京都府京都市右京区嵯峨小倉山小倉町に常寂光寺(じょうじゃくこうじ)があります。
常寂光寺は日蓮宗のお寺で、嵯峨野を一望できる小倉山の中腹にあります。近くには落柿舎や二尊院があり、京都の風情がただよう静かなところです。平安時代より嵯峨野は、皇族や貴族の離宮、山荘をかまえる景勝地として有名でした。
特に小倉山、亀岡、嵐山の山麓は、後嵯峨上皇の亀山殿、兼明親王の雄倉殿、藤原定家の小倉山荘のほか、八条院高倉、待賢門院の中納言局、藤原公雄、藤原光経、飛鳥井雅有、覚性法親王や西行法師、涌蓮、向井去来など公家や歌人が好んで別荘や庵を構えたところです。
常寂光寺は藤原定家の山荘、時雨亭があったところだとされ、多宝塔の西南上方に時雨亭跡の石碑が建てられています(二尊院にも同じような石碑が建てられています。)。定家の小倉山荘は仁王門北側に有り、石碑が建てられています。
慶長年間(1596-1614)に大本山本圀寺に第16世になった究竟院日禛(にっしん)上人という高僧がいました。宗学と歌道への造詣が深く、加藤清正、三好吉房、小出秀政、小早川秀秋、瑞竜院日秀 (秀吉の実姉)など多くの人が帰依しました。文禄4年 (1595)、豊臣秀吉は東山方広寺大仏殿の開眼千僧供養に出仕をうながしました。
本山本圀寺は二派に分裂し、日禛上人は不受不施の宗制を守りました。秀吉の意向に逆らったため本圀寺を出て、この地に隠栖(いんせい)したのでした。小倉山は高瀬川開削で名を挙げた江戸初期の商人・角倉(すみのくら)一族の所有地でした。熱心な日蓮信者であった角倉了以(りょうい)の従兄・栄可は土地を寄進しています。
隠栖所はのちに寺に改められ、土地が常寂光土の感があるとして「常寂光寺」としました。寂光土(じゃっこうど)とは「永遠で絶対の浄土」のことで、日蓮宗や天台宗での浄土の一つです。その寂光土が常にあるお寺という意味なのです。
小早川秀秋らが堂宇の建立に寄与しました。日禛上人は元和3年 (1617)にここで57歳の生涯を終えました。跡を継いだ2世の日韶(にっしょう)上人はさらにお寺を整備したそうです。正徳5年(1715)、一道院日法上人が常寂光寺14世となりました。
京都鴨川において一千日の荒行を成し遂げた僧で、洛内外の人々の信仰を集め、正徳2年(1712)、堀川本蔵寺で、霊元上皇の平癒の祈祷をして、大験者及び上人となっています(以後本蔵寺は勅願所一道院と改めています。)。常寂光寺にも霊元上皇より多宝塔に「並尊閣」の勅額を賜わっています。
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