旅と歴史

全国各地の史跡を取り上げて紹介しています。

横山家住宅

2012年07月31日 | 旅 歴史
 北海道檜山郡江差町字姥神町にある横山家住宅の案内です。
 姥神大神宮のすぐ前に大きな建物があります。江差を代表するニシン網元建築の横山家住宅です。「江差の春は江戸にもない」といわれるほど栄えた当時をうかがい知れます。
 母屋や四番倉の土蔵には当時使用された生活用具などが陳列されています。現在も住まいとして使われています。この屋敷と生活用具を含め「北海道」の文化財にも指定されています。

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姥神大神宮

2012年07月30日 | 旅 歴史
 北海道檜山郡江差町姥神町にある姥神大神宮です。
 文安4年(1447)に江差町の津花地区に建造され、正保元年(1644)に現在地に移築された道内最古の神社です。折居姥(おりいうば)が神の教示によりニシン漁をもたらし、北海道の漁業と開拓の基を築いたことから、今も多くの信仰を集めています。
 蝦夷地といわれていた頃、折居姥が住んでいて、天変地異を未然に察知したので人々から折居様と崇め奉られていたそうです。ある夜、折居姥が神島(鴎島)より、虹の様な光が老姥草庵を照らすので、不思議に思い行ってみました。
 そこには白髪の翁が岩の上に座っていました。瓶子を授けて、「このつぼの水を海中に点すれば、鯡(にしん)と言う魚が群来する。これを島人の衣食住の資とし、吾と汝と共に永く島人を譲らん」と告げ焚火の光と共に消えたそうです。
 折居姥は、教えられた如く網を造らせ、手を洗い清め、つぼの水を海水に注ぐと、海が白色に変わり、鯡が群来し、永く島人を飢えと寒さから救ったということです。

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開陽丸

2012年07月29日 | 旅 歴史
 北海道檜山郡江差町姥神町にある開陽丸です。
「葵の枯れゆく散り際に開陽丸」と詠われた徳川幕府の巨船開陽丸です。オランダで建造され慶応3年(1867)留学を終えた榎本武揚らとともに日本に到着しました。当時の日本で最強を誇る木造の機帆走軍艦でした。
 徳川慶喜は死一等を減じて駿河(静岡)へ移封、徳川家は800万石から駿河70万石の一大名に決定した時、幕府海軍副総裁だった榎本武揚は旧幕臣達を救うため蝦夷地開拓を構想しました。慶応4年(1868)蝦夷共和国建立を目指すら一行を乗せて、蝦夷地に向け品川沖を出航しました。
 榎本率いる旧幕府軍は箱館五稜郭を占領しました。松前藩最後の防衛線である江差へ向かいました。開陽丸で江差沖へ進みましたが暴風のため座礁してしまい沈没してしまったのです。

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旧笹浪家住宅

2012年07月28日 | 旅 歴史
 北海道檜山郡上ノ国町上ノ国にある旧笹浪家住宅です。
 笹浪家は、上ノ国で古くから鰊漁などを行ってきた旧家の一つです。18世紀初めから続いたニシン場の網元でした。
 この住宅は、19世紀前半に5代目が建てたものと伝えられ、築後150年の時を経た平成2年(1990)に上ノ国町に寄贈されました。平成4年(1992)には、国の重要文化財にも指定されました。
 置き石屋根が往時のたたずまいをしのばせます。井戸が家の中の台所に掘られています。台所に雇い漁夫用の宿泊施設がないことから、ニシン番屋建築の成立以前の形式とみられます。

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松前町郷土資料館

2012年07月27日 | 旅 歴史
 北海道松前郡松前町神明にある松前町郷土資料館です。
 松前の歴史と文化を紹介した博物館で松前町民総合センターに併設されています。ここでは松前の豊かな文化を知ることができます。
 縄文時代の土器があったり、藩政時代の商人文化の華やかさを伝える「求福山山車(きゅうふくざんだし)」など珍しいものがあります。

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松前藩屋敷

2012年07月26日 | 旅 歴史
 北海道松前郡松前町西館にある松前藩屋敷です。
 仙台以北で最大の都市といわれた最北の城下町松前を再現したテーマパークです。松前藩屋敷の入り口の門をくぐると江戸時代の松前にタイムスリップします。
「松前の五月は江戸にもない」とうたわれた藩政時代の松前。幕末には8千戸、3万人の人口があったそうです。
 松前城下には、近江商人や北陸地方の商人が多く住み、財を築きました。松前藩屋敷は、そのころの栄華を再現しています。
 武家屋敷や商家などの14棟の建物は江戸の街並みを再現しているだけでなく、飲食店やみやげ物屋にもなっています。

