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時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

L.S. ラウリーとハロルド・ウイルソン首相(17)

2015年01月22日 | L.S. ラウリーの作品とその時代

 

 2015年版L.S. Lowry Diary Cover

 

日記をつける人は増えたか
  最近はクリスマス・カードなどのやりとりをすることが大変少なくなりました。このことは、以前にも記したことがありました。原因はEメールなどを使う人たちが多くなったためですが、なにかが失われた思いがします。私はカードが好きで、一時期年末のシーズンなどには200枚を越えるカードを海外などの友人、知人、提携先などに送っていました。しかし、その数はこの10年くらいの間に激減し、最近は20-30枚程度になりました。今は春節の挨拶カードが中国本土、台湾などから散発的に送られて来ています。カードには近況などが自筆で書き添えられていることも多く、Eメールにはない人間味が感じられます。時々、そのいくつかはブログでも紹介をしてきました。

 他方、新年になった感じが希薄なこの頃、皆さんの中で日記をつけられる方は増えたのでしょうか。デパートなどの文房具売り場などを見ると、以前よりは手帳の種類も多く、さまざまな手帳が陳列されています。しかし、こうした手帳は日記というよりは、メモ帖といった方が多いような印象です。

 さて、このたび友人が送ってくれた上述のDiaryには、このブログでも紹介したことのある ラウリーのGoing to Work, 1959 『仕事に行く』の一部が採用されています。あの画家の生地サルフォードの美術館(The Lowry Collection, Salford)が原画を所有しています。私がマンチェスター、サルフォード、そして保有する作品数は少ないが、ロンドンのテート・ブリテンを訪れた時、記念に購入しようかと思ったのですが、毎日、この立派な装丁の日記帳に書き留めることを考えると、少し引いてしまい、別のラウリーに関する書籍を購入しました。その場に一緒にいた友人は、このことを覚えていたようでした。


「マーケットの光景」(部分)
Market Scene, Northern Town、1939 (detail)
2015年版Diaryの一部  

 

地域社会への暖かな目

  今年のDiaryに掲載されているこれらの作品も,一見稚拙に見えますが、画家は入念なスケッチを重ねた上で制作にあたりました。なにしろ、母親から画家になることを禁じられたラウリーは、地域の不動産会社の集金掛を65歳の定年まで毎日続けながら、その傍らで好きな絵を描いていたのです。画家は貧民街やそこに住む人たちの生活など、地域の変化を誰よりも知っていました。そして、他の画家たちであれば、全く関心を寄せないような光景を丹念に記してきました。今になってみると、それらの作品は、写真以上に大きな意味を持って受けとられています。ラウリーの作品には、地域の人々への暖かい思いが感じられます。

  画家の作品には上流階級も含め、隠れたファンが多く、ラウリーの作品を欲しがる人は大変な数でした。イギリスの労働党首で首相を2度勤めたハロルド・ウイルソン(1916-1995)もそのひとりでした。ウイルソンは北イングランドのハダースフィールドに生まれ、オックスフォードのジーザス・コレッジ卒、21歳で経済学部講師に就任したほどの逸材でした。

  その後労働党党首から2度の首相(1964-1970, 1974-1976年)を務めたウイルソンは大変、この画家の作品を好み、在任中、2度にわたりL.S.ラウリーの作品を、自分のクリスマスカードに使いました。

国家的栄誉とは無縁の人
  L.S.ラウリーは生前5回にわたり、イギリス最高の栄誉であるナイト、CBEなどの国家的受賞をすべて断っていました。彼がやっと引き受けた晩年の栄誉は、生まれた町サルフォード市の名誉市民だけでした。画家の死後、イギリスの各層から、イギリス画壇のオーソリティたちは、ラウリーを不当に低く評価してきたとの批判が急速に高まり、昨年「テートブリテン」(イギリス最高の公的美術館)で、初めて大規模な特別展が開催されました。ラウリーとウイルソンの生き方に長らく関心を抱いてきた私にとっても、格別の感慨でした。

  ラウリーの作品の愛好者だったウイルソン首相は、1974年3月に2度目の首相に就任し、EECへの残留を国民投票で決定するなどの大仕事を行いましたが、1976年3月、首相を突如辞任し、政界,国民を驚かせました。その理由は長く明かされなかったのですが、死後、アルツハイマー病の兆しが現れ、国政を誤らないためにも早期に辞任したとの事実が公表されました。ウイルソンは辞任後、20年近く生き、1995年79歳で没しています。戦後イギリスの政治家の一連の伝記を好んで読んできた私は、この国の政治家の持つ思想、責任感がいかなるものであるかを知り、感銘を受けました。


 さて、今年の秋、ハロルド・ウイルソンの生地ハッダースフィールドで工業的大成功を収めた経営者、故ジェームズ・ハンソン卿(オードリー・ヘップバーンと婚約したこともあった)が、同郷のハロルド・ウイルソン首相に贈ったL.S.ラウリーの『アデルファイ』 The Adelphi (1933年作)と題する風景画の作品が、ロンドン・サザビーでオークションにかけられました。落札価格は不明ですが、200万-300万英ポンド(邦貨3700-5600万円)と推定されています。ちなみに、このジェームズ・ハンソン卿(故人)は、1976年、ウイルソン首相の電撃的辞任のどさくさにナイト称号授与のリスト 通称‘Lavender List’(ラベンダーの花言葉はdistrust;不信)にもぐりこんだ人物のひとり?と噂され、本人没後も評判は芳しくないようです。ウイルソン首相が信頼を寄せていた助手が、ラベンダー色のノートに書き残していたためともいわれています。ナイトになりたかった大富豪と、称号なんて「なんの価値もないよ」と、ナイトその他の国家的称号をすべて断ったL.S.ラウリーの生き方はなかなか興味深いものがあります。

 
 
L.S. Lowry, The Adelphi (1933)
地域の小劇場の名前と思われます。 

 

続く

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画きたくないものも画いた画家:L.S.ラウリーの世界(16)

2014年12月17日 | L.S. ラウリーの作品とその時代

  この写真はなにを撮ったものでしょう。少し古いイギリスの写真ですが、すぐにお分かりの方は、社会の日常、細部についての観察眼のおありの方と自負されて間違いないでしょう。(以下画像はワンクリック)

 最近、日本でもこれと似たような風景に接する機会が多くなってきました。いままではとりたてて変哲も無い光景と思っていましたが、自分自身がその場に身を置くと、かなり違ったものに見えてきました。

 この短いシリーズで記してきた現代イギリスを代表する画家のひとりであるL.S.ラウリーは、自分が人生のほとんどの時間を費やしたイギリス北部マンチェスターの地域を愛し、そこに生きる人々に与える産業の変化、そしてその中で暮らす住民の日常の生活をさまざまに画いてきました。この画家の素晴らしいところは、普通の画家が美的感情を抱かないような対象にも、観察の眼を向け、その日々の情景を画き抜いたことにあります。その一端はこれまでも[L.S.ラウリーとその世界」のタイトルで、このブログで紹介してきたとおりです。


アンコーツ病院待合室の情景
 少しずつ、種明かしに入りましょう。上記の写真は20世紀末時点で、マンチェスターにあるアンコーツ病院の外来風景を撮影した一齣です。この病院は当初1828年に地域の貧困者のために開設された診療所でしたが、1874年に拡張し、その後アンコーツ病院として拡大・充実されました。現在は、近代的設備を備えた地域の拠点病院となっています。

 1950年代初期、ラウリーは地域の産業盛衰、多くは衰退する光景を画くことから、次第にその影響の下に生きる人々の日々を細部にわたって画くようになりました。そうしたときに、この病院の活動に大きな功績のあった外科医 Peter McEvedy を追悼、記念するための作品を、病院の理事会がラウリーに依頼し、画家はその仕事を引き受けました。病院理事会は、長くこの地域に住み、その来し方を細々と画いてきたラウリーを好んだようでした。

 画家はいつもの手順でまず、外来待合室の光景をスケッチしました。ラウリーは自らのスケッチに基づき、油彩画に仕上げることを通常の制作のステップとしていました。この時のスケッチが残っています。ご参考までに掲載しておきましょう。

 その後、たまたま、病院側が制作の参考までにと画家に渡したのが上段に掲げたモノクロ写真です。カラー写真ばかり見慣れていると、薄暗く感じられますが、実際には蛍光灯が備えられ、長いベンチが置かれた普通の中規模病院の外来風景でした。ラウリーは自分のスケッチを基に、渡された写真も参考にしながら、それに縛られることなく、自らが重要と考えた画家の目で、外来待合室という刻々変化する一場の情景をユニークに描き出しています。ちなみに、この待合室はその後の改築され、現在は病院のX-ray撮影部門になっています。

ラウリーのスケッチ
作成時点不明、黒チョーク、鉛筆および水彩、画用紙、
27.2x38.1cm

 最後に作品の油彩画イメージを掲載しておきます。スケッチや写真と比較してみると、すべての人物や位置の細部は書き換えられていますが、病院外来待合室の雰囲気はそのままに、画家がとらえた当時のアンコーツ病院の外来の情景が巧みにとらえられています。


L.S. Lowry
Ancoats Hospital Outpatients Hall,
1952,, oil on canvas, 59.3x90 cm

『アンコーツ病院外来待合室』 


 ラウリーはマンチェスター地域の産業の盛衰、とくにそhの衰退過程が地域の人々の日常生活にいかなる影を落とすかについて、画家として鋭い目で観察してきました。以前に記したように、地域の不動産会社の集金掛として勤務し、その仕事に努める傍らで、地域の時々の変化を多数の作品にしてきました。

作品に描かれた待合室が意味するもの
 油彩の作品(中段の画像)を見ると、一見して古くなった室で天井からは簡単な蛍光灯が下がり、左上方には明かり取りの窓がついています。ここが病院の待合室らしいと分かるのは、右側に医師らしい白衣の若い男が立っていること、その後ろに車いすの人がいること、さらに頭に白い包帯をした人が画かれていることなどから推測ができるでしょう。

 病院側が参考にと手渡した写真とほとんど同じアングルです。油彩に画かれた人々に、笑顔はなく、皆それぞれ身体や心に問題を抱え、おしなべて不安げに無表情に画かれています。画家は地域の産業の衰退過程が、住民の社会的、経済的面に暗い影  'down and outs' を落とし、それが病院で診察を待つ人々に反映していることに注目しました。画家はその人たちにある脆弱性を感じたようです(Sandling & Leber, 73)。地域の衰退・崩壊がそこに住む人々の健康状態、精神状態に影響を及ぼしてしていることを読み取っていたのです。ラウリーの描写は、病院外来待合室というともすれば陰鬱になりかねない情景に対して、ある明るさを維持しながら、そこに集まった人たちの精神的光景を的確に写し取り、見る人に伝えています。


 この病院待合室という、およそ普通の画家であったなら最初から考えもしないような情景を描こうと思ったL.S. ラウリーの作品には、地域とそこに住む人々への深い愛情がこもっています。画家自身、せいぜいロンドンへ行ったくらいで、外国にも行かず、マンチェスター地域で生涯を送りました。一見、稚拙に見える画風でありながら、十分に画作の技能修得を積み、当時の写真を超える練達した手法で病院外来待合室の雰囲気を今日に伝えています。


現在のアンコーツ病院風景 

 

続く


追記(2014/12/20) 

