大倉草紙

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【京都】 京都御苑 ①

2009年07月17日 21時00分00秒 | 旅 - 京都府
2月11日(水)
当日の行程:(京都バス・大原) → 【初午大根焚き(三千院)】 → (京都バス・大原~高野車庫…京都市バス〔206〕・高野橋東詰~東山七条) → 【京都御所ゆかりの至宝(京都国立博物館)】【智積院】 → (京都市バス〔206〕・東山七条~東山三条…京都市地下鉄・東山~二条城前) → 【神泉苑】【二條陣屋】 → (京都市地下鉄・二条城前~丸太町) → 【京都御苑 ①


京都御苑を散策する。
日が暮れ始めていたし、雨脚が強くなってきたいたので、急ぎ足で。

【閑院宮邸跡】

まずは、参観受付が午後4時までの閑院宮邸跡へ。


「閑院宮家は江戸時代の四親王家の一つで、最も新しく一七一〇(宝永七)年に創設されました。第一一八代後桃園天皇が一七七九(安永八)年に急逝したため、九才で閑院宮家出身で皇統を継いだのが光格天皇です。邸宅は宮家が東京に移った一八七七(明治十)年以降、華族会館や裁判所等に使用され、一八八三(明治十六)年、宮内省京都支庁が設けられ、屋敷も建て替えられたといわれています。」(案内より)


庭園
当初の庭園は、18世紀中頃に作庭されたらしい。
現在の庭は、作庭当時の遺構の上に州浜を設けて復元している。


【出水の小川】

「最近まで御所には防火等のための『御所水道』が引かれていました。明治に開かれた琵琶湖疎水を三条蹴上で分水した専用水路です。一九八一(昭和五六)年、そのうち御所周りの流路『御溝水(みかわみず)』から導水して作ったのが『出水の小川』です。長さ約一一〇メートル深さ約二〇センチ。川底は苑路と同じ琵琶湖安曇川(あどがわ)産の石を敷いています。一九九二(平成四)年の御所水道閉鎖により今は井戸からの地下水を循環濾過して流れを維持しています。」(案内板より)


【賀陽宮邸跡(かやのみやていあと)】

「烏丸通りからこのあたり一帯にかけて伏見宮邦家親王第四王子朝彦親王の屋敷がありました。朝彦親王は青蓮院門跡・天台座主をつとめましたが、孝明天皇の信任が厚く、還俗し中川宮と称して天皇を助けました。その後邸宅の庭にあった榧(かや)の巨木にちなみ賀陽宮と称しました。その公武合体政策は尊王攘夷派からは敵視され、明治維新後は広島に移されました。貽範碑(いはんひ)建設に名を連ねる梨本宮守正王は朝彦親王の第四王子です。」(案内板より)


【白雲神社】

元仁元年(1224)、西園寺公経(藤原公経)が現在の金閣寺がある場所に建てた妙音堂がはじまり。明和6年(1769)、鎮守社として西園寺家の邸内に移築される。
明治11年(1878)、神仏混淆の作法を神式に改め、社号は白雲神社となった。


社殿


白雲神社の御朱印


【西園寺邸跡】

「西園寺家は琵琶の宗家でもあり、鎌倉時代の公卿西園寺公経が今の金閣寺の地に別荘北山堂を造った際、妙音天あるいは妙音弁財天といわれる音楽神を祀る妙音堂を建てられたといわれています。この地へは一七六九(明和六)年に移されたといわれ、明治になり西園寺家が東京へ移った後は、一八七八(明治十一)年、以前の神仏混淆の作法を改め、地名の白雲村に因み、白雲神社となりました。旧邸内は、西園寺公望が、私塾『立命館』を創設した地でもあります。」(案内板より)


【枇杷殿跡(びわどのあと)】

「このあたりにあったといわれ、平安時代前期、藤原基経から三男仲平に伝えられ、敷地内には宝物を満たした蔵が並んでいたといいます。一〇〇二(長保四)年以降、藤原道長と二女妍子(けんし)の里邸として整備され、御所の内裏炎上の折は里内裏ともなり、一〇〇九(寛弘六)年には一条天皇が遷り、紫式部や清少納言が文才を競ったといわれます。一〇一四(長和三)年、再び内裏が炎上し、その後、三条天皇はこの邸で後一条天皇に譲位したといいます。」(案内板より)


