旅と歴史

全国各地の史跡を取り上げて紹介しています。

鵜戸神宮の運玉

2011年02月28日 | 旅 歴史
 宮崎県日南市宮浦にある鵜戸神宮の運玉について書きます。
 豊玉姫が竜宮から乗ってきたといわれる亀岩の背中に運玉とよばれる直径2cm程の素焼きの玉を投げ、見事に背中に当れば願いごとが叶うそうです。
  男性は左手、女性は右手で投げます。これは陰陽思想から出てくるものらしく男性は陽、火なので左手、女性は陰、水なので右手ということです。正月三が日は 20万個もの運玉が投げ込まれるそうです。

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御乳岩(おちちいわ)

2011年02月27日 | 旅 歴史
 宮崎県日南市宮浦の鵜戸神宮にある御乳岩(おちちいわ)です。
 竜宮に帰った母君の豊玉姫(トヨタマヒメ)がウガヤフキアエズノミコトのために、乳房を残していったと伝えられる「おちちいわ」です。
 本殿の裏手にあります。洞窟の奥で天井が低くなっているところに、ちょっとした膨らみがあります。そこから水の雫が落ちているのです。
 このお乳水を飲むこともできます。すぐとなりに産湯の跡もあります。「おちちあめ」はお湯に溶かして飲む、水飴状のもので鵜戸の名産です。

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鵜戸神宮

2011年02月26日 | 旅 歴史
 宮崎県日南市宮浦にある鵜戸神宮です。
 国定公園日南海岸の風光明媚な所、日南市鵜戸の日向灘に面した景勝地に鵜戸神宮は建っています。
 創建は、第10代崇神天皇の時と伝えられ、第50代桓武天皇の延暦元年には、天台宗の僧、光喜坊快久が、勅命によって当山初代別当となり、神殿を再興し、同時に寺院を建立したそうです。「鵜戸山大権現吾平山仁王護国寺」という勅号だったそうです。
 その後真言宗に変わり、洞内本宮の外、本堂には六観音を安置し、一時は西の高野とうたわれ、両部神道の一大道場として隆盛を極めたようです。
 明治維新後、鵜戸神社となり、後に官幣大社鵜戸神宮に昇格しました。安産、夫婦和合、育児、漁業、航海 そして 縁結びの神として全国に知られています。地元では親しみを込めて「鵜戸さん」とよんでいます。
 神橋は鵜戸の反橋(そりはし)といわれ、ここを渡ると本殿にいたる急な石段が続きます。
 かっては橋の手前から履物を脱ぎ、はだしでお参りしたそうです。古来よりこれより先は尊い神域、霊場になり深い信仰を集めていました。
 山幸彦(彦火火出見尊)が、兄(海幸彦)の釣り針を探しに海宮(龍宮)に行き、海神のむすめ豊玉姫命と深い契りを結んだそうです。
 山幸彦が海宮から帰られた後、身重の豊玉姫命は「天孫の御子を海原で生むことは出来ない」とこの鵜戸の地にこられ霊窟に急いで産殿を造りました。
 屋根の鵜の羽の茅も葺き合わぬうちに御子(御祭神)が誕生されました。そのため「ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと」とつけたそうです。今日では通称「ウガヤフキアエズノミコト」(鵜葦草葦不合命)といわれています。
 洞窟の中に優美な鵜戸神宮本殿があります。神殿に鎮まるのはこの洞窟で生まれたウガヤフキアエズノミコトです。神武天皇の父君でもあるのです。
 昔、七浦七峠と呼ばれる険しい道を、花嫁を馬にのせ、花婿が手綱をとって、鵜戸さんに参拝して結婚の報告と幸せを祈願したそうです。
 宮崎周辺の農家の風習であったといわれているこの鵜戸さん詣りは江戸時代の中期から
明治中頃まで行われていたといわれています。馬の首にかけられた鈴が「シャンシャン」なることから「シャンシャン馬」の風習として有名です。

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商家資料館

2011年02月25日 | 旅 歴史
 宮崎県日南市飫肥にある商家資料館です。
 飫肥城下の商人町の代表的な建物である妹尾金物店を移築復元して商人の生活道具を展示しています。
 建物は明治3年(1870)に当時の山林地主の山本五兵衛が建てたものだそうです。
 木造一部二階建ての白漆喰壁の土蔵造りで、樹齢200年以上の飫肥杉を使った豪壮な建物です。
 商家資料館の位置する本町通りは、飫肥城下町の商人通として栄えた所で江戸時代から昭和初期にかけて、商人町として、飫肥杉を取り扱う材木商が栄えていました。
 当時の帳場も復元されています。江戸時代の商家及び商人達が使用していた道具約250点を展示しています。
 天秤やそろばんなどの商売道具や運搬に使った自転車なども展示されていました。