 クリスマス・シーズンにちなんで最近はクリスマス・カードを書いたり、送ったりすることが少なくなってしまいました。それでも、この季節に届く友人たちからの手書きの近況や挨拶が入ったカードにはいつも心がなごみます。ちなみに、イギリスの首相を務めたハロルド・ウイルソン(Harold willson, 1916-1995, Labour)は、私が注目する戦後のイギリスの政治家のひとりですが、故郷が北イングランドのHuddersfield であったこともあってL.S. Lowryの作品を好み、クリスマス・カードに使っていました。そのウイルソンと画家の作品に関わる記事をリンクしておきます。以下のアドレスをコピーし、アクセスしてください。
http://www.dailymail.co.uk/home/event/article-2345087/LS-Lowry-Northern-Soul-He-genius-joker-The-real-Lowry-oldest-friend.html

 

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仕事ってなんだろう:L.S.ラウリーの世界(15)

2014年11月08日 | L.S. ラウリーの作品とその時代

Man Lying on a Wall, 1957
『壁の上に寝ている男』


 この絵を描いてから2年後、ラウリーは「これとまったく同じような服を着た人がこうしていたんだよ。ハスリングデン(ランカシャー地方の地名)で、バスの上から見たんだ。傘がちょうどこのように立てかけられていたので、目についたのさ。
でも誰も信じてくれなかった」と話した。画家は傍らのブリーフケースに自分のイニシャルを
描き込んだ。そして言った。「引退するときの私だよ。」 
ラウリーが引退するとは、絵筆をお(擱)くことを意味していた。
しかし、それはどういうわけか彼にはできなかった。
(Rhode, 211) 

 

  L.S.ラウリーは、ポウル・モル不動産会社に地代、家賃の集金掛として42年間勤めて働いていた。65歳になった時、いつものように会社の事務所へやって来たラウリーは、「明日は来ないよ」と淡々と言った。そして翌日から事務所へ来なかった。

  しかし、ラウリーは「仕事」をやめたわけではなかった。6、7歳の頃から始めた絵をその後も描き続けていた。88歳で世を去るまで絵筆を握っていた。ラウリーの作品は誰もが欲しがった。この画家はいとも簡単に作品を人にあげてしまうのだった。それを見ていて、画商などはかなりはらはらしたらしい。作品にはオークションなどで驚くほど高い値がついた。彼の作品はこれまでの伝統的な「アート」(美術)という枠には入らないところがあったが、人間としても枠にとらわれないところが多かった。生活はまったく困らないのに、欲がない人だった。マンチェスターで普通の家に質素に住んでいた。


 社会的栄誉の機会も次々とやってきた。しかし、ラウリーはすべて断っていた。イギリスでは最高の栄誉と思われているナイト(騎士)の称号贈呈のオッファーも断ってしまった。まったく関心がなかったのだ。「もう十分に感謝されましたよ。」「人が作品を買ってくれるだけで十分」と答えていた。

 人々が彼のことを「サー・ラウリー」Sir Lowry と呼ぶようになるのもいやだったのだろう。確かに・・・・・・。

 

続く

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L.S.ラウリーの世界(14):産業化の影を描く

2014年10月30日 | L.S. ラウリーの作品とその時代

 

「私は工業の風景を見て、それに影響を受けた。それをいつも描こうとした。自分の力のかぎり工業の光景を描こうと努めた。容易なことではなかった。確かに、カメラなら直裁にその光景を記録しえただろう。しかし、それは私にはなんの意味もなかった...... 私が目指していたことは地図の上に、それぞれの工業の光景を置いてみることだった。なぜかといえば,誰もそうしたことを試みたことはなかったし、真剣に考えたこともなかったからだ。」
L.S.ラウリー
Quoted from Howard, 2000, p.81



ボルトンのパーク社工場と労働者住宅街が
立ち並ぶ光景は、富と貧困の対比でもある。
Howard p.83

 現代イギリス絵画の中では異色の存在だが、イギリス人が最も好きな画家のひとりといわれるL.S.ラウリーの生き方について、これまで少し記してきた。長い間、北の方(マンチェスター)に住む「マッチ棒のような人を描く日曜画家」と揶揄され、偏見と差別の中にさらされてきた画家である。画題も画法も確かにユニークであり、煙突の煙、スモッグで汚れた空、決してきれいとはいえない工場の有様など、普通の画家ならば見向きもしないような光景を多数描いてきた。しかし、そのことによって、イギリスという世界の産業革命をリードし、長らく繁栄の礎を築いた産業社会の実像が、絵画という形で具象化され、見事に記録され今日に継承されることになった。産業革命は技術や産業の創生、発展という光の面にとどまらず、持てる者と持たざる者、環境破壊、労働災害など多くの影の側面を作り出した。ラウリーは誰も積極的に取り上げることのない、産業の影のさまざまな場面を描いた。それも単にイメージだけで描いたのではなく、彼が目指したことは地図上に存在したものを、できうる限り多数、当時の有様に近づいて描くことにあった。

 もちろん、ラウリーの生きた時代にモノクロ写真はあったが、写真では写しきれないあるいは写真家が気づかない日常のさまざまな次元が絵画として描かれることで、この画家の多数の作品は見る者に時代の空気を伝えている。管理人がこの画家を評価するのは、産業革命以来のイギリスがいかに変化し、工業化の光と影がなにをこの社会にもたらしたかを写真とは異なる姿で見事に伝えている点にある。そしてその中に生まれ、育ち、働き、喜びや悲しみを共にし、死んで行く人々のさまざまな姿が描かれている。これは美術の世界に限らず、現代史における重要な貢献でもある。単に対象の美しさだけを追求する静物画や風景画ではない。ラウリーが言うように、「産業化の段階」 industrial satages ともいうべき新たなジャンルを切り開いたといえる。

貧困を目のあたりにして
 実は、ラウリーが普通の画家ならば無視するような側面に着目したのは、画家個人の生い立ちやその後の生活環境にも関係するところが多い。その一部はすでに記したが、ラウリーは23歳の時、彼は人生で初めて職を失った。マンチェスターの保険会社の事務員として働いていたが、不況で解雇されたのだった。息子に期待していた両親は、愕然とした。

 ラウリー自身は15歳で義務教育を修了した時、会社などで働くつもりはなかった。もっと自分に適した仕事に就きたいと思っていた。しかし、

 「なにもしないでは生きてなんかゆけないわよ」と彼の母親は言った。
 「なにもしないで」とは、彼が画業に就くことだった。

 母親の意味する「仕事」とは、会社に雇われ、事務所や工場で働くことだった。両親は息子が画家で生きてゆくことなど、およそまともなことではないと考えていた。とりわけ母親の期待に逆らうことなく、ラウリーは数ヶ月の後に、地元の不動産会社に職を得た。それは家賃や時代の集金とその管理をすることだった。彼が育ったのはマンチェスターのヴィクトリア・パークであり、工業化とともに生まれた貧困な労働者街であった。そこは、上に掲げた写真のように、文字通り貧困と搾取が並び存在するような地域だった。

助け合って生きる人たち
 ラウリーが毎日、集金のために訪れると、決まって同じ顔に出会い、彼らの貧困な生活を否応なしに目にすることになった。そればかりでなく、毎週払う家賃の支払いをめぐって、いつもごたごたが起きていた。さらに当時の工場では、労働災害が頻発していた。とりわけ、炭鉱事故は一度起きると、多くの炭坑夫たちの命を奪い、地域に大きな悲惨をもたらした。なにかの事故が発生するたびに、人々はニュースを聞いて集まり、悲しみ、慰め合った。

A Sudden Illness, 1920, oil on board
29 ss 49cm
『突然の病気』


労働者たちの誰かが重篤な病気にでも罹患したのだろうか。
あるいは工場で事故にあったのかもしれない。近所の人たちが
いつも集まる場所に来て、様子を話し合っている。そこには
ある緊迫した空気が漂っている。夕刻の風景か、工場はまだ
操業しているようだ。

 
Unemployed, 1937, oil on panel, 52.1 x 41.9cm 
『失業者』 

この作品は画家が1910年ころにひとりの男を描いた作品を
もとに、後年新たな構想で描き直したものだ。地域の失業が
著しく悪化した地代。厳しい容貌の男が道路よりの鉄柵を背に座っている。
男の後ろの柵は、彼が働いていた雇用の場とを隔離する象徴的な存在だ。
そして、そのさらに背後には男たちが働く工場が描かれている。
男の容貌はラウリーが鬱病になった時の異様なまでの自画像にどこかで
通じるものがある。大不況という時代の異様さを暗示するといえるかもしれない。


 

Photo: Police in Manchester, 1922 

 この時代、不況による賃金など労働条件の切り下げ、失業などの悪化とともに、労働者の側も次第に集団、組織の力で経営者や資本家に対抗しようとしていた。この段階では服装は整ってはいるが同じような身なりの労働者たちが、街角に押し寄せている。後年、あのサッチャー首相の政権時代、政府によって厳しく抑圧された労働運動もこの時期すでに盛んに起きていた。なにかのプロテストがあると、騎馬警官などが出て集まった労働者を蹴散らしていた。 

 こうした光景が今日の世界から消え去ったわけではない。先の見えない不安な時代、世界のどこかで同じような光景が今も展開している。ラウリーの生きた時代は現代なのだ。


Sources
Michael Howard, Lawry A Visionary Artist,Salford, Lowry Place, 2000

続く 

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遅咲きでも大輪の花は開く:L.S.ラウリーの世界(13)

2014年10月09日 | L.S. ラウリーの作品とその時代

 

 
Adolphe Valette, Albert Square, Manchester,
152 x 114 cm, 1910

アドルフ・ヴァレット 『マンチェスター、アルバート広場』 
 


 ひとまずは大波乱にはならずに収まったスコットランド独立の動きだが、これから長い難しい時代が待ち構えている。イギリスにしばらく住んだ時、問題の根深さの一端をあちこちで見聞した。ケンブリッジにおられたスコットランド生まれのチェックランドさんからいくつかの話を聞いたこともあった。今回の選挙では、賛否がかなり近接したために、これで一件落着というわけには到底行かない。さまざまな形で、問題が燻り続けるだろう。


 この問題を考えながら、少し中断していた現代イギリスで最も愛される画家のひとり、L.S. Lowry L.S.ラウリーのことも考えた。 この画家については、すでに概略は記した。だが、ひとたび糸がほぐれ出すと、止めどもなく色々なことが思い浮かぶ。区切りの良い所まで、もう少し続けたい。ラ・トゥールもそうであったが、日本人がほとんど知らない画家なので、記しておきたいと思う。

 ラウリーは、イングランドの人ではあるが、ロンドンなどから見ると、北のスコットランド寄りに近い北西部サルフォード、マンチェスターで生まれ、育った画家であった。しかし、今回のスコットランド独立問題に伏在する南北間の根深い偏見に類した状況が、イングランドの北部とロンドンを中心とする南部の間にも存在している。ひとたび生まれた偏見は除去するには多大な努力と年月を必要とする。

根深い南北間の偏見の中で
 マンチェスターなど、かつては産業革命を担った主要地域であり、イギリスの繁栄、国威発揚に大きな貢献をしたのだが、そこに生まれた煙突の立ち並ぶ工場地帯、そして働く労働者やそれにまつわる文化について、ロンドンなどの上流階級、エスタブリッシュメントの間にはそれらを軽視する根深い偏見、スノビズムが存在してきた。ラウリーの作品が工場風景や労働者の生活など、それまでほとんど取り上げられることのなかった光景を画題とし、独特の筆致で描いたことについては、長らく<正規の>絵画制作の教育課程を経ていない、日曜画家程度などの評もあったようだ。しかし、実際にはこれらは偏見に根ざしたものであった。

