大倉草紙

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【京都】 藤井右門宅跡

2009年09月17日 21時00分00秒 | 旅 - 京都府
5月31日(日)
当日の行程:(阪急・茨木市駅…阪急バス・阪急茨木市駅~千提寺口) → 【クルス山】 → 【キリシタン遺物史料館】 → (阪急バス・千提寺口~阪急茨木市駅…阪急・茨木市駅~高槻市駅) → 【高槻カトリック教会】 → 【野見神社】 → 【高山右近天主教会堂跡】 → 【高槻市立しろあと歴史館】 → 【高槻城跡の碑】 → 【城跡公園】 → 【高槻市立歴史民俗資料館(旧笹井家住宅)】 → (阪急・高槻市駅~烏丸駅…京都市地下鉄・四条駅~今出川駅) → 【相国寺】【相国寺金閣銀閣名宝展-パリからの帰国-(相国寺承天閣美術館)】【薩摩藩邸跡】【俵と龍のコレクション-屋号にちなんだ菓子意匠と茶道具-(京菓子資料館)】【藤井右門宅跡】【室町幕府跡】【山名宗全邸宅跡】 


「この地に江戸中期の尊王論者藤井大和守直明(右門)の居宅があった。
 右門は播磨赤穂藩の遺臣の子で、享保五年(一七二〇)富山県小杉町の生れである。京都に出て竹内式部らと交わり、皇学所教授となって公家に尊王論を説いた。宝暦八年(一七五八)幕府が右門ら尊王論者を弾圧した宝暦事件がおこり、右門は江戸に逃れて山縣大弍のもとに身を寄せ、その塾で尊王論や兵学を講義した。しかし、幕府は盟和三年(一七六六)ある事件にかこつけて右門と大弐をとらえ処刑した(明和事件)。享年四十八才。それから約百年、右門らがさきがけとなった尊王論は多くの志士の心をとらえ、明治維新の思想の主流となった。末孫九成、多門らもその遺志をついで勤王家として活躍した。
 右門の旧宅は、現同志社大学の地に薩摩藩屋敷があった関係から、志士たちの会議連絡場所としても活用され、明治維新の史跡としても忘れがたい。屋敷は大正十一年(一九二二)区画整理のため取りこわされたが、大正十二年(一九二三)、右門の顕彰碑が建てられた。  京都市」(案内板より)

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