旅と歴史

全国各地の史跡を取り上げて紹介しています。

野仏庵

2009年09月30日 | 旅 歴史
 京都市左京区一乗寺葉山町にある野仏庵です。
 お地蔵さんの多い京都の中でも、一乗寺界隈は「野仏」の多い場所です。上田秋成ゆかりの茶室もあり、たくさんの野仏が庭に並ぶ庵です。
 この長屋門は西園寺公望が新撰組に追われ隠遁地丹波にあったものをここに移築したものだそうです。 



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八大神社

2009年09月30日 | 旅 歴史
 今日は京都市左京区一乗寺松原町にある八大神社を紹介します。
 詩仙堂の山手(東側)に八大神社があります。鎌倉時代の永仁年間に勧請された由緒ある古社です。この神社は「北の祇園さん」と呼ばれて親しまれています。祇園・八坂神社と同じ牛頭(ごず)天王が奉られているからです。
皇居守護神の一社で都の表鬼門にあたり、方除・厄除・縁結び・学業の神として有名でした。宮本武蔵悟りの地といわれ、宮本武蔵が「下り松」で決闘する前に参拝したことで有名です。
 決闘した当時の一乗下り松(八大神社境内内)の古木です。慶長9年(1604)、21才の宮本武蔵が吉岡一門と戦いました。
 岐阜県本巣郡根尾村の天然記念物「淡墨桜」(うすずみざくら)も植えられていました。

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一乗下り松

2009年09月29日 | 旅 歴史
 京都府京都市左京区一乗寺松原町にある一乗下り松です。
 一乗寺山は八大神社、詩仙堂、西本願寺の北山別院、金福院に囲まれた高台を言います。この「下り松」は、京の都から比叡山延暦寺や滋賀の坂本への道しるべとして植えられたもので、「保元物語」や「平家物語」にも出てくる古いものです。
 一の谷の戦いで戦死した平敦盛の遺児がこの松に捨てられていたのを法然が拾い育てて僧にしたという話、楠正成がここで足利尊氏の軍勢を向かえたという話など残っています。宮本武蔵と吉岡清十郎一門が決闘した所として有名です。一説には決闘したのは一条通の西端の「北野の七本松」で、そこも「一乗下り松」と称されていたということです。
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西本願寺北山別院

2009年09月29日 | 旅 歴史
 今日は京都市左京区一乗寺薬師堂町にある西本願寺北山別院を紹介します。
 詩仙堂の南側に西本願寺の北山別院があります。建仁元年(1201)、浄土真宗の開山僧である親鸞上人が比叡山より京都鳥丸の六角堂(頂法寺)の救世観音に百カ日の参籠を始めました。
 毎朝、比叡山からの往きには、ここ北山別院で親鸞は身体を清め、帰りには暫し休憩の後わらじのひもを締め直して雲母坂の険路に向かったといわれています。
参籠を始めて95日の明け方、親賛は聖徳太子から「菩提の道」を示され、六角堂を出ました。そしてその後、親鸞は比叡山へは戻らず、法然の吉水庵へ行ったのでした。
 29才の親鸞が愛用した御聖水は今でも湧き出ています。北山別院の山号聖水山も聖人を偲んでつけられたものだそうです。
 「病患(わずらい)も またご縁なり 法の道」

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金福寺

2009年09月28日 | 旅 歴史
京都府京都市左京区一乗寺才形町にある金福寺です。
 佛日山金福寺は貞観6年(864)に慈覚大師が自作の聖観音菩薩の像を祀り創建されました。。天台宗のお寺でしたが江戸時代に鉄舟和尚が再興して臨済宗南禅寺派の寺になりました。その頃に松尾芭蕉がたびたび訪れた縁で境内の後丘の庵を芭蕉庵と言われるようになりました。
 芭蕉庵はその後荒廃しました。その後、与謝蕪村が庵を再興しました。寺には今も蕪村の墓があります。この寺は観音の霊場で、俳諧の聖地ともいわれています。
 金福寺は、舟橋聖一の「花の生涯」で紹介された、幕末の安政の大獄で幕府のスパイとして活躍した村山たか女が「妙寿尼」という尼として過ごした隠棲地でもありました。
 安政5年(1858)、44才の井伊直弼は大老になり将軍家跡継ぎと日米修好通商条約をめぐり反対派への弾圧を開始した時、たかは長野主善とともに直弼の手足となりました。その後捕らえられ「生きさらし」の刑で三条大橋の橋柱に縛り付けられたのです。

