にいとまがない。しかし、それらに対処する有効な解決策はほとんど見えないことが多い。希望を失い、来るべき世界のあり方について不安を抱く人たちも少なくない。孤独や不安への救いを宗教に求める人もいる。

 そうした社会であっても、美術館や音楽会に出かける人も多い。ひと時、絵画を見たり、音楽を聴いた後の心に変化は生まれただろうか。絵画などの美術についてみると、ほとんどはなにかの具体的目的を持って制作されたわけではない。広告でない限り、作品は純粋に美的鑑賞のための作品として制作されている。
 
 しかし、近年、あまり気づかれていないが、美術・アートあるいは音楽などにセラピー (therapy: 緊張緩和、精神的安定の治療) 効果があるとして、人々の心に潜む緊張や不安を和らげ、解きほぐす効能を見出したり、期待する動きも現れている。

 人々が絵画作品を見ている時、気がつかない間に心の不安、心配ごとなどを忘れ、結果として癒され、安定感、充足感などを取り戻す。美術館で作品を鑑賞して館外へ出る時には、張りつめていた心の緊張が緩み、一種の幸福感が生まれている。作品を制作した画家たちは多くの場合、そうした効果まで意図してカンヴァスなどに対したわけではないのだが。
 
 それでも時代や環境によっては、作品を観る人たちが描かれたテーマに積極的に癒しを求めた場合も多い。宗教画は本質的にそうした要素を多分に含んでいる。

 分かりやすい例を挙げてみよう。これまで、このブログに記してきた17世紀の画家たちの作品の中でも、《イレーヌに介抱される聖セバスティアヌス》の主題は、16-17世紀に大変好まれた。そのため、多数の異なったヴァージョンがある。瀕死の重傷を負った若者が聖女イレーヌと召使いたちの献身的な介抱で生き返るというストーリーは、明日をも知れぬ不安と危機の時代に生きた人たちには、大きな心の癒しとなり、さらには当時流行した疫病などに対する護符のような意味を持った。こうした底流の下、現代では音楽療法、「臨床美術」という認知症への対応という領域も生まれている。

 これほどまでに直接的な関連を感じなくとも、作品を見てある種の安心感を抱いたり、画家の意図を考え込まされたり、時には笑ってしまうような作品に出会うことは、よくあることだ。
 
 ここに紹介するアラン・ド・ボトン の『セラピーとしてのアート』 Art as Therapy はその点に着目した好著だ。興味深いのはセラピーの対象となるアート(絵画、彫刻、陶磁器、写真、建築、都市計画などを含む) を、「愛」、「自然」、「金銭」、「政治」という四つの領域から検討していることにある。例として取り上げられている作品は古典から現代までありとあらゆるジャンルに渡り、厳粛、静寂、神秘、自然、風景などから風刺的なものまで、多岐にわたる。現代人が抱える心身の悩みが千差万別であるように、人々はそれぞれの状況で癒されるらしい。

 カラヴァッジョの《ユダの断首》など、ブログ筆者は、リアル過ぎてグロテスクな感を受け、あまり見たくはないが、その恐るべき迫真力に驚き、現実以上に恐怖を覚える人もいるだろう。アドレナリンが沢山出て元気になる人もいるのかもしれない。このように、一枚の絵画も見る人によって受け取る印象、効果は大きく異なることもある。

 シャルダンの《お茶を飲む女》、《羽根を持つ少女》などは、見ているだけで、心が和んでくる思いがする。しかし、ド・ボダんの本書は、140点近い作品を取り上げ、一般に考えられている次元を超えて、セラピーとしてのアートを論じている。大変評判になった書籍である。邦訳がないのは残念だが、関心ある方にはおすすめしたい一冊だ。

 

Alain de Botton John Armstrong, Art as Therapy, London: Phaidon, 2013(HB), 2016(PB).pp.240

 

アラン・ド・ボトンは、スイス人、1969年、チューリッヒ生まれの哲学者、エッセイスト。イギリス、ロンドンに在住。父親は、スイスの投資家で美術収集家のギルバート・ド・ボトン。父親の美術熱がアランの人格に強く影響していることが分かる。邦訳がないのが惜しまれるが、英語PB版で容易に読めるので関心ある方にはお勧めの一冊である。共著者のジョン・アームストロンがは歴史家。
 


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アトリエさまざま:画業習得の道

2019年01月18日 | 午後のティールーム

ピーター・パウル・ルーベンス
《イサベラ・ブラント(ルーベンスの最初の妻)の肖像》
東京展には出展されていない。

Peter Paul Rubens
Isabella Brant, the Artist’s First Wife, ca.1622, black, red and white chalks, pen and ink on うlight brown paper, 38.1 x 29.2 cm
London British Museum

この作品はルーベンスの真作と考れる、チョークとインクで描かれたイサベラ・ブラントの肖像画で二人が結婚して12-3年してからの作品と思われる。スケッチに類する作品だが、人物の特徴が巧みにとらえられている。ルーベンスが肖像画の技法に長けていたことを推察させる。

 

謎の多いラ・トゥールの修業時代
ほぼ同世紀でありながら、ルーベンスとは全く異なる環境で活動したジョルジュ・ド・ラ・トゥールが生まれ育った16-17世紀のヨーロッパには、多数の画家が活動をしていた。画家ばかりりでなく、彫刻家、建築家など、はかりしれない数の芸術家たちがいた。しかし、ジョルジュのように生来、画業の才能があることが認められていても、画業で生計を立てていけるかは全く未知数であった。それ以上に、いかにして画家となるための修業を行うかが大きな問題であった。


今日でも徒弟制度として一部の職種に残るが、当時の画家の場合、親方の所に弟子入りし、そこで職人、そして親方として一人立ちする上で、必要な知識・技能を習得する必要があった。そのために自然発生的に生まれ、制度化されていたのが徒弟制度であり、工房(atlie, workshop)であった。しかし、工房にもピンからキリまであった。

