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メモ2019.12.13 ―自己表出と指示表出へ ④ 疑問点を挙げる

2019年12月14日 | メモ
 メモ2019.12.13 ―自己表出と指示表出へ ④ 疑問点を挙げる


 さて、言葉もまた分かち難い総体性だとしても、分析的に見れば、言葉は自己表出性と指示表出性の織り成されたものと見なせる。これは現在までのところ、最良の捉え方だと思う。経験の集積から論理へという吉本さんの実験化学者らしい本領が発揮されている。その言葉というものを話す(書く)主体はわたしたち人間であり、その人間の有り様や人間自体の見方は前回「人間の等価性」というテーマで見てきた。今回は、そこから人間の話す(書く)言葉の世界に下ってみる。

 吉本さんが『言葉からの触手』の「7 超概念 視線 像」で、「そこで『海辺の草花』の『概念』として、最終的にえられる像(イメージ)は〈海辺の草花の客観的に視られた生命の線条が、無数回折り畳まれたもの〉ということになる。」という実験化学者らしい理解の仕方をしている。それを借りて、言葉を自己表出性と指示表出性という分離された抽象度の場で考えて、言葉は、自己表出性の無数の微小糸と指示表出性の無数の微小糸が互いに瞬時に織り成されて表現されるものと見なすことにする。これは、言葉の自己表出性と指示表出性は、起源的に見ても途方もない時間を経た後の、同時的に互いに張り付いた、あるいは瞬時に織り合わされる状態が実際だったかもしれないが、分離して抽象度として考えるとそう見えるということである。「言語論要綱」(2006年)では、言葉の自己表出を主観的な表現に、指示表出を客観的な表現に置き換えてわかりやすく説明されている。なぜそのように分離して捉えるかは、わたしたちが現在までのところ言葉を一挙に総体として捉える術を知らないからと言うほかない。

 この文章は、吉本さんの『定本 言語にとって美とはなにか』のP61にある自己表出性と指示表出性による品詞図(第4図)やその後の少し修正された品詞図を見ていて疑問に思い、考えを巡らせたことをきっかけにしている。今は、その疑問に十分に答えられそうにないから、その疑問に感じたことや問題点を挙げ、それに対応する吉本さんの文章を検討してみることにする。今回は、その疑問点を挙げてみる。すぐに判断できる疑問についてはわたしの解も付す。(品詞図などの図表は、この文章の最後に挙げている)


1.
 『定本 言語にとって美とはなにか』の第3図(P47)によると、言葉の自己表出性と指示表出性は、時代とともに増大する。ということは、前回見たように人間の総体性から見たら過去の人々と現在の人々は人間的には等価だとしても、時代差によって言葉の自己表出性と指示表出性の水準の差が出てくることになるか。

 これは吉本さんの把握した第3図を認める限りは、差が出てくることになると思う。ここで簡略化のために、言葉の自己表出性を[J]、指示表出性を[S]と置くと、言葉に内在するそれぞれの度合いの総和[J]+[S]は、時代とともに増大していくことになる。
 しかし、現在の「人間」につながる、言葉を持った「人間」の成立と見なせる超太古の時期と、現在から遙か超未来の「人間」の時期は、その有り様を想像することは難しい。だとしても、[J]と[S]は、言葉を持った「人間」の成立と見なせる超太古の時期については、『言語にとって美とはなにか』で起源論として触れられている。つまり、言葉の問題として包括されている。とするならば、人類が生き残っているとして超未来には現在のような言葉とは違った言葉のようなものになってしまったとしても、[J][S]の捉え方は、その起源と相対(あいたい)する超未来までは行けそうな気がする。
 さらにそこから下って、言葉を持った「人間」の成立と見なせる超太古の時期から遙かに生命体の段階にまで下って言った場合の超超太古の時期と、それと対応する超超未来の時期については、現在のところ皆目わからないとしか言いようがない。それでも、自己表出性と指示表出性のそれぞれ"前世"や"来世"の段階として想定しイメージすることが可能のような気がする。

 さらに、吉本さんはフロイトの考えを受けて、大雑把に言えば人類史と個の生涯の歴史を対応させて考えることができそうに思うと述べている。(註.1)それを認めるならば、時代差によって言葉の自己表出性と指示表出性の度合いの差が出てくるのと対応して、個の生涯における時代差、すなわち言葉をやっとしゃべりだした幼年であるとか青年、大人、老年などによって、表現された言葉の自己表出性と指示表出性の水準の差が出て来ることになる。


2.
 では、同時代の、同じこの列島社会で、同じ言葉(思考の単純化のために、まずは、短い単語や熟語レベルで考えて)を話した(書いた)として、

①子ども同士とか大人同士とか、ほぼ同年代の者の場合、それぞれの言葉の自己表出性と指示表出性の度合いは同じか。(言葉に内在するそれぞれの度合いの総和[J]+[S]は一定か)

