旅と歴史

全国各地の史跡を取り上げて紹介しています。

総社宮

2014年04月28日 | 旅 歴史
 岡山県総社市に総社宮があります。
 総社市のほぼ中心部に、現在の地名の由来にもなっている総社宮があります。大化年間の創建で、備中国の総社です。律令制のもと、国司が国内の神社を巡拝するのを簡略化するために、1ヶ所に祭神を集めさせました。平安時代末期にはほとんどの国に設けられていたようです。
 社殿には備中国内の大小の神祇、つまり延喜式に掲載されている神社、官社が18社、田社(国司の神名帳記載の神社)286社、合わせて304社の神祇を奉斎しているそうです。
 10月の例祭には、この304社の外に相殿八柱神と末社12社を合わせて324の神饌を奉納する古例が存続しているそうです。
 本殿は昭和55年(1980)に再建されましたが、それ以外の建物はすべて江戸時代に再建されたものだそうです。
 境内の古代三島式庭園は本殿をめぐる美しい回廊と調和しています。この庭園は平安時代の様式も残しています。
 枝を広げた老木松が池とあいまって神社らしい神秘さと長い歳月を経たものにしかない深遠な趣を見せています。
 総社は、仁徳天皇(313ー399)の皇妃八田皇女の御名代の地にちなむ八田部(八部)に始まりました。大化の改新(645)によって、吉備国が備前<和銅6年(713)美作国が分かれてできました>、備中、備後の三ヶ国に分かれました。
 備中国の国府が総社市金井戸に置かれ、国司が中心となって祭政一致の政治が行われ、総社宮が造られ、門前町として発展して商品流通の中心地にもなったのでした。
 戦国時代頃になってから、総社を総社宮とか総社大明神と呼ぶようになり、社の総社が地名として呼ばれるようになっていったそうです。八田部村から総社村となったそうです。
 境内には拝殿から伸びる長く美しい回廊が続いています。また、総社宮は円山応挙をはじめ有名な画家の絵馬を多数所蔵しているそうです。
 天ノ岩戸を開いた神を祀っています。天照大御神、天ノ児屋根命、天ノ太玉命、思兼命、手力男命、天ノ細女命などです。
 備中の神を祀っています。大国主命、稲脊脛命、事代主命、武御名方命、武甕槌命、経津主命などです。
 明治29年(1896)総社町となり、昭和29年(1954)合併促進法で近郷の村々と合併して総社市となったそうです。平成17年(2005)に都窪郡山手村、清音村とも合併しています。

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備中国分寺五重塔

2014年04月27日 | 旅 歴史
 岡山県総社市上林に備中国分寺五重塔があります。
 備中国分寺の五重塔は江戸時代後期、文政4年(1821)から20数年をかけて建立されたもので県下唯一の五重塔です。高さは34.315mあります。方三間本瓦葺き、3層目までは総ケヤキ造りで、4、5層は松材造りです。
 この五重塔は、 屋根の上層と下層がほぼ同じ大きさの細長い造りで相輪も短く、江戸時代後期の様式を色濃く残す代表的な塔です。 昭和55年(1980)に国の重要文化財に指定されています。
 塔内は初重内部中央に心柱が立ち、四周に四天柱を据え、その内側に仏壇を作り、四如来像を安置しています。
 天井は格子状で天井板には55cm角大の欅の一枚板を使い、彩色画が描かれ、堂内をいっそう荘厳にしています。
 絵は全部で104枚あり、四天柱の脇にある4枚の天女図のほかは 季節の花々を描いた草花文です。

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山中鹿介幸盛の墓

2014年04月22日 | 旅 歴史
 岡山県高梁市落合町阿部に山中鹿介幸盛の墓があります。
 山中鹿介幸盛は、山陰の麒麟児といわれた猛将です。一般には山中鹿之助として知られています。尼子の根城・月山富田城は何度も毛利軍の攻撃を受け、永禄9年(1566)、尼子義久は降伏し戦国大名としての尼子氏は滅びました。鹿介は尼子氏再興を願い、尼子勝久を擁し活動します。
 「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と鹿介が三日月に祈った逸話は有名です。豊後大友氏の援助を得て、一度は出雲へ侵攻しましたが毛利軍に敗れ、織田信長に従いました。上月城で篭城し、3万の毛利・宇喜多軍に敗れました。
 鹿介は捕らえられ、毛利輝元の下へ護送されるはずでした。しかし、ここ高梁川と成羽川との合流付近の「阿井の渡し」で謀殺されたのでした。この墓は備中松山藩士・前田時棟によって建てられたそうです。すぐ近くにある観泉寺には鹿介の胴墓があります。

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頼久寺庭園石灯篭

2014年04月21日 | 旅 歴史
 岡山県高梁市頼久寺町に頼久寺があります。
 頼久寺庭園には暦応2年12月沙彌西念勧進と刻された石灯篭があります。この石灯篭は高梁市の文化財に指定されています。

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頼久寺庭園

2014年04月20日 | 旅 歴史
 岡山県高梁市頼久寺町に頼久寺があります。
 頼久寺庭園は小堀遠州が仮の居館としていた頃、作庭されたもので、蓬莱式枯山水庭園です。昭和49年(1974)に国の名勝に指定されています。
 愛宕山を借景にして、白い敷砂の中央に鶴島、後方に亀島の2つの低い築山状の島を置いて石を組んでいます。そしてサツキ、ツツジで大波を表現しています。「鶴亀の庭」と呼ばれ名園の一つに数え上げられています。

