岩手県奥州市水沢区字日高小路にある日高神社です。
日高神社は弘仁元年(810)嵯峨天皇の勅命によりこの地に勧請した事が始まりとされてます。北斗星の本地、妙見菩薩を祀る宮として信仰を集め、古来「日高妙見」の名で親しまれてきました。
ここには征夷大将軍源頼義・義家父子が戦勝祈願に訪れたと伝えられています。伊沢氏を始めとする東北鎮護の国司、奥州藤原氏、伊達氏などからも崇敬を受けました。
社殿は嘉応2年(1170)鎮守府将軍になった藤原秀衡により再建されました。慶長年間には伊達政宗が社領の寄進と社殿の造営を行い、参拝の記録も残っています。寛永9年(1632)伊達氏の家臣で初代水沢城主の留守宗利(伊達宗利)が再建し、代々の崇敬社としました。
境内正面には拝殿、その奥に弊殿、本殿が建立されています。左側の森の中には留守氏代々の祖霊社の瑞山神社や留守家墓所などがあります。この瑞山神社と日高神社に火防の祈願をしたのが日高火防祭の始まりで、打囃子をして練り歩く「火防祭の日高囃(ひたかばやし)」として有名です。
下記のサイトにもお立ち寄りください!
http://ogino.okoshi-yasu.com/
日高神社は弘仁元年(810)嵯峨天皇の勅命によりこの地に勧請した事が始まりとされてます。北斗星の本地、妙見菩薩を祀る宮として信仰を集め、古来「日高妙見」の名で親しまれてきました。
ここには征夷大将軍源頼義・義家父子が戦勝祈願に訪れたと伝えられています。伊沢氏を始めとする東北鎮護の国司、奥州藤原氏、伊達氏などからも崇敬を受けました。
社殿は嘉応2年(1170)鎮守府将軍になった藤原秀衡により再建されました。慶長年間には伊達政宗が社領の寄進と社殿の造営を行い、参拝の記録も残っています。寛永9年(1632)伊達氏の家臣で初代水沢城主の留守宗利(伊達宗利)が再建し、代々の崇敬社としました。
境内正面には拝殿、その奥に弊殿、本殿が建立されています。左側の森の中には留守氏代々の祖霊社の瑞山神社や留守家墓所などがあります。この瑞山神社と日高神社に火防の祈願をしたのが日高火防祭の始まりで、打囃子をして練り歩く「火防祭の日高囃(ひたかばやし)」として有名です。
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岩手県奥州市水沢区吉小路にある斎藤實記念館です。
斎藤實記念館は第30代内閣総理大臣の他、重職を歴任し、2・26事件で凶弾に倒れた斎藤實が故郷の人々のために残した書籍などを所蔵、展示しています。生前の書簡、執務資料などは、ここと、東京都の国立国会図書館に分散して保存されています。
斎藤實は水沢藩士の次男として生まれ、海兵卒業後、アメリカ留学をし、海軍次官として山本権兵衛海相と活躍、海軍大臣になりました。朝鮮総督を経て5・15事件直後に首相に就任しました。
昭和11年(1936)内大臣であった斎藤實は自らが指名した岡田啓介首相らとともにクーデター未遂事件「2・26事件」の犠牲になりました。この時に親友の高橋是清大蔵大臣も殺害されています。
蔵書は朝鮮総督時代に収集した朝鮮関係図書の他、各界の人々から寄贈された単行本、彼が役員を勤めた社会団体の機関誌やパンフレットなど3万点にも及びます。教育文化、経済産業、民族独立運動など当時の日本社会・朝鮮社会の動向を研究する上でも重要な資料となっています。
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斎藤實記念館は第30代内閣総理大臣の他、重職を歴任し、2・26事件で凶弾に倒れた斎藤實が故郷の人々のために残した書籍などを所蔵、展示しています。生前の書簡、執務資料などは、ここと、東京都の国立国会図書館に分散して保存されています。
斎藤實は水沢藩士の次男として生まれ、海兵卒業後、アメリカ留学をし、海軍次官として山本権兵衛海相と活躍、海軍大臣になりました。朝鮮総督を経て5・15事件直後に首相に就任しました。
昭和11年(1936)内大臣であった斎藤實は自らが指名した岡田啓介首相らとともにクーデター未遂事件「2・26事件」の犠牲になりました。この時に親友の高橋是清大蔵大臣も殺害されています。
蔵書は朝鮮総督時代に収集した朝鮮関係図書の他、各界の人々から寄贈された単行本、彼が役員を勤めた社会団体の機関誌やパンフレットなど3万点にも及びます。教育文化、経済産業、民族独立運動など当時の日本社会・朝鮮社会の動向を研究する上でも重要な資料となっています。
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岩手県奥州市水沢区吉小路にある奥州市武家住宅資料館です。
奥州市武家住宅資料館は内田家武家住宅を核に武家住宅資料センターを併設しています。資料センターでは貴重な資料が並ぶ歴史展示コーナーを見学することができます。そして城下町水沢の探訪のガイダンスを受けることもできます。
内田家武家住宅は、家老に次ぐ大番役であった・内田勘之丞の屋敷です。禄高は96石2升で家中第2位だったそうです。市内でも格式のある武家屋敷の一つに数え上げられています。