 ラウリーは画家として外国、とりわけフランスに行ったことがなかった。20世紀に生きたイギリス人画家としては大変珍しいのではないだろうか。パリは印象派の興隆などもあって、画家や画家志望者にとっては必須の訪問先だった。しかし、ラウリーの作品には微かにフランスの影響が残っている。これについては、ラウリーが通ったマンチェスター公立美術学校で、1905-15年にかけて無名のアメリカ人の画家William Fitz と、いわば生涯学習のクラスで教師であったアドルフ・ヴァレット Adolph Valette(1876 Saint Ethienne-1942 Lyon)というフランス人の影響が知られている。

 特にヴァレットはラウリーよりも11歳くらい年上であったが、才能に恵まれた画家・教師であった。ヴァレットはフランスでは後期印象派に近い作品を描いていた。しかし、マンチェスターに赴任してきてからは、土地の空気に合ったもっと暗い都市と産業の光景を描き、ラウリーに多大な影響を与えたものと考えられている。ラウリーは幸い良い教師に出会えたのだった。人生の過程で、尊敬できる良い教師に出会えること、これは画家にかぎらず、とても大切なことだ。

フランス印象派の影響
 フランス印象派の画家モネは、ロンドンのスモッグを好んだといわれる。そして、スモッグが少なく、空気が澄んでいる日曜を嫌った。そういわれてみれば、初めてロンドンを訪れた1960年代半ばのロンドンは、いつもどんよりと曇った日が多かった。




Maurice Utrillo
La Porte Saint Martin
c.1910
Oil paint on board, 
69.2x80cm 

モーリス・ユトリロ
『サン・マルタン門』 


 ヴァレットが赴任したころのマンチェスターは、工業化がたけなわで工場の煙突から出る煙、排水などで都市としての環境はかなり悪かったようだ。しかし、ヴァネットはそれをさほど気にしなかったらしい。この画家はマンチェスターでは大変人気のある画家として受け入れられ、個展も何度も開き、作品もよく売れた。教育という点でも、マンチェスターとボルトンの画学校で教えていた。1928年にフランスへ戻ったが、マンチェスターには良い印象を抱いていたようだ。この年、ラウリーはすでに42歳に達していたが、不動産会社の集金掛というこの都市の空気のような退屈した仕事に就く傍ら、好きな画家の道を黙々と歩いていた。

 ラウリーはヴァレットの制作態度や作品に大きな影響を受け、教師としても尊敬していた。しかし、ラウリーは自分にはそうした印象派風の作品を描く能力がない。
したがって自分が住んでいるサルフォードやマンチェスターの<産業化の風景> Industrial Landscape を自己流で描くしかないと述べている。そして、いまやよく知られている「マッチ棒のような人々」など、この画家独特の表現手法をあみ出した。しかし、ラウリーの残した作品をつぶさに見ていると、とりわけ初期の作品には、フランス印象派の影響が根底に流れていることを感じる。

 上に掲げたヴァレットの『マンチェスター、アルバート広場』を見ると、20世紀初頭、イギリスの産業化の中心地であったマンチェスターの汚れた空気、スモッグの雰囲気が伝わってくる。そして、車を押す人、馬車の馬などにも、ラウリーの作品にしばしば見られるデフォルメされて、コミカルな描写が感じられる。
 
 ラウリーは印象派の流れを汲むヴァレットなどに師事したことに加え、ほぼ同時代のユトリロ Maurice Utrillo、スーラ Georges Seurat などの作品から手法を学んだものと思われる。ユトリロの『サン・マルタン門』 La Porte Saint Martin、c.1910、スーラの『ある地域』 The Zone (Outside the City Walls), 1882-83などのやや暗い画面の作品などには、ローリーのキャンヴァスにきわめて類似した色調を感じる。ラウリーに影響を与えたと思われる、これらの作品は、昨年のテート・ブリテンでの回顧展『ラウリーと現代生活を描いた作品』 Lowry and the Paintings of Modern Life にも併せて展示された。

 
 

L.S. Lowry, Barges on a Canal, 1941, oil on board, 39.8 x 53.2cm
『運河に浮かぶはしけ』
この運河はボルトン運河とベリー運河を結び、現存している。

 ラウリーという画家と作品については、かなり好き嫌いが分かれるだろう。現にテートに代表されるイギリス画壇を支配するエスタブリシュメントは、ながらくこの画家を軽視し、1976年の画家の死後初めて、やっとオマージュの意味も込めてか、昨年2013年にその回顧展を企画した。他方、ロンドンのロイヤル・アカデミーは画家の晩年ではあるが、1962年にメンバーに選出した。ラウリーはこれを大変喜び、アカデミーには強い親近感を抱いていたようだ。

地域の画家を愛する人たち
 ラウリーをロンドンのエスタブリシュメントたちが評価しなくとも、この画家の作品を熱狂的に愛する人たちは非常に多く、オークション価格はどんどん高くなっていった。そして、マンチェスターを中心とする地域では、知らない人がいないほどの人気画家である。かつてイギリス首相をつとめたハロルド・ウイルソンは、公的なクリスマス・カードにこの画家の作品を使った。

 ちなみに、香川真司が去ったマンチェスターは、日本では人気が薄れた感じだが、この地はサッカー発祥の地ともいうべき大サッカー・ファンを擁する地域である。あの『試合を見に行く』 Going to the Match はプロフェッショナル・フットボール協会 Professional Footballers' Association が1999年に190万ポンド(約3億円)
という破格な価格で購入、所有している。なんとしても、欲しかったのだろう。

 L.S.ラウリーは、非常に遅咲きの画家であった。しかし、いかに遅くとも立派に大輪の花を咲かせた。このことは、不安で先の見えない時代に生きる若い世代の人たちに、ぜひ知って欲しいことだ。不動産会社の集金掛りを定年まで勤め、雨の日も風の日も労働者街を歩き、さまざまな悩みで自ら鬱病も経験し、豊かになっても浪費もせず、公的栄誉も断り、若いころから自分のしたいことを最後まで貫き通したひとりの人間的画家がいたことを。ラウリーという画家の作品を見ることは、この希有な人間の一生を知ることにつながっている。


続く


  

 
Reference
T.J.Clark and Anne M. Wagner (2013)
 

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孤独に耐えた人生:L.S.ラウリーの作品世界(12)

2014年09月06日 | L.S. ラウリーの作品とその時代



Lowry sketching in Salford 
サルフォードの町中でスケッチするラウリー (画像クリックで拡大)


この画家は、いつもこうしたスーツ姿で不動産会社の社員として、労働者の住宅街などでの地代・家賃の集金をしていた。労働者ばかりの地元の他の人々と身なりは違っていたが、顔見知りなどとはその都度世間話などをしていた。その傍ら、目に付いた光景に出会うと、こうしてスケッチしていた(Lever and others 1987)。 


長い孤独に耐えて
 
人生80年時代といわれる昨今、どうすれば生きていて良かったと思う時間を長く保って、最後まで歩くことができるだろうか。書店を覗くと、多数の人生訓、生き方指南のようなタイトルの本が枚挙にいとまないほどある。それだけ、現代社会に生きる人々の心のうちは不安に充ちていることを思わせる。しかし、そうした人生指南などの多くは、功成り名遂げた人たちの教訓めいたところもあったり、押しつけがましい感もある。大体、従来の常識とみられたことを否定するようなひと目を惹くタイトルがつけられている。

 そうしたものを読みたくない人も多いだろう。それも賢明な選択と思う。できうるかぎり他人に頼らないで生きる。これは高齢化社会に生きるひとつのあり方なのだ。実はL.S.ラウリー(1887-1976)の人生は、孤独との戦いでもあった。ラウリーの伝記を書いたT.G. ローゼンタール(2010)は、「孤独であることは天才の学校である」 Solitude is the school of genius.(Edward Gibbon)との言葉で、この画家を評している。

 実はラウリーには多数の友人・知人がいたのだが、彼の人生の多くを支配した心境は、この評に近いものだった。L.S.ラウリーという画家の生き方は、それを追体験することを通して、厳しく不安な時代に身を置く人たちにさまざまな知恵や元気を与えてくれる。画家自身は、なにも教訓めいたことは一切口にしない。イギリス人らしいユーモアやアイロニーで、さまざまな事態に対応し、結果としてしなやかだが強く生きていた。

 この画家については、すでに多くの評伝があり、それぞれ特色を持っている。それらに共通して興味深い点は、この画家が複雑・多難な境遇と時代を経験しながらも、自分のしたいことを人生の軸としてしっかりと貫いたことだ。そして、素晴らしいと思うことは、そのあくなき努力が実り、晩年になるほど、ラウリーの精神的環境は豊かになったのではないかと感じられることだ。この画家を理解するには、単に作品を見るだけではなく、画家がいかに難しい時代環境を生きたかについて知ることがどうしても必要になる。ラウリーは、現代イギリス画壇で最も誤解されてきた画家(とりわけエスタブリシュメントから)であった。しかし、彼にはその作品に共感する多数のファンがいた。その力がやがて古いエスタブリシュメントを打ち砕いていった。

家庭も孤独に
 ラウリーの人生は、家庭的にも孤独な戦いを迫るものだった。父親の経済力も次第に低下し、環境の良くない工場などに囲まれた土地に移転を余儀なくされてもいる。しかし、この画家は工場やそこで働く労働者の生活など、従来の絵画ではほとんど美的対象とされなかったものを、積極的に画題に選んだ。

 さらに若いころ、両親、とりわけ母親エリザベスから、「趣味としてなら、絵を描くのも仕方ない」と、厳しい生き方を迫られた。要するに画家として修業に専念、身を立てる道を断たれていた。ラウリーは母親を愛していたがゆえに、無理矢理自分の意志を押し通すことをしなかった。そして選んだ道は、下積みの会社勤めをしながら、夜間には美術学校に通い、わずかな時間に制作するという二足のわらじを履いての人生を最後まで曲げずに貫いた。これまでに記したように、母親は神経質で自ら問題を抱え、かなり難しい人であった。母親は自らがピアニストとして成功することを望んでいたようだが、それもかなわず、鬱屈した日々を過ごした。そのこともあってか、息子をしばしばうとましく思い、生きている間はラウリーの作品を評価しなかった。しかし、ラウリーはそうした母親の態度にもじっと耐えていた。

遅れてきた春だったが
 1938年11月、ラウリーは51歳になっていた。すでに35年以上、厳しい環境に耐えて、ずっと絵筆を握ってきた。そのころ、思いがけなくロンドンの権威ある有名画廊「リード・アンド・ルフェーヴル」 Reid and Lefevre から個展を開かないかとのオファーがあった。当時から多くの画家にとって、この画廊で個展が開けるということは、やっと自分の作品が世に出て、画家として認知される舞台のひとつだった。人々に作品を見てもらい、成果について評価を受ける機会が与えられるという意味で、喜びと緊張が混じり合う機会だった。ここでの個展を機に、著名な画家として巣立っていった人たちは多い。

