六畳の神殿

私の神さまは様々な姿をしています。他者の善意、自分の良心、自然、文化、季節、社会・・それらへの祈りの記。

獺祭

2013年01月11日 | 自然関連
ニホンカワウソ 愛媛県が本格調査

 なぜ「獺祭」って単語があるのか考えてみましょう。日本酒の名前じゃなくてねww 
 語源は、中国の誰かが、書物を広げっぱなしにして知を渉猟する姿が、カワウソが魚を食べ散らかした様子に似ているからそれをカワウソの祭、ダッサイと言ったんです。

 もしカワウソ個体群が存続していたら、川辺や海辺に獺祭の跡があるはず。(だから、絶滅寸前で個体数が極少になっても、地元の人間はカワウソの痕跡から生息していることが分かり、密猟することが可能だったんですね。)

 獺祭が見られないということは…。

 こういう、対象となる動物の生態や行動特性も考えずに「どこかに生き残っているかも」と主張する自称専門家って、どうなんですかね。

 調査は良いと思います。地域の話題づくりにもなるのでお役所から公金を支出するのも問題ないと思います。

 問題だと思うのは、こういうテーマの話題性が無くなったあと、活動が先細りしてウヤムヤに消えていくこと。最後まで結論を出してきちんと終わるべきです。あるいはツチノコ探しみたいにきっぱり「地域おこしのイベント」としてしまうとか。
 中には「再導入のためにする絶滅宣言だ」とか言ってる人もいるけど、じゃあ貴方は今回の絶滅宣言までカワウソ絶滅回避のために何か活動をしていましたか?と問いたい。

 「どこかに生き残っているかも」とか「そっとしておいて」とかいう自然への浪漫、もっというなら都合のよい感情移入や幻想がかえって自然を破壊することを、日本人はそろそろきちんと自覚するべき。理科教育や環境教育も「絶滅種」とどう向き合うかをしっかり考えられるようになるべき。
 絶滅させてしまったという自らの過去の過ちと正面から向き合えない限り、今後もわが国の絶滅危惧種は減りません。

 この「人為の否定というかたちの不作為の奨励」と「過去の自らの過ちとは向き合わない姿勢」は、オオカミの場合と全く同じ。