大倉草紙

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【奈良】 大台ケ原

2009年07月21日 21時00分00秒 | 旅 - 奈良県
7月18日(土)
当日の行程:(車) → 【大台ケ原】【鳥羽城】 → 【常安寺(九鬼嘉隆の墓)】【賢島周辺】【天の岩戸】 → (伊勢泊)


テレビで大台ケ原を見て、行きたくて堪らなくなった。
3連休を利用して、思い切って出かけてみた。
出発の前夜は、我が家にとって嬉しい知らせがあって気持ちが高まってしまい、ほとんど眠ることができなかった。
5時半過ぎにに家を出て、大台ケ原に到着したのは8時半。
眠たくなってきたので、車中で少し休んでから山に入った。

【登山口】 (9:36)

「大台ケ原ビジターセンター」脇の登山口から入り、東大台散策コースを歩く。
【駐車場】 → 【登山口】 → 【日出ヶ岳】 → 【正木峠】 → 【正木ヶ原】 → 【牛石ヶ原】 → 【大蛇】 → 【シオカラ谷】 → 【駐車場】の順。


【登山口~日出ヶ岳】 (9:36-10:13)

緑がとても爽やか。


大台ケ原は日本有数の多雨地帯。
年間降水量は4,500ミリ以上だという。
この辺りの地面からは水が滲み出ていて、カエルも気持ち良さそうだ。


日出ヶ岳の手前にある展望デッキからの風景。
天候が良ければ、ここから熊野灘が見えるらしい。
右手の奥のほうに、うっすらと見えるような気もする。
富士山が見えることもあるとか。


日出ヶ岳の三角点。
標高は1,695メートル。


日出ヶ岳の展望台
展望台の上に登ると、風が吹いていて心地よい。


西は、金剛山や葛城山のある方角。


東は、熊野灘や富士山のある方角。






どの方角に目をやっても、山、山、山。


鹿を発見。
でも遠すぎてよく見えない。


【日出ヶ岳~正木峠~正木ヶ原】 (10:21-10:49)

正木峠から日出ヶ岳を望む。


正木峠から正木ヶ原にかけては、このような倒木があちこちに見られる。
以前は森であったが、昭和30年代の伊勢湾で倒れた樹木をを搬出した結果、地面が乾燥し、コケ類が減少してしまった。
コケに代わって地面を覆ったのはミヤコザサ。
そしてササを主食とするニホンジカが増加し、下層植生が食べられたり、樹木の皮がはがされるようになり、森林の衰退が進行していったそうだ。


正木ヶ原


【正木ヶ原~牛石ヶ原~大蛇】 (10:49-11:31)

恐竜みたいな倒木


牛石ヶ原にある神武天皇像


牛鬼という怪物を高僧が捉えて、この石の下に封じ込めたといわれる。
牛石を叩くと大雨になるそうだ。
叩いてこなかったけれど、誰でも手に触れられる場所にあるので、叩いちゃう人もいるのでは。


大蛇(だいじゃぐら)は鎖で囲まれているけれど、スリル満点。
この下は、約800メートルの断崖絶壁。


大蛇の先端まで進む。
が、立ち上がれない。
風が吹くとコワイ。
どんな人がこの鎖を張ったのだろう。


大蛇の周りの風景


【大蛇~シオカラ谷~駐車場】 (11:31-12:50)

シオカラ谷までの道は、石がゴロゴロしていて歩き辛い。


倒れた木をくぐる。


水の音が聞こえるとすぐに谷が見えてくる。


道なりに歩けばこの吊橋を渡ることになるが、気持ちが良さそうだったので、谷まで下りておにぎりを食べる。


吊橋を渡ると、登り坂。
最初のほうが急で、駐車場に近付くにつれて緩やかになる。

駐車場に着いて、売店でかき氷を買って食べる。
日差しがやわらかかったので比較的歩きやすかったが、それでも随分と汗をかいた。
三重県へ向かう。


当日の歩数:25,549歩

【大阪】 ルーヴル美術館展 美の宮殿の子どもたち (国立国際美術館) 