 しかし、当時のラウリーの心情はそうした高揚感とは、遠く離れたものだった。普通ならば、これでこれまでの苦労がやっと報いられると思ったはずだった。しかし、ラウリーが1938年に制作した「ある男の肖像」Head of a Manは、画家の自画像ではないかと推定されているが、異様な容貌として描かれている。表現主義の影響は感じられるが、作品に画家の精神状態が反映している。頭髪は乱れ、両目まぶたは赤く、頬は痩せこけ、緊張とストレスで心ここにあらずという印象を与える。両目は虚ろな感じだが、なにか突き刺すような視線を感じる。若いころのハンサムな自画像とは、別人のようだ。ラウリーはこの作品について、母親の看病に疲れ果てた翌朝、洗面所で鏡に映った自分が、このように見えたと語った。



Head of a Man. 1938. City of Salford Art Gallery, Cat.278

 当時、画家の母親は長い病の床にあった。 彼女は以前から病気がちで、夫が死去する少し前から、6年以上病床にあった。ラウリーは唯一の家族として彼女を看護し続けてきた。そして、息子の作品がようやくロンドンの画壇で日の目を見る輝かしい時が来たことを知らされても、息子の努力を讃えることはなかった。エリザベスは1939年10月12日に亡くなった。生前、母親は息子の成功を喜んではくれなかったようだ。ラウリーには他に家族はいなかったが、彼の家族をよく知るドラ・ホルムズは後に彼らのことを尋ねられ、こう話していた:「彼(ラウリー)は彼女[母親)のために生き、(作品を見て)微笑んでくれ、一言でも褒めてくれることを望んで生きていた」。この頃、ラウリーは「すべてが遅すぎた」All come too lateと繰り返し言っていたらしい。ロンドンの有名画廊からの個展開催オファーという「遅れてきた春」を喜ぶような心境ではなかったようだ。

ストイックな人生と画家を支えたファン
  母親ばかりでなく、ロンドンの画壇の主流も、長らくこの画家を、伝統とは離れた妙な絵を描く、下手な地方の画家と見下してきた。それにもかかわらず、ラウリーの作品には多くのファンがいた。ロンドンの有名オークションでも、人々の注目するところになり、高値がついた。晩年の家計の維持にはなにも困難はなかったようだ。しかし、ラウリーは生涯、煙草も酒もたしなまず、独身で、質素で節倹な日々を過ごし、ひたすら画家として生きた。





Piccadilly Circus, 1959
oil on canvas
『ピカデリー・サーカス』
ラウリーはマンチェスター、サルフォードなど、北西部の都市に住んでいたが、画壇の主流が陣取るロンドンの情勢にも通じていた。

典型的な「マッチ棒のような人々」だが、当時のピカデリー・サーカス」の雑踏の雰囲気が
伝わってくるような作品。 

拡大は画面クリック


 さて、ラウリーに個展の機会をオファーした「リード・アンド・ルフェーヴル画廊」は、この画家のどこに注目したのだろうか。この画廊は下に記すように、当時、フランス印象派の画家の作品を多数扱っていた。実はラウリーの作風には、印象派の影響が感じられる。それはどこに由来するのだろうか。これも大変興味深いのだが、その点を書き出すと長くなるので、またの機会にしたい。
  


Reference
Michael Leber and others. L.S. Lowry. New York: Phaidon, 1987
T.G.Rosenthal. L.S.Lowry: The  Art and the Artist. Unicorn Press, 
2010


 「リード・アンド・ルフェーヴル画廊」Reid and Lefevre Gallery は、1926年4月にフランス印象派絵画と現代イギリス絵画の最も卓越したディーラーであったMr Alex Reid and Monsieur Earnest Lefevre がロンドンに開設したギャラリーだった。そして、2002年の閉店まで存続した。その盛時には、スーラ (George Seurat) の個展を1926年、アンリ・マティス(Henri Matisse) 1927年、ドガ(Degas)1928年、モジリアーニ(Modigliani) 1929年、パブロ・ピカソ(Pablo Picasso1931年)、ダリ 1936年、フランシス・ベーコン、1945年、カルダー(Calder) 1951、バルテュス 1952年、カンディンスキー、1972年、ドガ、1976年、ピカソ・スケッチ 1994年その他、多数の有名画家の個展を企画・開催してきた。
 イギリス絵画界で一流画家として認知されるには、The Royal Arts, the Tate, the Haywood, the Barbican galleries などでの 個展が企画されることが必要とされていた。Reid and Lefevreも上記のように、20世紀を代表する画家たちを世に送り出した画廊のひとつだった。


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画家の修業時代:L.S.ラウリーの作品世界(11)

2014年08月28日 | L.S. ラウリーの作品とその時代



Regan Street, Lytham, 1922
City of Salford Art  Gallery

ラウリーの数少ない伝統的風景画。子供時代のピクニックの場所。
この画家の風景画に珍しく、赤の色彩が明るさを加えている。
拡大は画面クリック

 L.S.ラウリーという画家の作品は、日本ではほとんど知られていないが、その作品数は小品を含めると1000点を越える。画家が長らく住んだサルフォード市の美術館が多大な努力をして、この希有な地元画家の作品収集をしてきたことで、その主要な作品は今日では、ロンドンよりもイギリス北西部のサルフォードおよびマンチェスターで見ることができる。昨年のテート・ブリテンでの回顧展開催のために、テートもコレクションを増やさねばと思ったようだ。しかし、テートがいくらがんばっても、主要作品はマンチェスターなどから借り出さねばならないほどになっていた。こうした制約のためか、この回顧展、「マッチ棒のような人々」の作品が多すぎた。この画家の幅広い視野と手法、そしてその画家としての生き方を理解するには、少なくも300点以上を見る必要があると管理人は思っている。

 テートがラウリーの生前にこの画家の作品に高い評価を与えず、昨年2013年の回顧展が、ロンドンの大きな公的美術館における最初の作品展であったことについては、テート・ブリテンの保守性などについて、厳しい批判も加えられた。この回顧展のいわばカタログに相当する出版物 T.J. Clark and Anne M. Wagner, LOWRY AND THE PAINTING OF MODERN LIFE (London: Tate Publishing, 2013) の共著者が二人共にカリフォルニア大学バークレーの名誉教授であることも、テート・ブリテンの微妙な立場を暗示しているようだ。

 夏の暑い日などに、この画家の画集などを繰るのは暑さを忘れるに好適だが、見ている間にさまざまなことを考えさせられる。伝記好きなイギリス人の画家であることもあって、画家本人の筆ではないが、すでに複数の伝記も刊行されている。これらの伝記もそれぞれ特色があり興味深い。ラウリーは、画家として知られるまでに多難な道をたどったが、その生き方をみると、これからの若い世代の人たちが先の見えにくい時代を過ごすについて、参考になることが多いと思う。ラウリーも現代社会の病ともいわれる鬱病に苦悩した時代もあった。




An early art school drawaing of an unknown model. 
Head of a woman (undated)
画家が若いころ、美術学校に通っていた当時の習作と
みられる「女性の肖像」(制作年月不詳)
拡大は画面クリック 

若き日の修業
 必ずしも画家に限ったことではないが、多くの職業において若い時にいかなる修業時代を過ごしたかということが、後々のその人の仕事の質や水準を定めることが多い。L.S.ラウリーについても、「マッチ棒のような人々」を描く、北西部の「日曜画家」というような評価が、ロンドンの美術エリートの間には、かなり長らくみられたようだ。スコットランド独立問題が大きな関心を呼んでいるが、ロンドンとマンチェスターあるいはスコットランドのような北部との間には、さまざまな温度差が存在してきた。
 ラウリーはマンチェスター郊外の静かな住宅街で少年期、青年期を過ごした。しかし、1909年に一家の財政難のために、ペンドルベリーという織物工場や機械工場の多い工業都市に移り住んだ。


 
Portrait of the Artist's Mother (1912), oil on canvas, 46.1 x 35.9cm
「画家の母親の肖像画」
拡大は画面クリック 

 すでに記したように、ラウリーの両親は息子が画家を志望することを好まず、しかたなく地元の不動産会社で、賃貸住宅の住人から家賃を集金して歩く仕事に就き、画業はその合間に行った。毎夕、デッサンの個人授業を受けていた。ラウリーが画家としての才能を持っていたことは、この当時と思われる時期に描かれたデッサンなどからもうかがわれる。

大学生涯学習課程で制作を続ける
  さらに、その後マンチェスター美術学校で、フランス印象主義画家のピエール・アドルフ・ヴァレット Pierre Adolphe Valette に指導を受けた。ラウリーはこの画家をきわめて賛美しており、大きな影響を受けたようだ。さらに、1915年には今日のサルフォード大学の前身、Salford Royal Technical College に進学し、1925年まで絵画の研究を続けていた。会社勤めと親から「趣味ならばしかたがない」といわれた画業との二股の生活であった。いわば、絵画の生涯学習課程 a lifetime course に在学していた。

 ラウリーの両親はすでに息子の制作した作品のいくつかを目にしていたはずだ。しかし、両親ともに、ラウリーが画家になることを肯定しなかった。とりわけ母親は息子に冷淡であったようだ。父親は引っ込み思案で、内向的であったが、母親ほど支配的ではなかったらしい。母親はピアニストとして成功することを志していたようだが、それが叶わず、息子にもかなり抑圧的だったという。1932年父親の死後、母親は神経症と鬱病になり、ラウリーにとって大きな負担となった。1939年に母親も死亡したが、その後ラウリー自身も鬱病になり、苦悩の時期を過ごした。この時期の作品は、画家の精神状態を映し出し、自画像も目が赤いなど、表現主義的で、かなり異様な雰囲気で描かれている。概して、両親の存命中はこの画家も大きな注目を浴びなかったようだ。画家自身、自分は「誰も欲しがらない絵を描いている」 'Pictures that nobody wanted'(Rhode, 99) と言っていたようだが、その後、この画家の評価はうなぎ上りだった。

 日本列島はまだ暑い日が続きそうです。ご自愛ください。


続く

 

 

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未来を透視する手がかり:L.S.ラウリーの作品世界(10)

2014年08月23日 | L.S. ラウリーの作品とその時代

The Raft, 1936, oil on canvas, 50.8 x 61cm
『いかだ(筏)』


  広島市付近を襲ったこのたびの災害について、メディアには大規模(同時多発)土砂災害といった文字が見られるが、なんとなく空々しい響きがある。こうした事態が発生する可能性は、かねてから一個所でなく多数の場所で予知されていたというのだから。被災地が広島であったこともあり、BBCを初めとする世界のメディアが大きく報じた。最近の日本は先進国でありながら、どこか災害列島のような印象を与えている。TVなどで詳細に伝えられる実態を見ていると、どうしてこれほどの悲惨な事態になる前に、もう少し有効な手が打てなかったのかという思いがする。そして、近年の災害でしばしば見られるように、犠牲者や被災者は、いつも年少者や高齢者が多いことだ。犠牲になられた方々には心からご冥福をお祈りしたい。

工業化の影にも目を向けていた画家
 日本ではほとんど知られることのなかったイギリス20世紀の画家、L.S.ラウリーの名と作品を、多少なりと紹介することができることは、管理人にとっては喜ばしい思いもある。産業革命以来の工業化の発展の光と影、そしてそれに伴う都市化が生みだした環境汚染、労働災害、貧困、社会保障などの現代的課題を、イギリス、マンチェスターと周辺というかつて世界をリードした工業地域に文字通りその生涯を通して密着し、暖かな目を持った人間的なイメージで描き続けた。その筆使いは一見すると稚拙な印象を受けるかもしれないが、画家はフランス印象派の流れを汲み、しっかりとした美術教育を受け、その成果をいかんなく発揮していた。