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三千院

2009年09月27日 | 旅 歴史


 京都市左京区大原来迎院町にある三千院です。
 「京都大原三千院 恋に疲れた女がひとり~ ♪」で大ヒットした三千院です。洛北大原にある有名な三千院は、伝教大師・最澄が比叡山の東塔にあった梨の木の下に一院を開いたのが始まりとされています。
 平安初期、慈覚大師円仁が天台声明の根本道場として魚山大原寺を開いて以来、三千院のある大原の地は、比叡山を取り囲む天台仏教の中心地のひとつとなりました。
 三千院は別名を「梶井門跡」「梨本門跡」「円融院門跡」とも呼ばれる「天台宗五箇室門跡」のひとつです。平安時代後期以降は、皇族の僧が住んでいたそうで、優美な雰囲気です。
 958年に建てられた本堂の往生極楽院には弥陀の来迎を表わす阿弥陀三尊の座像があります。重要文化財にも指定されていて穏やかな面持ちで来訪者を出迎えてくれます。
 妙法院、青蓮院と並ぶ天台宗三門跡の一つでもあり、最澄ゆかりの寺として有名です。後ろには小野山がひかえ、四方はまるで城のように高い石垣に囲まれています。杉の並木が境内を包んでいます。
 三千院内には「有清園」「聚碧園」の二つの地泉回遊式庭園が造られていてしっとりとしたたたずまいをみせています。「あじさい苑」のアジサイ、「有清園」のシャクナゲは人気です。




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大原寂光院

2009年09月27日 | 旅 歴史
 今日は京都市左京区大原草生町にある大原寂光院を紹介します。
 寂光院の名で知られていますが、詳しくは清香山玉泉寺寂光院です。歴史が古く聖徳太子が推古2(593)年に用明天皇の菩提のために建てたと伝えられています。
 壇浦の戦で破れ都に戻った平清盛の娘で安徳天皇の生母の建礼門院が出家して住んだ事で知られています。また建礼門院に仕えた阿波内侍が、里人の貢ぎ物の夏野菜を一緒に漬け込んだのが「しば漬」だということです。
 本殿は16~17世紀、片桐且元が淀君の命により再建したもので、本尊の地蔵菩薩は重要文化財に指定されています。本尊は六万体腹竜りの地蔵菩薩で聖徳太子の御作と伝えられています。本堂は焼失し、現在の本堂は平成17年(2005)6月に再建されたものです。
 大原の山里に、まだ時の権力者であった後白河法皇が、建礼門院を訪ねられたのが平家物語の「大原御幸」の段で出てきます。これで 寂光院は一躍有名になりました。 



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豊国神社

2009年09月26日 | 旅 歴史
 京都市東山区大和大路通正面茶屋町にある豊国神社です。
 豊臣秀吉を祀り、一般に「コウコクさん」の呼称で人々に親しまれている神社です。境内には、秀吉夫人の北政所を祀る摂社貞照神社もあります。 
 慶長3年(1598)に63才で亡くなった秀吉は後陽成天皇より正一位の神階と豊国大明神の神号を賜り、遺骸は遺命により阿弥陀ヶ峰の中腹に葬られました。
 豊臣家滅亡後、徳川幕府によって廟所は取り払われました。秀吉の御霊は新日吉神社に移されてしまいました。その後、明治13年(1880)、明治政府が秀吉の徳を称えて、方広寺大仏殿跡に再興したものです。
 石段を上がると豪華な唐門があります。伏見城の城門を移築したものだといわれています。唐破風がついた四脚門で、欄間や扉の彫刻に桃山時代の華麗な遺風が偲ばれます。


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方広寺

2009年09月26日 | 旅 歴史
 今日は京都市東山区茶屋町にある方広寺を紹介します。
 豊臣秀吉が建立した方広寺は、松永秀繁によって焼かれた奈良の大仏が再興されなかったのでここに大仏殿を建立したのです。9年の歳月を費やして建て大仏千人供養をしたのですが、慶長元年(1596)の大地震で焼失してしまいました。
のちに秀頼が再建しましたが、火災で焼失してしまいました。梵鐘に刻まれた銘文が家康の怒りにふれ、大坂冬の陣、夏の陣をひきおすことになり豊臣家滅亡のきっかけとなりました。現在は、大鐘が吊られた鐘楼、諸将の名が刻まれた石塁や石塔だけが残っています。


