日曜の午後_
亭主が「ここもまだ行ってないんや」という清閑亭に
一緒に行きました。
(私は前回の「まちあるき検定」で一度お邪魔してます)
旧城内高校手前から天神山へ上がる坂道の途中に・・・
清閑亭はあります。
↓玄関前のこの樹は何でしょう?_というのが
前回の「小田原まちあるき検定」で出題されてましたっけ^^) (答え:楠)
こちらは 貴族院副議長を長く務めた黒田長成侯爵(最後の福岡藩藩主の長男)の別邸だったところ。「公」の部分を極力廃し「私」の生活の場にするつもりで建てられたのが 例えばこの玄関からも伺えます_ と まちあるき検定の時教えて頂きました。
↑玄関までくると 中から学芸員さんが
「今ちょうど館内の説明を始めたところです もしよかったら・・・」と
声をかけてくれましたので
お言葉に甘えて館内めぐりのグループに混ぜて頂きました。
明るく 風通しのよい ・・・
そして高台にあるので
(実はここは北条時代の土塁の上、ですって)
眺めのよいお家です。
↑松林の向こうは海が広がっています。
↓板襖には豪奢な孔雀の絵が!
(この縁側はカフェなので まち歩き検定の時は拝見できなかったんです)
_板襖 学芸員さんに言われて一枚板であることに気づきました。
複雑な木目(モアレ柄)を見ながら 「元の木材は一体どんなサイズだったのだろう?」と思ったことです。
↓隣の座敷には 天板に桜の一枚板を使った大きな机がありました。
↑見学者一同 「おおーーーー」
二階に上がってみました。
真鶴半島の三ツ石がうっすら見えます。
(お天気のよい日は その向こうに 初島も見えるそうです)
黒田さんはここ小田原で 漢詩を作ったり 書を書いたり と
趣味に生きられたようです。
↓二階にあった黒田長成の書(雅号は桜谷)
↑「床板」を置かない「地板」張り、 節の多い床柱・・・ お殿様は意外に田舎屋風の書院がお好きだった?
当時の小田原には 同じように 喧騒を離れ
鄙びた地で赴きある暮らしをしようとする政財界の人々が多く暮らしており、
そうした人同士の交流も盛んだったようですね。
(そうそ、黒田家では 隣の閑院宮家からお嫁さんをもらわれています)
一階には ご近所さん(?)の一人_
↓山県有朋の書(雅号は含雪)もありました。
静閑亭は 戦後持ち主が浅野家(広島のお殿様ですね)に変わっています。
時代が変わり 持ち主が変わり・・・(一時生命保険会社の所有にもなっていたそうです)
内装も変わったようですが、 いつ誰がどの部分に手を入れたか、
は よくわからないのですって。
↓この裏庭も 最初からこういうお庭がついていたのかどうか・・・
↓でも蔵を建てたのは 浅野さんであることがわかっています。
浅野家は戦後東京のお屋敷を引き払って小田原に住まわれたので 沢山の家財道具を入れるのに蔵が必要だったのだ、とか。
↓蔵は家とつながっています。
↓廊下と結ばれた蔵の入り口。
庭から母屋を眺めたところ_
さて、清閑亭には_お台所がありません。
実は向かって右の一段低い場所に別棟の台所があり、
使用人もそっちに住んでいたのだとか。
台所のある棟の二階が 清閑亭二階家の一階部分と 渡り廊下でつながっていて、お料理は二階家一階部分で奥女中に渡されたそうですー。
(奥女中は母屋の続きの棟の一階に寝起きしていたようですよ)
いやいや
鄙びた別荘に住んでも お殿様はやはりお殿様だったんですね~。
↓東大社会学研究室の平井太郎さん(まちあるき検定でいつも解説をして下さる方です)の作られた清閑亭についての資料がご覧いただけます(PDF)
http://www.machien.net/about/seikan-tei-p.pdf
↓まちえん のブログ/先日の震災時の清閑亭の被害等を知ることができます。
http://machien5.exblog.jp/
私はこちらを読ませて頂いて・・・
「あ!『おだわら街歩き指南帳4』が出てる! 買わなきゃ!」でした。
亭主が「ここもまだ行ってないんや」という清閑亭に
一緒に行きました。
(私は前回の「まちあるき検定」で一度お邪魔してます)
旧城内高校手前から天神山へ上がる坂道の途中に・・・
清閑亭はあります。
↓玄関前のこの樹は何でしょう?_というのが
前回の「小田原まちあるき検定」で出題されてましたっけ^^) (答え:楠)
こちらは 貴族院副議長を長く務めた黒田長成侯爵(最後の福岡藩藩主の長男)の別邸だったところ。「公」の部分を極力廃し「私」の生活の場にするつもりで建てられたのが 例えばこの玄関からも伺えます_ と まちあるき検定の時教えて頂きました。
↑玄関までくると 中から学芸員さんが
「今ちょうど館内の説明を始めたところです もしよかったら・・・」と
声をかけてくれましたので
お言葉に甘えて館内めぐりのグループに混ぜて頂きました。
明るく 風通しのよい ・・・
そして高台にあるので
(実はここは北条時代の土塁の上、ですって)
眺めのよいお家です。
↑松林の向こうは海が広がっています。
↓板襖には豪奢な孔雀の絵が!
