大倉草紙

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【京都】 山名宗全邸宅跡

2009年09月19日 21時00分00秒 | 旅 - 京都府
5月31日(日)
当日の行程:(阪急・茨木市駅…阪急バス・阪急茨木市駅~千提寺口) → 【クルス山】 → 【キリシタン遺物史料館】 → (阪急バス・千提寺口~阪急茨木市駅…阪急・茨木市駅~高槻市駅) → 【高槻カトリック教会】 → 【野見神社】 → 【高山右近天主教会堂跡】 → 【高槻市立しろあと歴史館】 → 【高槻城跡の碑】 → 【城跡公園】 → 【高槻市立歴史民俗資料館(旧笹井家住宅)】 → (阪急・高槻市駅~烏丸駅…京都市地下鉄・四条駅~今出川駅) → 【相国寺】【相国寺金閣銀閣名宝展-パリからの帰国-(相国寺承天閣美術館)】【薩摩藩邸跡】【俵と龍のコレクション-屋号にちなんだ菓子意匠と茶道具-(京菓子資料館)】【藤井右門宅跡】【室町幕府跡】【山名宗全邸宅跡】 


山名宗全邸宅跡が分からず、西陣会館でお尋ねしたら、丁寧に教えて下さった。
邸宅跡は、ごくごく普通の町並みの中にあった。

「山名宗全は応永十一年(一四〇四)に生まれ、名を持豊といい、後に宗全と号したが、赤ら顔であったので赤入道ともいわれた。但馬をはじめ数ヶ国を領し、強大な勢力を持っていた。
 子供がなかった将軍足利義政は、弟義視を後嗣にしようとしたが、その後、義政の夫人富子に義尚が生まれたため、将軍職をめぐる後継者争いが起こり、応仁の乱に発展した。
 義尚を擁する宗全は、この邸宅を本陣として、室町今出川の花の御所に陣を置く義視方の細川勝元と東西に分かれて十一年間に及ぶ戦いを繰り広げた。このため、京都の町の大半は焦土と化した。
 なれや知る都は野辺の夕雲雀
   あがるを見ても落る涙は
    (飯尾彦六左衛門尉常房)
 この地にあった山名家代々の邸宅も焼失し、宗全は文明五年(一四七三)、陣中で没した。
 このあたり一帯を西陣と呼ぶのは、宗全が幕府の西に陣を敷いたことによる。  京都市」(案内板より)

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