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旧折井家住宅

2014年04月18日 | 旅 歴史
岡山県高梁市石火矢町に旧折井家住宅があります。
 武家屋敷の旧折井家住宅は天保年間(1830-1844)に建てられています。長屋門の中には漆喰の美しい書院造りの母屋があります。
 折井家は代々板倉家に仕え、馬回り役を勤め、160石取りであったようです。中級武士の住む簡素な造りですが、当時の中庭が残っています。

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高梁市武家屋敷

2014年04月13日 | 旅 歴史
岡山県高梁市石火矢町に高梁市武家屋敷があります。
 備中松山藩の武家屋敷が石火矢町に残されています。石火矢町ふるさと村は岡山県のふるさと村の指定を受け、風情ある昔のままの通りを整備しています。路地の両脇には白壁の長屋門や土壁が続き、当時の生活の面影を残しています。

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備中松山城三の平櫓東土塀

2014年04月10日 | 旅 歴史
 岡山県高梁市内山下に三の平櫓東土塀があります。
 備中松山城の三の平櫓東土塀は天守、二重櫓と同様に昭和16年(1941)に国の重要文化財に指定されています。松山城では本丸の復元整備が行われていて、本丸南御門、東御門、腕木御門、路地門、五の平櫓、六の平櫓、土塀などが復元されています。

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備中松山城二重櫓

2014年04月09日 | 旅 歴史
 岡山県高梁市内山下に備中松山城二重櫓があります。
 備中松山城の二重櫓は入母屋造り、本瓦葺きの2重2階櫓です。本丸の上段北の詰にほぼ北面しています。天守と同様に昭和16年(1941)に国の重要文化財に指定されています。

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備中松山城天守

2014年04月08日 | 旅 歴史
 岡山県高梁市内山下に備中松山城天守があります。
 備中松山城の天守は、本瓦葺きの2重2階櫓で、西面に半地下のようにして付櫓(廊下)がある複合式望楼型天守です。現存している天守の中では最も小さな天守ですが、最も高いところに建っています。
 備中松山城は日本3大山城の一つとされています。松山城の天守は全国でもわずか12しかない現存の天守として、昭和15年(1940)に解体修理され、翌年の昭和16年(1941)に国宝に指定されました。昭和25年(1950)文化財保護法の制定により、現在は国の重要文化財に指定されています。

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備中松山城

2014年04月06日 | 旅 歴史
 備中松山城は標高約400mの臥牛山(がぎゅうざん)の南峰の小松山にある山城です。秋庭重信が仁治元年(1240)に備中有漢郷(現・高梁市有漢町)の地頭となり大松山に最初の城を築きました。元弘年間(1331-1333)に高橋宗康が小松山まで城を拡張したようです。
 上野氏、庄氏、三村氏と城主は変わりました。三村家親は宇喜多直家によって暗殺されてしまいます。元亀元年(1570)家親の子・元親は直家との戦の時、敵と通じた庄高資・庄勝資親子に松山城を奪われてしまいます。元亀2年(1571)毛利氏の助けをかりて松山城を奪還しました。
 天正2年(1574)、元親は毛利氏から離反し織田信長と手を結びました。翌年にかけて、備中兵乱と呼ばれる三村氏と毛利氏の争いが続きました。そして松山城は毛利の小早川隆景により落され、元親は自害し、毛利氏の所領となりました。
 慶長4年(1600)の関ヶ原の戦いで西軍についた毛利氏は敗れ、徳川幕府は小堀正次・政一(遠州)を城番にしました。元和3年(1617)、池田長幸が6万3千石で入府しましたが、寛永18年(1641)、2代長常に子がなく没したため改易になりました。
 寛永19年(1642)、水谷勝隆(みずのや かつたか)が5万石で入封しました。備中国の3分の2を領有し、備中松山藩の基礎を築きました。2代勝宗は天和元年(1681)から3年間かけて天守を築いたり修復したりして城郭は現在の姿となりました。
 しかし、3代勝美は子なく没し、養子となった勝晴もあとを追うように元禄6年(1693)に早世したため、水谷家は断絶しました。水谷家断絶後、忠臣蔵で有名な赤穂藩主の浅野長矩が城の受取りにあたり、家老の大石良雄は城番を務めました。
 元禄8年(1695)、安藤重博が6万5千石で入封し、正徳元年(1711)には石川総慶が6万石で入封しました。その後、延享元年(1744)に板倉勝澄が5万石で入封し、明治時代まで板倉氏が8代続きました。

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臍帯寺

2014年04月01日 | Weblog
岡山県高梁市有漢町(うかんちょう)上有漢に臍帯寺があります。
 廣大山(こうだいさん)臍帯寺は真言宗のお寺で、昔は「細尾寺」という字の名前だったそうです。本尊の秘仏・聖観世音菩薩は、元賓(げんぴん)上人の母が細尾寺で祈願し安産したという安産の仏様です。へその緒を意味する臍帯という字に改名されたようです。
 臍帯寺は神亀3年(726)に行基により創建され、室町時代には松山城の鬼門擁護の祈願所として広く崇敬されたそうです。
 臍帯寺は大平山中腹にある国指定重要文化財の保月六面石幢(せきどう)と保月の板碑を管理しています。2つとも井野行恒という大和(現在の奈良県)の名工によって花崗岩で造られています。
  六面石幢は高さ263cmで嘉元4年(1306) の銘があり、全国でも数少ない六面石幢です。幢とは細長い旗で仏の像や教えを書いて供養したものです。その旗を6枚合わせた形を石で型どったのが六角石幢です。 板碑は高さ315cm、幅43cmで嘉元3年(1305)の銘があります。

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