一般には、すでに画家として力量を社会的に認められている親方の工房へ徒弟として弟子入りし、親方の家へ住み込み、日常の生活を共にしながら、仕事を文字通り見様見真似で習得していく仕組みであった。多くの場合は、親方の家へ住み込む形であったが、例外的には自宅から工房へ通う「通い職人」もいた。ジョルジュがヴィックの町でドゴス親方の所で最初の修業をしたとすれば、この形であったのではないか。

しかし、ジョルジュがドゴス親方の下で修業をしたとしても、その期間は当時の状況(すでに徒弟になることが決まっている若者が一人おり、二人を徒弟にする余裕はなかった)から1年程度であり、その後はナンシーあるいはパリなどで徒弟修業をしたものと思われる。この点についての史料はほとんど何も残っていない。当時の徒弟の期間は地域などでも異なり、4年から8年くらいを要した。いうまでもなく、徒弟の間、親方に収める費用も親方の力量、知名度などで異なったが、かなりの額であった。

徒弟の最大の仕事は、さまざまだったが、そのひとつに親方が使う画材と絵の具の準備があった。徒弟の仕事は、どれを取っても厳しいものだったが、画材の準備もそのひとつだった。例えば、顔料の多くは大理石などの板の上で力を込めてすり潰すことが必要だった。顔料の種類も多く、その配合も複雑だった。顔料から絵の具を作り出すには多くの知識と労働が必要だった。ジョルジュも懸命に努力し、記憶したのだろう。徒弟がなんとか独立して、画家職人になるにはしばしば数年以上を要した。それでも作品制作への注文があるか否かは別問題であった。

恵まれたルーベンス
ピーテル・パウル・ルーベンスの場合は、例外的に極めて恵まれた事例であった。アントウエルペンという大きな豊かな都市で工房入りをし、画業を習得することを目指した。画家組合、聖ルカ・ギルドへの入会を認められた後、3人の親方のアトリエで次々と修行をしたが、1591年から合計8年の年月を費やしている。1594-5年から師事した画家Otto van Veen(1556-1629)は当時のアントワープで最も知られた画家の一人だった。1598年に親方画家として登録されたルーベンスは、その2年後多くの画家が憧れたイタリアへと旅立った。そしてマントーヴァ公の宮廷画家の地位を得て、この地になんと8年にわたり滞在した。

このように、徒弟の過程を終わると職人として、親方の工房で働くか、遍歴職人として各地を旅し、見聞、経験を積むのが通常であった。ルーベンスの場合は、アントワープ当時から多数の後援者に支えられ、恵まれた過程を辿ったといえる。

この時代の画家たちの遍歴、活動の実態を知ると、ルーベンスの場合は、あらゆる点で恵まれた状況にあった。1608年母の危篤の報で、アントワープに戻ったルーベンスはアルブレヒト大公の宮廷画家に迎えられたこと、イサベラ・ブラントとの結婚などが重なり、イタリアに戻ることなく故郷ともいえるアントワープに大きな邸宅と工房を構えた。1610年にルーベンス自身がデザインした新居は、現在では博物館 Rubenshuis に使われているほど広壮なものだ。当時は制作のための工房で、最高級の私的美術品の収蔵場所であり、図書館でもあった。

しかし、これはきわめて例外的なケースであり、絶えず戦乱、飢饉などの渦中にあったロレーヌなどでは到底想像しがたい状況だった。今に残る銅版画などを見ても、イーゼルなどが置かれた作業場と画材などの置き場などがある程度だった。

 

ヒエロニムス「フランケンIIとヤンブリューゲル兄《アルベルト大公、イサベラ大公妃が収集家の展示室を訪れている光景》

Archduke Albert and Archduchess Isabella Visiting a Collector's Cabinet, Hieronymus Francken II and Jan Brughel the Elswem 1621-23.

 ルーベンスはアントワープの有力者で貴族のヤン・ブラントの娘イサベラ・ブラント Isabella Brant と結婚したが、ルーベンスも長い宮廷社会への出入もあって、ほとんど貴族並みの立ち居振る舞いを身につけ、敬意を持って迎えられる存在になっていた。

ルーベンスは、肖像画に大変長けていたと思われ、多くの作品を残しているが、このブログで再三取り上げているラ・トゥールの場合は、肖像画らしき作品をほとんど残していない。これもラ・トゥールという画家にまつわる謎のひとつだ。改めて取り上げることにしたい。

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新年を迎えて

2019年01月01日 | 午後のティールーム

 

迎春 

混迷する世界の始まりに
これまで新年の初めには、多くの人々がこれから始まる年に期待や抱負を抱き、心の中で、あるいは歴然とそれらを表明してきた。今でもそれがなくなったわけではない。元日のメディアは多くの目標や決意を含めて、新年への思いで溢れるだろう。

他方、いつもの新年とは異なった空気も感じられる。世界は一体どうなってしまうのだろう。EUにはBrexitに象徴される分裂の気配が色濃く漂い、アメリカでも日本でも来るべき近未来への不安を訴える人たちが増えた。年末に寄せられた海外の友人たちのメールにも、そうした思い、強い危機感が綴られたものが目立った。

長らく愛読してきた雑誌のひとつ、The Economist 誌のクリスマス特集の巻頭論説も例年と比較してかなり印象が異なっていた。2、3年前から心なしか、論調が直裁ではなくなっている。経験を重ね、洞察力に長けた専門家にとっても、それだけ今後を見通すことが困難になっているのかもしれない。今年は「ノスタルジアの使い方」”The uses of nostalgia” という表題で、世界に拡大するノスタルジア(懐旧の情、昔は良かった)の風潮を取り上げている。政治家たちは今までにもこれを逆手にとって、未来は過去より明るいと強調してきた。