2009年07月20日 21時00分00秒 | 美術館・博物館・記念館・資料館
7月12日(日)
当日の行程:(京都市地下鉄・東山駅) → 【ルーヴル美術館展 ― 17世紀ヨーロッパ絵画 ―(京都市美術館)】【無声時代ソビエト映画ポスター展(京都国立近代美術館)】 → (京都市地下鉄・東山駅~三条京阪駅…京阪・三条~渡辺橋) → 【ルーヴル美術館展 美の宮殿の子どもたち(国立国際美術館)】


ルーブル美術館展のはしごをした。
大阪で開かれているこちらの展覧会は、「子ども」というテーマのもとに構成されている。
どちらのルーブル美術館展も、それぞれ違った楽しみ方ができる。
そして、日曜日ということもあってか、どちらの展覧会も大盛況。

ルーヴル美術館の7つの部門(「古代エジプト美術」、「古代オリエント美術」、「古代ギリシャ・ローマ美術」、「絵画」、「彫刻」、「美術工芸品」、「素描・版画」)から選りすぐりの200点が、7章に分けて展示されている。
心に残ったものをいくつか挙げる。


《台車にのったライオン》《台車にのったハリネズミ》中期江ラム時代、前12世紀
これらは、神殿に奉納されていたものと推定されているらしい。
愛らしい。
紀元前12世紀に、こんなに精巧な置物(?)が作られていたとは、と驚かされる。


《幼いホルス神に授乳するイシス女神》末期王朝時代、第30王朝以前、前722-前380年頃


アンドレア・デッラ・ロッピアの工房《幼子イエスを礼拝する聖母》
色彩の美しさに目が行く。


ジョルシュア・レノルズ《マスター・ヘア》1788年
てっきり女の子だとばかり……。
この時代の上流家庭の男の子は、女の子の格好で育てられたそうだ。


《少女のミイラと棺》新王国、ラメセス朝時代、おそらく第19王朝、前1295-前1186年頃
日本初公開。
ルーヴルに所蔵される唯一の子どものミイラなのだそうだ。


前:ジャン=バティスト・ドフェルネ《悲しみにくれる精霊》
後:《蛇を絞め殺す幼児ヘラクレス》前480-前470年頃
《悲しみにくれる精霊》は、その表情が真剣すぎるゆえに、観ていて笑いたくなってしまう。
身体と表情に、ギャップがあり過ぎるのだ。
《蛇を絞め殺す幼児ヘラクレス》は逸品。
ただ、ヘラクレスは幼児には見えないけれど。
大人と同じ姿で子どもが表現されていたとのこと。


【京都】 無声時代ソビエト映画ポスター展 (京都国立近代美術館)

2009年07月19日 21時00分00秒 | 美術館・博物館・記念館・資料館
7月12日(日)
当日の行程:(京都市地下鉄・東山駅) → 【ルーヴル美術館展 ― 17世紀ヨーロッパ絵画 ―(京都市美術館)】【無声時代ソビエト映画ポスター展(京都国立近代美術館)】 → (京都市地下鉄・東山駅~三条京阪駅…京阪・三条~渡辺橋) → 【ルーヴル美術館展 美の宮殿の子どもたち(国立国際美術館)】


ロシア・ソビエト研究家・翻訳家の袋一平が日本に持ち帰った無声時代のソビエト映画のポスターが、51点展示されている。
フィルムセンターで開かれた同展覧会では、3期にわけて約140点のポスターを紹介していたそうだ。
他にはどんなポスターがあるのか興味があったので、図録を購入。

チラシに使われているのは、ステンベルク兄弟《カメラを持った男》(1929年、シガ・ヴェルトフ監督)のポスター。
これ、映画そのものも良いけれど、ポスターも映画に負けないくらいにイイ!
見ていてわくわくしてしまう。