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水郷の町「飫肥」鯉遊泳

2011年02月24日 | 旅 歴史
 水郷の町「宮崎県日南市飫肥」には鯉が遊泳しています。
 本町と大手門を結ぶ通りの中間に位置する掘割には、錦鯉などか遊泳しています。
 飫肥城下町は碁盤目型の屋敷割りとなっており、それに沿った水路はかつては防火用水家庭用雑水などに使われていたそうです。
 昭和53年(1978)の飫肥城復元に伴ない鯉を放流したそうです。約100mの区間に300匹のコイが泳ぎ、観光の目玉になっています。

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飫肥城下町武家屋敷通

2011年02月23日 | 旅 歴史
 宮崎県日南市飫肥にある飫肥城下町武家屋敷通りです。
 飫肥城下町には今なお当時の城下町の地割と歴史的景観が残されています。苔むす石垣や風雅な武家門などが並んでいて城下町飫肥の象徴となっています。

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小村寿太郎生誕の地

2011年02月22日 | 旅 歴史
 日南市飫肥にある小村寿太郎生誕の地です。
 山本猪平の隣に大きな記念石碑があります。ここが小村寿太郎生誕の地なのです。碑面は東郷平八郎の書によるものだそうです。

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旧山本猪平家

2011年02月21日 | 旅 歴史
 日南市飫肥にある旧山本猪平家です。
 この建物は飫肥の豪商であった山本猪平が明治40年(1907)頃に建築した商家の本宅です。敷地面積1100㎡の中に主屋、離れ屋などが当時のまま保存されています。
 隣接する小村寿太郎の父親である小村寛が飫肥商社事件で没落したため土地を買い取り新築したのです。

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小村記念館

2011年02月20日 | 旅 歴史
 宮崎県日南市飫肥にある国際交流センター小村記念館です。
 国際交流センター小村記念館は日南市飫肥(おび)出身の明治の外交宮・小村寿太郎の没後80年を記念して、平成5年(1993)にオープンした記念館です。小村寿太郎の生い立ちから業績までを紹介しています。
 20世紀初頭、外務大臣として日英同盟を結び、日露戦争の講和条約であるポーツマス条約締結の際には日本側の全権大使として活躍しました。
 また、不平等条約を改正して関税自主権をも獲得しました。この功績で日本は名実ともに独立主権国家となったのです。
 20歳でハーバード大学に入学、帰国後大阪裁判所に勤めた後、外務省に入省。明治34年(1901)46歳で外務大臣に就任、明治38年(1905)9月5日に日露講和条約をアメリカのニューハンプシャー州ポーツマス市で調印しました。
 日露戦争は戦局が泥沼化しアメリカの仲介で講和会議になったため、勝敗が決していない状況での講和会議開催という難しいところでした。
 講和成立後は、樺太北部と償金の放棄という講和条件に反対して国内で大暴動が起こりました。
 小村記念館の前庭にNHKの連続テレビ小説「わかば」日南ロケを記念してさざんかが記念植樹されています。若葉の伯母役の斉藤慶子さんが植えたそうです。

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飫肥の四半的場

2011年02月19日 | 旅 歴史
 宮崎県日南市飫肥の飫肥城にある飫肥の四半的場(しはんまとば)です。
 四半的射は飫肥に伝わる半弓で、射場から的まで四間半、弓矢ともに四尺五寸、的が四寸五分で、すべて四半であることから四半的とよばれています。
 永禄11年(1568)伊東義祐は島津忠親のたてこもる飫肥城を攻撃しました。この戦いの際に馬引、人足、附近の農民が竹作りの即製の半弓を持って参戦し伊東方の勝利に大きく貢献したそうです。
 その後伊東藩内においては、この合戦の功績により一般、農民に娯楽用として弓矢を持つことを許可するようになったと言い伝えられているのです。
 NHK朝の連続テレビ小説「わかば」では高原若葉と藤倉雅也が矢を放った体験場として登場しました。


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豫章館

2011年02月18日 | 旅 歴史
 宮崎県日南市飫肥にある豫章館です。
 豫章館の名は邸内にあった樹齢数百年という大楠にちなんで付けられたそうです。クスは樟とも書かれるのだそうです。
 豫章館は飫肥第14代藩主の伊東祐帰(すけより)が飫肥城から移り住んだ屋敷です。昭和58年(1983)に伊藤家より日南市に寄付された建物です。
 主屋は明治元年(1868)に建てられました。この建物は飫肥杉材で造られています。日南市近郊の樹齢100年もの杉です。強くて美しい建築材です。
 飫肥藩武家屋敷の典型的な形式で、その中でも最も格式の高い建物だそうです。
 この地は伊東家の家臣伊東主水(もんど)の屋敷だったそうです。明治2年(1869)伊東祐帰が飫肥藩知事に任命されここに住むようになったのです。
 広い屋敷に主屋や御数奇屋・雑舎・蔵を配し、入口には薬医門を構えています。
 南側には愛宕山を借景した枯木水の庭園があります。武学流の作庭といわれる庭園で、広い空間に庭石や石灯籠、庭木などが巧みに配置されています。

