何かしてます。

 無職だって退屈してません。「何か」してます。「何か」ってなんだ?

思い出アーカイブス(小学6年生~生涯の後悔)

2007年11月26日 17時24分31秒 | 学生時代
 クラス換えなく6年生になり、長部先生が担任になりました。

 人間誰にでも『いわゆる、良いところと悪いところ』があると思います。自分で言うものなんですが、私にも良いところがたくさんあると思っています。 
 そして、この私の良いところのほとんどは小学3・4・5・6年生のとき、東宮・島田・長部先生や同級生達によって培われたと思っています。

 修学旅行(江ノ島・鎌倉)へ行った時の長部先生とクラスメート達です。
 なつかしい峯○勝○君(故人)の姿も見えます。

             

 長部先生は、私達生徒をよく山登りに連れて行ってくれました。それは小学校を卒業し中学生になってからも続きました。楽しい思い出がたくさんあります。

 長部先生や同級生達とは生涯にわたり、何らかの形でおつき合いを続けていくと思っていましたが、『ある時』を境に私からおつき合いを意識的に絶ってしまい現在に至っています。
 これは私の 『生涯の後悔』 です。

             

思い出アーカイブス(小学5年生 クラス解体)

2007年10月10日 11時28分48秒 | 学生時代
 4年生の3学期、担任の東宮先生が病気療養したため下田先生が代わりに我がクラスを受け持った。東宮先生に親しんでいた生徒にとっては残念なことだった。

 クラス替えがなく5年生に進級し島田先生が担任になった。
 島田先生は教育熱心な方で放課後、希望する生徒に体操(マット運動)を教えてくれたので、私も参加していた。
 自分で言うのもなんですが、教えてもらった生徒のなかでは一番上手だった。今考えると、あのまま順調に体操の練習をしていればオリンピック選手も夢ではなかったと思っている??。

 二学期ころ一身上の都合で島田先生が学校を辞めてしまった。以後体操からまったく離れてしまった。
 しかし先生の精神的な教え、体操の技術などは、その後の私の人生に大きく影響したと思っています。

 さて担任がいなくなった我々のクラスは、他の5クラスに分散される憂き目に会った。クラス解体です。
 いじめられるようなことはなかったが不思議なことに、解体された当時どのように過ごしたか覚えていない。

思い出アーカイブス(歌声喫茶「風」)

2007年07月24日 18時03分12秒 | 学生時代
 40年以上前、私が20歳ころ通った歌声喫茶「風」の看板です。もちろん今は営業していません。看板が残っているだけです。

 昨日(7月23日)テレビで仲代達也を2回見た。
 
 1回目は、トーク番組で何か色々しゃべっていた。
 その中で「午前10時からプールで歩いている。」と言っていた。午前中からプールへ行くことなど考えてもみなかったが、今の私なら何時でも行ける。
  真似をして明日から私も10時からプールに行こう。

 さて、2回目は、NHKのドラマに出ていた。歌声喫茶で昔の彼女とあっている場面があった。その場面をきっかけに、昔通った歌声喫茶「風」を思い出したわけである。
 当時は、毎月の給料が1万円そこそこだった。食事の「つけ」、時々誘われていった飲み屋の「つけ」を払えばほとんど残らなかった。そんな万年金欠状態だったけど、「風」にはよく行った。
 お母さんと一緒に行ったこともあったかもしれない?

 

 
 
 

思い出アーカイブス(小学3,4年生)

2007年06月12日 23時50分19秒 | 学生時代
 学校でのいじめが大きな社会問題になっています。私が子供のころにもいじめ的なことはあったかもしれません。しかし、私のクラスに限ってはまったく縁のないことでした。

 昭和26年桃井小学校入学
 同 28年3年生一学期から、転居に伴い中川小学校に転校

 3、4年の担任が東宮先生、5年が島田先生、6年が長部先生でした。
 この先生方の存在は、私の人生に大きな影響を与えました。
       
       
 3年生の夏、校庭でクラスの男子全員を東宮先生が自分の写真機で撮影してくれたものです。
 (記憶違いや名前を思い出せない方もありますが、悪しからず!)
 全員がなんの屈託もなく、心からの笑顔で写っています。まさにこのとおりのクラスでした。
 東宮先生がどんな人柄だったか想像がつくでしょう。
 先生は授業の中で、当時封切りされた「七人の侍」の話をしてくれました。三船敏郎(菊千代)が村人を守るため、野武士に殺される場面など手に汗を握ったものです。
 オリバー・ツイストの話も面白かった。

 4年生の終わりころ、先生は病気のため長期療養に入りました。
        
 
 
 
 
 

思い出アーカイブス(迦葉山)

2007年05月07日 11時49分51秒 | 学生時代
       
 47年前(昭和35年・1960年、親父51歳、私16歳)の夏
 迦葉山弥勒寺和尚台の頂上
で撮影したものです。親父と登った最後の迦葉山でした。おそらく弟が一緒だったと思う。

