2月11日(水)
当日の行程:(京都バス・大原) → 【初午大根焚き(三千院)】 → (京都バス・大原~高野車庫…京都市バス〔206〕・高野橋東詰~東山七条) → 【京都御所ゆかりの至宝(京都国立博物館)】 → 【智積院】 → (京都市バス〔206〕・東山七条~東山三条…京都市地下鉄・東山~二条城前) → 【神泉苑】 → 【二條陣屋】 → (京都市地下鉄・二条城前~丸太町) → 【京都御苑 ① ② 】
【橋本家跡】
「一八四六(弘化三)年、孝明天皇の妹和宮親子親王誕生の地といわれています。和宮は、橋本実久の娘典侍の経子(つねこ)を母として生まれ、十四年間この橋本家で養育されました。公武合体政策を進めるため、当初の有栖川宮熾仁(たるひと)親王との婚約は破棄され、十四代将軍徳川家茂へ嫁ぐこととなりました。明治維新後、和宮は徳川慶喜の助命にも尽力しました。一八七七(明治十)年、療養先の箱根で没し、増上寺の徳川家茂の墓に並んで葬られました。」(案内板より)
【学習院跡】
「一七七九(安永八)年、閑院宮家出身で皇位を継いだ光格天皇は、学問を大切にし、公家の教育振興に取り組みました。次の仁孝天皇在位中の一八四二(天保十三)年、幕府により御所建春門外に学習所の創設が認められ、孝明天皇在位中の一八四七(弘化四)年に開講しました。公家をはじめ、御所に勤める役人たちとその子弟に国学や歴史等を教えることとし、『学習院』と呼ばれました。」(案内板より)
【土御門第跡】
「平安時代中期に摂政・太政大臣となった藤原道長の邸宅跡で、拡充され南北二町に及び、上東門第、京極第などとも呼ばれました。道長の長女彰子が一条天皇のお后となり、里内裏である当邸で、後の後一条天皇や後朱雀天皇になる皇子達も、誕生しました。『この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば』の歌は、この邸で催された宴席で詠まれたといいます。」(案内板より)
【有栖川宮邸跡】
【建礼門】
御所の建礼門。
京都御所参観の記録はこちら。
【凝華洞跡】
「江戸時代第一一一代後西天皇退位後の仙洞御所があったところといわれています。一八六四(元治元)年禁門の変の頃、京都守護職に任じられていた会津藩主松平容保は病を患い、朝廷の配慮もありここを仮本陣にしました。丘の上の松の横には東本願寺が寄進した灯籠が建ち南には池がありました。その後、明治の大内保存事業等で池は埋められ、灯籠は九条池畔に移され、戦時中の金属供出により今は台座だけが残っています。」(案内板より)
【大宮御所正門と仙洞御所表門】
奥に小さく見えるのが大宮御所正門で、手前にあるのが仙洞御所表門。
大宮御所と仙洞御所の参観の記録はこちら。
【桜町】
「紀貫之の邸宅で、桜が多く植えられていた名庭があったという桜町の屋敷はこのあたりにあったと考えられています。源氏物語に描かれた末摘花の邸宅、桐壺帝の麗景殿女御とその妹花散里の暮らしていた中川邸、源氏が空蝉と出会った紀伊守中川家も、この近くに想定されたようです。」(案内板より)
【博覧会場跡】
「東京遷都後京都が寂れるのを心配した京都府関係者らは、一八七一(明治四)年、日本最初の博覧会を西本願寺で開き、伝統産業品を網羅して展示、京都の殖産興業を図りました。第二回~九回までは仙洞御所内で開催されましたが、一八八一(明治十四)年の第十回から、この地に建設された常設会場で行われました。その東南部には京都画学校(今の市立芸術大学)がありました。一九一四(大正三)年以降は岡崎の京都市勧業館が会場になりました。」(案内板より)