しかし、最近世界のあらゆる地域で、過去を懐かしむ思いが蔓延し始めた。政治家たちは相変わらず、その風潮に乗っている。典型的にはロナルド・トランプ大統領就任後の「偉大なアメリカを再現する」”Make America great again” という今や多くの人々の耳から離れないスローガンである。そして世界第二の大国にのし上がった中国の習近平主席の「一帯一路」構想に見られるような再び世界に君臨する「中国の夢」”Chinese dream” の実現、「社会主義近代化強国」という覇権への主張だ。いずれも過去の「良き時代」の復活が軍事力の拡大を伴い、臆することなく掲げられている。いよいよ最終局面に入ったイギリスのEUからの離脱、BREXIT の背景にもブラッセルの官僚支配からの脱却、独立性の復活・強化という思いがあり、さらにはロシアのプーチン大統領、日本の安倍首相にも過去の時代への執念がうかがわれる。

表現は様々だが、より小さな国々でも大国の支配から脱却し、自国の独立を目指すという動きが顕著に見られる。この場合は、自国の内乱、様々な内外勢力の介入による国民の破滅的貧窮、荒廃のイメージが強く漂う。

潜在する不安とノスタルジアの効用
ノスタルジアの底流には明暗様々な要因への危惧や不安があると見られる。IT世界の急速な展開、ロボットなどの自動機械がもたらす仕事の世界の激変、「自分たちの仕事は機械に奪われるのでは」との不安、取り残される人たち、格差の拡大、地球温暖化や自然災害の頻発への不安など、要因は際限なく指摘できる。

しかし、ノスタルジアは一般に受け取られがちな単なる懐古趣味に止まらない、と論説の書き手はいう。未来を見通す手段が手元に見当たらないならば、過去の体験事実から学ぶという道があると指摘する。近年、歴史への関心が様々に高まっていることは、こうした方向への一歩であるかもしれない。

何を記してきたのか
この小さなブログ、17世紀のロレーヌ公国という小国が経験した史上最初の「危機の世紀」といわれる戦乱、苦難の世界に生きたひとりの画家のしたたかな生涯をひとつの柱として出発した。現代のシリアのごとき荒廃した地において、天賦の才とわずかな機会をしっかりと把握した画家であった。現代人の目から、その剛直、強欲にも見える生活の一端を批判することはたやすい。しかし、この画家は来るべき時代への深い洞察、精神性を秘めた作品を残してくれた。

この小さなブログに記してきた時空を行き交う細い糸は、かなり多岐に別れる。そのひとつ、ブログ筆者が大きな関心を抱いてきたより近い過去は、1930年代のアメリカ*2である。現代のアメリカ人の多くが、繁栄と恐慌の時代に様々なノスタルジアを感じている。この時代についてはすでにきわめて多くの蓄積が残されていて、筆者が記してきたことは、文字通り小さな断片にすぎない。

さらに産業革命発祥の地、イギリス、マンチェスターで、多くの人たちが背を向けた工業化の影の側面もしっかりと描こうとしたL.S.ラウリーという貧しい人々への深い愛情が込められた作品の数々は、イギリス人でも必ずしも注目しなかったものだが、近年漸く一筋の光が差し込んでいる。年末に会った旧知のオーストラリア人(マンチェスター近辺労働者階級の生まれ、大学教授としてイギリスから移住)は、筆者との雑談でのトピックス指摘に驚き、自分もファンであることを話し、互いに共感した。長い年月にわたる友人であるが、かつては自分の出自はあまり語ろうとしなかった。

そして、話の糸は最近時の巨大企業ビヒモスの衰退という形で現在につながることになる。日産・ルノー・三菱自動車の事件は、後年どのような形で記憶されるだろうか。ノスタルジアは懐古趣味という負の側面ばかりではないが、それから新たな教訓を学ぶことも容易ではないことも改めて記しておこう。歴史は自らを正す「鏡の部屋」のようなものなのだろう。

 

 

  'the uses of nostalgia' The Economist December 4th 2018 - January 2019

 

*2 BARRY EICHENGREEN, HALL OF MIRRORS: THE GREAT DEPRESSION, THE GREAT RECESSION, AND THE USES - AND MISUSES - OF HISTORY, OXFORD UNIVERSITY PRESS, 2015.( バリー・アイシェングリーン『鏡の部屋:大恐慌、大不況、そして歴史の活用と誤用』)



 

昨年は一年を通して多くの友人、知人を失ったブログ筆者にとって、悲嘆の多い衝撃的な年であった。改めてご冥福を祈りたい。

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「危機の時代」のメリー・クリスマス

2018年12月24日 | 午後のティールーム

 

仕事場の片隅から:ジョルジュ・ド・ラ・トゥール《生誕》のカード


数年前からクリスマス・カードでの祝意の交換が激減した。ディジタル時代の変化の速さを実感する。多い時は3桁の枚数のカードにサインや短い近況などを記すのにかなりの時間を費やしたが、今年は1桁になった。

自然界、経済、政治・・・、多くの分野で歴史の「激変」、「退行」を思わせる出来事が多い一年だった。京都、清水寺が選んだ今年を象徴する一字「災」の域を超えるかもしれない変化が世界レヴェルで起きているようだ。

ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの時代、17世紀ヨーロッパは世界史上初めて「危機の時代」と呼ばれ、ほとんどどこかで大小の戦争があった。危機はグローバルなものであったとの分析もある。21世紀になっても地球上で戦争は絶えない。新年は平和な年になることを祈りたいが、予断を許さない状態が各所に見られる。自然現象は人の力では発生を防ぎ難いことだが、戦争は人間に責任がある。

仕事場(といっても、ほとんど仕事はしていない)の壁にかけているポスター。.額縁の方がはるかに高価だった(笑)。ラ・トゥールは「ハロー」(聖人や天使の頭上に描かれる光輪)などのアトリビュートをほとんど描いていないリアリストの画家だが、ブログ筆者が下手な写真を撮ったところハレーション(光暈:こううん)を起こしてしまった。

「危機の時代」、それでもメリー・クリスマス!

