六畳の神殿

私の神さまは様々な姿をしています。他者の善意、自分の良心、自然、文化、季節、社会・・それらへの祈りの記。

募金どうでしょう

2008年05月20日 | 日々のこと
 4月29日の日記で私が抱いていた危惧など、まったくもって甘いものだった。
 何万人もの命を飲み込んで、しかも数日たってから、ようやく止まった聖火・・いまさらながら、何て国だ。まるで、尻尾踏まれて30秒たってからそのことに気づく未発達な神経回路しかない恐竜並みの鈍感さではないか。

 子供の頃に宮城県沖地震を体験した私(・・と書くと大体の年齢がバレるが)、トラウマとかじゃなく、揺れとその後の人々の行動、不自由な生活の記憶等などが貴重な体験として脳裡に刻まれている。
 だから(阪神淡路の時も中越の時もそうだったけど)何桁も死者の数が違う惨事に対しては、共感オーバーで、感情や思考がフリーズする。
 それでずっと日記を書けなかったのだけど、そんな中でずっと考えていたのは、今回の大地震が『世界最高峰の山頂を、自国顕示という欲のために穢したことへの、大地の怒り』ではないか・・という事だった。

 もちろん、地震の発生メカニズムは素人レベルで知ってはいる。チョモランマを現在の姿にした大陸プレートの仕業だと頭では理解している。

 でも、人間は頭だけで生きているわけではないっしょ。

 ただし。そういう汎神論的解釈はあくまでも主観レベルでの感想に過ぎない。現象はどのようにでも解釈できてしまう。
 だから口に出さず黙っていたのだけれど。

 案の定「これは天の助け」などと言い出す輩が現われた。
 マッタク、神へも自然へも、生命というものへも、およそ畏れという事を知らぬ者の言動・・開いた口がふさがらない。

 ・・私はすでに数日前、できることからと思って、郵便局から日本赤十字社に募金しちゃったけど。
 また残業してお金をつくって、次にはこっちに募金しようっと。

 被災者救出すら、報道カメラを意識して人民解放軍の手柄のように演出してる感あり。日本の緊急援助隊が、時間切れ後の、およそ手におえない現場を割り当てられたあたりも、何ともやりきれない気分になる。

 いやいや、もちろん、被災者とその家族にとっては、演出だろうが何だろうが、一秒でも早く助けてもらえるならそれでちっとも構わないんだろうと思い返す。・・けれど。
 助け出される直前に、瓦礫にはさまれたままテレビ局スタッフの差し出す受話器を通して妻に愛を語った男性。直後に救出されたのに、おそらくはクラッシュ症候群のために、そのままテレビカメラが回る前で絶命した。

 本気で涙が出た。

 こんな悲劇が、何万人分も。これからも、形を変えて、災害の影響は残り続ける。