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妙法院

2009年09月25日 | 旅 歴史
 京都市東山区妙法院前側町にある妙法院です。
 天台宗に属する寺院で、天台三門跡(梶井門跡、青連院門跡)のひとつに数えられている名刹です。蓮華王院本堂(三十三間堂)は妙法院の仏堂で江戸時代から管理しています。
 後白河上皇の護持僧昌雲(しょううん)が祈祷の験により、新日吉(いまひえ)御所の地を与えられ創建した説と最澄が創建した説とがあります。
 暦応3年(1340)佐々木道誉によって攻撃され灰燼に帰し、復興後も応仁の乱で荒廃しました。豊臣秀吉が方広寺の大仏殿を建立するとき大仏の経堂として再興されました。庫裏は国宝で桃山期の豪快な建築です。
 寺領も1600石になり江戸時代には新日吉神社、蓮華王院、方広寺なども管理しました。天明の大火の際には光格天皇の皇后が避難したそうです。大書院は東福門院の旧殿を移築したものといわれています。
 幕末の七卿落ちが行われた宸殿、小堀遠州作と伝える庭園などもあります。国宝のポルトガル国印度副王信書、狩野派の筆による「唐美人図」「四季花鳥図」など、大画面の豪華絢爛な金碧画なども有名です。。




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智積院

2009年09月25日 | 旅 歴史
 今日は京都市東山区東大路七条下ル東瓦町にある智積院を紹介します。
 真言宗智山派の総本山です。豊臣秀吉が3才でなくなった長男鶴松の菩提を弔うために建造した祥雲寺が始まりです。
 元和元年(1615)紀州、根来寺(ねごろじ)の住職玄宥(げんゆう)が根来寺智積院と改名しました。18世紀初頭、学生僧教学専門学寮70棟を数えたといわれています。
 智積院は布教よりも学寮として発展したそうです。その勢力は全国におよび、代々の住持は硯学(せきがく)が任じられました。
 特に7世の運敞(うんしょう)は語学に通じ、人気があり諸国から宗派を問わず大勢の学生が集まったそうです。
 見どころは境内の収蔵庫にある桃山時代の国宝障壁画です。長谷川等伯一派の描いた桜図や楓図、雪松図、松に秋草図など見事なものばかりです。
 国宝に指定されている桃山時代の二曲屏風「紙本金地著色松に草花図」や重要文化財の「金地著色孔雀明王像・絹本著色童子経曼陀羅図」など有名なものがあります。
 庭園は江戸時代に作られたもので国の名勝になっています。北を生け垣、中央を枯滝組み、南を池泉とした名園です。7世の運敞が中国の廬山の景をかたどって作ったといわれています。


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京都国立博物館

2009年09月24日 | 旅 歴史
 京都府京都市東山区茶屋町にある京都国立博物館です。
 片山東熊(かたやまとうくま)により明治30年(1897)に建てられた煉瓦造の洋風建築物です。当時は帝国京都博物館と称されました。国の重要文化財に指定されています。 
 明治16年(1883)閉館した京都府立博物館の収蔵品1076件をを引き継ぎました。彫刻・書跡・金工など約1万2000件の文化財が収蔵されています。




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養源院

2009年09月24日 | 旅 歴史
 今日は京都市東山区三十三間堂廻り町にある養源院を紹介します。
 豊臣秀吉の側室、淀君が父の浅井長政の菩提を弔うため文禄3年(1594)に長政の従兄弟にあたる成伯法印を開山として創建しました。養源院は長政の法号でもあります。
 その後、焼失し、元和7年(1621)、淀君の妹である徳川秀忠夫人崇源院が伏見城の遺構を移し再建しました。廊下の天井は、伏見城落城の際、自刃した武将たちの血のりのしみた板を使ったため「血天井」として有名です。
 本堂の襖、「松図」12面や、白象を描いた杉戸絵8面は俵屋宗達の作品で重要文化財に指定されています。