 我が家は、夏休みに親父が子供達を迦葉山に連れてゆくのが毎年の恒例行事であった。現在は自動車で弥勒寺まで登るが当時は、下のお土産屋までバスで行き、歩いて山門、湧き水、馬隠れの大杉を経て弥勒寺まで登った。そして、更に登り和尚台まで行った。
 和尚台は大きな岩山で、鎖をよじ登って頂上に至る。「お前はまだ無理だ。」と言われ、親父と兄貴が登るのを下で待っていた記憶がある。おそらく小学1~2年生ころだったのか。?
 おふくろも何回か行ったことがある。義足の姉を引っ張り上げたこともあった。
 
 まもなく、親父の42回目の命日を迎えます。
       
 

思い出アーカイブス(最も古い写真)

2007年04月25日 23時44分12秒 | 学生時代

 現存する最も古い私の写真です。撮ったときの記憶はありません。
  おぼろげながら記憶が残っているのは、幼稚園(神明幼稚園)のころからです。
  友達と仲たがいして幼稚園に行けなくなり、旧商工会議所の新築現場で遊んでいたら、路線バスを運転中の父(東武バスに勤めていた)に見つかってしまいました。父は、その場にバスを止めて私を乗せて営業所まで連れて行きました。多分お説教されたと思いますが、結末は記憶にありません。
 こんなこともありましたが敗戦直後にもかかわらず、お腹がすいてたまらないなどの記憶もなく、ごく幸せな幼年期を過ごしました。
 
 
 

思い出アーカイブス(姉)

2007年04月13日 16時59分17秒 | 学生時代
 姉は4歳年上の長女である。常に私の味方であり、応援者であった。幼いころから歌が上手で、身体障害があったにもかかわらず陽気だった。障害を悔やんだり、恨んだりする言動は記憶にない。

 幼い私が泣きながら、姉に対し「びっこ、びっこ・・・」と連呼している遠い記憶がある。おそらく姉弟けんかをしていたときのことと思う。姉は、乳児のころ丹毒に罹り、片足ひざから切断し義足をつけていた。幼かったとはいえ、なんと残酷なことを言っていたのかと慙愧に堪えない。

 私が27歳、姉が31歳ころのことだった。数年前から姉は、服飾デザイナーの仕事を覚えるため東京で仕事をしていた。たまたま立ち寄ったところ、デザイナーとはまったく関係のない仕事で障害のある身体をすり減らしているように思えた。すでに父が亡くなっていたので、兄に相談して1週間後には実家に連れ帰った。この後姉は、地元で結婚し二人の子供を授かった。やや強引に姉を実家に連れ帰ったことは、よかれ悪しかれ姉の人生を豊かにするのに役立ったのかナー・・・などと思っている。 
   

思い出アーカイブス(蒸気機関車)

2007年03月26日 00時01分32秒 | 学生時代
 長男夫婦が孫2人を連れて蒸気機関車に乗りに行った。家内が駅まで見送りに行き、私とおばあさんが留守番。
 家内が蒸気機関車の写真を撮ってきた。

 私が育った実家は、両毛線のすぐ脇にありました。
 今は高架線になっていますが、私が子供のころは踏切と踏み切り小屋があり、その小屋には踏み切り番のおじさんが詰めていました。
 汽車が通る時間になると踏み切り番のおじさんが、体重を掛け、全身の力を込めて遮断機を上げたり、下げたりするのです。
 近所の子供は踏み切り小屋によく遊びに行きました。遮断機を上げ下げする以外は暇らしいおじさんは、親切に遊んでくれたものです。私も4,5年生のころ踏み切り小屋に入り浸っていました。
 そんはとき、貨車の入れ替えのため前橋駅と踏み切りの間を行ったり来たりしている機関車が踏み切りにさしかかると、踏み切り番のおじさんが機関車のおじさんに「頼むよ!」と言います。機関車のおじさんは「あいよ!」と言って私を機関車に乗せてくれるのです。石炭くべを手伝う真似事などをした記憶があります。
 今なら絶対できないことです。よき時代だったなーと懐かしく思い出しました。
 
 

思い出アーカイブス(赤城山)

2007年03月21日 23時55分16秒 | 学生時代
3月21日お墓参りの帰りに、久しぶりに赤城山大洞大沼へ行った。

     
大沼のパノラマ写真です。全面凍結し、わかさぎの穴釣りをしている人が10~20名いたでしょうか?
 私の親父は東武バスの運転手をしていました。もの心ついたときから親父のバスで赤城山に遊びに来ていました。
 小学校高学年ころでしょうか?。兄貴あるいは弟と、親父が運転するバスに乗って大沼まで来ます。親父のなじみの旅館に行き、お弁当を作ってもらいます。今もっておにぎりについていた厚切りのハムのおいしかったことを覚えています。
 ボートに乗ったり、覚満淵で昆虫採集したりして1日中遊び、親父の運転するバスで居眠りしながら帰ったものです。
 親父は、50歳ころ大洞の東武バス営業所の所長になりました。このころ、私は友人達とキャンプに来たり、スキーに来たりしていました。親父は喜んで面倒を見てくれました。
 そんな親父も満55歳の定年を目の前にした1966年(昭和40年)5月14日に病死しました。
 その後東武バスは、赤城山の営業から撤退し、今では親父が所長をしていたバス営業所もリフトもケーブルもありません。