 上に掲げた『いかだ(筏)』 と題された作品は、画家が子供の頃読み、脳裏に深く刻み込んできたヴィクトリア朝のある本のイメージを現代的に再現したものだという。人間の脆弱さと無知を表現しようとしたものといわれる。この画家になじみのない方々には分かりにくいかもしれないが、画家の数多い作品と生き方に親しんでくると、なんとなくその思いは伝わってくる。ロンドンの美術エリートたちがラウリーの作品を評価したがらなくても、地域、そしてロンドンの多くの人たちが高く評価し、競って作品を求めた。

 この作品、一見すると、地域でよく画家が見かけた、子供たちが水たまりで廃材などを使って筏を作り遊んでいる光景に思われるが、その背景には廃墟になりかけた工場や煙突が描かれ、汚染され、荒廃しきった環境が描かれている。画家は、こうした中に生きる子供たちに深い愛情と親しみを感じていたようだ。次の世代である子供たち、そして画家が好んで描いた犬一匹が、荒れ果てた川のような淀みで筏に乗っている。「ノアの方舟」を連想されるかもしれない。しかし、その行方は汚れきった濃霧で覆われ、ほとんど見えない。ラウリーはほとんどの画家が目を背けていた工業化の影の面にも、しっかりと対していた。


 この作品は比較的多くの色が使われ、子供が主役であることもあって、第一印象はさほど暗くはないが、第二次世界大戦でロンドンなどがドイツ空軍によって大空襲を受けた時の作品は、さすがに破滅的情景で、世紀末的印象を与える。



Blitzed Site
1942
Oil paint on canvas
41 x 51cm

『ロンドン大空襲(1940-41年)で爆撃された跡』
拡大はクリック


 世界的規模の気象異常、中国の工業的発展、都市化に伴う大気汚染などを考えると、この画家の一連の作品は、これからの世界の行方を考える時、さまざまに思い起こすことになる。絵画という手段は、時に文字や写真以上に多くのことを伝えてくれる。




 The Adventure of a Young Rover という本の挿絵(Howard, p.139)からヒントを得たようだ。ラウリーはこの本を晩年も手元に置いていたという。下記カタログに記されているが、著者、発行年などは不明。


Reference
Michael Howard. LOWRY A Visionary Art, Lowry Press.

 

続く

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坂の上の暗い雲:L.S.ラウリーの作品世界(9)

2014年08月20日 | L.S. ラウリーの作品とその時代

Junction Street, Stony Brow, 
Ancoats, Manchester 
1929
Pencil on paper
28 x 38.3cm
presented by Miss Margaret Pilkington to the Rutherston Collection, 1930

『ジャンクション・ストリート坂上 マンチェスター、アンコーツ』


  
 一見すると、とりたてて観る人を惹きつけるなにかが描かれているとは思えない。茶褐色の鉛筆によるモノトーンな色彩で、何の変哲も無い風景に見える。描かれた対象は石畳の坂道である。その坂道もかなり頂上に近い。上り坂は間もなく終わるようだ。両側には壁があり、坂を上り終わる所には街灯が描かれている。さらに良くみると 坂の上の先の方には丘陵のような一部と建物の屋根のようなものが見える。しかし、その他にこの作品を特徴づけるようなものはほとんど描かれていない。坂道は遠近法で描かれ、観る人を明らかにどこかへ導こうとしている。しかし、どこへ導かれるのか一切分からない。しかし、その茶褐色の単色が与える暗い雰囲気とともに、観ていると、なんとなく引き込まれる。「不思議な力が働いている」と感想を述べた批評家もいた。
 
 2013年、テート・ブリテンで開催された初めてのL.S.ラウリー回顧展で、話題を呼んだ作品の一枚がこれである。かつて
最初にこの画家の作品に出会った時から気になってもいた。この画家の風景画は多数あり、色彩も多く使われた作品もあるのだが、この単色の作品にはなんとなく惹きこまれてしまい、その気持ちは今日でも変わらない。そして、今回の展示作品の中でも、多くの人々の注目を集めた。

画家はなにを考えていたか
 よく見ると、簡素な画題の反面、画家がかなりの配慮をもって制作したことが分かってくる。あの『窓辺の花』もそうであったが、全体の印象とは逆に、細部にわたって、丁寧に描かれている。まず、石畳の道、敷石も微妙に描かれ、道の中央部には古くなり、割れているような部分もある。左右の壁もそれぞれ微妙に異なる。特に左側は大きな壁材を集め、接合したかのようにも見える。ラウリーは自ら油彩を最も好むと言っていたが、ある時期には鉛筆による作品を多数残してもいる。それには、画家の経験した時代背景、そして画家自身の心象変化が反映している。ラウリーも鬱状態にあった時期があった。

 この場所は画家が想像で描いた架空の場所なのだろうか。そう思いたい気持ちもある。しかし、画題につけられたJunction Street (文字通り訳せば、交差する所の道、今は Jutland Street と名前は変わっているようだ) は、マンチェスターのこの地域に住む人たちなら知らない人はいないといわれる場所なのだ。実際に、この場所では Store Street と Ducie Street という地域の主要な道路をつないでいる。そして、この交差点には、イギリス史をめぐって知る人ぞ知るロッチデール運河とアシュトン運河を交差させる橋が架けられている。独立問題に揺れるスコットランドも遠くない、イングランド北西部マンチェスター地域の画家ラウリーが画題とした地名の場所は、ここ以外にないと地域の人々ならば考える。その街路の名前を聞いただけで、この作品と同様なイメージを思い浮かべるともいわれる。

  地域の人にそれほど知られている場所なら、画家はあえてなにを描いてみせようとしたのだろう。なにも説明なく、もし絵の色彩がもっと明るかったとすると、こうした作品
を見た日本人ならば、司馬遼太郎の「坂の上の雲」のような状況を連想する人もいるかもしれない。上り坂はしばしば未来への広がりを想起させる。「青い山脈」なども、青春の将来へのつながりを暗示する。しかし、この絵にはそうしたことを思い起こさせるような雰囲気はほとんどない。坂の上には雲らしきものも描かれているが、茶褐色の薄暗い色調で、全体が不気味とも思える陰鬱な雰囲気を漂わせている。時は夕方なのだろうか。坂の上が平坦な道になるならば、前方の建物なども、全容を現しているはずだ。しかし、それは見えない。坂はもう頂上近くだから、間もなく終わり、下り坂に入ることを暗示している。しかし、その先に見える空は、夕暮れを思わせる薄暗さだ。

時代の心象風景
 この作品が制作された時代背景を推測してみよう。制作年は1929年、いうまでもなくニューヨークのウオール街に端を発した大恐慌の年にあたる。この時、画家が住んでいたサルフォード(現在のマンチェスターの一部)の状況も貧困さを歴然と示していた。市の調査では950戸の中で94戸には小さな庭yard もなく、67戸は屋外の水道に頼り、152戸はボイラーがなく、129戸はトイレを共用していた(Clark & Wagner 2013, p.211)。 

 時代を覆ういい知れぬ不安と暗さが、画家の制作に際しての心理にも反映していたと考えられる。ある批評家によると、ラウリーは土地の人たちより、この地域の細部に詳しかったとされる。それは、この画家は、不動産会社の集金主任で自らも集金係を定年まで勤めていた。画業で有名になり、作品が次々と売れ、生活面でも裕福になっても、65歳の定年まで集金掛で働いていた。いくつかの自叙伝でも、画家はそのことをあまり詳しく語ってはいない。画家になることを母親から反対され、「趣味としてなら仕方がない」と言われていたラウリーにとっては、母親の死後も思うことがあって、集金掛をしていたのだろう。母親の言葉をまっとうしたともいえる。
 
 イギリスの工業化のまっただ中にあったマンチェスター近傍の地域は、工場に雇われ働く外に生活の道がない労働者家族が多数住んでいた。画家は、日々、こうした人々の生々しい日常に接して生きていた。
 
 その後20年ほどして、ラウリーはこの坂を下った場所、カナル橋の状況を描いている。この作品が制作された前年、1948年、画家は長らく住んだサルフォードを離れ、より工業化されていない Mottram という場所へ移住した。どういうわけか、画家はこの新しい土地を好まなかったようだ。この年はイギリス政治経済史上、画期的な National Health Service が生まれ、労働党が多くの重要産業を国営化する方向へ動いていた。産業革命の発祥の地として、世界をリードしていたマンチェスターの繁栄の時はすでに終わっていた。

 
The Canal Bridge
1949
Oil on canvas
71 x 91cm
拡大はクリック

工業化の衰退
 1950-55年にかけて、ラウリーはイギリスの工業的衰退を象徴する一連の大型の作品を制作した。1950-60年代のマンチェスターは、大規模な都市再開発が展開し、産業革命以来の古い工場、事業所、家屋などが撤去され、逐次高層の建物へ建て替えられていった。

 上に掲げた『カナル橋』 と題された作品は、その再開発が始まる直前の光景を描いていると思われる。手前に見えるのは、ロッチデール運河とアシュトン運河にかかるカナル橋と推定される。前方には衰退途上に入った工業都市の光景が遠望できる。近くには化学工場や木綿の漂泊工場の跡などが残っている。ラウリーは工業化という大きな動きが、自分たちが住む環境や生活を大きく変化させていることを重視してきた。普通の画家たちならば、関心を抱くこともなく、避けて通ったような、工業化がもたらした暗い、薄汚れた変化の場面を描き続けた。確かに「工業化の光景」industrial landscapes は多くの人々にとって、美しいものではないかもしれない。しかし、その中に生きた画家にとっては、すべてが描くべき重要な対象だった。

 世界に先駆けて、産業革命を展開したイギリス、そしてその中心に近い場所に住み続けた画家にとって、工業化がもたらす明暗入り乱れた光景を、可能なかぎり描き続けることは、自ら定めた生き方だったのだろう。そのことによって、後世のわれわれは、工業化が生みだした光と影のさまざまな場面、そこで人生を過ごした人々の喜怒哀楽の光景を、写真とは異なった人間味溢れた描写として共有することができる。そのことは、もはや進歩しているとは素直に受け入れにくくなったこれからの世界が、いかなるものであるかを考えるについて、手がかりを与えてくれる気がする。

続く 

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絵と音楽を結ぶ:L.S. ラウリーの作品世界(8)

2014年08月14日 | L.S. ラウリーの作品とその時代



Coming from the Mill
A Musical Evening for L. S. Lowry
the Gift of Music
L.S. ラウリーのためのコンサート CD ジャケッ
『工場から帰る人たち』 


 1964年11月、マンチェスターに本拠を置く伝統あるハレ・オーケストラ(通称 The Hallé) は、L.S. ラウリーの77歳の誕生日を祝って、特別記念コンサートを開催した。


 この画家の作品の数は多く、ジャンルもかなり多岐にわたることはすでに記したが、なんといっても大きな貢献は、産業革命以来、その中心であったマンチェスターと近傍の工場風景、都市化への変容、そこに住む人々の日常の光景をつぶさに描いたことにある。産業革命以降、イギリスは世界に先駆けて工業化の道を進み、あらゆる点で大きく変貌した。しかし、工業化がもたらした暗い汚れた光景には人は目を背けても、直視することはなかった。こうした中で、ラウリーは、画題としてはほとんど注目を集めることがなかった工業化・都市化の姿を終始一貫取り上げた希有な画家であった。