屋敷の間口は16間、奥行は30間あり、東西をひば垣、正面の板塀とするなど、武家屋敷らしいたたずまいです。表門から直接に式台をのぞけず、格上の来訪があった時、塀重門から表庭を通って直接上座敷に上がれるようになっています。
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内田家武家住宅は、家老に次ぐ大番役であった・内田勘之丞の屋敷です。禄高は96石2升で家中第2位だったそうです。市内でも格式のある武家屋敷の一つに数え上げられています。
屋敷の間口は16間、奥行は30間あり、東西をひば垣、正面の板塀とするなど、武家屋敷らしいたたずまいです。表門から直接に式台をのぞけず、格上の来訪があった時、塀重門から表庭を通って直接上座敷に上がれるようになっています。
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岩手県奥州市水沢区吉小路にある後藤新平旧宅です。
後藤新平旧宅は寄棟、茅葺きの江戸中期の武家住宅で、県の有形文化財に指定されています。主屋、厠と板倉、冠木門(かぶきもん)、笠塀などが残されていて水沢町に寄付されたものです。
後藤新平は、医者でありながら、台湾総督府民政長官、満鉄初代総裁、鉄道院総裁、逓信大臣、内務大臣、外務大臣、東京市第7代市長、ボーイスカウト日本連盟初代総長、東京放送局(のちの日本放送協会)初代総裁、拓殖大学第3代学長などを歴任しました。
この付近は、江戸時代、「給主小路(きゅしゅこうじ)」とよばれ、大手小路に次いで上級家臣の武家屋敷がおかれたところです。後藤家は留守家御小姓頭(るすけおこしょうかしら)を勤め、新平は安政4年(1857)にこの家で生まれ、留守家奥小姓(おくこしょう)として幕末を迎えたそうです。
後藤新平は生前、「水沢には墓をつくらないから墓代わりにあの家を長く残しておけ」と言い残したといわれています。
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後藤新平は、医者でありながら、台湾総督府民政長官、満鉄初代総裁、鉄道院総裁、逓信大臣、内務大臣、外務大臣、東京市第7代市長、ボーイスカウト日本連盟初代総長、東京放送局(のちの日本放送協会)初代総裁、拓殖大学第3代学長などを歴任しました。
この付近は、江戸時代、「給主小路(きゅしゅこうじ)」とよばれ、大手小路に次いで上級家臣の武家屋敷がおかれたところです。後藤家は留守家御小姓頭(るすけおこしょうかしら)を勤め、新平は安政4年(1857)にこの家で生まれ、留守家奥小姓(おくこしょう)として幕末を迎えたそうです。
後藤新平は生前、「水沢には墓をつくらないから墓代わりにあの家を長く残しておけ」と言い残したといわれています。
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岩手県奥州市水沢区大手町にある後藤新平記念館です。
後藤新平記念館は関東大震災後の東京復興に多大な貢献をした政治家・後藤新平の偉業をたたえ、文書や写真、著訳書など新平の人柄と業績を伝える資料を幼少時代から晩年に至るまで幅広く展示しています。
後藤新平は、医者でありながら、台湾総督府民政長官、満鉄初代総裁、鉄道院総裁、逓信大臣、内務大臣、外務大臣、東京市第7代市長、ボーイスカウト日本連盟初代総長、東京放送局(のちの日本放送協会)初代総裁、拓殖大学第3代学長などを歴任しました。
関東大震災後に内務大臣兼帝都復興院総裁として東京の都市復興計画を立案しました。国家予算の約1年分という計画の規模の大きさから「大風呂敷」の異名もとりましたが、現在の東京の都市骨格を作り上げました。
シチズン時計の名付け親でもある新平の母方の大叔父には著名な蘭学者・高野長英がいます。記念館の隣には新平の十三回忌に記念して親友の正力松太郎が恩に感じて贈った後藤伯記念公民館があります。日本で最初の「公民館」です。
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後藤新平記念館は関東大震災後の東京復興に多大な貢献をした政治家・後藤新平の偉業をたたえ、文書や写真、著訳書など新平の人柄と業績を伝える資料を幼少時代から晩年に至るまで幅広く展示しています。
後藤新平は、医者でありながら、台湾総督府民政長官、満鉄初代総裁、鉄道院総裁、逓信大臣、内務大臣、外務大臣、東京市第7代市長、ボーイスカウト日本連盟初代総長、東京放送局(のちの日本放送協会)初代総裁、拓殖大学第3代学長などを歴任しました。
関東大震災後に内務大臣兼帝都復興院総裁として東京の都市復興計画を立案しました。国家予算の約1年分という計画の規模の大きさから「大風呂敷」の異名もとりましたが、現在の東京の都市骨格を作り上げました。
シチズン時計の名付け親でもある新平の母方の大叔父には著名な蘭学者・高野長英がいます。記念館の隣には新平の十三回忌に記念して親友の正力松太郎が恩に感じて贈った後藤伯記念公民館があります。日本で最初の「公民館」です。
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岩手県奥州市江刺区岩谷堂字向山にある旧後藤家住宅です。