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旧福山城表御殿玄関

2012年07月25日 | 旅 歴史
 北海道松前郡松前町松前城内にある旧福山城表御殿玄関です。
 旧福山城本丸表御殿玄関は福山城表御殿の唯一の遺構となっており、北海道の有形文化財に指定されています。また本丸御門は国の重要文化財に指定されています。

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松前城

2012年07月24日 | 旅 歴史
 北海道松前郡松前町松城にある松前城です。
 蛎崎(かきざき)慶広が文禄2年(1593)豊臣秀吉より蝦夷島主と認められる朱印状を受けました。秀吉の死後、徳川家康に臣従して姓を松前と改めました。慶長4年(1599)のことでした。
 慶長11年(1606)松前城の前身となる福山館を築城しました。松前藩の石高は1万石に過ぎませんでしたが、ニシンや昆布、鮭などの海産物の専売やアイヌとの交易で20万石に匹敵する裕福さでした。
 松前城は福山城ともいわれ、福山の大地に築かれた平山城です。ロシア船が出没しはじめた幕末、徳川幕府は松前崇広に築城を命じ、6年の年月をかけ安政元年(1854)完成させた日本で最後の城なのです。
 明治元年(1868)に榎本武揚、土方歳三らが率いる旧徳川幕府軍の手によって落城しましたが、明治2年(1869)に官軍が奪取に成功しました。
 明治8年(1875)天守、本丸御門、本丸東壁などを残して取り壊されました。その天守も昭和24年(1949)の火災により本丸御門以外の建物は焼失してしまいました。
 復元された天守は鉄筋3階建ての建物で、内部は民俗資料館となっています。現在は公園として整備されていて、7000本の桜が咲く名所となっています。
 
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白神岬

2012年07月23日 | 旅 歴史
 北海道松前郡松前町にある白神岬です。
白神岬は北海道で最南端の岬です。
本州最北端の大間岬よりも南に位置し、晴れていれば津軽海峡を挟んだ対岸に本州の竜飛岬が見えます。  ここから竜飛岬までの最短距離はわずか19,2kmだそうです。

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トラピスト修道院

2012年07月22日 | 旅 歴史
 北海道北斗市三ツ石にあるトラピスト修道院です。
 渡島当別駅から1km西の山麓の中に赤レンガの3階建てのトラピスト修道院がひっそりと建っています。この男子修道院の歴史は古く、今から100年以上も前の明治29年(1896)に創立されています。
 農場、牧場、工場などを持ち40数名の修道士が自給自足の生活を送っています。朝は3時半に起き夜は8時に就寝するという粗食に甘んじ終日祈りと沈黙の中で暮らしているのです。 
 函館のトラピスチヌ修道院と同じく厳律シトー修道会の聖母トラピスト修道会の経営です。厳律シトー会はトラピスト会ともいわれヌルシアのベネディクトゥスの作った会則を遵守するカトリックの観想修道会なのです。
 厳律シトー会はベネディクト会を母体とし、1098年にフランスブルゴーニュ地方のシトーに創立された修道院がルーツです。12世紀に活躍した聖ベルナルドによって大きく発展しました。
 12-13世紀には全ヨーロッパに約1800の修道院を持つ大修道会となりました。厳律シトー会は司教の行政干渉を受けない免属修道会の特権も受けているのです。

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男爵資料館

2012年07月21日 | 旅 歴史
 北海道北斗市当別にある男爵資料館です。
 男爵資料館は男爵いもの生みの親である川田龍吉男爵の農場跡地を整備した資料館です。第3代日銀総裁の川田小一郎の長男でイギリスで造船技術を学び、函館船渠(現函館ドック)の再建のため来道し、実業家として手腕を発揮しました。
 そしてそのかたわら上磯町当別に別荘と農場をつくり、農業の研究をも続け、イギリスから輸入したジャガイモの試験栽培を行いました。この中のアイリッシュコブラーが男爵いもとして広く知られるようになったのです。

