女の平和
20日の土曜日、赤い色を身に着けた女性たちが国会議事堂を取り囲みました。
赤は平和への情熱の色、戦争法案反対のデモです。
赤を見て興奮した闘牛首相が、週明けの国会で怒り狂うかもしれません。
もっとも、その程度で首相の妄念が揺らぐことはないでしょう。
米国議会で夏までに法案を通す、と大見得を切ってきた以上、今更引っ込められません。
ぼくちゃん、必ずやるんだもんね、会期延長してでも。
それにしても、自国の国会軽視や下手な英語のスピーチなど、なぜ批判されないのでしょう。
英語でスピーチするなど、何を考えているのでしょう?
何も考えていないからこそできたことかもしれません。
ぼくちゃん、英語話せるんだもんね、というところを見せたかっただけなのでしょう。
たとえば、習近平が日本へ来たとして、国会での演説を日本語ですると思いますか?
もし、それをやったとしたら、なんと屈辱的な、と中国民は大騒ぎするでしょう。
言葉は、その国の文化や歴史すべての根幹なのですから、あたりまえです。
そういう常識すら持ち合わせず、ぼくちゃんの日本、どこが美しいのでしょう?
マスメディアも右翼も批判しない、というのもどうかと思いますけどね。
ぼくちゃんの悲願は戦前回帰、その戦前なら間違いなく非国民と糾弾されました。
男の多くは、子どもの頃、なぜか戦争に惹かれます。
わたしも戦艦とか戦闘機をかっこいいと思っていました。
でも、長じてからは戦争の悲惨さを見聞し、かっこいい幻想は消えました。
赤色デモに戻って考えてみると、国会での議論より共感を生み出せそうです。
戦争法案の条文がどうだのこうだのと言っても、作った役人だってわからないでしょう。
結論が先にあって、あとはどうやって誤魔化そうかと作文しただけのものですから。
それよりも、もっと生活実感から、戦争はイヤだ、ダメだ、と攻めたらどうなのでしょう?
違憲と断定する学者もいいのですが、戦争体験者を参考人として悲惨さを話してもらう。
そういうナマの現実を、ぼくちゃんたち、どう考えているのですか?
ないかもしれないことを想定してぐだぐだやるより、そのほうがマシでしょう。
赤色デモのタイトルは「女の平和」。たぶん、アリストファネスの喜劇が下敷き。
女たちのセックスストライキで、アテネとスパルタが和平を結んだというお話です。
いざとなったらその手でいきましょう。さあ、ぼくちゃんたち、どうする?