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飫肥城歴史資料館

2011年02月17日 | 旅 歴史
 宮崎県日南市飫肥にある飫肥城歴史資料館です。
 飫肥藩主伊東家が残した文化財をはじめ、飫肥の歴史を伝える文化遺産など約230点が展示されています。昭和53年(1978)7月に開館しています。
 262平方メートルの館内には伊東祐兵(すけたけ)や山田匡得の甲冑や刀匠井上真改の刀などが展示されています。
 伊東家は藤原氏南家の子孫で、800年続いた由緒ある家柄です。奥方たちの小袖や打ち掛けなども由緒ある歴史を感じさせます。


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飫肥城松尾の丸

2011年02月16日 | 旅 歴史
 宮崎県日南市飫肥にある飫肥城松尾の丸です。
 松尾の丸は江戸時代初期の書院造りの御殿として、時代考証のうえ昭和54年に建築されました。飫肥城跡にある城の建物はこの松尾の丸と大手門だけです。
  松尾の丸の中には川御座船(かわござぶね)と呼ばれる船の模型が展示されています。御座の間、茶室、御寝所、湯殿、台所、御蔵などの部屋があります。
 建物は綿密な時代考証を重ねて当時の建物を検証し江戸時代初期の書院造りの御殿を精巧に再現しています。湯殿は、国宝である西本願寺の飛雲閣のものを模した柿(こけら)葺(ふ)き総桧(ひのき)造りです。

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飫肥城大手門

2011年02月15日 | 旅 歴史
 宮崎県日南市飫肥にある飫肥城大手門です。
 明治2年(1869)当主伊東氏が大手門前の豫章館に移り、明治6年(1873)には、飫肥城内の建物全てが取り壊されてしまいました。
 この大手門は昭和53年(1978)6月に樹齢100年の飫肥杉を使用して復元されました。釘を一切使用せず作られているそうです。
 復元に際しては当時の城郭研究の第一人者であった故藤岡通夫博士に設計、監修を依頼して造ったそうです。復元工事中に、礎石に正徳3年(1713)の碑文が発見されています。
 復元された大手門の高さは12.3mだそうです。NHK朝の連続テレビ小説「わかば」(第71作目)では高原若葉と藤倉雅也が谷準一と会ったロケ地になっていました。

 
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飫肥城

2011年02月14日 | 旅 歴史
 宮崎県日南市飫肥にある飫肥城です。
飫肥城は飫肥の町の北側、酒谷川と山川を臨む海抜60mほどの丘に建っています。康安2年(1362)砦程度のここに反乱兵士が立てこもりこの地方の豪族土持頼宣が平定したそうです。
 鎌倉時代、工藤祐経が源頼朝より日向の地頭職に任ぜられました。それ以来日向の国主として支配してきました。6代目の伊東祐持は足利尊氏より都於郡に三百町の領地をもらい都於郡城を築いたのでした。
 長禄2年(1458)薩摩の島津氏は伊東氏の南下に備え飫肥城を築き、志布志城の新納忠統を守備に当らせました。文明16年(1484)伊東祐国が都於郡城から飫肥に出陣し攻略しました。
 しかしすぐに城は島津氏に奪回されました。伊東祐国は何回も飫肥城を攻めましたが攻略できず逆に戦死してしまいました。
 伊東祐国の子尹祐と島津忠国は和睦しましたが尹祐の子義祐は飫肥城を攻め島津氏との間で奪回が繰り返されました。永禄11年には義祐の次男祐兵(すけたけ)が城主になっています。
 島津の家督を継いだ義久が反撃を開始しました。元亀3年(1572)の木崎原の合戦で勝利を収め高原城を奪い、野尻城を手中にしました。天正5年(1577)都於郡城をも陥れ、伊東氏は豊後に逃れたのでした。
 天正10年(1582)に本能寺の変が起き信長に代わり羽柴秀吉の天下になりつつありました。天正15年(1587)九州討伐で島津氏が降伏し、翌年南九州の国割が行なわれ伊東祐兵は秀吉より再び飫肥の地を拝領したのでした。
  城下の形成は、祐兵が5万1千石で入城して本格的な建設がなされました。今でも、江戸時代初期の絵図に描かれた街路がそのまま使用されているのです。
  伊東祐兵以後、明治初期まで280年間、伊東家は14代にわたって飫肥藩を治め続けたのです。飫肥城の旧本丸跡は元禄6年(1693)本丸ができるまで藩主の御殿でした。地震による地割れで移転されたそうです。

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