そうかなあ?何か勘違いしているんじゃないだろうか?今朝になって見た昨日の地元紙の1面、「小5~中3に一人一台」。
あっ、各自にパソコンを持たせるんだそうです。
昨夜、NHK?のドイツ人が多く住む街を取材した番組の予告で、中学生くらいの男の子が「学校はドイツの方が自由でいい」と話しているシーンがとても印象的でした。
これ、とても重い言葉だと思ったのは僕一人?
振り返れば、現職時代にはITを一番理解している議員として通っていた!?
それは、松江発のRubyというプログラミング言語に着目し、ITを地域振興の柱の一つにしたいと思ったからで、義務教育現場でもその活用をと取り組んだものでしたが、今はその不明を恥じるような気分です。
もちろん、子どもたちが自由に親しむ環境を整えておくことは必要としても。
不明を恥じる~巨費を投じて全ての子どもたちに一律にという発想に危うさというか、嫌悪感を感じるようになった自分がいます。
その前に、もっと子どもたちの多様性を育む取り組みに力を入れるべきではないか。
例えば、森の幼稚園やシチェチニン先生の学校のように、自然の中での体験や生きることをテーマとした取り組みを受け入れ、サポートしたほうがいいのではないか。
わが国の政治家も官僚も、焦りの余りかなり近視眼になってるんじゃないかなあ?
面白い方があるもので、人が羨むような最先端の仕事を凄腕でこなしながらさっさと辞める。
やりたかったからと絵描き人生を志して、尋ねた先生は穴の開いた靴を履き、住まいはあばら家、雪が降ればトイレやお風呂に雪が積もるような、誰が見ても落ちぶれ果てた生活をしている。
師事を決めて頼むと、一切の交友関係を断てとの無理難題とも思える要求に唯々諾々と応じる。
そんなところに踏み出す生き方って、、、ある意味凄すぎかも。
人の弟子になれる能力、そうか、それって習い事の究極かも~~!
弟子になる、普通は付き従おうと思う師匠を選びますよね、何を基準に?
習う、学ぶ方って、習おうとすることを全く知らないんだから、本来師の選びようがない。
絵描き人生を志した方、きっかけは何だったのでしょうね、誰が考えても普通じゃない師を選んだ。
でも、この師はただならぬ方だっただけでなく、人生の最良のパートナーとなり、あり得ないような経験をさせてもらう。
「生きる力」とは 内田樹は「街場の戦争論」の中で、弟子になれる能力について書いていますが、学びの神髄って、内田先生の論に尽きるように思えて仕方ありません。
内田先生は、合気道の師・多田宏先生との出会いをすばらしい「武運」だったと書いています。
武道が最終的に求めている境地は「いるべきときに、いるべきところにいて、なすべきことをなす」ことにつくされ、そのほとんどは自己決定できるものではない。たまたま出かけたところで、会うべき人に会い、なすべきことを教えられる。それこそが「生きる力」であると多田先生は教えておられると。
武道家の天才性は、人体能力が卓越していることよりも、会うべき人に、会うべき時に会える能力に潜んでいると思えると書かれていますが、人の人生もまた、その通りだろうと思えてなりません。
人智、ある意味そうたいしたものではない、自然界や宇宙のリズム(言い方はさまざまかな?)や見えないものを身体で観じて、同期できる能力、それが生きる幅広さや深み、「生きる力」なのかなあ、そんなことを感じています。
習い事、特に、わが国で伝えられてきた“道”の事って、そういうことを体感・体得するためなのかなあ。
学校の学びもその延長にあって欲しいものだなあ、そんなことを夢想しながら、絵描き人生を歩む方のお話を聞かせて頂きました。
ちょっと所用で大分に行く予定です。
ということと暫らく雨もなさそうだということで、ポンプの調子確認もあり年初めての畑の水やり。
その前には草刈り機で畑の雑草の手入れでしたが、ホケ清君の独演会を聞きながら。
終ってシャワーを浴び、一杯始めるとねこしゃんたちの大喧噪、何とも賑やかな新庄です。
学校図書館活用教育って!