旧後藤家住宅は、南部藩の曲家に対し、伊達藩の直屋として典型的な民家です。元禄年間から宝永年間(1688-1711)に建設されたものと推定されています。
建物は、全体の半分を占める土間と、床上に二列の部屋を配した平面からなり、上・下屋からなる構造です。土間には、断面多角形の太い上屋柱が、林立しています。
元は、江刺市広瀬の後藤勇次郎氏所有の建物で、後に江刺市に寄贈され、昭和42年(1967)8月、現在地である向山公園内に移築保存されることになりました。
上屋と下屋の構造的役割が分かれているのは極めて珍しく、昭和40年(1965)国の重要文化財に指定されています。
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http://ogino.okoshi-yasu.com/
旧後藤家住宅は、南部藩の曲家に対し、伊達藩の直屋として典型的な民家です。元禄年間から宝永年間(1688-1711)に建設されたものと推定されています。
建物は、全体の半分を占める土間と、床上に二列の部屋を配した平面からなり、上・下屋からなる構造です。土間には、断面多角形の太い上屋柱が、林立しています。
元は、江刺市広瀬の後藤勇次郎氏所有の建物で、後に江刺市に寄贈され、昭和42年(1967)8月、現在地である向山公園内に移築保存されることになりました。
上屋と下屋の構造的役割が分かれているのは極めて珍しく、昭和40年(1965)国の重要文化財に指定されています。
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岩手県奥州市江刺区岩谷堂字向山にある岩谷堂共立病院です。
旧岩谷堂共立病院(明治記念館)は明治7年(1874)に竣工した洋風建築で、当時の凝洋建築物の典型の1つとして大変貴重な文化財です。昭和54年(1979)岩手県の有形文化財に指定されています。
1階に中2階を設けた4階建てで、頂部に塔屋をのせています。この楼閣と八角形の塔屋が印象的です。縦長の窓を採用し洋風のモチーフを取り込んでいます。建物の組み方や納まりなどは在来工法でなされていて凝洋建築物と呼ばれています。
岩谷堂共立病院はその後破綻し、明治21年(1888)から39年(1906)まで裁判所の岩谷堂出張所を経て、岩谷堂小学校、実科女学校、農業試験場、岩谷堂町役場、江刺市役所など公共施設として利用されました。
現在は明治記念館として内部の見学ができるようになりました。菊田一夫の名作ラジオドラマ「鐘の鳴る丘」のモチーフとしても知られ、朝と夕方にそのメロディーが流れます。
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1階に中2階を設けた4階建てで、頂部に塔屋をのせています。この楼閣と八角形の塔屋が印象的です。縦長の窓を採用し洋風のモチーフを取り込んでいます。建物の組み方や納まりなどは在来工法でなされていて凝洋建築物と呼ばれています。
岩谷堂共立病院はその後破綻し、明治21年(1888)から39年(1906)まで裁判所の岩谷堂出張所を経て、岩谷堂小学校、実科女学校、農業試験場、岩谷堂町役場、江刺市役所など公共施設として利用されました。
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岩手県北上市立花の「みちのく民俗村」にある北上市立博物館です。
北上市立博物館はみちのく民俗村内にある博物館で、昭和48年(1973)4月にオープンしました。「北上川流域の自然と文化」をテーマに、「歴史展示」や「自然科学展示」「地質展示」とテーマ別に展示しています。
博物館に入ると、最初に目に入るのは復元された大型帆船「ひらた船」です。「ひらた船」は南部藩最大の河川港としてにぎわった北上の象徴なのです。
川と共に栄えてきた北上市は、古代から舟運による交易が盛んでした。北上の黒沢尻は北上川の中流の要地で、盛岡までの小型の船便と石巻までの大型の船便との重要な中継点だったのです。
また、北上川流域に現在生息する鳥獣・昆虫類を紹介する自然科学や、化石・鉱物などの地質などを展示しています。藩政時代の資料や当時の生活を紹介するコーナーもあります。
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北上市立博物館はみちのく民俗村内にある博物館で、昭和48年(1973)4月にオープンしました。「北上川流域の自然と文化」をテーマに、「歴史展示」や「自然科学展示」「地質展示」とテーマ別に展示しています。
博物館に入ると、最初に目に入るのは復元された大型帆船「ひらた船」です。「ひらた船」は南部藩最大の河川港としてにぎわった北上の象徴なのです。
川と共に栄えてきた北上市は、古代から舟運による交易が盛んでした。北上の黒沢尻は北上川の中流の要地で、盛岡までの小型の船便と石巻までの大型の船便との重要な中継点だったのです。
また、北上川流域に現在生息する鳥獣・昆虫類を紹介する自然科学や、化石・鉱物などの地質などを展示しています。藩政時代の資料や当時の生活を紹介するコーナーもあります。
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