 

 

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今に生きるか:「クリスマス・キャロル」の心

2018年12月03日 | 午後のティールーム

 

William Powell Frith, Charles Dickens in his Study, 1859, Victoria and Albert Museum, London, details

ウイリアム・P. フリス《書斎のチャールズ・ディケンズ 》部分


いつの間にかクリスマス・シーズンとなっている。しかし、はるか以前から宗教色はすっかり後退し、特別セールの広告など、年末の一つの風物詩のようになってしまっている。目ぬきの場所にはイルミネーションが輝き、クリスマス商戦といわれる華やかさを演出する。そこには宗教色はなく、厳しく言えば、物欲や金欲を追い求める風潮でみなぎっている。

世界も平和とは程遠く、騒然となるばかりだ。世界の指導者と称する人たちが、はるばるアルゼンチンまで出かけて解決策を話し合ったようだが、何が改善されるのだろう。一段と先の見えない時代になっている。

現代のクリスマスとは一体何なのだろう。濃霧に汚れたような状態の頭を多少なりと、クリアにしたいと、「映画館」に入る。チャールズ・ディケンズの「クリスマス・キャロル」を題材とした映画を見る。毎年、この喧騒に街が溢れるころ、クリスマスの映画と聞いて思い出すのは『マッチ売りの少女』か『戦場のメリークリスマス』か。今年は少し別の世界に浸りたい。

時は1843年のロンドン。清教徒の批判もあって、クリスマスは小さな祝祭に過ぎなかった。主人公は零落の作家チャールズ・ディケンズ(1812~1870)。ポーツマスに生まれたが、間もなくロンドンを経て、ケント州チャタムへ移り住む。ロンドンで借金を返済できず債務者監獄へ収監された父親を助けるため、チャールズは極貧の生活で学校もほとんど行けない。1824 年に生家が破産し、靴墨の工場で働く。ここでの悲惨な仕事はディケンズに深い心の傷を残した。街中でも「煙突掃除人」はいらないかと、子供を売りつけるような社会環境だ。児童労働など当たり前の世界だった。しかし、ディケンズの時代から200年近くを隔てた現代の世界から児童労働は消えていない。


Sir Samuel Lake Fildes, Applicants for Admission to a Casual Ward, 1874, oil on canvas, Royal Holloway, University of London, details.

サミュエル・レーク・フィルダース卿、《救貧院への応募者》部分


その後、世界的文豪の名をほしいままにしたディケンズは、時代をどのように生きたのだろうか。貧窮の時代、彼は弁護士事務所の書記などをしながら、文筆仕事を続け、なんとか生活を立てなおそうと努力する。編集者の娘と結婚し、10人の子供をもうけた。その後紆余曲折あり、作家として有名になったディケンズは、訪れたアメリカでは一大文豪と歓待されたが、なんとなく馴染めなかったようだ(『アメリカ日記』)。

ロンドンに戻ったディケンズだが、一転、本は売れなくなり、何度目かの借金漬けの生活になる。1843年には構想中の『クリスマス・キャロル」が出版に成功しなければ、家族共々に破滅の極地に落ち込むことになる。いや、すでに破滅していたのだ。この辺の描写は映画でも史実に沿って描かれているようだ。かなりのディケンズ・フリークのブログ筆者にとっては大変興味ふかいところだ。

かくして、ディケンズが世俗の名声や金にとらわれて、新作の構想に奔走していたある日、アイルランドのメイド、タラが子供たちに聞かせていたクリスマスのストーリーが印象的だ。ディケンズの心にも響く。「クリスマス・イヴの日にはあの世との境目が薄くなって精霊たちがこの世にくる」と祖母が語ってくれた話だ。

さて、映画ではここで『クリスマス・キャロル』の主要登場人物である三人の亡霊が現れ、実生活と混合してディケンズを翻弄する興味ふかいファンタジーが展開する。『クリスマス・キャロルズ』の一人目の主人公は、エベネーゼ・スクルージ、著名な守銭奴だ。「過去」の亡霊は、スクルージに昔の思い出を語らせる。ディケンズにとっては極貧の時代、苦しくも甘美な思い出も残る時だ。

そして「現在」の亡霊はスクルージの助手ボブ・クラチットの家族や甥たちが祝うクリスマスを見せる。さらに「未来」の亡霊は無言で前方を指差し、クラチット家の末っ子のタイニー・ティムが死んだことを知らせる。それを知ったスクルージは「夜明け」とともにすっかり改心する。改心するには最後の瞬間といわれる。スクルージにはディケンズ自身の生活と心が投影されているのだ。

ディケンズは『クリスマス・キャロル』の出版に成功、サッカレー(William M. Thackeray, 1811~1863, ディケンズと並ぶ小説家)などから大きな賞賛を受ける。最後には父親を許し、家族皆でクリスマスを祝う。奇跡は最後に残っていたのだ。ややメロドラマ的ではあるが、ディケンズ・ファンにはお勧めの映画だ。ディケンズを読んだことがない世代には、われわれ人類がこうした時代をたどり、今に至ったこと、そしてディケンズの時代は未だ終わってはいないことを知らせてくれる。そして、世塵に汚れた脳細胞も少し綺麗になるかもしれない。

 

 映画:暗闇に光を『メリー・クリスマス!ロンドンに奇跡を起こした男』

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ブラックアウトの先に光を見る

2018年09月07日 | 午後のティールーム

 

9月6日未明、北海道胆振地方を震源とする大地震によって、日本は南の九州から北海道までさながら災害列島のような状況を呈した。今日では寺田寅彦の言葉以上に、災害は以前の記憶を忘れる前にやってくる。

* 寺田寅彦「津波と人間

このたびの北海道地震発生直前の週、ブログ筆者は震源の胆振地方に比較的近い地域に滞在していた。北海道に生まれ育ち、生涯を閉じた友人の鎮魂の旅でもあった。猛暑がピークを迎えていた頃、この地の気温は日中摂氏16度、夕方など肌寒いくらいであった。広大な草原と畑が広がる中に、美しいフラワー・ガーデンが散在していた。

