旅と歴史

全国各地の史跡を取り上げて紹介しています。

懐古園

2007年09月29日 | 旅 歴史
 白鶴城や酔月城とも呼ばれた小諸城の跡です。城下町よりも低い位置にある「穴城」として全国的に珍しい存在で、天然の要塞となっている深い空堀や苔むした野面積みの石垣が昔日を偲ばせています。
 小諸城は千曲川沿いの断崖に面して建っていて、要害堅固な城です。入り口の三の門(重文)には徳川家達(いえさと)公の筆になる“懐古園”の額が掛っています。
この城は、もともと長享元(1487)年に大井光忠が築いた鍋蓋城が前身となっています。天文22(1553)年に武田信玄によって陥落させられると、以降は武田氏の小県攻略の橋頭堡として整備されました。このとき城の改修を担当したのが、馬場信房と山本勘助であると伝えられています。
 千曲川の急流、廻りの断崖、そして土質が浅間山の火山灰でできているために、崩れやすくなっていました。縄張り自体も三角形で山本勘助の築城技術の粋を極めたものと思えます。
 武田氏が滅亡後、織田氏、北条氏、徳川氏と様々な主の下を転々とし、後に小田原攻めで功のあった千石秀久が入封しました。このときにかなり大規模な改修が行なわれ、小諸城は近世的な城となりました。
園内には藤村記念館、小山敬三美術館、徴古館、郷土博物館、動物園、遊園地などがあります。二の丸の石垣には若山牧水歌碑が、千曲川を望んでは藤村詩碑が建てられています。
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光前寺

2007年09月27日 | 旅 歴史
 信濃五大寺の一つに数えられる駒ヶ根の光前寺です。信濃における天台宗の大寺でした。戸隠山、善光寺、更級八幡神宮寺、佐久津金寺、光前寺が信濃五大寺でした。寺領が大きかったばかりでなく学問寺として、天台密教の修業地として重要なところでした。
 この天台宗・宝積山光前寺の歴史は古く、開山は貞観2年(860)にさかのぼります。不動明王を御本尊として、本聖上人により開基されました。また霊犬早太郎の伝説が伝えられています。
 本聖上人は慈覚大師(円仁)のお弟子さんでした。古くは武田家、羽柴家の武将の保護を受け、特に徳川幕府からは、地方寺院としては破格の朱印六十石と、十万石の大名格を与えられ、学問寺として隆盛をきわめました。
樹齢数百年の杉の巨木に囲まれた境内には今でも十余棟の堂塔を備えた長野県屈指の大寺なのです。南信州随一の祈願霊場として広い信仰を集めております。
本堂の近くに、南信州では唯一の三重の塔が建立されています。その南側に小原氏一族の墓がひっそりと残っています。その中に万永元年に建てられた「小原元祖一千年供養塔」の碑があります。自分たちの先祖は比叡山のふもとの京都の大原の里から来て、光前寺建立のためにこの地に移り村を開いたそうです。
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武水分神社

2007年09月24日 | 旅 歴史
武水分神社(たけみずわけ)の創建は、第八代孝元天皇(214-256BC)の御代の鎮斎と伝えられています。 主祭神の武水別神(たけみずわけのおおかみ)は、国の大本である農事を始め、水のこと総てを守ってくれる神様ということです。
穀倉地帯「善光寺平」の五穀豊穣と脇を流れる千曲川の氾濫防止を祈って祀られたものと思われます。今は車のお払いに来る人が絶えません。
この地方随一の八幡宮として諸将の尊崇が篤く、木曽義仲の戦勝祈願・海津城主森忠正公(慶長七年)・松代城主真田伊豆守(寛永十三年)の寄進・江戸時代には社領200石の朱印地を寄進されました(慶安元年)。
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穂高神社

2007年09月16日 | 旅 歴史
 穂高見命を御祭神に仰ぐ穂高神社は、信州の中心ともいうべき南安曇郡穂高町にあります。里宮と奥宮があり、古くから信濃の大社として名高く、里宮は日本アルプスの総鎮守として、交通安全の守神として信仰を集めています。
 奥宮は、北アルプス穂高岳のふもとの上高地に祀られており、嶺宮は、北アルプスの主峰奥穂高岳の頂上に祀られています。
 かつて北九州を拠点にしていた海洋民族の「安曇族」が日本海を北上し、この地に移り住み、不毛の地であった安曇平を開墾したといわれています。
穂高神社はその安曇族を祭る神社であり、毎年 9月27日には、海洋民族の名残を伝える「御船祭り」が開催されています。
 安曇族は、もと北九州に栄え主として海運を司り、早くから大陸方面とも交渉をもち、文化の高い氏族であったようです。
 後醍醐天皇の延長五年(924)に選定された延喜式の神名帳には名神大社に列せられているそうです。
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大法寺三重塔