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蓮華王院 三十三間堂

2009年09月23日 | 旅 歴史
 京都府京都市東山区三十三間堂廻町にある蓮華王院こと三十三間堂です。
 三十三間堂は、正式には蓮華王院(天台宗)といい、内陣の柱間が33あることに由来しています。長寛2年(1164)、後白河上皇の勅願で平清盛が院御所法住寺殿(ほうじゅうじどの)西側に千体観音堂を建立したのがはじまりです。
 その後、焼失しましたが、鎌倉時代の文永3年(1266)に現在の本堂が再建されました。柱間の数が33ある横長のお堂は総檜造りで約120mあります。
 国宝 蓮華王院本堂(三十三間堂)は国宝に指定されています。三門跡のひとつの妙法院の仏堂なのです。
 中央壇上には鎌倉時代の仏師、湛慶(たんけい)が82才の時に手がけたという国宝の千手観音坐像があります。見る者を圧倒させます。全長335cmの大作です。
 左右に合わせて千体の千手観音立像が並んでいます。平安から鎌倉時代のもので実際には1001体あるそうです。これらは重要文化財に指定されています。
 国宝に指定されている二十八部衆立像は火災時に全部運び出されたと記録されていますが、諸説有るようです。
 国宝の木造風神・雷神像は鎌倉時代に作られたものです。外陣(げじん)に安置されていましたが、今は元通りの内陣に移されています。
 江戸時代には400回ちかく「通し矢」が行われ延べ100万本の矢が使われたそうです。お堂の南辺の柱や板壁には弓を張る時にその先端を差し込んだ小穴が残っています。 
「通し矢」は、毎年1月15日に一番近い日曜日に催されています。また頭痛封じの楊枝の(やなぎ)加持も行われています。
 宮本武蔵が吉岡と立ち会った場所でもあります。
 土塀を少なくしたり、粘土と砂を層状に重ねた「版築」地盤にするなどして耐震のための「揺れる建造物」となっています。
  蓮華王院の築地塀は重要文化財に指定されています。別名太閤塀ともいわれます。桃山時代の遺構で豪壮な感じを出しています。
 蓮華王院の南大門も重要文化財に指定されています。桃山時代に建てられたものです。門を入った右手に法住寺跡の碑があります。
 法住寺は藤原為光が建立した寺でしたが焼失し、その跡に後白河天皇が後院の法住寺殿を造営し、永暦2年(1161)後白河院政を執り行った場所でした。


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平安神宮

2009年09月23日 | 旅 歴史

 今日は京都市左京区岡崎西天王町にある平安神宮を紹介します。
 京都一の大鳥居をもつ平安神宮は、平安遷都1100年を記念して、明治28年(1895)に造営されました。平安京大内裏の正庁である朝堂院(ちょうどういん)の8分の5の規模で建造されました。
 社殿の柱はあざやかな朱に塗られ、宮廷風の雅やかさを感じさせます。社殿の背後を囲むようにある神苑は、広さ3万平方mで桜にカキツバタ、花菖蒲など四季折々に花が植えられています。
 本殿は昭和51年(1976)焼失後の再建で、祭神には、桓武天皇と孝明天皇を祀っています。境内は広大で、創建当時、この周辺で内国勧業博覧会が開催されたそうです。毎年6月1日、2日は薪能が行われるそうです。
 10月22日に行われる時代祭も平安遷都1100年を記念して始められました。勤王鼓笛隊を先頭に2千名もの大行列が、御所から平安神宮まで練り歩きます。
 京都は四神(蒼龍・白虎・朱雀・玄武)相応の地とされていました。
 蒼龍楼は西方の白虎楼と共に平安京朝堂院(ちょうどういん)の様式を模したものです。屋根は四方流れ、二重五練の入母屋造りで碧(みどり)瓦本葺きが施されています。
 庭園は7代目小川治兵衛の作庭です。
 白虎楼は東方の蒼龍楼と共に平安京朝堂院(ちょうどういん)の様式を模したものです。屋根は四方流れ、二重五練の入母屋造りで碧(みどり)瓦本葺きが施されています。
 平安時代以降、紫宸殿の南階下の西方に植えられた橘のことを「右近の橘」といい「左近の桜」と併称されています。儀式の時、右近衛府の官人がその側に列したことから名付けられました。
 平安時代より、紫宸殿の南階下の東方に植えられ、儀式の時、左近衛府の官人がその側に列したことから「左近の桜」と名付けられました。
 敷島の        
大和心を人とはば
朝日ににほふ
山ざくらばな
    本居 宣長


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