しばらく穏やかな光の下で美しい光景を楽しんだ後、戻った都会の地では依然酷暑の日が続いていた。そして旅の荷物を下す間もなく、北海道地震の発生のニュースに接する。9月6日未明から、広大で美しいかの地では、舞台は暗転していた。北海道のほぼ全域にわたる停電 blackout の発生だった。停電という事件がいかに多くの人々の冷静さを奪い、混乱の渦に巻き込むかを知った。外国人旅行者も増え、スマホの充電分が切れると、人間は不確かな情報。街中が暗いばかりか、交通機関は止まり、情報が極めて少なくなる。あと数日、停電が続いたら暗い街中、情報もなく、何かのきっかけで暴動でも起こりそうな混乱だった。電力というエネルギーの持つ恐るべき力にうちのめされた感があった。

1965年北アメリカ大停電のイメージ

大停電というと、ブログ筆者の頭にすぐに思い浮かぶのは、1965年の北アメリカ大停電のイメージだ。一般には北アメリカでの大停電 というと、1977年、2003年などの停電が考えられることが多いようだが、アメリカで大停電が重要な出来事として語られるようになったのは、1965年11月9日 ニューヨーク市を含むアメリカ北東部と五大湖周辺のカナダに及ぶ広範な地域で同時発生した大停電だった。

ブログ筆者はたまたまニューヨーク州の大学院で学生生活を送っていた。その時のイメージは、不思議なほど今も鮮明に残っている。夕食後のコーヒータイムで、宿舎のテラスで友人たちと一緒に雑談をしていた時、突然全キャンパスから光が消えた。広大なキャンパスがほとんど闇に消えた。誰も何が起きたかすぐには分からなかった。空には秋の終わりの夜空に、満天の星がきらめいていた。いつもはあまりゆっくり見ることのない全天を覆う星々を見ていると、時に星も流れた。



停電の原因はわからずままに、その日は図書館へ戻ることもなく寝床についた。この1965年はアメリカはジョンソン大統領が念頭教書で「偉大な社会」Great Society 建設を強調、南ヴェトナム駐留軍の総員を2万人から19万人に増加したことに加えて、アメリカの教育、住居、健康、就業訓練の機会、水質、老人医療保障の分野の改善させることを掲げていた。南ヴェトナムでのアメリカ駐留軍の死者も1900人を越え、反戦運動も高まりつつあり、キャンパスの空気も緊迫していた。いまでも時々、プロテストの反戦歌を耳奥に聞くような気がする。ヒッピー文化が台頭した時であった。カザン『アメリカの幻想』、メイラー『なぜぼくらはヴェトナムへ行くのか』、スタイロンのナット・ターナーの告白』が出版されたのも、この少し後1967年だった。

翌日になると、どこからか、巨大隕石の大陸送電線への落下、あるいはソ連の攻撃によるものだとの噂が根拠なく伝わってきた。回復にはかなりの日数を要したと記憶している。その後、調査が進み、実際にはカナダのオンタリオ州、ナイアガラ地域にある発電所事故から生まれた北米電力受給システムのインバランス(オーバーロード、過重負荷)によるものであるらしいことが分かってきた。ナイアガラの発電所から供給される電力が、なんらかの原因による事故で断絶したため、カナダ北東部からアメリカ・ニューイングランド地方に渡る電力供給が途絶し、1965年ニューヨーク大停電などともよばれるまでになった。停電により、2500万人と207, 000 km²の地域で12時間、電気が供給されない状態となった。

このたびの北海道地震で苫東厚真発電所に過大な負担がかかって支えきれなくなり、全道の電力需給システムが突然破綻してしまった背景と近似するものが あるようだ。全面復旧は11月以降と改めて発表されている。苫東厚真発電所は1号機から3号機まで全て故障しているようだ。節電への圧力も強まるだろう。


1965年北米のブラックアウトに話を戻すと、その後の調査によれば、当時カナダやアメリカ北部はすっかり冬の寒さに包まれていたため、暖房などの使用率が大幅に上がった。ナイアガラ地域の発電所のシステムの構築状態に不具合があった為、突如ナイアガラの発電所から供給される電力は停止し、カナダ、アメリカ北部のシステムが一気にオーバーロードになり停電となってしまったというのが、その後公表された公式の調査書の結論だったが、異論も残った。この地域ではその後も同様な事故が繰り返し発生した。

ブログ筆者にとって、大停電はヴェェトナム戦争を中心とする戦争の時代と何処かで結びついている。この後、アメリカはヴェトナムから撤退し、しばし平和の時が続く。1968年3月31日、ジョンソン大統領は北爆を停止、大統領選不出馬を声明した。


 

 

 

このたびの北海道大地震でお亡くなりになった方々に、心からお悔やみ申し上げます。

 

 

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ライオンと闘う前に: ワールド・カップ管見

2018年06月23日 | 午後のティールーム

 

L.S.ラウリー《試合を見に行く》1953年


サッカー・ワールドカップがメディアを”独占”している。ブログ・筆者も’隠れマニア’なのだが、関心のありかは必ずしもサッカーの試合ではない。かつて産業・労働問題調査のためイギリスに滞在中、マンチェスター周辺に何度も出かけたが、「ユナイテッド」、「シティ」の2大ティームのファンの気性や行動にも驚かされたことがあった。社会階層の差や考えも反映して微妙に違うのだ。ご贔屓の画家L.S.ラウリーも「シティ」の熱心なファンだったが、以前に紹介したように、試合(match)を見に行く観衆の光景を描いている。