ステンベルク兄弟《帽子箱を持った少女》(1927年、ボリス・バルネット監督)
ポスターも悪くはないが、映画のイメージとはちょっと違うような気も。
サマージャンボを買ってみたけれど、当たらないかなあ。

ほかにはこんなポスターも。

グリゴーリー・ボリソフ/ピョートル・ジューコフ《生ける屍》(1929年、フョードル・オツェプ監督)


ヨシフ・ゲラシモーヴィチ《古きものと新しきもの(全線)》(1929年、セルゲイ・エイゼンシュテイン/グリゴーリー・アレクサンドロフ監督)


ステンベルク兄弟《大地》(1930年、アレクサンドル・ドヴジェンコ監督)

展示されていたポスターのほとんどが10,000~15000部刷られている。
どのくらいの枚数が一般的なのか知らないが、ステンベルク兄弟《上海ドキュメント》(1928年、ヤーコフ・ブリオフ監督)のポスターは20,000部と多い。
ヤーコフ・ルクレフスキー《ギガント(巨人)》(1930年、リジヤ・ステパノワ監督)やレオニード・ヴォロノフ《陽気な連中》(1934年、グリゴーリー・アレクサンドロフ監督)は5,000部と希少なものだ。

久しぶりにソビエト映画でも観ようかなあ。

【京都】 京都御苑 ②

2009年07月18日 21時00分00秒 | 旅 - 京都府
2月11日(水)
当日の行程:(京都バス・大原) → 【初午大根焚き(三千院)】 → (京都バス・大原~高野車庫…京都市バス〔206〕・高野橋東詰~東山七条) → 【京都御所ゆかりの至宝(京都国立博物館)】【智積院】 → (京都市バス〔206〕・東山七条~東山三条…京都市地下鉄・東山~二条城前) → 【神泉苑】【二條陣屋】 → (京都市地下鉄・二条城前~丸太町) → 【京都御苑 ①

【橋本家跡】

「一八四六(弘化三)年、孝明天皇の妹和宮親子親王誕生の地といわれています。和宮は、橋本実久の娘典侍の経子(つねこ)を母として生まれ、十四年間この橋本家で養育されました。公武合体政策を進めるため、当初の有栖川宮熾仁(たるひと)親王との婚約は破棄され、十四代将軍徳川家茂へ嫁ぐこととなりました。明治維新後、和宮は徳川慶喜の助命にも尽力しました。一八七七(明治十)年、療養先の箱根で没し、増上寺の徳川家茂の墓に並んで葬られました。」(案内板より)


【学習院跡】

「一七七九(安永八)年、閑院宮家出身で皇位を継いだ光格天皇は、学問を大切にし、公家の教育振興に取り組みました。次の仁孝天皇在位中の一八四二(天保十三)年、幕府により御所建春門外に学習所の創設が認められ、孝明天皇在位中の一八四七(弘化四)年に開講しました。公家をはじめ、御所に勤める役人たちとその子弟に国学や歴史等を教えることとし、『学習院』と呼ばれました。」(案内板より)


【土御門第跡】

「平安時代中期に摂政・太政大臣となった藤原道長の邸宅跡で、拡充され南北二町に及び、上東門第、京極第などとも呼ばれました。道長の長女彰子が一条天皇のお后となり、里内裏である当邸で、後の後一条天皇や後朱雀天皇になる皇子達も、誕生しました。『この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば』の歌は、この邸で催された宴席で詠まれたといいます。」(案内板より)


【有栖川宮邸跡】



【建礼門】

御所の建礼門。
京都御所参観の記録はこちら


【凝華洞跡】

「江戸時代第一一一代後西天皇退位後の仙洞御所があったところといわれています。一八六四(元治元)年禁門の変の頃、京都守護職に任じられていた会津藩主松平容保は病を患い、朝廷の配慮もありここを仮本陣にしました。丘の上の松の横には東本願寺が寄進した灯籠が建ち南には池がありました。その後、明治の大内保存事業等で池は埋められ、灯籠は九条池畔に移され、戦時中の金属供出により今は台座だけが残っています。」(案内板より)


