おだわらぐらし

縁あって引っ越した 相模の国_小田原
一杯見て 一杯歩いて 一杯味わった三年半の思い出

弦楽グループ PIACEREのコンサートに行きました。

2010-05-23 18:59:44 | 小田原-イベント
 
我が家ではなにやら定着した感のある「ほっとファイブ・タウン」の催し
街なかコンサート。
昨夜は 小田原近在の音楽家の集まり「PIACERE(ピアチェーレ)」さんが奏でる弦楽曲を聴きました。

観客も もしかしたら出演者のお仲間が多かったのでしょうか?
入退場の折 手をちょっと振るしぐさ などが見られました。又
ソナタの一楽章のあと拍手される方が多く、1stヴァイオリンの方が
「あ このあと 二楽章 三楽章とあります」とおっしゃっても
やっぱり 二楽章の後で拍手が起こっていました^^)v
(補足:クラシックのコンサートでは楽章間では拍手をしない、というお約束があるのです。
 でも、素晴らしい演奏に対してはこのお約束の範囲内ではない、ということにもなっています)


曲は_(思い出せる範囲で打ちます 抜けてたらごめんなさい^^;)
モーツァルトのディベルティメント
バッハのWバイオリンのためのソナタ
パッヘルベルのカノン
ルロイ・アンダーソンのブルータンゴ
レハールの金と銀
久石譲のハウルの動く城
パラディスのシシリアーナ
そして アンコール ポール・モーリアの薔薇色のメヌエット

個人的にはバッハのソナタが良かったな~♪
(単に私の好みなので ここはスルーして下さい)
そして なにげにコントラバスが活躍していたことには
頼もしさを感じました。
(正確な音程とリズムで 音楽を下支えしてる のを感じました。
って単に私が学生時代コントラバスをやっていたので
コントラバスとコントラバス奏者に親しみを覚えるだけ かな
ここもスルーして下さい)

次回のコンサートは7/3。
クラシックの予定_だそうです。
今度は亭主も聴きにいけるといいのですが。

なぜか 街なかコンサートの日って 
亭主 不在なんですよね・・・。



余談:1stヴァイオリンの西本さんのレクチャー 面白かったです。
特にルロイ・アンダーソンの紹介には「へ~」。
音楽家になる前はハーバードの言語学の研究者だったんですね!
勉強になりました。

紀伊神社(きいじんじゃ)を訪ねてみました

2010-05-23 08:55:27 | 小田原-建物
石橋から小田原への帰り、石橋ICの先で 国道から旧道へ入ってみると__

すぐ左手に鳥居が見え「あ ここが紀伊神社ね?」とわかりました。
 
ここの道祖神さんは「市指定重要文化財」だそうです。
↓長の年月で輪郭はおぼろですが 苔むし古びて尚 
 道を守って下さってる姿には心打たれます。
 
(↑追記2023.06.27/ すみません、早川の道祖神は「稲荷型」という珍しいタイプで このお像の左手の祠にいらっしゃったもよう・・・//この石像は庚申さん あるいは馬頭観音?)))
さて 神社へ挨拶に・・・
↓? もしかしてあの線路の下をくぐって行くのでしょうか?
 
↓東海道本線の向こうに お宮へ上がる階段がありました。
(こんな風になっていたんだー!)
 
↓階段の先にあったお社。平安初期の創建で
 ご祭神は林業の神様 五十猛命(いそたけるのみこと)と
 木地挽きの祖といわれる惟嵩(これたか)親王_だそうです。
 
紀伊神社は 地元では「木の宮さん」と呼ばれ
 特に木工業に携わる皆さんの信仰を集めたお宮。
(元々は「木宮(きのみや)大権現」といったそうです。これが紀伊~になったのですね)
こちらの社宝は 「木地椀」ですって。(市の重要文化財
なるほど、な宝物ですね。

↓お神輿の格納庫かな?
 検索で こちらの春の例大祭の画像をみましたが なかなかに迫力があって素敵!(河岸の祭り!って感じなの)いつかおじゃましてみたいなあー。
 
↓狛犬達は 逃げ出さないように(?)
 籠に入れられていました。
 
↓左の「うん」形は なんとあぐらをかき 手招きしています。
 まねきねこ型 っていうらしいのですが 
 私このタイプ初めて見たのでびっくりしました。
 
↓神社ですが 鐘つき堂が残っていました。
 (明治政府によって神社とお寺が分けられるまで 
 日本では「神仏混淆」だったのですね)
 
がたん ごとん がたん ごとん ごおおおおおー
↓突然の大音量に驚き振り向いたら 目の前を電車が通過!
 
あわててバッグからカメラを取り出しましたが間に合わなかったー^^;

__ と こんなのがnumabe的紀伊神社初参拝 だったのでございます。(おしまい)


追記:案内板にあった惟嵩親王の記述が興味深かったので ここへメモしておきます_
惟嵩親王は天安二年(858年)京の都を追われ伊豆の河津への流罪となった・・・ものの嵐で国府津の海岸へ漂着し、早川の庄(つまりこの地)へ至って没した、のですって。又親王の付き人が木地を挽いて「朝夕の奉仕の料にあてた」そうで、早川に現存する「木地挽」という字名はこれに由来すると言われているそうです。
惟嵩親王というと業平が使えた方。そんなお方が小田原で亡くなっていたとは知りませんでしたー。
(↑追記2023.06.27/ 伝承によれば、 ですね^^;)