今回のワールド・カップの特徴は世界の2大政治経済大国アメリカと中国が出場していないことだ。この2国が出ていたら、メディアの世界はどんなことになっているだろうか。トランプ大統領がなんとツイートするか、考えて見ても面白い。もちろん、「アメリカ・ファースト」だろうが。開催国ロシアのプーチン大統領は大分得をしたようだ。

ニューヨーカーの反応
興味深いのは、ナショナル・ティームは出ていないが、移民大国のアメリカ市民の反応だ。TVを見ることは多くないブログ筆者だが毎朝楽しみに見ている数少ない番組はマイケル・マカティアさんの@nycliveだ。この人の当意即妙のユーモアとエスプリにはいつも感心させられる。

6 月23日朝の時間にはニューヨーク市民に、どの国を応援しているのかを尋ねていた。メキシコ、コスタリカなど中米出身者は、ほとんど出身国を応援する。アフリカ系の人たちは、それぞれのルーツである出身国を応援する。南米コロンビアからの移民は、日本・コロンビア戦では、当然母国コロンビアを応援したが、負けてしまった後では日本も好きだという人もいた。「アメリカ合衆国」United States of America (文字通りなら「合州国」)という異なった出身国あるいはルーツの人々を混然一体として束ねた国(今でも「サラダ・ボウル」といえるだろうか)であるだけに、その反応が面白い。一時は、サッカーは国家間の「代理戦争」という評価もあったが、スポーツだけに、終わってしまえば後に残らないのが救いだ。

アフリカの背景
そうした状況を背景に、もし中年のアルジェリア人にこれまでのワールドカップで最も印象に残る試合は何かと尋ねると、1982年、アルジェリアが西ドイツ(当時)に勝利した試合だと答えるという。試合前のプレスのインタビューで、あるドイツ選手が「7番目のゴールは妻に、8番目は犬にささげたい」と答えて、アルジェリア人に限らず多くのアフリカ出身者が屈辱感を抱いたという。サッカー・スタディアムは、植民地主義、経済格差、愛国主義、ナショナリズム、純粋のスポーツ愛好心など、あらゆるものが混然一体となる場でもある。

目前に迫った日本・ザンビア戦について一言。かつて1950年代以前、アフリカは列強の植民地として、独立した国などほとんど存在しなかった。アフリカを宗主国別に色分けしたら、何色いるだろうかと思わせたほどカラフルだった。アフリカという統一されたイメージは想定し難かった。

セネガルについてもワールドカップ登場への背景は複雑だった。2002年の日韓大会5月31日、当時のフランスはディフェンディング・チャンピオンだった。ソウルで行われた開幕戦で、初出場のセネガルは前回優勝国の フランスと対戦。この試合でセネガルが1対0で勝利し、波乱の大会の幕開けとなった。

優勝候補筆頭と目されていたフランスは結局、事前の対韓国の親善試合で負傷した ジダンの抜けた穴を埋めることができず、 アンリ、トレゼゲ、シセと3か国のリーグ得点王を擁しながら グループリーグ で1得点もあげられずに敗退した。文字通り、’想定外’のことが起こるのだ。

「ライオン」のその後
セネガルの首都ダカールは歓喜に沸く人々で埋め尽くされた。中心の「独立広場」Place de l’Independence の集まりには大統領まで参加した。セネガルは1960年フランスから独立したのだった。

この2002年、フランスに勝利した時のセネガル・ティームの監督はブルーノ・メッツ Bruno Metsu, なんとフランス人監督だった。彼はその後、イスラム教に改宗し、名前もAbdou Karimとなった。2013年死去の折にはセネガル国民がその死を悼んだ。そして、今回の代表ティーム監督はセネガル人のアリオー・シセ Aliou Cisscé が率いるまでになった。見ようによっては容貌、風采もライオンのようだ。

「ライオン」(セネガル・ティームの愛称)は、どこまで強くなっているか。「サムライブルー」はどう闘うか。両国ともに視聴率はどこまで上がるだろうか。両国民、そして世界のサッカー・ファンが熱狂する一線になるだろう。今回のワールドカップ注目の一戦であることは疑いない。


追記(2018年6月25日):
「サムライ 万歳! 勝って兜の緒を締めよ 」

 

 

 

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理不尽な世界に生きる:映画『女は2度決断する』

2018年05月19日 | 午後のティールーム

 

人間はどこへ向かっているのか


移民・難民問題の探索には図らずも、長い年月を費やしてきた。基本的な点については政策面でも国家間に共通の理解ができているように思ったときもあったが、現実は全く異なっている。年を追うごとに混迷の度を増しているようだ。国境は開放されるどころか、いたるところで分断化が進んでいる。ベルリンの壁がなくなったかと思うと、突如としてイギリスのEU離脱が起きる。朝鮮半島の統一も、専横な国家指導者の意のままに翻弄されているようだ。平静化するかに見えたイスラエルとパレスチナ暫定自治区の関係も激しい対立の渦中に戻ってしまった。

そうした中で、一つの映画を見た。移民・難民を主題とした映画は、数多く見てきたが、難問が解けたような明るい気持ちで映画館を後にできたことは少ない。何か気がかりなものが残った作品が多い。すぐには答が出てこない問題をまた突きつけられたという思いが残る。

今回の作品は別の意味で、衝撃的だ。所はドイツ、ハンブルグ。カティヤはトルコ系移民であるヌーリと結婚する。かつて、ヌーリは麻薬の売買をしていたが、足を洗い、カティヤとともに真面目に働き、かわいい息子ロッコも生まれ、幸せな家庭を築いていた。しかし、現代社会はそうした日々を長続きさせてくれない。

ある日、ヌーリの事務所の前で爆弾が炸裂し、ヌーリとロッコが犠牲になる。警察の捜査の結果、犯人は国内に在住する外国人をねらった人種差別主義のドイツ人によるテロ行為であることが判明する。

容疑者は逮捕され、裁判が始まるが、被害者の人種や前科などが弁論の対象とされ、何の裁判か分からないほど、イライラさせられる。問題を取り違えているのではないか。観る者を含めて不満が鬱積する。いうまでもなく、一瞬にして幸せな家族の生活を微塵に砕かれてしまったカティアにとっては言いようのない苦悩の日々が続く。