【鷹司邸跡】
「鎌倉時代中頃、近衛家からわかれた五摂家の一つです。江戸時代中期には閑院宮家の皇子淳宮が鷹司家を継ぎました。孫の政通は幕末期三〇年以上も関白を務め、九條尚忠(ひさただ)へ譲った後も、内覧、太閤として朝廷で重要な役割を担いました。政通夫人は水戸藩主徳川斉昭の姉で、外国情報を早く知り得たといいます。一八六四(元治元)年の禁門の変では、長州藩士が邸内に入り、屋敷に放たれた火は、長州藩邸の火などとともにどんどん焼けと称する京都大火につながりました。」(案内板より)
【堺町御門】
「一八六三(文久三)年八月一八日、朝廷内の孝明天皇、中川宮、公武合体派の公家、会津・薩摩藩らは、三条実美ら激派の公卿七人と尊王攘夷派の中心である長州藩を京都から追放する政変を起こしました。堺町御門警備担当の長州藩が御門に終結した時、門は会津・薩摩藩兵で固められ、門内に入ることは許されませんでした。政変の結果、長州藩兵は京都から追放され、激派の公卿七人も長州に逃げ落ち、京都では一時的に公武合体体制が成立しました。」(案内板より)
【九條邸跡】
「九條家は、五摂家の一つで、平安後期以降多くの人が朝廷の重要職である摂政や関白につきました。その娘の多くも天皇妃となり、大正天皇の皇后節子(さだこ)もその一人です。江戸末期、米総領事ハリスの通商条約締結要請に対し徳川幕府は了解する考えでしたが、朝廷側の孝明天皇は反対でした。折しも京都市内では、幕府と朝廷との様々な交渉が行われ、時の関白九條尚忠の邸もその舞台の一つとなりました。広大だった屋敷も、今では池の畔の茶室の拾翠亭(しゅうすいてい)と、九條邸の鎮守だった厳島神社が中島に残るばかりです。」(案内板より)
厳島神社
拾翠亭
当日の行程:(京都バス・大原) → 【初午大根焚き(三千院)】 → (京都バス・大原~高野車庫…京都市バス〔206〕・高野橋東詰~東山七条) → 【京都御所ゆかりの至宝(京都国立博物館)】 → 【智積院】 → (京都市バス〔206〕・東山七条~東山三条…京都市地下鉄・東山~二条城前) → 【神泉苑】 → 【二條陣屋】 → (京都市地下鉄・二条城前~丸太町) → 【京都御苑 ① ② 】
【橋本家跡】
「一八四六(弘化三)年、孝明天皇の妹和宮親子親王誕生の地といわれています。和宮は、橋本実久の娘典侍の経子(つねこ)を母として生まれ、十四年間この橋本家で養育されました。公武合体政策を進めるため、当初の有栖川宮熾仁(たるひと)親王との婚約は破棄され、十四代将軍徳川家茂へ嫁ぐこととなりました。明治維新後、和宮は徳川慶喜の助命にも尽力しました。一八七七(明治十)年、療養先の箱根で没し、増上寺の徳川家茂の墓に並んで葬られました。」(案内板より)
【学習院跡】
「一七七九(安永八)年、閑院宮家出身で皇位を継いだ光格天皇は、学問を大切にし、公家の教育振興に取り組みました。次の仁孝天皇在位中の一八四二(天保十三)年、幕府により御所建春門外に学習所の創設が認められ、孝明天皇在位中の一八四七(弘化四)年に開講しました。公家をはじめ、御所に勤める役人たちとその子弟に国学や歴史等を教えることとし、『学習院』と呼ばれました。」(案内板より)
【土御門第跡】
「平安時代中期に摂政・太政大臣となった藤原道長の邸宅跡で、拡充され南北二町に及び、上東門第、京極第などとも呼ばれました。道長の長女彰子が一条天皇のお后となり、里内裏である当邸で、後の後一条天皇や後朱雀天皇になる皇子達も、誕生しました。『この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば』の歌は、この邸で催された宴席で詠まれたといいます。」(案内板より)