 それだけに、なかなか画壇の主流から評価されることがなかったが、イングランド北西部を中心に、ラウリーの作品をを愛するファン層は拡大の一途をたどった。この画家の制作態度は、初期には工業化のさまざまな場面を描きながらも、登場する労働者については、「マッチ棒のような人たち」に象徴されるように、独特の画法でひとりひとりの人間からは、やや距離を置いていた。当時のラウリーにとっては、工業化の大波に呑み込まれてゆく人たち、そしてそれによって大きく姿を変える工業地帯、都市としての全体像を描くことjが関心事だった。機械や労働規律が支配を強める過程で、工場労働者はかつての職人が持っていたような個性を失っていった。しかし、それでもラウリーはその変化を重視し、工場や炭鉱、事務所などで働く新しい労働者やその家族それぞれの日常の姿を描くことに画家としての視点を移していった。

今日の労働を終えて
 この記念コンサートのCDジャケットに採用された Coming from the Mill 『工場から帰る人たち』は、すでにブログに記した通り、ラウリーのこのジャンルの代表作である。長い工場での一日が終わり、夕闇迫る中、多数の労働者が工場からはき出されるように、家路についている。1日の長い労働に疲れ、家庭での休息を求めて、皆前屈みに歩いている。そこにはなんとなく鬱積したような疲労の色さえ感じられる。工業化は工場で働く以外に日々を過ごす糧を得る手段を、人間から奪い取っていた。かつての牧歌的な手工業や自分で仕事の段取りを決められる生活は後方へ追いやられていった。次々と生まれる巨大な工場や炭鉱は、まるで集塵機のように人々を吸い込み、排出した。歴史上初めて他人に雇われる以外、生活の手段を持たない労働者が誕生したのだった。

 決して表面的には美しいとは思えない工場や煙突の林立、そこからはき出される黒々とした煙や煤煙で汚れた空を正面から取り上げて描いたラウリーの作品は、産業革命以降のイギリス社会の重要な変化を今日に伝えている。当時撮影された工場地帯の写真は、もちろん存在するが、モノクロのおよそ美しいとはいえない、単なる記録写真である。しかし、ラウリーの作品は、工業化がもたらした変化をリアリスティックに、そしてそれがもたらした人間への影響の大きさを生々しく描き出している。描かれた光景は暗く汚れていても、画家にはそこで働くこと以外に生活手段がなくなった人々への深い同情と愛がこめられていた。時には稚拙なように見える独自の画法も、ラウリー自身が正規の美術教育を受けた上で、創り出したものである。

失われて行くものを描き残す
 こうした工場、労働者住宅、巨大煙突などは、マンチェスターなどでも、1960年代には急速に変化し、次第に消滅の途上にあった。都市化の波は、薄汚れた工場建屋やまっ黒な煙突の煙に象徴される産業革命後の鉱工業の姿を、次第に台頭してきたサービス業などにみられるオフィスビルなどの建物に変貌させつつあった。ラウリー自身が定年まで働いていたのも、地域の不動産業であった。この過程で、ラウリーの画家としての制作対象も変化を見せて行く。

 ラウリーの描いた工場や鉱業所などの光景、さらには地域のさまざまなスナップショットのような作品に、多くの人たちが惹かれていった。画家の関心が移行しても、工業化のさまざまな場面を描いた作品の与える印象、時にそこに込められたノスタルジックな思いは、地域の人々の間でかえって強まっていった。この画家の作品はオークションなどでも高値を更新し続けた。

 作品を手にすることができない人々のために、多くの公共美術館などの施設が、画家の絵を取得し、人々の要望に応えてきた。なかでも、画家が長らく住んでいたサルフォードの美術館は、350点近いラウリーの作品を所蔵するまでになった。その後、作品の多くはマンチェスターのサルフォード波止場のThe Lowry というきわめてユニークな公共の施設で展示されるようになった。


地域に行き、人々に愛された画家
 ラウリーは晩年イングランド北西部の人たちからは、大きな尊敬の心で迎えられていた。地域の人々は年とともに失われていく故郷の光景に懐かしさをこめた思いを抱き、それを描く画家に親しみを感じた。多くの画家たちがこの国の中心舞台であるロンドンを目指し、この地を離れてゆく中で、ラウリーはかたくなまでにこの地に留まることを選んだ。こうした画家の功績に、画家と思いを共にする人たちが彼に贈ったのが、これも同じマンチェスターの宝であるハレ交響楽団の演奏会だった。

 ラウリーは自分がこの地で生涯を送り、地域に関わる作品を描くことに全力を注いだことについて、次のように記している:

 私の描きたい主題はすべて自分のまわりにあった。。。。ペンドルベリー近くの工場、炭鉱など。そこで働く人たちは朝夕目の前を通り過ぎていた。私の制作のためのすべての材料は家の戸口にあった。

画家と音楽
 ラウリーの画家人生で、音楽は特別なものであった。母親は息子が画家になることに反対していたが、自らはピアノを弾き、演奏家になることを夢みていた。後年、ラウリーはイタリアのオペラ作曲家ドニゼッティとベリーニの音楽をテーマとする作品を制作したこともあった。彼はこの記念演奏家の曲目になにを望むかを聞かれた時、いつも自分が耳にしている好みの曲のリストを上げた*。


 関係者が画家の77歳の記念にこの催しを企画した時、ラウリーは80歳までは生きないのではないかと案じたようだった。 しかし、画家はその後12年を生き、制作を続け、1976年、88歳で世を去った。ラウリーの人気は画家の死後も高まるばかりで、生前こうした展示を企画することのなかったテート・ブリテンも、昨年初めてこの画家の回顧展を開催した。イギリス美術界のエスタブリシュメントが認める以前に、北西部から出ることのなかったこの画家はその声望に支えられ、国民的画家になっていた。






 この記念コンサートCDにはコンサートの演奏曲目に加えて、ラウリーが自宅で好んで聴いていた曲目も加えて、編纂された。曲目の選定について興味深いこともあるが、20世紀を代表する希代のソプラノ歌手マリア・カラス Maria Callasが歌った曲が含まれていることだ。とりわけ、ベリーニ『ノルマ』 Norma ― Casta Diva Vincenzo Bellini は、1958年ローマ歌劇場公演の際、ノルマ役で出演したカラスが、思うような歌唱発声ができなくなったとして、第一幕だけで出演を放棄、大混乱になったいわくつきのものであるだけに興味深い。

  さらにハレ・オーケストラの常任指揮者は当時、同楽団中興の祖とといわれたジョン・バルビローリだったが、1970年に急逝した。










 

 

 

 
 

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分かる人は分かる:L.S. ラウリーの作品世界(7)

2014年08月11日 | L.S. ラウリーの作品とその時代



Old Church and Steps (1960)
『古い教会と階段』

 この画家のことを書き出すと、やはり1年が終わってしまいそうだ。ラ・トゥールについてもそうだが、どこかで小休止をしなければと思う。ラ・トゥールもラウリーもフランスやイギリスでは知らない人はいないくらい著名な画家なのだが、日本では知っている人はきわめて少ない。
 
 ところで、この作品、児童画のような楽しい雰囲気ですね。ラウリーの作品はブラック(黒色)が多く使われた暗い作品が多いのですが、この作品は明るいですね。画家が地元の新聞 Middleton Guardian に依頼されて制作した作品です。しかし、よく見ると、あれ!と思うことはありませんか。

 ラウリーが画業は趣味としながら、ポル・モル不動産会社に勤めていたころの話である。友人の仕立屋デニスがマンチェスター市内のある店のウインドウにラウリーのこの作品のプリントが展示してあるのを見つけた。一目瞭然だが、例のごとく教会や階段、多数の人々や犬などが描かれている。この画家の作品には、変わった人たち、奇妙な身なりの人、そして犬もよく登場する。デニスは5本足の犬が描かれているのを見つけてしまった。

 といっても、デニスは画家の友人で、時々コミカルな絵を描いたりすることを知っていたので、画家がまた誰かをからかっているなと思ったらしい。 丁度折良く、ラウリーが昼食のため事務所から出てくるのに出会ったので、これ幸いと彼の作品が展示されている店へ連れて行った。ラウリーは長い間、自分の絵を見つめていた。

 そして、「外に出す前には最大限の注意を払って渡したよ。だから、今言えることは、そこに5本足の犬を描いたはずだがということだけだよ。君も知っているように、私は自分で見たものしか描かないからね。」と真顔で言った。

 そして友人同士の二人は大いに笑った。ラウリーはこの時の話を、その作品を知っている他の人に話す時にこうも言ったものだった。「お分かりのように、君が足一本とるわけにもゆかないじゃないか。」

 ある夕べ、ニューキャッスル・アポン・タインで、この作品のプリントを沢山売ってくれたサイモン・マーシャルという若い画商との話の折、画商が「どうして自分は気がつかなかったのだろう」と口にした。

 すると、この画家は、「君は気がつかなかったかい。 なぜって、私はうまくバランスをとったのだよ。4本足だと絵全体のバランスが悪いのさ。とにかく、5本足の犬がいてはまずいのかね。」

台風一過、酷暑が戻った昼下がり。 

 


余計なお話
 この作品は、The Primitive Methodist Church in Morton Street, Middleton,Manchester を描いたものです。実は教会と階段は別の時に作られました。24段の階段は1851年に、教会自体はその後約30年後に造営されました。両者は共にほぼ1960年当時の面影を伝える形で残っています。

 実はラウリーは同じ構図で少し前に油彩画 (61.0 x 51.0cm)を制作しています。その作品にもほぼ同じ場所に犬が描かれていますが、4本足なのです。でも、5本足の方が有名なのです。


Reference 
'D is for The Dog With Five Legs'

Shelley Rohde, 2000 

Judith Sandling and Mike Leber
LOWRY'S CITY, 2000 



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地域と人々を愛した画家:L.S.ラウリーの作品世界(6)

2014年08月09日 | L.S. ラウリーの作品とその時代


Self-Portrait. 1925
City of Salford Art Gallery

『自画像』
拡大はクリック 





 炎暑の日が続き、なんとなく気力が落ちている時など、L.S.ラウリーの作品集を引っ張り出し、見るともなしに見ていると、さまざまなことが頭をよぎり、いつの間にか暑さを忘れている。作品の一枚、一枚はどことなく子供が描いたような感じもする。現代のアニメと通じるような感じを受ける作品もある。コミカルあるいはシニカルな作品も多い。しかし、間もなく、これは子供のような純粋な心を持ち続けた立派な大人の画家の作品なのだと思い至る。

 ラウリーの人生の過ごし方も見事だった。子供の頃、両親、とりわけ母親の反対もあって最初から画家を職業として目指すことはできなかったが、趣味として絵を描くというなら仕方ないという一言を支えに、会社勤めをしながら美術学校にも通い、いつの間にか知らない人がいないほどの現代20世紀イギリスを代表する画家のひとりとなっていた。そして、途中で会社を解雇されたりしたこともあったが、本業?の会社勤めも定年まで立派に勤め上げた。画業の方は65歳で定年にするとしていたが、こちらは生涯の仕事となった。
 
 ラウリーの青年時代の自画像(上掲)も残っている。写真も残っているが、双方ともになかなかのハンサム(イケメン)な青年である。しかし、長い人生の間には鬱病に近く落ち込んだりした時期もあった。その頃の作品には自画像とは記されていないが、恐らく自分自身の事情を象徴するような暗い表情や色彩が多く使われている。この画家の作風もかなり変化している。