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トラピスチヌ修道院

2012年07月20日 | 旅 歴史
 北海道函館市上湯川にあるトラピスチヌ修道院です。
 明治31年(1898)フランスから派遣された8人の修道女によって設立された日本最初のカトリック修道院です。現在も、65名ほどの修道女が聖ベネディクトの戒律に従って生活しています。
 聖堂の内部の見学はできませんが、建物外観や、修道院の歴史を紹介する資料展示室は見ることができます。端正なレンガ造りの外壁に、緑の屋根、十字架をいただいた尖塔は印象に残ります。
 自給自足が原則で起床は3時30分、就床19時45分だそうです。その間に労働8時間、祈り8時間を行うそうです。兵庫県西宮、佐賀県伊万里、栃木県那須、沖縄県宮古島にここの修道院分院があります。
 トラピスト修道院と同じく厳律シトー修道会の聖母トラピスト修道会の経営です。厳律シトー会はトラピスト会ともいわれヌルシアのベネディクトゥスの作った会則を遵守するカトリックの観想修道会なのです。
 厳律シトー会はベネディクト会を母体としています。承徳2年(1098)にフランスブルゴーニュ地方のシトーに創立された修道院がルーツです。12世紀に活躍した聖ベルナルドによって大きく発展しました。 
 12世紀から13世紀には全ヨーロッパに約1800の修道院を持つ大修道会となりました。厳律シトー会は司教の行政干渉を受けない免属修道会の特権も受けているのです。
 洞窟に設置されたルルドの聖母の像や、修道院の歴史を紹介する資料室は見学できます。天使の聖母トラピスチヌ修道院が函館に創立されて100年。夜明け前の空に鐘の音が響きわたります。
 資料展示室に院内写真パネルがあり、内部をうかがい知ることができます。売店では修道女たちが作ったマダレナケーキやバター飴、人形などを売っています。

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五稜郭タワー

2012年07月19日 | 旅 歴史
 北海道函館市五稜郭町にある五稜郭タワーです。
五稜郭タワーは五稜郭公園入口にある高さ60mの展望タワーです。昭和39年(1964)に五稜郭築城100年を記念して建てられました。星型の城郭跡の公園を眼下に一望できます。

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箱舘奉行所跡(五稜郭)

2012年07月18日 | 旅 歴史
 北海道函館市五稜郭町にある箱舘奉行所跡の案内です。
 箱館奉行所は当初、函館山山ろくにありましたが、開港後、元治元年(1864)五稜郭内に移転しました。五稜郭史跡跡地内にある市立函館博物館五稜郭分館前に玄関の屋根材のみ残されて展示されています。
 慶応4年(1868)に明治新政府に引き継がれ、函館裁判所・函館府になりました。榎本らの旧幕府脱走軍に占拠され箱館戦争の舞台となりました。明治2年(1869)再び新政府軍の所管になり明治5年(1872)に取り壊されました。

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五稜郭公園

2012年07月17日 | 旅 歴史
 北海道函館市五稜郭町にある五稜郭公園です。
 五稜郭は蘭学者武田斐三郎の設計のもと安政4年(1857)着工し、元治元年(1864)に完成した洋式の城郭です。時の箱館奉行が蝦夷地を統治する目的で造られました。
 五稜郭の特徴は5つの突角をもつ星型である事と、日本最後の本格的な城郭であることです。北辺防備のために築城されたものが、皮肉にも榎本武揚や新政府軍の日本人同士の戦いの場となってしまいました。
 榎本武揚は、勝海舟と西郷隆盛による江戸城無血開城が気に入らなかった幕臣を幕府の軍艦に乗せて、函館に乗り込み、五稜郭を占拠して徹底交戦に備えたのです。
 そして武揚は明治元年(1868)12月、箱館の五稜郭に新政府を作ったのです。そしてその蝦夷共和国の総裁や閣僚を「入れ札」、つまり選挙で選んだのでした
 総裁選挙の結果は、榎本武揚が115票でトップ、次点は松平太郎で14票だったそうです。その時点で「新共和国」が誕生したのです。
 榎本武揚は幼少時代から西洋の技術知識を教えられていました。箱館奉行所に出仕し、樺太探検に参加。海軍伝習所入所、オランダ留学を経て慶應4年(1868)江戸幕府の海軍副総裁に任ぜられていました。
 戊辰戦争にあたり、新政府軍が江戸を占領すると、幕府艦隊を率いて箱館の五稜郭を占拠したのでした。明治2年(1869)榎本らは戦いに敗れ、新政府軍に降伏しました。建物も明治5年(1872)に取り壊されました。現在、その五稜郭跡は公園として整備されています。
 榎本は黒田清隆の好意により助命され入獄。明治5年(1872)罪を許され、内閣制度の成立後は6度の入閣で逓信大臣、外務大臣、文部大臣、農商務大臣を務めました。

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