仁左衛門日記

The Diary of Nizaemon

抜け雀 / 桂宗助

2021年05月14日 | エンタメ

落語『抜け雀』桂宗助
噺は、「東海道小田原宿の宿屋、小松屋清兵衛の前に立った一人の男。いつ櫛を通したかわからない絡みまくった長髪の汚ない身なりで、しばらく滞在したいと言う。主人は勘定はご出立の時にまとめてで結構でございますと、快く引き受けたのだが・・・」という内容。
毎晩酒を一升、昼も五合の酒を飲んではぶらぶらし、出立する気配もない様子を見た宿の女房が、あの客は危ないと、四~五日経って騒ぎ出したものの、主人は勘定はまとめて結構と言ってしまった手前、催促しずらい。
しかし、女房のほうはしっかりしているので「酒代は現金取引だからと言いなさい」と素晴らしい助言を与えるのだった。
(^。^)
まぁ大体だらしない旦那にはできた女房がつくようだ。
さて、演者の桂宗助師匠は、三代目桂米朝(1925年~2015年)師匠の弟子。
特技は料理とのことだが、それもそのはずで、落語家になる前は料理人だったのだという。
東海道が舞台の物語を関西弁で演じるという、滅多に無い噺だった。


おごろもち盗人 / 桂佐ん吉

2019年01月30日 | エンタメ
落語『おごろもち盗人』桂佐ん吉
噺は、「節季の前夜、遅くまで算盤をはじいている旦那。帳面と算盤は合うのだが、お金が足りない。どうにも合わないので奥さんに聞くと、銭函の中のお金で買い物をしたという。明日の支払いができないと揉めているその時、敷居の下にはもぐらが潜んでいて・・・」という内容。
上方の落語は題名からして難解だ。
(^_^;)
"おごろもち"とは大阪の言葉で、"もぐら"のことなのだそうだが、この"もぐら"というのも、動物のもぐらではなく、昼間に商人のふりをしてあたりをつけた盗人が、商家に忍び込むために敷居の下の土間を手で掘って桟や掛金を外そうとする手口のことを"もぐら"というのだそうだ。
ややこしい。
そして、"節季"。
これは、「盆・暮や節句前に商店が仕入れ・売上げ等の清算を行う時期」のことなのだそうだが、全国的に使うのか、大阪だけで使われるのか、江戸時代に使われた言葉なのか、現代でも使われている言葉なのか、その辺は不明だ。
(^_^)
さて、演者の桂佐ん吉師匠は、桂吉朝(1954年~2005年)師匠の弟子。
平成13年9月に入門し、平成14年3月に、"吉朝学習塾"で初舞台を経験した後、大師匠・桂米朝(1925年~2015年)師匠のもとで約三年間内弟子修業をしたとのこと。
伝統やしきたりなんてものがある世界に身を置くというのも大変なことのようだ。


替り目 / 桂米團治(五代目)

2018年11月25日 | エンタメ
落語『替り目桂米團治(五代目)。
噺は、「引き手に、"人助けだと思って乗ってください"と言われ、自宅の前から人力車に乗った男。車輪が二回り半しかしていない。相当に酔っていた男だが、家で飲み直したいという。おかみさんに、"もう火種を落としたので、冷や酒で飲んでほしい"と言われた男は、ちょうど通りかかったうどん屋に声を掛け・・・」という内容。
人助けと言われたら乗らないわけにいかないとは言うものの、酔っぱらっているとはいえ、そこが自分の家の前だと分かっているから乗ったにすぎない。
何とか乗ってくださいと頼んだのは車屋さんのほうだから、怒るに怒れないところか。
(^。^)
さて、枕では、師匠であり実の父親でもある三代目桂米朝(1925年~2015年)師匠の話をされていた演者の米團治師匠だが、米朝師匠もなかなかの酒豪だったらしい。
酒にまつわるエピソードにはこと欠かないようだ。
(^_^)

もう半分 / 桂米助

2018年11月03日 | エンタメ
落語『もう半分桂米助
噺は、「永代橋のたもとに小さな居酒屋があった。一合一勺ほどの酒を注いで十六文(約200円)で、芋の煮っころがし程度しか出来ない小さな店だ。そこへ行商の老人が毎晩やって来るのだが、この老人は一合の酒を一度に頼まず、まず半分の五勺だけを注文し、飲み終わると"もう半分"とまた五勺を注文するのだった。ある夜、いつもより多く酒を飲んだ老人が風呂敷包みを置き忘れたまま店を出ていった。"また明日も来るだろうからしまっておこう"と包みを持ち上げてみると・・・」という内容。
ずっしりと重いというその包みには五十両ほどの小判が入っていた。
噺の端々から伺えるこの居酒屋の主人は実直で、人間性は良さそうな感じに演じられていたのだが、その女房がどうにも良くないようだった。
亭主をそそのかし、老人の風呂敷包みを騙し取ってしまう。
せっかく地道な商売を心掛けている亭主なのに、女房によってすっかりダークサイドに引きずり込まれてしまったのは残念だ。
さて、演者の桂米助師匠は、四代目桂米丸師匠の弟子。
テレビ番組『笑点』のレギュラーだった兄弟子・桂歌丸(1936年~2018年)師匠の推薦があり、一時、大喜利の座布団運びをしていた時期があるという。
また、"ヨネスケ"とカタカナ表記で活動してもいるのだが、関西においては米助を"ベイスケ"と読まれてしまい、桂米朝(1925年~2015年)師匠門下であると誤解されることが多かったからとのこと。
カタカナ表記の落語家というのは他にはいないのかもしれないが、せっかく知られただろう自分の名前を変えて芸能活動をするだなんて、いろいろな苦労があるものだ。


一文笛 / 三遊亭圓楽(六代目)

2018年05月30日 | エンタメ
落語『一文笛三遊亭圓楽(六代目)。
噺は、「時代が江戸から明治に変わりしばらく経った頃。往来で見ず知らずの男に声を掛けられ、近くの茶店に誘われた旦那。聞くと自分はスリで、旦那の腰の煙草入れをスリ取る権利を三円で買ったものの、スキが無くてどうしても仕事が出来ない。誰も出来なかった仕事を自分が出来たと仲間内に自慢したいので、煙草入れを十円で譲ってくれないかと言う。いい気持ちになってその煙草入れを十円で譲ったものの、その金ごと財布を持って行かれてしまった。"お前ら、仕事というのはこういうふうにするもんだ"と言うその男は、ヒデという腕の良いスリで・・・」という内容。
六代目三遊亭圓楽師匠は、五代目三遊亭圓楽(1932年~2009年)師匠の弟子。
三遊亭楽太郎を名乗っていた昭和52(1977)年から、テレビ番組の『笑点』に出演しているので、随分と名の売れている落語家の一人だろうと思う。
この噺は、人間国宝・三代目桂米朝(1925年~2015年)師匠が創った噺で、昭和36(1961)年が初演だという。
どうしても演じたかった圓楽師匠は、米朝師匠に稽古をつけてもらいたかったもののそれは叶わず、仲のよい桂ざこば師匠に教わったのだという。
枕では、「あんなに稽古が怖かったのは初めて」と話されていた。
(^。^)
とても良くできた面白い噺で、"しいないわお"の名前が出てきた所も笑ってしまった。
(^_^)