【清水谷家の椋】

「この大きなムクの木は、このあたりが清水谷家という公家の屋敷であったことから『清水谷家の椋』と呼ばれています。樹齢は約三百年といわれ、苑内でも数少ないムクの大木です。
 一八六四(元治元)年の禁門の変の時、長州藩士で遊撃隊(長州尊王攘夷激派の一つ)の総督だった来島又兵衛がこの木の付近で討死したとも伝えられています。」(案内板より)


【蛤御門】

「江戸時代末期の一八六四(元治元)年、この門の周辺で長州藩と、御所の護衛に当たっていた会津・薩摩・桑名藩との間で激戦が行われました。この戦いが『禁門の変(蛤御門の変)』で、門の梁にはその時の鉄砲の弾傷らしき跡が残っています。この門は新在家門といわれていましたが、江戸時代の大火で、それまで閉ざされていた門が初めて開かれたため、『焼けて口開く蛤』にたとえて、蛤御門と呼ばれるようになったといわれています。」(案内板より)


門に残る弾痕


【縣井(あがたい)】

「昔この井戸のそばに縣宮という社があり、地方官吏として出世を願う者は、井戸の水で身を清めて祈願し、宮中にのぼったといいます。この付近は江戸時代まで五摂家の一つ一條家の屋敷地内となっており、井戸水は、明治天皇の皇后となった一條美子(はるこ)のうぶ湯に用いられたともいわれています。大和物語では病気を治す水とも紹介され、井戸と辺りの山吹の風情は、後鳥羽院などの歌にも詠まれました。」(案内板より)


一條邸跡


【近衛邸跡】

「このあたりが近衛家の屋敷のあったところです。近衛家は、五摂家の一つで、江戸時代末までに多くの人が摂政や関白になっています。かつては、この庭園の池の西側に大きな屋敷があり、御所炎上の際には仮の皇居にもなりました。池のほとりは、昔から糸桜の名所で、孝明天皇も次の歌を詠まれています。『昔より名にはきけども今日みればむへめかれせぬ糸さくらかな』」(案内板より)


近衛池


【桂宮邸跡】

現在は、宮内庁職員の宿舎として使われていて、一般の人の出入りはできない。


【冷泉家】

今出川御門から外へ出てみる。
今出川通りを渡ると、冷泉家がある。
現在もこちらにお住まい。
裏手には、同志社大学が建っている。
再び御苑内へ。


【猿ヶ辻】


木彫りの猿
「御所の築地塀が折曲った部分の屋根裏に、一匹の木彫りの猿が見られます。烏帽子をかぶり御幣をかついだこの猿は、御所の鬼門を守る日吉山王(ひえさんのう)神社の使者ですが、夜になると付近をうろつき、いたずらをしたため、金網を張って閉じ込められたといわれています。開国派とその反対派がせめぎあう幕末さなかの一八六三(文久三)年五月、公家で攘夷派の急先鋒の一人であった姉小路公知がこの付近で殺されたと伝えられています(猿ヶ辻の変)。」(案内板より)


【中山邸跡】

「幕末期の公家権大納言中山忠能(ただやす)の邸跡で、その娘権典侍慶子(ごんのてんじよしこ)を母として一八五二(嘉永五)年、祐宮(さちのみや・後の明治天皇)が誕生しました。敷地内にはそのうぶ屋が遺っています。祐宮はここで四年間養育されたといわれています。敷地内の井戸は、祐宮二才の夏、干天で井戸が枯れたため、新たに掘られたものといい、その名に因んで祐井(さちのい)と名づけられたといいます。」(案内板より)


邸内


【京都迎賓館】

見学は、定められた期間内のみ。
往復はがきで参観申込みをする。
先日はがきを出したけれど、1日あたりの参観人数が決まっているので、果たして観ることができるかどうか?
入ってみたいなあ。

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