【有栖川宮邸跡】
【建礼門】
御所の建礼門。
京都御所参観の記録はこちら。
【凝華洞跡】
「江戸時代第一一一代後西天皇退位後の仙洞御所があったところといわれています。一八六四(元治元)年禁門の変の頃、京都守護職に任じられていた会津藩主松平容保は病を患い、朝廷の配慮もありここを仮本陣にしました。丘の上の松の横には東本願寺が寄進した灯籠が建ち南には池がありました。その後、明治の大内保存事業等で池は埋められ、灯籠は九条池畔に移され、戦時中の金属供出により今は台座だけが残っています。」(案内板より)
【大宮御所正門と仙洞御所表門】
奥に小さく見えるのが大宮御所正門で、手前にあるのが仙洞御所表門。
大宮御所と仙洞御所の参観の記録はこちら。
【桜町】
「紀貫之の邸宅で、桜が多く植えられていた名庭があったという桜町の屋敷はこのあたりにあったと考えられています。源氏物語に描かれた末摘花の邸宅、桐壺帝の麗景殿女御とその妹花散里の暮らしていた中川邸、源氏が空蝉と出会った紀伊守中川家も、この近くに想定されたようです。」(案内板より)
【博覧会場跡】
「東京遷都後京都が寂れるのを心配した京都府関係者らは、一八七一(明治四)年、日本最初の博覧会を西本願寺で開き、伝統産業品を網羅して展示、京都の殖産興業を図りました。第二回~九回までは仙洞御所内で開催されましたが、一八八一(明治十四)年の第十回から、この地に建設された常設会場で行われました。その東南部には京都画学校(今の市立芸術大学)がありました。一九一四(大正三)年以降は岡崎の京都市勧業館が会場になりました。」(案内板より)
【鷹司邸跡】
「鎌倉時代中頃、近衛家からわかれた五摂家の一つです。江戸時代中期には閑院宮家の皇子淳宮が鷹司家を継ぎました。孫の政通は幕末期三〇年以上も関白を務め、九條尚忠(ひさただ)へ譲った後も、内覧、太閤として朝廷で重要な役割を担いました。政通夫人は水戸藩主徳川斉昭の姉で、外国情報を早く知り得たといいます。一八六四(元治元)年の禁門の変では、長州藩士が邸内に入り、屋敷に放たれた火は、長州藩邸の火などとともにどんどん焼けと称する京都大火につながりました。」(案内板より)
【堺町御門】
「一八六三(文久三)年八月一八日、朝廷内の孝明天皇、中川宮、公武合体派の公家、会津・薩摩藩らは、三条実美ら激派の公卿七人と尊王攘夷派の中心である長州藩を京都から追放する政変を起こしました。堺町御門警備担当の長州藩が御門に終結した時、門は会津・薩摩藩兵で固められ、門内に入ることは許されませんでした。政変の結果、長州藩兵は京都から追放され、激派の公卿七人も長州に逃げ落ち、京都では一時的に公武合体体制が成立しました。」(案内板より)
【九條邸跡】
「九條家は、五摂家の一つで、平安後期以降多くの人が朝廷の重要職である摂政や関白につきました。その娘の多くも天皇妃となり、大正天皇の皇后節子(さだこ)もその一人です。江戸末期、米総領事ハリスの通商条約締結要請に対し徳川幕府は了解する考えでしたが、朝廷側の孝明天皇は反対でした。折しも京都市内では、幕府と朝廷との様々な交渉が行われ、時の関白九條尚忠の邸もその舞台の一つとなりました。広大だった屋敷も、今では池の畔の茶室の拾翠亭(しゅうすいてい)と、九條邸の鎮守だった厳島神社が中島に残るばかりです。」(案内板より)
厳島神社
拾翠亭