大倉草紙

旅の記録 食の記録 日々の記録

【大阪】 桜井駅跡(楠木正成伝説地)

2008年10月10日 18時34分16秒 | 旅 - 大阪府
6月28日(土)
当日の行程:(車) → 【石清水八幡宮】【淀城跡】 → 【與杼神社】【天王山】…(宝積寺)…(自玉手祭来酒解神社)…(大山崎町歴史資料館)【勝竜寺城公園】【長岡天満宮】【光明寺】【大原野神社】【勝持寺】【願徳寺】【善峯寺】【長岡宮跡】【桜井駅跡(楠木正成伝説地)】


   
      JR島本駅              史跡桜井駅跡の石碑
     
桜井駅跡は、現在のJR京都線・島本駅の駅前ロータリー脇の公園にある。
島本駅は、今年の3月に開業したばかり。

公園には、桜井駅跡の案内板がある。
以下の引用は、その案内版から。
「国史跡 桜井駅跡
  (楠正成伝説地)
所 在 地  大阪府三島郡島本町桜井一丁目
指定年月日  大正十年三月三日
指定面積   三九七二平方メートル

 奈良時代のはじめ、平城京と各地を結ぶ交通路を整備するために駅家が新設された。そのうち、京から西国へ向かう道筋に設置された駅家の一つに『摂津国嶋上群大原駅』が、続日本紀に記されている。これが桜井駅を指すものと考えられている。
 駅(駅家)とは、大化改新以降、幹線道路に三千里(約十六キロメートル)ごとに設けられたもので、馬など旅に必要なものを備えた施設である。
 京と山陽道ををつなぐ道は西国街道と呼ばれ、古来栄えた道筋であるが、桜井駅の実態についてはよく分かっていない。しかし、延元元年(一三三六)足利尊氏の大軍を迎え撃つために京を発った楠木正成が、桜井駅で長子の正行に遺訓を残して河内へと引き返らせたことが太平記に記されている。このため桜井駅は『父子決別の場』として広く知られるようになった。
 平成六年三月三一日 
 文化庁
 大阪府教育委員会」


          
            楠木正成・正行父子の像

「滅私奉公」は近衛文麿の揮毫。


   

「謡曲『楠露(くすのつゆ)』は楠正成・正行父子の別れを描いた曲で、別れの場が島本町桜井である。太平記巻十六『正成兵庫に下向の事』には、『足利尊氏との戦いに死を覚悟していた正成は、桜井駅に正行を呼び寄せ、今後の生き方の教訓を与えた後、生き別れの宴を催し、その宴も終り、正行は泣き泣き河内の国へ帰った』とある。
 今も謡われている楠父子に関する曲には、『楠露』の他に『桜井』・『桜井駅』などがある。
 『楠露』という題は松尾芭蕉が楠父子の別れをうたった俳句『なでし子にかかる涙や楠の露』から引用したといわれている。」


   
 「楠公父子訣別之所」の石碑       「明治天皇御製」の石碑

「楠公父子訣別之所」の石碑は、明治45年(1912)建立。
揮毫は乃木希典による。

「明治天皇御製」の石碑は、昭和6年(1931)建立。
明治天皇の「子わかれの 松のしずくの 袖ぬれて 昔をしのぶ さくらいのさと」の歌を東郷平八郎大将が揮毫したものが刻まれている。
石碑の裏面には、頼山陽の漢詩「過桜井駅址詩(さくらいえきあとをすぐ)」が彫られている。


          
                 旗立松

楠木正成が旗を立てかけたと伝わる「旗立松」。


   
          菊水紋が付いた門の中にある石碑


つい最近、吉川英治の「私本太平記」を読み終えた。
訪れたことのある場所が出てくると、おもしろみも増す。
また逆に、かつて読んだ本に出てきた場所を訪れると、あそこで語られていたのはここだったんだ、と感慨深い。