戦後最悪のドイツ警察のネオナチ・テロ事件の捜査の記憶。映画はこうした実態を背景に制作されたという。思いもかけない事件の無残な犠牲となった家族への想いは、難を逃れたかに見えるカティヤにとっては、残酷な時を増すばかりで消えることはない。

次第に精神的に追い詰められてゆくカティヤの心理状態は、ついに極限状態になる。当事者だけにしか分かり得ない窮迫し、破滅的な状況だ。そして、カティアというひとりの女の下した決断! そしてその結果は・・・。その衝撃には誰もが言葉を失う。

問題は解決したのだろうか。答えはいうまでもなく「否」だ。人間はどこへ向かっているのか。



映画原題
AUS DEM NICHTS (IN THE FADE) by Faith Akin
独・英・日の原題それぞれに微妙なニュアンスの差を感じるが、画面はそれらも一瞬にして吹き飛ばしてしまう。

主演女優:Diane Kruger (ダイアン・クルーガー)
第75回ゴールデングローブ賞 外国語映画賞(ダイアン・クルーガー)
第70回カンヌ国際映画祭主演女優賞
第90回アカデミー賞外国語映画賞ショートリスト(ドイツ代表)

お問い合わせがありましたが、上掲のシンボルマークはベルリンの交通信号です。

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トリーアのマルクス像は何を考えているのだろうか

2018年05月13日 | 午後のティールーム

 

ポルタネグラの内庭 

やや旧聞になるが、去る5月5日、ドイツ連邦共和国西部ラインラント=プファルツ州のトーリアで、カール・マルクスの銅像の除幕式が行われた。除幕式には欧州委員会のジャン=クロード・ユンケル委員長やドイツ社会民主党のアンドレア・ナーレス党首などが出席した。銅像は5.5メートルもあり、寄贈者は中国政府であった。

この町には世界的思想家、哲学者、革命家のカール・マルクスの生家Karl-Marx-Haus があり、今は小さな博物館になっている。しかし、ここは主として観光の場に過ぎず、マルクスの生家を尋ねても、落ち着いて彼の生涯や思想について考えたり、広い思考基盤が得られる場ではなかった。今は中国人観光客の「赤いツーリズム」が押し寄せる場所だ。1966年に始まる文化大革命によって、世界史などの歴史教育をかなり削減されてきた多くの現代中国人にとっては、この地が誇る古代ローマの遺跡よりもはるかに親しめる場所なのだろう。

それにしてもマルクスの銅像を中国政府が寄贈した意図はなんなのだろう。中華人民共和国は依然マルクス=レーニンの政治思想の忠実な追随者とでもいうのだろうか。過去はともかく現代中国は新たな皇帝ともいうべき習近平国家主席が支配する一大帝国だ。トーリアを「一帯一路」のショーウインドウの一つとするつもりでもないだろうが、やや出すぎた思いがする。「赤いツーリズム」の増加は、日本で起きた「爆買い現象」を想起させ、地元経済には寄与するだろうが、違和感も少なからずある。

この地は、筆者も日独交流の仕事などで2度ほど訪れたが、何と言ってもこの町のアトラクションはポルタネグラに象徴される古代ローマ時代からの圧倒的な遺跡群だ。世界遺産に登録されている。

最近、短い旅の途上で、マルクス晩年の旅についての好著を読んだ。マルクスがトーリアにいたのは、生まれてから青年時代だけであった。それからのマルクスの広範な活動は、パリ、ロンドン、などへ移行してる。個人的にはマルクス像はロンドン、カジノ資本主義の関連でモンテカルロあるいはヴェヴェイ(オードリ・ヘプバーンやチャップリンが最い後を迎えた所)などが設置するにふさわしいと思う。ちなみにマルクスのお墓はロンドン郊外ハイゲート墓地にある。

 Hans Jurgen Krysmanski, DIE LETZTE REISE DES KARL MARX (ハンス・ユルゲン・クリマンスキー著、猪俣和夫訳『マルクス最後の旅』太田出版、2016年)
カール・マルクスが晩年の1982年から1983年までロンドンからパリ、マルセイユ、アルジェ、カンヌ、モンテカルロ、アルジャントゥイエ、レマン湖畔ヴェヴェイ、ワイト島ヴェントナーを経て、ロンドンの自宅で逝去するまでの旅におけるマルクスの思索を追ったユニークな作品だ。翻訳書だが、大変丁寧な翻訳と構成で好感を抱いたが、翻訳者の猪俣和夫氏は新調社校閲部におられた本づくりのプロフェッショナルであった。この作品には筆者も訪れた地が多数含まれ、極めて興味深かった。映像化のための素材集めから始まったと言われる本書は、一瞬、
あの『パンディモニアム 』を思い起こさせたほどだ。

閑話休題。

トリーアといえば、やはりポルタ・ニグラ Porta Nigra 『黒い門』であることはいうまでもない。古代ローマ時代の建築物群でユネスコ世界遺産に登録されている。当初、186-200年頃にローマ市壁の北門として建造されたが、その後の歴史でさまざまに改変された。今日では城門跡としてトーリアを象徴する観光スポットになっている。最初訪れた時は、その異様な黒さに圧倒されたが、2千年近い時の流れの生み出したものに次第に深く引き寄せられていった。



公衆浴場跡


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ウインストン・チャーチルの実像を求めて

2018年04月15日 | 午後のティールーム

 

1945年2月ヤルタ会談における3巨頭(チャーチル、ローズヴェルト、スターリン)
Source: Public Domain 

 