なぜか?草刈り機を回し、水遣りしながら思い浮かんだのは昨日のブログへのマオさんのコメントと、現職の時代に長年取り組んできた学校図書館活用教育。
その中で、今でも忘れられない授業風景が幾つかありますが、一番印象に残っているのは揖屋小学校の学校図書館を活用したお客さんのいない授業の光景です。
それは4年生の授業だったと思いますが、一瞬もじっとしていられない多動の児童に注目していると、授業が3/4も過ぎた頃、ちゃんと椅子に座って授業に参加、こんな授業ができるんだ!と。
もう一つ、県内のある小学校の5年生、全く授業に参加できない男の子が、ある日大きな松ぼっくりを拾って図書館にやってきて、「これ何?」と司書に聞いた。
司書は、一冊の図鑑を取り出してその子の前に置くと、その子は1頁目から丹念に広げて調べ始め、やがてその松ぼっくりと木の写真に行き当たるんですね。
以来、その子は学校図書館にさまざまなものを持ち込んでは調べるようになった。
「学び方」を学ぶ
現職の時代に、学校図書館活用教育の充実と推進に突き動かしたのはこうしたことがあったから。
それを思い起こさせたのは、「下流志向」でちょうど読んでいたのが「『学び方』を学ぶ」という節だったからなんですね。
「『学び方』を学ぶ」って、学ぶにおいての一番のポイントで、学び方さえ手に入れてしまえば、どんなことにだって容易に取り組めるものですよね。
ただ、苅谷剛彦の言う業績主義的な価値が優先する学校では至難なことだろうと思えます。
相手は、消費主体として即物的な等価交換概念に支配されてしまった子どもたちですから。
しかも、家庭やコミュニティにその子へのコミットメント力が極めて脆弱だとしたら、、、
意味不明がたくさんあるかもしれませんね。
知りたいと思う方は「下流志向」をご一読ください。
そうは思っていたけど、本当に、本当にこういう状況にあるのか?
改めて考えさせられています。
内田樹の講演録を読んでいて、読んだような気がするけどなあ、にしても、読まなきゃ!と。
ネットで注文する一歩手前で、それでもと本棚を見てみると、ちゃんとありました。
付箋がいっぱい貼ってあり、おまけにマーカーで線も引いている、それでも記憶には超薄い(^^;;
韓国の先生が激しく同意
どうしてか、内田樹の本って、韓国でたくさん翻訳されている、しかもどこの国より多い。
韓国から何人かの教師が会いたいと訪ねてきた、それは、まだ翻訳されていないこの本を読んで、韓国の状況とあまりにもよく似ている、そういうことだったのか!と激しく同意していてもたってもいられずに。
それがこの「下流指向~学ばない子供たち 働かない若者たち」。 半分ほど読んだところですが、恐らく、読み終わったらもう一度読み始めるんだろうなあ。
学びからの逃走が自己有能感
今日、最後に読んだところ、学力低下は「努力の成果」という節何ですが、激しく頷き、激しく動揺させられます。
この節では、苅谷剛彦のデータから指摘した考察を引用しています。
比較的低い階層出身のの日本の生徒たちは、学校での成功を否定し、将来よりも現在に向かうことで、自己の有能感を高め、自己を肯定する術を身につけている。低い階層の生徒たちは学校の業績主義的な価値から離脱することで「自分自身にいい感じをもつ」ようになっている。
この引用の後、一定数の子どもたちが学びを放棄し、学びから逃走することから自己有能感や達成感を得ているということになると(そして、その数が増えつつあるとすると)、それは教育技術やカリキュラムの改定といったテクニカルなレベルでは解決できることではありません。社会の在り方全体についての身を抉るような考察を通じてしか、この道は見えてこないでしょう。と。
自己責任の言葉のもと
今の教育制度は完全に行き詰っているのではないか、そう感じてきましたが、この本を改めて読み始めてその思いを新たにしています。
読み始めて数日後、親しくしている先生にぜひこの本を読んで欲しい、そして、関心ある皆さんと話す場を持ちたいと電話をしました。
現場の先生たちの疲弊感、まさにこのことなんじゃないかと。
こうした子どもたちは、自己責任の言葉のもと、最下層に固定化することになるんでしょうね。
リスクヘッジできるセーフティーネットの喪失した社会の中で、、、
昨夜は、境港の漁師料理店“和泉”で房仙会の忘年会~“房年会”、確かに~で、突っ込まれるがままでしたが、楽しく楽しく楽しく夜が更けて行きました。
和泉のお料理、これでもかと鮮度最高のお魚料理の数々、5~6年前なら完食!となったでしょうけど、お腹が受け付けませんでした~、残念。
房仙会最後のお稽古に向かう通り名物の欅の街路樹、いつも楽しませてくれています。
半月ほど前にも、最高の錦秋の姿で目を楽しませてくれましたが、昨日は葉をほとんど落として冬支度、冬の景色は何となく淋しいですね。
昨夜は雪予報でしたが、夜の友が活躍してくれて外も見ませんでした。
朝、何の気配もなく、境港から無事に帰宅、お陰で、予定していた大東にも難なく行くことができました。
教育は行き詰っている?
大東では、通信で学べる高校のサテライト校として、学習障害を持った高校1年の生徒一人を受け入れ、その生徒のためのプログラムを動かしていらっしゃる先生のお話を聞きました。
現場には様々な課題が埋もれていますが、特に中学校では気づかぬふりをして、 子どもを自分たちの枠に入れようとしているんだろうなあ。
我が国の教育は、相当行き詰っているんじゃないか、そう思えてなりません。
誰のために教育制度ってあるんでしょうね。
ボランティアが彼女です
夕方、“ボランティアが彼女です”という青年に、いけずご王国のアドバイスを貰いました。
この言葉、ぐさりと刺さりました。
とても魅力的な青年で、決して結婚願望がないわけではないけど、誰も見ようとしていないのかなあ?