岩手県西磐井郡平泉町平泉字衣関にある中尊寺です。
中尊寺は嘉祥3年(850)に慈覚大師が開創した天台宗の名刹で、天台宗東北大本山です。建立時は関山弘台寿院といいましたが、貞観元年(855)清和天皇より中尊寺の号を賜りました。
長治2年(1105)堀川天皇の勅により、藤原氏の初代清衡が堂宇の再建に着手しました。21年の歳月をかけ天治3年(1126)堂塔40、僧坊300を越える大寺院を完成しました。
隆盛を極めた中尊寺でしたが、藤原氏が滅亡後はすっかり衰え、建武4年(1337)の野火火災で山内のほとんどが焼け、金色堂と経蔵の一部を残すのみとなってしまいました。
その後、伊達家累代の保護などにより復興を果たし、現在に至っています。金色堂はじめ讚衡蔵には3000余点の国宝・重要文化財を伝えています。東日本随一の平安美術の宝庫になっています。
藤原清衡は、前九年の合戦によって父を失い、後三年の合戦によって妻子を失うという波乱の半生でした。
戦争で命を失った敵・味方の人々、さらに動物から草木に至るまで等しく供養し、戦争のない平和な社会をつくりたい、という願いをこめて中尊寺を建立したのです。
初代藤原清衡の父親は、「前九年の役」で滅亡した妻の実家である安倍氏に味方したため処刑されました。そして清衡自身も刑死の運命にあったのです。
母親が、「前九年の役」で功労のあった清原氏へ嫁ぐことによって清衡の命は助かりました。永保3年から寛治元年(1083~87)に清原氏同士の抗争である後三年合戦がありました。
頼義の子である源義家も加わった複雑な戦でした。最後の勝利したのは清衡と義家でした。清原の勢威を背負い、旧藤原・安倍の郎党をも引き入れ、藤原四代の基礎が築かれたのです。
下記のサイトにもお立ち寄りください!
http://ogino.okoshi-yasu.com/

中尊寺は嘉祥3年(850)に慈覚大師が開創した天台宗の名刹で、天台宗東北大本山です。建立時は関山弘台寿院といいましたが、貞観元年(855)清和天皇より中尊寺の号を賜りました。
長治2年(1105)堀川天皇の勅により、藤原氏の初代清衡が堂宇の再建に着手しました。21年の歳月をかけ天治3年(1126)堂塔40、僧坊300を越える大寺院を完成しました。
隆盛を極めた中尊寺でしたが、藤原氏が滅亡後はすっかり衰え、建武4年(1337)の野火火災で山内のほとんどが焼け、金色堂と経蔵の一部を残すのみとなってしまいました。
その後、伊達家累代の保護などにより復興を果たし、現在に至っています。金色堂はじめ讚衡蔵には3000余点の国宝・重要文化財を伝えています。東日本随一の平安美術の宝庫になっています。
藤原清衡は、前九年の合戦によって父を失い、後三年の合戦によって妻子を失うという波乱の半生でした。
戦争で命を失った敵・味方の人々、さらに動物から草木に至るまで等しく供養し、戦争のない平和な社会をつくりたい、という願いをこめて中尊寺を建立したのです。
初代藤原清衡の父親は、「前九年の役」で滅亡した妻の実家である安倍氏に味方したため処刑されました。そして清衡自身も刑死の運命にあったのです。
母親が、「前九年の役」で功労のあった清原氏へ嫁ぐことによって清衡の命は助かりました。永保3年から寛治元年(1083~87)に清原氏同士の抗争である後三年合戦がありました。
頼義の子である源義家も加わった複雑な戦でした。最後の勝利したのは清衡と義家でした。清原の勢威を背負い、旧藤原・安倍の郎党をも引き入れ、藤原四代の基礎が築かれたのです。
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