【大宮御所正門と仙洞御所表門】

奥に小さく見えるのが大宮御所正門で、手前にあるのが仙洞御所表門。
大宮御所と仙洞御所の参観の記録はこちら


【桜町】

「紀貫之の邸宅で、桜が多く植えられていた名庭があったという桜町の屋敷はこのあたりにあったと考えられています。源氏物語に描かれた末摘花の邸宅、桐壺帝の麗景殿女御とその妹花散里の暮らしていた中川邸、源氏が空蝉と出会った紀伊守中川家も、この近くに想定されたようです。」(案内板より)


【博覧会場跡】

「東京遷都後京都が寂れるのを心配した京都府関係者らは、一八七一(明治四)年、日本最初の博覧会を西本願寺で開き、伝統産業品を網羅して展示、京都の殖産興業を図りました。第二回~九回までは仙洞御所内で開催されましたが、一八八一(明治十四)年の第十回から、この地に建設された常設会場で行われました。その東南部には京都画学校(今の市立芸術大学)がありました。一九一四(大正三)年以降は岡崎の京都市勧業館が会場になりました。」(案内板より)


【鷹司邸跡】

「鎌倉時代中頃、近衛家からわかれた五摂家の一つです。江戸時代中期には閑院宮家の皇子淳宮が鷹司家を継ぎました。孫の政通は幕末期三〇年以上も関白を務め、九條尚忠(ひさただ)へ譲った後も、内覧、太閤として朝廷で重要な役割を担いました。政通夫人は水戸藩主徳川斉昭の姉で、外国情報を早く知り得たといいます。一八六四(元治元)年の禁門の変では、長州藩士が邸内に入り、屋敷に放たれた火は、長州藩邸の火などとともにどんどん焼けと称する京都大火につながりました。」(案内板より)


【堺町御門】

「一八六三(文久三)年八月一八日、朝廷内の孝明天皇、中川宮、公武合体派の公家、会津・薩摩藩らは、三条実美ら激派の公卿七人と尊王攘夷派の中心である長州藩を京都から追放する政変を起こしました。堺町御門警備担当の長州藩が御門に終結した時、門は会津・薩摩藩兵で固められ、門内に入ることは許されませんでした。政変の結果、長州藩兵は京都から追放され、激派の公卿七人も長州に逃げ落ち、京都では一時的に公武合体体制が成立しました。」(案内板より)


【九條邸跡】

「九條家は、五摂家の一つで、平安後期以降多くの人が朝廷の重要職である摂政や関白につきました。その娘の多くも天皇妃となり、大正天皇の皇后節子(さだこ)もその一人です。江戸末期、米総領事ハリスの通商条約締結要請に対し徳川幕府は了解する考えでしたが、朝廷側の孝明天皇は反対でした。折しも京都市内では、幕府と朝廷との様々な交渉が行われ、時の関白九條尚忠の邸もその舞台の一つとなりました。広大だった屋敷も、今では池の畔の茶室の拾翠亭(しゅうすいてい)と、九條邸の鎮守だった厳島神社が中島に残るばかりです。」(案内板より)


厳島神社


拾翠亭

【京都】 京都御苑 ①

2009年07月17日 21時00分00秒 | 旅 - 京都府
2月11日(水)
当日の行程:(京都バス・大原) → 【初午大根焚き(三千院)】 → (京都バス・大原~高野車庫…京都市バス〔206〕・高野橋東詰~東山七条) → 【京都御所ゆかりの至宝(京都国立博物館)】【智積院】 → (京都市バス〔206〕・東山七条~東山三条…京都市地下鉄・東山~二条城前) → 【神泉苑】【二條陣屋】 → (京都市地下鉄・二条城前~丸太町) → 【京都御苑 ①


