大倉草紙

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【大阪】 高山右近ゆかりの地

2009年09月12日 21時00分00秒 | 旅 - 大阪府
5月31日(日)
当日の行程:(阪急・茨木市駅…阪急バス・阪急茨木市駅~千提寺口) → 【クルス山】 → 【キリシタン遺物史料館】 → (阪急バス・千提寺口~阪急茨木市駅…阪急・茨木市駅~高槻市駅) → 【高槻カトリック教会】 → 【野見神社】 → 【高山右近天主教会堂跡】 → 【高槻市立しろあと歴史館】 → 【高槻城跡の碑】 → 【城跡公園】 → 【高槻市立歴史民俗資料館(旧笹井家住宅)】 → (阪急・高槻市駅~烏丸駅…京都市地下鉄・四条駅~今出川駅) → 【相国寺】【相国寺金閣銀閣名宝展-パリからの帰国-(相国寺承天閣美術館)】【薩摩藩邸跡】【俵と龍のコレクション-屋号にちなんだ菓子意匠と茶道具-(京菓子資料館)】【藤井右門宅跡】【室町幕府跡】【山名宗全邸宅跡】

【高槻カトリック教会】

カトリック高槻教会(高山右近記念聖堂)は、高槻城主でキリシタン大名の高山右近臨終の地。


教会の敷地内には、高山右近像がある。


【野見神社】

宇多天皇の時代(887ー897年)に疫病が流行した時、ご神託に従って社殿を造り、牛頭天皇を祀ったのが野見神社の起源。
当時は牛頭天皇社といった。
高山右近が城主となった時、神殿は破壊、社領は没収された。
時の神職は御神体を石清水八幡宮に避難させたそうだ。
元和5年(1619)、城主となった松平紀伊守は、牛頭天皇社を新造し、社領を寄進し、再興する。


社殿


永井神社
永井神社は、野見神社の摂社。
寛政5年(1793)、9代藩主永井直進が初代藩主の直清を祭神として創建。
鳥居の奥の唐門(高槻市有形文化財)が美しい。


永井公碑


野見神社の御朱印


【高山右近天主教会堂跡】

「高山右近高槻天主教会堂跡
 戦国時代末期、高槻は近畿地方におけるキリスト教布教の中心地でした。
 宣教師ルイス・フロイスの記録によると、天正2年(1574)に高槻城主高山右近(ジュスト)と父親の飛騨守(ダリオ)は、古社の位置に池や庭園をともなった教会堂を建立し、この教会堂を拠点にキリスト教布教に力を注ぎました。
 高山右近の明石転封の後、しばらくして古社は元の場所に復帰したと伝えられていることから、当地周辺に教会堂があったと推定されています。
 高槻市教育委員会が平成10年(1998)におこなった高槻城三の丸跡発掘調査で、蓋に十字架を墨書した木棺を含むキリシタンの墓地が発見され、教会堂に付属した墓地の一端が明らかとなりました。(以下略)
  平成11年7月27日
      大阪府教育委員会
      高槻市教育委員会」(案内板より)
現在は、商工会議所になっている。


【高槻市立しろあと歴史館】

高槻城三の丸跡に建っている。
高槻城やその城下町に関する資料などがある。
三十石船の展示もあった。
「淀川三十石船船唄」が興味深い。

【高槻城跡の碑】

「高槻城が記録に登場するのは、14世紀前半、入江左近将監春則が居城としてからである。
 永禄12年(1569)には和田惟政が城主となったが、元亀4年(1573)、その子惟長と対立した高山飛騨守・右近父子が、和田氏を滅ぼして城主となった。キリシタンであった右近は、場内に天主教会堂を建てるなど布教に努め、天正9年(1581)には、イタリアの巡察師ヴァリニァーノを迎えて盛大な復活祭を催している。
 その後は豊臣氏、徳川氏の直轄となり、大坂夏の陣(1615)後、内藤・土岐・岡部など譜代大名が城主となった。そして慶安2年(1649)、永井直清が3万6千石をもって入城、明治時代までの13代約230年にわたり、永井氏の藩政が続いた。
 明治7年(1874)の鉄道敷設に伴って高槻城は破却され、今では城跡公園となり、市民の憩いの場となっている。(以下略)
  昭和63年6月   大阪府教育委員会  高槻市教育委員会」(案内板より)


【城跡公園】

城跡公園は、よく整備されている。


高山右近像
像の上に乗っているのは、本物の鳩。


工兵第四聯隊跡の碑
明治42年から昭和20年まで、ここには工兵第四聯隊が置かれていた。


【高槻市立歴史民俗資料館(旧笹井家住宅)】

城跡公園内にある。
江戸時代の商家・笹井家住宅を復元したもの。
当時の生活用品や農具が展示されている。


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