地域を愛した画家
 およそ煙突だらけの工場など、画題にはならないとロンドンの画壇の大御所たちが、相手にしなかった中で、イギリス北西部サルフォードおよびマンチェスター周辺の工場・都市風景、そこに住み、働く人々の日常をスナップショットのように描き続けた。当時はもちろん写真(多くはモノクロ)はあったが、被写体として写真家の興味を惹くようなものではなかった。工場や町の情景も部分的にしか残っていない。しかし、ラウリーは町中の小さな出来事でも、機会があればすぐに鉛筆やペンでその光景を描いた。この画家は制作しかけた作品を中途で放り出したりすることはなく、描き始めるとかならず自分が満足するまで描いた。小さな作品では近くにいる友人、知人に渡してくれたものもあったらしい。

 母親は息子の画家修業を嫌っていたが、唯一ヨットの情景は見ても良いといったらしい。画家はヨットの絵も数点、パステルカラーで描き残している。そして、地域の繊維工場、機械工場、町中の光景、とりわけヴィクトリア期の雰囲気を継承する作品を多数制作した。ラウリーの残した最重要な作品は、数多いがなんといっても「イギリス工業の風景詩」とでもいうべきシリーズだった。

 画家は背も高く、観察力のある鋭い目をしており、サルフォードなど労働者の町で、誰もスーツなど着ていない場所でも、ネクタイ、チョッキ着用の背広姿であった。しばしばレインコートを着用、帽子も被って歩いていた。画家が長らく住んでいたペンドルベリーの町中でも、彼を知ってはいても、親しい人は少数だった。 知人は少なかったが、話し好きで、自らの日常を「人生の戦い」"The Battle of Life" と称していた。しかし、多くの人の人生と比較して、彼の人生がとりたてて波瀾万丈なものではなかった。


画業に終始した人生
 晩年の生活は作品が売れてj収入面では豊かになったが、生涯イギリス以外の国へ行ったことはなかったし、飛行機に乗ったこともなかった。自動車も所有せず、運転もしなかった。飲酒も喫煙もせず、生涯結婚もしなかった。

 しかし、こうした生活が彼を偏屈な人間嫌いにしているところはいささかもなかった。機会があれば喜んで近隣の人たちと話しを交わし、しかも日常の取るに足らないような些細なことも、興味深い話に仕立て上げた。生まれつきの「話上手」 raconteur と評されたこともあった(Shelley Rhode)。  

 

 Photo Source: Cover of Lowry's City, 2000

 ちなみにこのイメージ画像は、画家の作品とサルフォードのそれぞれの場所に相当する写真を集めた素晴らしい記録、下掲のLowry's Cityからお借りした。拡大はクリック。
  この場所ストックポート Stockport はマンチェスターの東南に位置し、巨大な赤煉瓦造りの陸橋がある。産業革命の初期、1839年に建造された。石炭や工場資材を輸送する列車が走行する、この地域の見どころのひとつである。当時は石炭を動力とする機関車だったが、今は電気機関車が観光用に使われている。

  ラウリーは大のサッカー好きでもあり、マンチェスター・シティの大ファンであった。ラウリーを写したスナップを見ていると、管理人はなんとなく、ラウリーより少し若いが、マンチェスター・ユナイテッドの近年の全盛時代を率いたアレックス・ファーガソン監督を思い浮かべてしまう。特別に理由はないのだが、在英中にマンチェスターの両ライヴァルのマッチをよく見ていた。容貌はなんとなく似ているところがあるように感じた。



拡大はクリック




Gentleman looking at something, 1960
Oil on hardboard, 24.5 x10 cm
Salford Lowry Collection, 1977
『なにかを見ている紳士』
拡大はクリック



 シェリー・ロード はイギリスの新聞ジャーナリズムに長い経験を持つ作家、TV制作者。デイリー・メールに在籍していたときグラナダTVと協力して、L.S. Lowry: A Private View なる番組制作で受賞。ラウリーが1976年、88歳で死去するまで度々取材しているが、当時自分自身がラウリーについて、「人間および画家として、言葉にならないほどの賛美者」 'an intemperate admirer of both the man and the artist' であると最高の讃辞の言葉を残している。



References
Judith Sandling and Mike Leber. Lowry's City, 2000
Shelley Rohde. The Lowry Lexicon, 2001 

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北の町を描き続ける:L.S.ラウリーの作品世界(5)

2014年08月06日 | L.S. ラウリーの作品とその時代

 


Flowers in a Window
1956
Oil paint on canvas
50.8 x 61cm


『窓辺の花』
 どこかの町の人通りのすくない道に面した家。茶色の煉瓦の壁が外壁となっている。灰色がかった石畳の歩道。子供が描いた絵のような感じもする、平凡な光景。しかし、熟達した画家の作品である。よく見ると、煉瓦の一枚、一枚もしっかりと描き込まれている。歩道の石もどれも同じではない。
とりたてて記すほどのこともない、ありふれた家。そしてその一場面。労働者街の一角かもしれない。きっと画家の住む町なのだろう。
ふと見ると、白いカーテンが開かれていて、花瓶に花が生けられている。なんの花かも分からない。
室内も通りから見えるようだが、特になにも描かれてはいない。しかし、見ていると、どことなく和らいだ雰囲気が観る人に伝わってくる。いつもは冷たく殺風景な街路も今日はどこか少し柔らかく、癒される。


 ラウリーが残した作品を見ていると、いつとはなしに心が和み、穏やかになる。描かれた対象はイングランド北西部の工業都市。年間を通して青空の見える日の少ない決して明るい環境ではない。そして、描かれた対象の多くはその地の工業のやや荒廃した風景が多い。特に注目される作品は、『工業の光景』 Industrial Landscape と題された工業都市のさまざまな場面である。工場、林立する煙突、あるいは労働者の住宅の煙突から立ち上る煙で、描かれた空はいつも灰色に曇っている。実際この地を訪れてみると、今日では青空の日も多いのだが、この画家が当時描いた作品の空はいつも独特の曇り空である。そして、ロンドンなどの大都市もスモッグで昼でも薄暗く、大気汚染は多くの人命をうばっていた

青空の見えない空の下で、産業革命以降、工業化の進んだ都市に住む人々のさまざまな姿をラウリーは描いた。工場などで働く労働者にとどまらず、街角で世間話をする人、j冬にはスケートを楽しむ人、犬を連れて歩く人、乳母車(バギー)に子供を乗せて押している母親、サッカーの試合のことを話しているらしい男たちなど、都市の活動のあらゆる面が描かれている。

  こうした作品を見ているだけで、なんとなく引き込まれ、ラウリーのファンになる人がきわめて多いようだ。一見すると、子供が描いたようなほほえましい絵も多いが、画家はしっかりとした美術の教育を受け、スキルを磨いてきた。ロンドンの美術の権威たち?が評価しなくても、ラウリーの絵が好きな人たちは老若男女を問わず多数に上り、人気は絶大だった。小品でも掘り出し物がマーケットに出ると、驚くほどの値がついた。


『冬のペンドルベリー』
Winter in Pendlebury (1943), oil on panel , 44.0 x 24.0 cm
1859年に建造されたこのSt. Martin Church は1964年に取り壊された。
右側の建物は当時操業していたAlbion Mill。
しかし、左側の側壁は今日も残っている。ラウリーが好んで描いた場所でもあり、冬の市街の雰囲気がよく伝わってくる。

画家の家庭環境
 画家の家庭は、父親が不動産会社の事務員、あまり自分を主張することない静かな男だったようだ。母親は人に尊敬されるようなピアノ奏者になりたいと思っていたが、果たすことができず、かなり神経質で鬱屈していたようだ。鬱病に悩んだ時もあった。息子には支配的で、抑圧的であったらしい。ラウリー自身、自分の幼年時代は不幸であったと晩年に述懐してもいる。しかし、表面的には破綻を来すまでには行かずにすんでいた。

 幼年時代の初期は、マンチェスターの郊外のラスホルム Rusholme の木々の多い地域で過ごしたが、家庭の財政窮迫で一家は1909年に、ペンドルベリー Pendlebury という工業都市のステーション・ロード117番地へ移り住んだ。ラウリーはここが好きではなかったと記している。あたりは機械工場、繊維工場、炭鉱などで囲まれた工業地帯であった。しかし、年と共にラウリーはこの地になじみ、その地の風景や人々の生活を描くことで、自分の存在を確認していった。描かれた光景は、当時の美術界の体制派からみれば、美術の対象にはならないとみなされた工場や都市の風景であった。しかし、ラウリーはそこに描くべき対象を見出し、膨大な蓄積を残した。


『鉄工場』

Iron Works (1947)
oil on canvas, 51 x 61.5cm

画像クリック拡大

 画家の住んだ地域には工場にエネルギー源の石炭を供給するための炭鉱もあった。1880年には
ニュータウン炭鉱の縦坑が掘られ、1961年まで操業を続けたが、その年に廃坑となった。ラウリーにとって炭鉱も格好の画題であった。今日は再開発され住宅地となっており、当時の有様を
知ることは難しいが、ラウリーの作品によって在りし日の鉄工業、採掘された石炭を選炭場へ運ぶ炭車の列がいかなるものであったかを知ることができる。


 この作品が制作されたのは1956年、画家の晩年に近い。この年、前年のロンドンのスモッグがひどく、なんと12,000人の死者が出たことに対して、「空気浄化法」 Clean Air Act が制定された。法律の目的は家庭から出る煙による大気汚染の防止にあり、より汚染の少ない石炭、電力、ガスなどへの転換を促進することにあった。発電所は都市部から遠隔地へ移転を迫られ、煙突の高さも高くなった。 

 

Reference
Judith Sandling and Mike Leber. LOWRY'S CITY, Lowry Press, 2000. 