京都御苑を散策する。
日が暮れ始めていたし、雨脚が強くなってきたいたので、急ぎ足で。

【閑院宮邸跡】

まずは、参観受付が午後4時までの閑院宮邸跡へ。


「閑院宮家は江戸時代の四親王家の一つで、最も新しく一七一〇(宝永七)年に創設されました。第一一八代後桃園天皇が一七七九(安永八)年に急逝したため、九才で閑院宮家出身で皇統を継いだのが光格天皇です。邸宅は宮家が東京に移った一八七七(明治十)年以降、華族会館や裁判所等に使用され、一八八三(明治十六)年、宮内省京都支庁が設けられ、屋敷も建て替えられたといわれています。」(案内より)


庭園
当初の庭園は、18世紀中頃に作庭されたらしい。
現在の庭は、作庭当時の遺構の上に州浜を設けて復元している。


【出水の小川】

「最近まで御所には防火等のための『御所水道』が引かれていました。明治に開かれた琵琶湖疎水を三条蹴上で分水した専用水路です。一九八一(昭和五六)年、そのうち御所周りの流路『御溝水(みかわみず)』から導水して作ったのが『出水の小川』です。長さ約一一〇メートル深さ約二〇センチ。川底は苑路と同じ琵琶湖安曇川(あどがわ)産の石を敷いています。一九九二(平成四)年の御所水道閉鎖により今は井戸からの地下水を循環濾過して流れを維持しています。」(案内板より)


【賀陽宮邸跡(かやのみやていあと)】

「烏丸通りからこのあたり一帯にかけて伏見宮邦家親王第四王子朝彦親王の屋敷がありました。朝彦親王は青蓮院門跡・天台座主をつとめましたが、孝明天皇の信任が厚く、還俗し中川宮と称して天皇を助けました。その後邸宅の庭にあった榧(かや)の巨木にちなみ賀陽宮と称しました。その公武合体政策は尊王攘夷派からは敵視され、明治維新後は広島に移されました。貽範碑(いはんひ)建設に名を連ねる梨本宮守正王は朝彦親王の第四王子です。」(案内板より)


【白雲神社】

元仁元年(1224)、西園寺公経(藤原公経)が現在の金閣寺がある場所に建てた妙音堂がはじまり。明和6年(1769)、鎮守社として西園寺家の邸内に移築される。
明治11年(1878)、神仏混淆の作法を神式に改め、社号は白雲神社となった。


社殿


白雲神社の御朱印


【西園寺邸跡】

「西園寺家は琵琶の宗家でもあり、鎌倉時代の公卿西園寺公経が今の金閣寺の地に別荘北山堂を造った際、妙音天あるいは妙音弁財天といわれる音楽神を祀る妙音堂を建てられたといわれています。この地へは一七六九(明和六)年に移されたといわれ、明治になり西園寺家が東京へ移った後は、一八七八(明治十一)年、以前の神仏混淆の作法を改め、地名の白雲村に因み、白雲神社となりました。旧邸内は、西園寺公望が、私塾『立命館』を創設した地でもあります。」(案内板より)


【枇杷殿跡(びわどのあと)】

「このあたりにあったといわれ、平安時代前期、藤原基経から三男仲平に伝えられ、敷地内には宝物を満たした蔵が並んでいたといいます。一〇〇二(長保四)年以降、藤原道長と二女妍子(けんし)の里邸として整備され、御所の内裏炎上の折は里内裏ともなり、一〇〇九(寛弘六)年には一条天皇が遷り、紫式部や清少納言が文才を競ったといわれます。一〇一四(長和三)年、再び内裏が炎上し、その後、三条天皇はこの邸で後一条天皇に譲位したといいます。」(案内板より)


【清水谷家の椋】

「この大きなムクの木は、このあたりが清水谷家という公家の屋敷であったことから『清水谷家の椋』と呼ばれています。樹齢は約三百年といわれ、苑内でも数少ないムクの大木です。
 一八六四(元治元)年の禁門の変の時、長州藩士で遊撃隊(長州尊王攘夷激派の一つ)の総督だった来島又兵衛がこの木の付近で討死したとも伝えられています。」(案内板より)