2007年09月06日 | 旅 歴史
 碓氷峠を越えて信濃の国に入った東山道は、上田から千曲川を南に渡り、浦野を通り保福寺峠を越えて松本平にでます。この浦野の山のふもとに大法寺があります。大法寺三重塔はあまりの美しさから、旅人が振り返り、振り返り立ち去っていったといわれており、「見返りの塔」という名で呼ばれています。昭和27年国宝に指定されました。長野県内で国宝に指定されている他の建造物は、上田別所の松尾寺八角三重塔・長野善光寺本堂・松本城・大町市の仁科神明宮の五ヶ所だけです。この塔は大正9年解体修理の時に発見された墨書によって鎌倉時代の末期の正慶2年(1333)、大阪四天王寺大工四郎某ほか小番匠七人によって建てられたそうです。
 見返りの塔の名のあるように全体の形が上品で美しく仕上がっています。美しさの由縁は、初重が特に大きい事です。こうすると落ち着いた感じになる独特の工法で、奈良の興福寺三重塔にその類例を見るだけの独特の工法だそうです。
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前山寺

2007年09月03日 | 旅 歴史
 前山寺の歴史は古く、空海上人が護摩修行の霊場として開創したといわれています。今から600年ほど前に、四国の讃岐の善通寺(弘法大師の生まれたところ)から、長秀上人という方がこの寺を大きくしたということです。
前山寺参道は、「黒門」といわれている黒色の門の前から三重塔に向かう約150mの間を結んでいます。そこは所々に石段もある広い道です。
 参道の両側には桜や松の大木が周囲5,6mもある樹齢350年前後の欅の大樹と並んで立っています。前山寺参道並木として上田市の指定記念物に指定されています。
 老松の参道を抜けて山門をくぐると目前に三重塔が迎えてくれます。室町末期建築の国の重要文化財です。「未完の塔」とか「未完成の完成塔」といわれています。「未完」とされるのは、2層目と3層目に欄干や窓がないためです。その簡素さがかえって美しく、人々の共感を呼びました。平安時代に完成した和様と鎌倉時代に伝えられた唐様との調和も見事です。
 二層部分には、柱が四本あります。この柱は、「貫」といわれいます。四本とも下の方から長い板のような角材がつき出ています。これは縁を付けるために突き出したものだそうです。この上に板をはって縁として、そこへ「勾欄」(手すり)をつける予定だったと思われます。ところが、何かの事情があったのか、ここには「貫」だけでなにもつけてありません。三層部分もこのような造りになっています。それに一層部分には扉も窓もあるのに、二層、三層にはそれもなく、縁や手すりもないのです。塔のつくりからいえばこれでは「未完成」ということになります。
 カヤぶき屋根の本堂の前には無人の休憩所があり、お茶と梅づけが用意されています。また住職夫人手作りの「くるみおはぎ」(要予約)は、この地方特産のくるみの自然な甘さやまろやかな香りを生かした名物で、味わいたい逸品です。
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中禅寺

2007年09月02日 | 旅 歴史
 塩田平の南方、独鈷山の麓に中禅寺は建っています。近くには塩野神社があります。ここの薬師堂は重要文化財で約八百年前の長野県最古の建物であるばかりでなく、中部日本(中部地方・関東地方)を通じて最も古いといわれています。木立にかこまれた静かな中に、ゆったりと広がるカヤ葺の重厚な屋根が、荘厳なたたずまいを感じさせます。
 薬師堂は「方三間〔ほうさんげん」の阿弥陀堂という形式です。方三間というのは、東西南北のどちらから見ても柱が四本立っていて、間が三つあることをいうのです。柱と柱の間を間(けん)と呼びます。
薬師堂に安置されている「薬師如来座像」も国の重要文化財に指定されています。鎌倉時代初期につくられたこの仏像は「定朝様」の特色がはっきりでているそうです。
 もう一つの重要文化財「手なし神将」は薬師如来につき従う十二神将の一体で、その両腕が肩のところから欠けていたので、いつの頃からかこのように呼ばれそうです。仏を安置する須弥壇の位置や、「宝形造(ほうぎょうづくり)」といわれる建て方は平安時代の終わりごろ行われた形式で、岩手県の中尊寺の金色堂などと同じような作り方だといいます。
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長福寺

2007年09月01日 | 旅 歴史
 長福寺は生島足島神社に隣に建っています。創建は平安時代の康保2年(965)で、創基は祐存上人と伝えられています。当時は、神宮寺が並んで建っていて、ともに生島足島神社に仕えていたのだそうです。明治の廃仏毀釈により神宮寺は廃寺となったそうです。 
 境内の一隅にある八角円堂は奈良、法隆寺の夢殿を模して、二分の一の縮尺で建てられた美しい御堂です。信州夢殿と呼ばれて親しまれています。建立は昭和17年で、瓦も奈良で焼いたものを使用しています。
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