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空白の作品事件:L.S.ラウリーの作品世界(4)

2014年08月04日 | L.S. ラウリーの作品とその時代

 

 

Seascape
(1952)『海の光景』

画面、クリックで拡大 

 

  ラウリーのことを書き出すと、案の定長くなってしまう。管理人の人生では、長い付き合いの画家である。ブログに頻出するラ・トゥールとの付き合い?とほぼ同じくらいの時空が経過しているので、さまざまな思いがある。

 お断りしてあるように、このブログは管理人の備忘録のようなものなので、時にあるテーマが必要以上に長くなったりすることがある。元来、ブログはかつて若い世代の人たちと共有した時間の中から生まれた部分もあり、そのつながりは大事にしている。そのため時にはゼミの後の気楽な雑談のようになってしまうがやむをえない。アクセス数などはまったく関心外で、Twitter、Facebook, mixi などもご希望もありますが、現在までまったく利用しておりません。

 要するにテーマに興味を抱いた方だけお読みいただければと思うブログです。ただ、コメント、ご質問やご感想、セミナーなどへのお誘いは大歓迎で、これまでもできるかぎり対応してきました。


閑話休題

 さて、前回記した通り、ラウリーが長い間ロンドンなどの美術エスタブリシュメントから軽視されてきた理由のひとつには、この画家独特の画法や画題の選択も関係していると思われる。「マッチ棒のような人々」や北西部工場地帯に特有の青空のない風景を多数描いたことなども該当するかもしれない。しかし、ラウリーは長年美術学校、大学へ通い、個人教授も受け、画家としてのスキルは十分すぎるほどに会得している。さらにフランスの画壇の状況にも通じていた。なによりもラウリーのファンがそれを知っていた。この画家の愛好家がどれだけいるか、かつてイギリスに滞在した時の経験から推測すると、もしかするとターナー以上かもしれないと思うこともある。


なにもない風景
 ラウリーの作品は実に多岐にわたる。熱心なファンでも全部を見たことがある人は、ほとんどいないはずである。作品数は1000点を越えると思われるが、正確には分からない。ラウリーは人物としても大変ユニークかつ愛すべき人柄で、画家にまつわる多くのエピソードが伝えられている。
 
 その一つ、この画家のある作品に関して、「なにもない海の風景」”Empty Seascape”という逸話があるの紹介しておきたい。

  
 20世紀を通して、ラウリーがながらく住んだサルフォードの美術館 Salford Art Gallery の歴代館長は、例外なくラウリーの大ファンであった。そのために機会があれば、なんとか作品を入手することにつとめてきた。今日、この画家の多数の作品が散逸せずに所蔵されてきた一因となっているのはこの美術館の努力のたまものである。

 しかし、美術館がラウリーの作品を取得することがいつも容易であったわけではない。1954年のこと、当時の館長が評議員会で、誇らしげにラウリー制作の「海の風景」Seascape (上掲)1点を、54ギニアで購入したと報告した。当時の54ギニアはかなりの大金で、今日では推定1千万円以上の価値があると思われる。

 ところが、評議員たちは作品を見て怒り狂った。そして、こんな絵に大金を払うなど馬鹿げているとして、「3本の色の違った直線があるだけではないか。黄色かベージュが浜辺を、青が海、灰色の線が空を区切っているだけで、浜辺には小石もない、海には波もなく、空には雲の一片もない」。さらに別の評議員が「我々は串刺しの豚肉を買ったはずだ。これは豚肉のない海の景色だ」と息巻いた。彼らはラウリーの作品なら、工場、煙突、マッチ棒のような人間、が描かれていれば、価値があると思い込んでいたらしい。確かに作品は言われてみれば、ラウリーのお得意の煙突一本見当たらない。

 こうしてしばらく紛糾したが、腹の据わった長老の評議員がいて、サルフォードのコレクションは人気が出ていて、価値が高まっているjと発言、結局賛成多数で作品購入が決定した。評議委員会の後、傍聴していた新聞記者が一部始終を当時の『マンチェスター・ガーディアン』紙に寄稿したが、それを読んだラウリーは大変楽しんだようだ。

 「工場の煙突をなにもない海の上に描き込もうと何度か思ったが、もしそうしたら、かれらは私のことをサルヴァドール・ラウリーと呼ぶだけのことさ」と画家は友人に話ししている。
 
 IT画面上で、ラウリーのこの精緻な作品を鑑賞することは、ほとんど不可能だが、いちおう掲載させていただく(Rhode 2001からの転載、上掲『海の光景』)。確かに、画面3分の1ほどに横に一線、その少し上に水平線を示すかすかな一線が海と空とを分け隔てている。それ以外のものは一切描かれていない。管理人も作品を観たことがあるが、その絶妙な色彩と筆さばきに驚くほど感動した。あのイングランド北西部独特の灰色の空とその下に広がる海の光景が見事に描かれている。

 くだんの作品に限らず、ラウリーは海に魅せられ、長い時間浜辺を歩いたり、荒波が打ち寄せる海にj漁船に乗り込んで、心に映った光景を描いた。画面に描かれたものの多くは、波立つ海だけだったが、時には沖に浮かぶ船やまっ黒な大きなタンカーそして、海底深くから屹立する奇妙なオベリスクのようなものも描いた。

折に触れ、かれは作品について、こんなことを言っていた。
「人生は戦いなのさ......... 海の荒れ狂うさま...........そして人生も大きく揺れ動く。そうではないかね... それで、すべて終わりということさ。」

 産業の世界の多様な情景を描くとともに、故郷の海を愛した画家は、海についても多数の作品を残している。もちろん、海だけが描かれた作品ばかりではない。下掲の作品のように沖に潮待ちで停泊中の船を眺めて楽しむ人々を描いた作品もある(画家の名誉のため)。ラウリーは別の機会に、「人生はうまく潮が来るかどうかで、運命が決まる。潮次第で破滅も成功もあるのさ。」という主旨のことも述べている。そうした話をする時、ラウリーは大きな声で快活に笑い、決して人生を悲観的にはみていないように見えたという。この画家の人生については、またいずれ..........。


Waiting for the Tide (1965)
454 x 686 mm of the original painting in a private collection.ArtistL S Lowry Last Published October 2007
「潮の満ちるのを待って」







Shelley Rohde。, Lowry Lexicon, Salford Quays, The Lowry Centre Limited, 2001 所収の逸話を管理人が要約した。
 

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自らの生き方を貫いた画家:L.S.ラウリーの作品世界(3)

2014年08月01日 | L.S. ラウリーの作品とその時代

Street Scene (1935), oil on canvas, 43 x53cm
『通りの光景』 

 画家L.S.ラウリーが40年近く住んだPendlebury
ペンドルベリーは、画家にとって最も重要な制作上の
アイディアが生まれ育った場所だった。近くには多数の
工場、炭鉱があり、イギリスの代表的産業地域であった。
町の中心部にはThe Acme Spinning Company Mill
アクメ紡績会社が1905年に開設されて操業していた。
作品の背景にそびえる巨大な建物がそれである。
イギリスで最初にすべての動力を電力で供給していた。
そのために、ラウリーの産業の光景にほとんど例外なく
描かれている煙突がない。描かれた場所がかつては
人々が集まる町の盛り場の一つであったことが分かる。
この建物は1984年に都市再開発のために撤去
されて
しまったので、当時を偲ぶ貴重な絵画作品である。
 


 L.S.ラウリーという画家については、思い浮かぶことがあまりに多くて、一度書き始めると止めどもなく広がってしまう。現代の画家であるにもかかわらず、日本ではこのブログで、取り上げている17世紀の画家ジョルジュ・ド・ラトゥールとはまったく違った意味でほとんど知られていない。しかし、20世紀のイギリスでは非常に人気のある画家である。画家の生前、長い間テートのようなエスタブリッシュメントや一部の保守的美術評論家が軽視しようと、ラウリーは意に介せず、淡々と絵筆を手にしていた。エスタブリシュメントが無視しようと、画家の評価は着実に高まり、歴然としていた。そして画家の死後になったが、昨年テート・ブリテンがやっと回顧展を開催したこともあって、最近再び急速に人気が高まっている。作品はオークションの大人気アイテムで驚くほどの高値がついている。

深い人間愛に充ちた作品
 個人的にも、この画家の作品そしてその人生の過ごし方は素晴らしいと思う。これまで見た企画展のカタログや作品集、伝記などを読んでいると暑さも忘れ、思わず子供に戻ったように楽しくなってくる。単純なテーマを描いたにすぎないと思われる作品であっても、他の作品と併せて見ていると、画家の深い人間愛が伝わってくる。イングランド北西部特有の曇り空、そして工業地帯の排煙などで青空のみえない光景。その下で日々を過ごす人々への暖かな心。一部の作品だけを見ていると分からないこの画家の広い心象世界に、深く入り込むほどに人々は癒される思いがする。画家は町中には、こうした工場や労働者ばかり目につき、他に描く対象がなかったから、ただ描いただけと述べているが、工場の煤煙や騒音の中にある美しさを見出した画家の作品は、時を経て現代につながる貴重な記録となった。

 作品を通して、人々はラウリーの人間性に感動させられる。ラウリーの前半生は恵まれたものではなかった。両親はラウリーが持って生まれた画家としての天性に気づかず、それを積極的に育てようとも思っていなかったようだ。そのため、絵を制作することは、趣味(hobby)として認められていた。ラウリーは義務教育の過程を終了すると、ポール・モール社という不動産会社に書記として雇われ、後には家賃の集金掛となり、65歳の定年までその仕事を勤めていた。しかし、ラウリーは会社勤めの傍ら、個人教授や美術学校に通い、美術の技能修得に努めるとともに、暇さえあれば制作に当たるという生活を過ごしていた。

 こうして、仕事の合間に描かれた作品は、次第に人々の認めるところとなり、多くの愛好者が生まれた。小さな作品でもオークションの対象になり、高値がついた。作品の多くはサルフォード・シティ・アート・ギャラリーなど地元の美術館などが購入し、今日に残る貴重なコレクションの重要な部分を構成した。1927年にはお高いテート・ギャラリーも初めてラウリーの作品(Coming out of School)を一点購入した。


 ラウリーは決してエスタブリシュメントが考えたような「日曜画家」の類ではなかった。彼は会社勤めをしながら、デッサンの個人教授を受け、さらに1905年にはManchester School of Artでフランスの印象主義者の教師P.A.Valetteについて研鑽を重ねた。ラウリーは印象主義そしてパリで同時代に起きていることに多大な関心を抱いていた。さらにラウリーはSalford Royal Technical College(University of Salford) に入学し、1925年まで研鑽を続けた。画家としての技能をしっかりと身につけていた。後年1945年にマンチェスター大学からMaster of Arts の名誉学位を、1961年にはDoctor of Letters の名誉学位を授与されている。1965年にはサルフォードの名誉市民となり、1968年には作品は郵便切手(シリーズの最高表示価格)にまで採用された。
 しかし、ラウリーは世間的名誉などは気に掛けない人物だった。大英帝国爵位、ナイトの称号など、国家的栄誉授与の申し出を実に5回にわたり辞退、断っている。

エスタブリシュメントが理解できなかった作品 
 ロンドンの美術界エスタブリシュメントは、なかなかラウリーの作品を評価しなかった。この画家独自の様式化された人の描き方やイギリス北西部の天候の変化が少ないこともあって、イングランドの北の方に住み、工場や都市などばかり描いている2流の画家とみなしていた。彼らは、工場や都市の風景などは、美術の対象にならないと思う人々の集まりだった。他方、ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツは、ずっと開放的だった。ラウリーの作品についても正当に評価してきた。余談だが、ここは管理人のごひいきの場所だ。これまで何度通ったか分からない。ロンドンに行けば、最初に出かける場所だった。ラウニーもロイヤル・アカデミーの方をはるかに好んでいたようだ。後に、アカデミー会員に選ばれている。この経緯にも興味深い話があるが、後に記すこともあるかもしれない。

 ラウニーの作品については、この画家が生涯のほとんどを過ごし、描き続けたイングランド北西部のことを知らずには理解できない。この画家は自分が住んだ地域の光景を生涯にわたって描き続けていた。この画家と切り離せない二つの都市がある。現在はグレーターマンチェスターに包含される都市サルフォードと画家が40年以上にわたって住んでいたマンチェスターのペンドルベリーだ。特にサルフォードの美術館の歴代の館長はラウニーの作品を高く評価し、この画家の作品の収蔵に努めてきた。今日、この画家の作品がテート・ブリテンなどをはるかに凌ぐ多数がサルフォード市にあるのはこのためである。この画家の作品の大規模なコレクションは、画家がながらく住んだサルフォードのその名もThe Lowry と名づけられた公的展示施設に所蔵されている。

 
★このブログ記事の画像イメージ、作品背景
は、管理人の在英当時のメモ、画家についての多数の出版物とりわけ下記によっている。上掲のイメージは下記から転載させていただいた。


Judith Sandling and Mike Leber. Lowry's City: A painter and his Locale, Lowry Press, p.16. 

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