【蛤御門】

「江戸時代末期の一八六四(元治元)年、この門の周辺で長州藩と、御所の護衛に当たっていた会津・薩摩・桑名藩との間で激戦が行われました。この戦いが『禁門の変(蛤御門の変)』で、門の梁にはその時の鉄砲の弾傷らしき跡が残っています。この門は新在家門といわれていましたが、江戸時代の大火で、それまで閉ざされていた門が初めて開かれたため、『焼けて口開く蛤』にたとえて、蛤御門と呼ばれるようになったといわれています。」(案内板より)


門に残る弾痕


【縣井(あがたい)】

「昔この井戸のそばに縣宮という社があり、地方官吏として出世を願う者は、井戸の水で身を清めて祈願し、宮中にのぼったといいます。この付近は江戸時代まで五摂家の一つ一條家の屋敷地内となっており、井戸水は、明治天皇の皇后となった一條美子(はるこ)のうぶ湯に用いられたともいわれています。大和物語では病気を治す水とも紹介され、井戸と辺りの山吹の風情は、後鳥羽院などの歌にも詠まれました。」(案内板より)


一條邸跡


【近衛邸跡】

「このあたりが近衛家の屋敷のあったところです。近衛家は、五摂家の一つで、江戸時代末までに多くの人が摂政や関白になっています。かつては、この庭園の池の西側に大きな屋敷があり、御所炎上の際には仮の皇居にもなりました。池のほとりは、昔から糸桜の名所で、孝明天皇も次の歌を詠まれています。『昔より名にはきけども今日みればむへめかれせぬ糸さくらかな』」(案内板より)


近衛池


【桂宮邸跡】

現在は、宮内庁職員の宿舎として使われていて、一般の人の出入りはできない。


【冷泉家】

今出川御門から外へ出てみる。
今出川通りを渡ると、冷泉家がある。
現在もこちらにお住まい。
裏手には、同志社大学が建っている。
再び御苑内へ。


【猿ヶ辻】


木彫りの猿
「御所の築地塀が折曲った部分の屋根裏に、一匹の木彫りの猿が見られます。烏帽子をかぶり御幣をかついだこの猿は、御所の鬼門を守る日吉山王(ひえさんのう)神社の使者ですが、夜になると付近をうろつき、いたずらをしたため、金網を張って閉じ込められたといわれています。開国派とその反対派がせめぎあう幕末さなかの一八六三(文久三)年五月、公家で攘夷派の急先鋒の一人であった姉小路公知がこの付近で殺されたと伝えられています(猿ヶ辻の変)。」(案内板より)


【中山邸跡】

「幕末期の公家権大納言中山忠能(ただやす)の邸跡で、その娘権典侍慶子(ごんのてんじよしこ)を母として一八五二(嘉永五)年、祐宮(さちのみや・後の明治天皇)が誕生しました。敷地内にはそのうぶ屋が遺っています。祐宮はここで四年間養育されたといわれています。敷地内の井戸は、祐宮二才の夏、干天で井戸が枯れたため、新たに掘られたものといい、その名に因んで祐井(さちのい)と名づけられたといいます。」(案内板より)


邸内


【京都迎賓館】

見学は、定められた期間内のみ。
往復はがきで参観申込みをする。
先日はがきを出したけれど、1日あたりの参観人数が決まっているので、果たして観ることができるかどうか?
入ってみたいなあ。

【京都】 二條陣屋

2009年07月16日 21時00分00秒 | 旅 - 京都府
2月11日(水)
当日の行程:(京都バス・大原) → 【初午大根焚き(三千院)】 → (京都バス・大原~高野車庫…京都市バス〔206〕・高野橋東詰~東山七条) → 【京都御所ゆかりの至宝(京都国立博物館)】【智積院】 → (京都市バス〔206〕・東山七条~東山三条…京都市地下鉄・東山~二条城前) → 【神泉苑】【二條陣屋】 → (京都市地下鉄・二条城前~丸太町) → 【京都御苑 ①