②同じ人が、同じ言葉を、それぞれ違った日や違った場所で、話した(書いた)場合には、言葉の自己表出性と指示表出性の度合いは同じか。(言葉に内在するそれぞれの度合いの総和[J]+[S]は一定かどうか)

③子どもも大人も皆同じ言葉の自己表出性と指示表出性の度合いを持つのか。(言葉に内在するそれぞれの度合いの総和[J]+[S]は一定かどうか)

 これは、1.の人類史と個の生涯の歴史を対応させて考えることは可能として受け入れるなら、同じ言葉であっても子どもと大人の表現する言葉の自己表出性と指示表出性の度合い、あるいは水準には差があることになる。

④大きい声やゴチック表記に限らず、強調表現というものがあるが、それによって同じ言葉の自己表出性と指示表出性の度合いは変化を受けないのか。

 これは、言葉の表現が自己表出性と指示表出性の織り成しとしてある以上、強調表現によっていずれか、あるいは両方とも、強化されたり励起されたりするだろう。それは、その言葉の時代的な自己表出と指示表出の水準の限界を突き抜けようとする欲求の無意識的な表れと言えるかもしれない。古代に係り結びという強意表現があったが、今ではその強意の感触はよくわからなくなってしまっている。しかし、当時においては、言葉の時代的な自己表出と指示表出の水準の限界を突き抜けようとする欲求の表れのひとつだったのかもしれない。

⑤同じ言葉でも、話し言葉の場合と書き言葉の場合では、言葉の自己表出性と指示表出性の度合いに違いはないのか。


3.
同時代の、同じこの列島社会で、ある人が、異なる言葉(まずは、短い単語や熟語レベルで考えて)を話した(書いた)として、
①同じ品詞の「山」と「海」では、それぞれの言葉の自己表出性と指示表出性の度合いに違いはないのか。(それぞれの言葉に内在するその総和[J]+[S]は一定かどうか)

②異なる品詞の「愛」と「走る」では、それぞれの言葉の自己表出性と指示表出性の度合いに違いはないのか。(それぞれの言葉に内在するその総和[J]+[S]は一定かどうか)


4.
次に、同時代であっても、地域固有の歴史性を持つ世界の各地域の言葉にも、地域差を超えて上記の2.と3.は同様に言えるのか。


 最後に、以上のような疑問を感じたきっかけとなった吉本さんの『言語にとって美とはなにか』に始まる品詞図等を挙げておく。このような疑問は、現在的に解が出る場合もあれば、現在のところそこまでは明らかにならないとかそこはいい加減でもいいということもあるかもしれない。一方、そんな一見ささいに見えることを明らかにすることが現在までの人間認識の拡張に当たるということもあるかもしれないと思う。


 (疑問点などのメモ)

1.『言語にとって美とはなにか』の第4図(1965年)は、単位円(の 1/4円)上の点に各品詞が取られているように見える。

2.その単位円の右側の円周上から各品詞に延びている線分の意味がわからない。

3.その下の品詞図(2005年)では、上の第4図(1965年)とは違っている点が出ている。まず単位円(の 1/4円)の円周の曲線が消され、さらに各品詞は点上にはなく(領域)とあるように幅を持たせてある。

4.最後の品詞図(2006年)では、塗りつぶしを別にすれば、品詞図(2005年)とほとんど同じであるが、単位円(の 1/4円)になっていない。同じ半径にはなっていない。この図が収められている『言語論要綱―芸としての言語』には他にも図があるから、吉本さんが直接描いたものが基になっていそうに思えるが、晩年の吉本さんはとても眼が悪かったというから、単位円(の 1/4円)をゆがめたような図は吉本さんの指定通りなのかどうか、吉本さんがチェックした図なのかどうかよくわからない。

 5.品詞図(2005年)と品詞図(2006年)では、なぜか「動詞」の位置が下の方から上の方に移動させてある。


『定本 言語にとって美とはなにか』P47 第3図



『定本 言語にとって美とはなにか』P61 第4図 1965年


『中学生のための社会科』P55 2005年



 『言語論要綱―芸としての言語』図1 2006年 SUMMER
(「SIGHT」VOL28 rockin'on)


(註.1)

 もうひとつの欲求につなげるためにいうと、言葉と、原宗教的な観念の働きと、その総体的な環境ともいえる共同の幻想とを、別々にわけて考察した以前のじぶんの系列を、どこかでひとつに結びつけて考察したいとかんがえていた。どんな方法を具体的に展開したらいいのか皆目わからなかったが、いちばん安易な方法は、人間の個体の心身が成長してゆく過程と、人間の歴史的な幻想の共同性が展開していく過程のあいだに、ある種の対応を仮定することだ。わたしは何度も頭のなかで(だけだが)この遣り方を使って、じぶんなりに暗示をつくりだした。
 (『母型論』の「序」、学習研究社 1995年11月)


「いちばん安易な方法は」とあるから、吉本さんはまだ何らかの留保をしてこの考え方を採用しているものと思われる。


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