「ハロー フランクリン!・・・」「ヤー ウインストン、ハウ・アウアーユー・・・」。60歳くらいか、男が今は見かけることのなくなった黒い卓上電話機を取り上げて、何かを頼んでいる。親しげなトーンだが、答えは思わしくなく、すぐに終わる。映画『ウインストン・チャーチル』の一場面である。電話をかけているのはチャーチル首相、相手はアメリカのフランクリン・D・ローズヴェルト大統領だ。チャーチルはドイツ軍に海岸線に追い詰められた英軍のために艦船での支援を依頼しているのだが、答えは素っ気ない。支援はできないというのだ。この電話ラインは世界最初の首脳間ホットラインと言われる。当時、どういう方法で機密が守られたのだろう。同盟国にもほとんど頼る術もなくなったチャーチルは、イギリス国民の愛国心に訴え、民間船舶をかき集め、英軍兵士をイギリス本土へ送り戻す策を取ることになる。

1940年5月20日月曜日

フランス第9軍の全滅によって、反撃の希望が全て消える

イギリス軍派遣軍は、沿岸の諸港まで退却して戦うことを試みるより他なく・・・・・・とくにダンケルクへ
チャーチルは、撤退することになれば、海軍に指令を出して民間船舶の大船隊を準備させ、フランスの港まで行かせようと考えている 

1940年5月29日水曜日

ダンケルクでの撤退速度は1時間に2000名で、すでに4万の兵が本土に無事上陸した。

(マクガーデン、181, 255ページ)


イギリスに暮らしてみて分かったことのひとつに、自叙伝、伝記が大変好きな国民であることを知った。大きな書店には必ずAutobiography のコーナーがある。自叙伝、回顧録には本人自らが筆をとったものと、伝記作家に依頼したものがある。筆者は取り立てて自叙伝を好んで読むことはないが、イギリス人との会話の話題ともなるので、かなりの数は読んできた。このブログでもマーガレット・サッチャーフランクリン・D・ローズヴェルトを含み、いくつか取り上げたことがある。

さて、チャーチルの映画も、その原作となった伝記も最近読んだ本の中ではきわめて印象的で素晴らしかった。惜しむらくは、この映画に取り上げられたチャーチルという偉大な政治家のその後の人生が描かれていないことである。大戦という圧力の下で、政治家としてチャーチルが最も活力に溢れていた頂点の時が描かれている。マーガレット・サッチャー首相の場合は、晩年の情景が描かれていた。毀誉褒貶はあったが、一つの時代を画した女性政治家の晩年が網膜に残る。

さらに、チャーチルは図らずも敵国となった日本という極東の国を真底どう思っていたのだろうか。子供心に断片的に残るイメージがある。多分、当時見た新聞記事ではなかったかと思う。
イギリス東洋艦隊の誇った最新戦艦プリンス・オブ・ウエールズ、巡洋戦艦レパルスが、老朽艦しか保有していなかった日本軍によって撃沈されるという出来事を、チャーチルはどう受け止めたのだろう。この大戦果に狂喜した日本と予期せぬ大損失を蒙ったイギリス。戦争は多かれ少なかれ、関係国の国民を狂気の世界に引きずりこむ。その後もチャーチル自身は日本に来たことはなかったが、極東の国日本には対ドイツほどの憎悪感を抱いていなかったのではないかと思うことがある。

シリアへのミサイル攻撃のニュースを見ながら、人間はなぜこれほど戦争が好きなのだろうと思う。30年戦争など、ヨーロッパで戦争がなかった年を見いだすことが困難だった17世紀(「危機の世紀」)以来、人類の歴史は何も学ばないと言えるほど絶えず戦火で溢れている。

 

 アンソニー・マクガーデン(染田屋茂・井上大剛共訳)『ウインストン・チャーチル;ヒトラーから世界を救った男』(角川文庫、2018年)
原作:Darkest Hour: How Churchill Brought Us Back from the Brink.

 

 

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開かれた終活:人生は最後まで新しく

2018年04月01日 | 午後のティールーム

 

しばらく書くことのなかったチューリップ通信である。今年は三寒四温とは言い難い、寒さと暑さが交錯した激しい気象変動の中で、果たして芽を出し、花が咲くだろうかと多少危惧していた。例年の通り、11月中旬くらいに植えた球根は、地中でどんな対応をしているのだろうかと考えていた。しかし、これは杞憂だった。

3月に入っての激しい気温の変動にもかかわらず、中旬にはしっかりと芽を出していた。あまり例のない雪の厳しさにも耐えぬいた。そしてこの数日の気温上昇で急速に伸び、しっかりと開花した。桜と同様、人間世界のように激変に振り回されることのない絶妙な自然の摂理にに感動する。しかし、開花が遅かった年と比較すると、今年は2週間くらい早まっている。地球温暖化は地底でも進行しているのだろうか。

桜とともに、春の訪れを告げて、冬の間停滞していた心身の活動にスイッチを入れる役割を果たすようだ。これらの花々は不安な時代に生きる人間の心の奥底に不思議な力を与えてくれる。

この国は世界でも際立って高齢化が進み「人生の終わり方」について、さまざまな議論がある。書店の棚を見ても、病気や高齢者の生活についての書物が目白押しだ。「終活」という他の国にはないであろう妙な言葉も流行している。自分の人生の終わり方について関心がないわけではないが、あまり深く考えたことはない。

それよりも、これまでの人生で探索してみたいことが山積していて、頭の中はかなり忙しく動いている。回転の速度は遅くなったが、知りたいことの範囲はむしろ拡大した。次々と探索したいことが生まれていて、瞬く間に時間がすぎてしまう。ひとつの疑問の解消には長い時間がかかる。

とは言っても、心身の老化は覆い難く、探索の結果をまとめることより、疑問がなんとか解消したことで満足してしまうことが多くなった。ブログにしても掲載間隔が長くなった。しかし、上り坂よりも下り坂の方が視界は広くなる。これまで過ごしてきた人生の蓄積が生きてくる。このまま開かれた形で人生を過ごすことができれば、それもひとつの終わり方ではないかと思っている。

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