「二條陣屋(重要文化財小川家住宅)
 豊臣秀吉に仕えて伊予今治(現在の愛媛県)七万石の城主となった小川土佐守祐忠(おがわとさのかみすけただ)は、関が原の合戦に敗れて出家し、その長男千橘(せんきつ)が、萬屋平右衛門と名乗って、この地で米穀商、両替商及び木薬屋を業とした。この建物は、その住宅として寛文十年(一六七〇)年頃に創建されたものである。
 当家は、二条城や京都所司代に仕候する中小の大名の陣屋として、また京都町奉行所の公事宿としても利用されたので、隠し階段や武者隠しなど、大名の身辺警護のための特殊な構造、設備が施され、更に類焼防止の工夫も多い。
 建築様式は数寄屋式住宅で、極めて繊細優美であり、建築学的価値も非常に高いとされている。
 昭和十九年(一九四四)に、数寄屋式住宅、陣屋式建築、防火建築の三点から、当時の国宝保存法に基づく国宝に指定され、昭和二十五年、文化財保護法により重要文化財に指定された。  京都市」(案内板より)

見学には予約が必要。
説明を受けながらの見学となる。

大広間の武者隠しは、大名を護衛をする者が潜んでいる場所。
一見天窓に思える。

能舞台として使える部屋もある。
本格的なもので、床下四方には甕も置いてあるそうだ。
障子で囲まれているが、障子は板戸で塞ぐことができる仕組みになっていて、鏡板にすぐさま変わる。
橋懸となる廊下には、三本の松が描かれている。

そのほか、普段は吊りあげられていて目につかない吊階段や、追ってくる敵の足を
踏み外させることができる落とし階段等々、忍者屋敷さながらの仕掛けだ。
虫籠窓など、防火設備の知恵も、成程と感心するものばかりだった。

【京都】 神泉苑

2009年07月15日 21時00分00秒 | 旅 - 京都府
2月11日(水)
当日の行程:(京都バス・大原) → 【初午大根焚き(三千院)】 → (京都バス・大原~高野車庫…京都市バス〔206〕・高野橋東詰~東山七条) → 【京都御所ゆかりの至宝(京都国立博物館)】【智積院】 → (京都市バス〔206〕・東山七条~東山三条…京都市地下鉄・東山~二条城前) → 【神泉苑】【二條陣屋】 → (京都市地下鉄・二条城前~丸太町) → 【京都御苑 ①


神泉苑は、延暦13年(794)に桓武天皇が平安京の造営にあたり、大内裏の南の沼沢を開いて造った苑地。
清泉が湧き出るので、その名が付いたのだそうだ。
源義経と静御前が出会った場所だともいわれる。


本堂
東寺から移築した建物という。


法成橋
願い事をひとつだけ念じながら渡ると叶うといわれている。


善女竜王社


恵方社
日本で唯一の恵方社。
その年の恵方によって、台座を動かして社の方角を変えるのだそうだ。
今年は寅卯(東北東)に向かって礼拝すれば、幸福になるという。


弁財天


矢劔大明神

【京都】 智積院

2009年07月14日 21時00分00秒 | 旅 - 京都府
2月11日(水)
当日の行程:(京都バス・大原) → 【初午大根焚き(三千院)】 → (京都バス・大原~高野車庫…京都市バス〔206〕・高野橋東詰~東山七条) → 【京都御所ゆかりの至宝(京都国立博物館)】【智積院】 → (京都市バス〔206〕・東山七条~東山三条…京都市地下鉄・東山~二条城前) → 【神泉苑】【二條陣屋】 → (京都市地下鉄・二条城前~丸太町) → 【京都御苑 ①