(この縁側はカフェなので まち歩き検定の時は拝見できなかったんです)
_板襖 学芸員さんに言われて一枚板であることに気づきました。
複雑な木目(モアレ柄)を見ながら 「元の木材は一体どんなサイズだったのだろう?」と思ったことです。
↓隣の座敷には 天板に桜の一枚板を使った大きな机がありました。
↑見学者一同 「おおーーーー」
二階に上がってみました。
真鶴半島の三ツ石がうっすら見えます。
(お天気のよい日は その向こうに 初島も見えるそうです)
黒田さんはここ小田原で 漢詩を作ったり 書を書いたり と
趣味に生きられたようです。
↓二階にあった黒田長成の書(雅号は桜谷)
↑「床板」を置かない「地板」張り、 節の多い床柱・・・ お殿様は意外に田舎屋風の書院がお好きだった?
当時の小田原には 同じように 喧騒を離れ
鄙びた地で赴きある暮らしをしようとする政財界の人々が多く暮らしており、
そうした人同士の交流も盛んだったようですね。
(そうそ、黒田家では 隣の閑院宮家からお嫁さんをもらわれています)
一階には ご近所さん(?)の一人_
↓山県有朋の書(雅号は含雪)もありました。
静閑亭は 戦後持ち主が浅野家(広島のお殿様ですね)に変わっています。
時代が変わり 持ち主が変わり・・・(一時生命保険会社の所有にもなっていたそうです)
内装も変わったようですが、 いつ誰がどの部分に手を入れたか、
は よくわからないのですって。
↓この裏庭も 最初からこういうお庭がついていたのかどうか・・・
↓でも蔵を建てたのは 浅野さんであることがわかっています。
浅野家は戦後東京のお屋敷を引き払って小田原に住まわれたので 沢山の家財道具を入れるのに蔵が必要だったのだ、とか。
↓蔵は家とつながっています。
↓廊下と結ばれた蔵の入り口。
庭から母屋を眺めたところ_
さて、清閑亭には_お台所がありません。
実は向かって右の一段低い場所に別棟の台所があり、
使用人もそっちに住んでいたのだとか。
台所のある棟の二階が 清閑亭二階家の一階部分と 渡り廊下でつながっていて、お料理は二階家一階部分で奥女中に渡されたそうですー。
(奥女中は母屋の続きの棟の一階に寝起きしていたようですよ)
いやいや
鄙びた別荘に住んでも お殿様はやはりお殿様だったんですね~。
↓東大社会学研究室の平井太郎さん(まちあるき検定でいつも解説をして下さる方です)の作られた清閑亭についての資料がご覧いただけます(PDF)
http://www.machien.net/about/seikan-tei-p.pdf
↓まちえん のブログ/先日の震災時の清閑亭の被害等を知ることができます。
http://machien5.exblog.jp/
私はこちらを読ませて頂いて・・・
「あ!『おだわら街歩き指南帳4』が出てる! 買わなきゃ!」でした。