夕陽に映えるコスモス、可憐ですね。
今日も気持ちのいい秋晴れ。
School Library Academyが早めに終わり、畑で水やり。その畑ではコスモスが咲き競っています。
第3回となるAcademyは、学校図書館支援センターがテーマ。
業界では名が通った3人の方、大和市教育委員会のスーパーバイザー・藤田先生、全国で唯一の形、鳥取県立図書館学校図書館支援センターの支援員兼指導主事・北田先生、3月まで松江市教育委員会の支援スタッフで、マレーシア在住の原田さんを講師に迎え講義を受けました。
いずれ劣らぬキャリアの持ち主ですから、講義時間はドンピシャ!(どうでもいいことですが)
図書館教育を阻む3つの壁
一番の核心だ!と思ったのは、藤田先生の講義で話された図書館教育を阻む3つの壁(弊害)。
①「図書室」「図書の時間」②「学び方の指導」③「図書館教育を考える」。今まで多くの学校現場にお邪魔する中で感じ続けてきたことなんですよね。
「図書室」「図書の時間」
図書館は機能する場所。単なる一つの部屋「図書室」ではなく、情報の揃う学習の場であり、指導目標を持つ教科の時間として活用する場、本があるからできる本の運動場であり体育館。指導ナシの体育の授業ってあり得ないですものね。
「図書の時間」、はっ?読書指導ではないの?多くの現場では、「図書の時間」は好きな本を読ませ借りさせる時間、司書がいれば毎回読み聞かせをしてくれる、先生の息抜きの時間や他の仕事ができる時間。時間が張り付けてあり、他の先生が授業で活用したくてもできない。
さすがに、島根では「図書の時間」という学校はほぼないだろうと思いますが。
「学び方の指導」
「学び方の指導」、探求型学習の指導をすべきなのに、調べる学習は宿題にする、パソコンが調べやすい、資料が人数分ないからできない、調べましょうという指示だけ。
あったんだよね。図書館に連れて行って、〇〇を調べましょうと言って子どもを放す。公共図書館でも司書はそんな姿を見ていたんですよね。島根でも今もある?
でも、パソコンで調べさせて調べ学習としたり、途中までで終わったら残りは宿題で、辞書も同じものが人数分必要とか、あるんだよなあ、島根でも。
そして、担任と司書教諭と司書の協働で成り立つ探求型学習に協働がない。
この言葉は極めつけかもというのは、先生は、「図書の時間」は図書館に行くが、図書館に行く時間がない。校長は、ボランティアさんがよくやってくれます。生徒はパソコンで調べています。司書教諭は、図書館のことをする時間がありません。私からは言えません。
管理職からは、ボランティアさんの話やパソコンの話はよく出ましたね。それと、若い司書教諭だと、先輩の先生方に話すのもハードルが高いんだよね。
「図書館教育を考える」
「図書館教育を考える」、誰が図書館教育を担うのか?現状が問題だと意識しているか?教員の研修・養成は適切か?
これって、現場を責めるのは、本当はちょっぴり可哀そうだよなあと思います。
というか、これってではなくてこれも、ということなんですが、そもそも、学校図書館をインフラとして使いこなす、何て、誰も学んでこなかったし、経験してこなかった。
それが、社会から自分で考え、行動できる人材を求められる時代となり、学校現場にそれが降ってくる。そもそも、根っこは政治の貧困にあるかもですので、責めても詮無いこと。
ですからなおさら、どうそんな人づくりを戦略的に進めるのか、そこが時代の要請として問われているのでそれに応えなきゃと思うのですが、教育委員会も現場も親も社会もそんな位置づけではない。
風としては吹いているものの、大谷投手のようなストレートの球がど真ん中に来ない。
と思えてならないのですが、、、政治は、再配分機能。既得権の枠組みの中でどうするかだけれども、政治家は選挙で選ばれる存在である以上、票と無関係に生きられない。
一層、国民の成熟度が問われる時代ですね。