智積院は、真言宗智山派の総本山。


狛犬
ちょっと変わっている。


収蔵庫
長谷川等伯・久蔵父子による障壁画(国宝)は、この収蔵庫にある。
見飽きない、迫力ある作品だった。
「桜図」は、若くして亡くなった久蔵の遺作。


ここが、講堂、大書院、庭園の入口。


講堂


講堂の襖はまだ真っ白。
田渕俊夫の襖絵がこの講堂を飾るのは6月から。


高浜虚子の句碑
「ひらひらとつくもをぬひて落花かな」
昭和5年(1930)、智積院を訪れたときに詠んだ句だという。
「つくも」とは、高さが1~2メートルの多年草で、智積院の池にたくさん生えていたのだそうだ。


大書院の障壁画はレプリカ。
収蔵庫で観たものとは、残念なくらいに違う。


庭園
利休好みの庭で、中国の廬山を模しているといわれる。


金堂


明王殿


鐘楼


智積院の御朱印

【大阪】 安藤忠雄建築展 2009 対決。水の都 大阪VSベニス 水がつなぐ建築と街・全プロジェクト

2009年07月13日 21時00分00秒 | 美術館・博物館・記念館・資料館
6月7日(日)
当日の行程:(大阪市営地下鉄・大阪港駅) → 【天保山公園】【海遊館】【安藤忠雄建築展 2009 対決。水の都 大阪VSベニス 水がつなぐ建築と街・全プロジェクト(サントリーミュージアム[天保山])】


気付けば、昨日で展覧会は終わっている。
えらく長いタイトルの展覧会だが、「安藤忠雄が提案する水都復活をかけた大阪都市再生プロジェクトと今年5月に竣工するベニスの最新プロジェクト」の紹介とのこと。
会場であるサントリーミュージアム[天保山]も安藤忠雄の設計である。
六甲山に登ったとき、芦屋川駅の近くに印象的な集合住宅があったが、あれも安藤忠雄の設計。

大阪府立近つ飛鳥博物館
これもそうだ。

司馬遼太郎記念館もそうだ。

水をテーマとした建築の模型や写真が並ぶ。
水がある風景というのは、なぜだか落ち着く。

中之島プロジェクトの巨大な模型もあった。
図屏風などを見ながら、自分が知っている場所の過去の姿と現在の姿とを比べるのは心躍るひとときだが、現在の姿と未来の姿を重ねてみるのもなかなか楽しい。

【京都】 ルーヴル美術館展 ― 17世紀ヨーロッパ絵画 ― (京都市美術館)

2009年07月12日 21時00分00秒 | 美術館・博物館・記念館・資料館
本日の行程:(京都市地下鉄・東山駅) → 【ルーヴル美術館展 ― 17世紀ヨーロッパ絵画 ―(京都市美術館)】【無声時代ソビエト映画ポスター展(京都国立近代美術館)】 → (京都市地下鉄・東山駅~三条京阪駅…京阪・三条~渡辺橋) → 【ルーヴル美術館展 美の宮殿の子どもたち(国立国際美術館)】


朝9時の開館時刻に合わせて、美術館に到着。
混むといやだから。
でも、もうすでに混雑していた。
それもそのはず。
揃いも揃って、こんな名画が! と感動するほどのラインナップ。
チラシにもなっているフェルメールの『レースを編む女』は、24×21センチの小さな作品。
「画面左手前の赤と白の糸はまるで、カンヴァスの上にたらされた絵具そのものとして描かれて」いると解説にあったが、間近で見ると、それが実に生々しい。


ジョルジュ・ド・ラ・トゥール『大工ヨセフ』
一番魅了されたのは、この作品。
幼子イエスの持つ蝋燭の灯りに照らされて、透けているようにも見える左手に目がいく。
イエスの膝小僧の感じ、ヨセフの眼も印象的だ。


ル・ナン兄弟『農民の家族』
これもよかったし、ほかには、グェルチーノ『ペテロの涙』も心に残る作品だった。


今日の歩数:11,342歩